本編
「おはようございます」
「……おはよう」
輝香が顔を洗おうと廊下に出ると、丁度住み込みで2ヶ月程前から働いている日本人の銀河と鉢合わせた。彼は目覚めたばかりという事もあり、伏し目がちな目元がより一層に伏し目になっていた。
輝香は愛想なく挨拶をすると、そそくさと流しに向って、彼の横をすり抜けて行った。
「………」
銀河はそのままロビーに向って、ドアを開けて出て行った。丁度廊下が李親子の居住スペースと宿との境界に当たり、銀河も居住スペースの一番宿側にある空き部屋に住んでいる。
流しで顔を洗い終わると、窓から差し込む朝日に輝香は目を細めた。夏は過ぎ、日の出の少しずつ遅くなり始め、秋の気配を感じさせる。
「輝香、起きたか」
「お父さん、おはようございます」
「うむ、おはよう。朝食が出来たぞ」
「はい。でも、先に着替えを済ませてしまうわ」
廊下を通った秀吉と挨拶をし、輝香はそう告げると、自室へと歩いていった。
輝香の部屋は、年頃の女性の部屋らしい雰囲気は影を潜め、本棚には農学や植物の関連書籍が敷き詰められ、小さなラップトップ型パソコンの置かれた机の周りには金日民最高指導者に関するあらゆる資料が広げられていた。そして、唯一女性らしさを示している化粧棚の前に輝香は腰を下ろした。
化粧棚には、化粧道具の他に写真立てと人形が置かれていた。写真立てに飾られた写真には輝香と同世代の若い男性が写っていた。
「正煥……」
輝香は写真立てを手に取ると呟き、片手でそれを抱きしめた。
「この願いを叶えて……」
そして、一方の手で直立した牛の様な造形の人形を掴み、写真と共に抱きしめて、祈る様に呟いた。
この行為は既に彼からの手紙が途絶えてから半年以上に渡って毎朝行っている彼女の日課である。
写真に写る黒髪の青年の名は、申正煥。彼女が大切にする人形の元の持ち主である。
「正煥、行ってきます」
輝香は写真を元に戻し、身支度を整えると、洋服のポケットに人形を入れ、写真に言った。
「もぅ! 信じられない! 彼女の誕生日を忘れる?」
ある秋の夜、夜景に輝くソウルの一角で輝香は頬を膨らませて怒った。本心としては、もっと露骨に怒ってみせたいのだが、大人気ないという気持ちと、彼の前では怒った表情も可愛くみせたいという思いがあった。
「誕生日を忘れたんじゃない。誕生日のプレゼントを電車の中に忘れてたんだ」
「どっちだって同じよ! 私への気持ちなんて、電車に忘れちゃう程度のものなんでしょ?」
「そういう意味では………」
まるで少女の様にすねる輝香に、黒髪をワックスで流した青年、申正煥は当惑した。
長らく母子家庭で育ち、母の他界後は奨学生としてアルバイトと勉学に務めてきた正煥にとって、初めての恋人である輝香の対応に時として当惑する事がある。
もっとも、輝香にとっては、そんな正煥の姿を見れることも楽しみの一つなのであるが。
「別に、私は物が欲しい訳じゃないのよ。……正煥が私の事をちゃんと思っている、忘れてないってわかればいいのよ。……この気持ち、わかるでしょ?」
「ま、まあ。わかる。だけど、どうしよう………ん?」
正煥は髪を片手で掻きながらポケットに手を突っ込むと、その手を見た。ゆっくりとポケットからそれを取り出した。
「どうしたの? ……なに? その人形?」
「母さんの形見だ。幼い時のことは殆ど覚えていないけれど、母さんが俺の手を引いて雪の中を走っていたのを覚えている。何かに躓いて転んだ俺に、母さんはこの人形を握らせたんだ。プルガサリが守ってくれるって言って」
「プルガサリ?」
「知らない? 伝説の怪獣で、邪気とかをはらってくれる」
「じゃあ、それはお守り?」
「そう、らしい。あまり裕福な暮らしは出来なかったけれど、何があっても母さんはこの人形だけは手放そうとしなかった」
「へぇー」
「………輝香、誕生日プレゼントの代わりにはならないと思うけど、貰ってくれないか?」
「え? でも、それはお母さんの形見なんでしょ?」
唐突な正煥の問いに輝香は驚いた。しかし、彼は真面目な顔で言った。
「俺は君を忘れたりしない。その証だ。そのプルガサリが君の邪気をはらうから、俺が君に幸せを与える。……だから、今日のことは許してくれないか?」
「………今の言葉、絶対に約束だからね?」
輝香が上目遣いで正煥を見つめて聞き返すと、彼は目を細めて頷いた。
「あぁ。絶対だ」
数ヵ月後、正煥は陸軍兵役に行き、そのまま輝香の前から姿を消した。そして、直後に隣国の新たな最高指導者として現れた金日民の姿は、正煥そのものであった。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
宿の玄関の掃除をしていた銀河が挨拶をしたが、輝香は素っ気無く返事を返したのみで、そのまま人込みに消えていった。
「……まだ韓国語が不完全なのか?」
「バカ、照れてるんだよ。大学の研究生で、彼氏がいるっていっても、一応年頃の女だからな。………だが、もし手を出したら、命はないと思え!」
「肝に銘じておきます」
自問した銀河に秀吉は釘を刺した。言わずもがな、余計な心配である。
「心配でしたら、俺の部屋を宿の方にされても構いませんよ? 確かに年齢の近い男が同じ家屋にいるのは問題があるかとも思いますし」
「くだらない心配をするな! それよりも、昼頃お客様が来る」
「では部屋の準備ですね?」
「いや、それはわしがやろう。お前さんは買出しに行ってくれ。………それだけ話せる様になったんだ。一人で行けるだろう?」
「ありがとうございます!」
銀河は頭を勢いよく下げた。
「よし、早速行って来い。のんびり掃除なんかしていたら、朝市が夜市になっちまうぞ」
「はい!」
銀河は秀吉から財布と買い物のメモを預かると市場に向って歩いていった。
それを見送ると、秀吉は銀河が残した掃除の仕上げをした。
「まあ、こんなもんだろう。……おっと、いけない!」
秀吉は手を叩くと、箒を慣れた手つきで片付け、カウンターに置かれたメモを予約台帳に書き写す。
予約客は、日系二世の女性で佐藤市という名であった。
「パパー! 大きなお魚がいたよー!」
漢江の橋の上で、肩車をして貰っていた子どもが肩車をする父親に言った。彼は子どもの指差す漢江の水面を見渡すが、水鳥一匹すらいもせず、特に何も見当たらない。
「何かの見間違いだ」
「見間違いじゃないよー。ものすっごい、大きい魚だったんだよー!」
「はいはい。じゃあ、今晩は魚にしてもらおうか」
見たと主張する子どもをあやしながら、肩車をしたまま橋を歩いていく父親を尻目に、渋滞にはまって動かない車両の中で運転手の男性が今の親子の会話を話題にする。
「大きな魚だそうですよ?」
「怪物………「G」だとでもいいたいのか?」
後部座席に座る金髪の男は苦笑混じりに言った。何故か彼は角のない黒の細長い単眼ゴーグルをつけている為、人相がわかりにくく、表情も掴みにくい。
「もし「G」だとすれば、渡りに船だな。韓国滞在中にガンヘッドの実戦成果がみれるのだから」
彼の隣に座っていた中年の男性が笑った。
「アサミ社長、中々面白いですね」
「冗談だよ。確かに、ガンヘッドの性能も、「G」にも興味はあるが、それはビジネスとしてのものです。我が社の提供した技術が日米を通して、韓国軍で実戦試験機が配備された。これで十分な実績となるので、私としては十分だ。別に死の商売に興味があるわけでもないので」
「それは良かった。どうも今の大統領は、軍事力強化を狙いすぎている。下手に性能の良い兵器開発を米軍がしすぎるのも困りますから」
「そして、その兵器を韓国軍で試されたら、もっと困る?」
「そこまでは言えません。いくらゴーグルで顔を隠した試験操縦士であっても、自分も所詮は一介の兵士ですから」
「安心してくれ。今の会話を外で話すようなバカはしないよ。これでも、日本の経済で新しい業界を開拓している新進気鋭の優良企業社長なのでね」
アサミという男は笑って答えた。
丁度、渋滞が解消され、車が走り出す。
「やっとスムーズに動き始めましたね」
「ちゃんと前を見て運転し給え」
運転手が気をよくして、後部座席の二人に振り向いて言った。
しかし、ゴーグルの男が注意をした直後、道を無理に横断する老婆が車の視界に飛び込んだ。
「危ない!」
「止めろ!」
「うわあああ!」
運転手がブレーキをかけ、ハンドルを切るが、車は間に合わず、後部トランクに何かがぶつかる衝撃が車内に伝わった。車は甲高いブレーキ音と道路にブレーキ痕を残して、停止した。
「大丈夫ですか!」
ゴーグルの男とアサミは素早く車外に飛び出し、車両の後方を見た。
路肩に数人の人に抱えられた老婆の姿があり、道路には黒い服を着た青年が倒れていた。
すぐに二人は、青年が老婆を突き飛ばして自らが犠牲になったという状況を理解した。
「………つつつ。……やっぱり痛いかぁ」
恐る恐る近づく二人の前で、青年はゆっくりと身体を起こし、痛みに顔を歪めつつ、立ち上がった。
「……あ、折れたかな? ……ッ! ふぅー、外れただけか」
ダラッと垂れた左腕に気がつき、彼は右手で腕を肩に押し込むと息を吐いた。
「き、君。……大丈夫かね?」
ゴーグルの男は恐る恐る左腕を回して確認をしている青年に訊ねた。彼は振り向き、自分の髪に付いていた落ち葉を取りながら頷いた。
「はい。この程度なら骨も折れていなかったみたいなので、怪我に入りませんかね?」
「……君、轢かれたのだよ?」
「厳密には、接触じゃないですか? まぁ、車が凹んでますけど………アレ、俺が修理しなくてもいいですよね?」
当人の心配を周りがしている事に、全く意に介さず青年は凹んだ車の後部側面の修理代を心配している。
「今の事故は我々の不注意だ。恐らく運転手は処罰されるだろうし、君にも慰謝料が支払われるはずだ」
ゴーグルの男が言うと、彼は酷く驚いた。
「そんな! 俺はこの通りピンピンしているんです! にも関わらず、運転手を処罰するなんて、可愛そうじゃないですか? それを言ったら、道を渡っていた婆さんのが悪いと思いますよ?」
「あん? わたしが悪いってのかね?」
青年の主張に路肩に腰を下ろし、周りの人に心配されながら悲劇のヒロインに浸っていた老婆が食いかかってきた。
「当然ではないですか? 家の田舎でも、信号がある道じゃ横断歩道を使うのは常識になっていますよ?」
「アンタの田舎なんかしらないよ! それに、アンタ、日本人だろ? 悪者が何を好き勝手言ってるんだい! ………それに、あんたも日本人だろ? その餓鬼がいらないってんなら、わたしに慰謝料を寄越しなさいよ!」
老婆の怒りの矛先はアサミに向けられた。アサミはゴーグルの男と顔を合わせる。
「確かに、支払いの義務は発生しますね」
「だろう? だったら寄越しなさいよ! ホラ!」
老婆は広げた掌を二人に突きつける。
「いえ、支払いは裁判所を通して、法的な手続きを取った後でないと……」
「アンタ、日本人で加害者なのに、わたしに立てつくのかい!」
「いえ、そう言う訳では………」
「……アサミさんにこれ以上ご迷惑をおかけできません。この一件は軍が引き受けましょう」
「何さ、金髪の小僧は軍者かい? 嘆かわしいね、軍の人間とあろうものが、白人みたいな髪色して日本人とつるんでるなんてね!」
老婆の剣幕は完全に事故と関係のない愚痴に変わっていた。運転手は車の陰に隠れ、出るに出られなくなっている。
最早、警察が来るまで事態の収集は難しいと誰もが思った。
「あのー………」
汚れを一通り払い落とした青年が髪を掻きながら声を上げた。一同が彼に視線を向ける。
「面倒臭くなってきたんで、さっさとこの場を収めてしまいますね?」
「面倒だって? わたしゃ、死にかけたんだよ!」
老婆が青年に歩みよっていく。彼は溜息をつき、老婆に言った。
「それは俺だろう? 大体、婆さん。助けられたんだから、礼の一言でも言おう?」
「うっ……」
「……この程度の人なら構わないかな? 注目ー!」
青年は独り言を呟くと、片手をあげて声を上げた。この場にいる全員の視線が彼に集中する。
「興味をなくせ! 俺達は、誰一人として、この事件に対する関心なんて、ない!」
「「「「「「「「「!」」」」」」」」」
刹那、その場にいた全員が呆然と立ち尽くした。
「まぁ、事故なんて日常茶飯事だしね。わたしの不注意が原因だね。気をつけるかね」
「なんだ、ただの事故か。いこいこ」
「あっちに美味しいケーキ屋さんがあるんだって!」
「ゲッ! こんなどうでもいいもの見てて、授業に遅刻する!」
老婆も群集も途端に興味をなくし、思い思いの方向に散っていった。
「……あの婆さん、なんであんなに食い下がっていたんだ?」
「さあ? 大事故と勘違いしたんじゃないですか?」
青年はゴーグルの男に笑って言った。
「あ! これでも一応事故は事故だから報告書を書かなきゃ~」
運転手はボンネットに頭を乗っけて嘆いた。
「まぁ、俺の方からも弁護を入れておきますよ」
「そうしてあげてください。文字で人身事故と書くと読んだ人は慌ててしまいますからね?」
「……確かに。あ、君の名前を教えて頂けますか。一応被害者ですから」
「あぁ、後藤銀河という日本人です」
「わかった。俺はイエロー。大韓民国陸軍ガンヘッド隊のエージェント・イエローと伝えれば、すぐに俺に通してもらえる。万が一、怪我があったら連絡をしてくれ」
「わかりました」
銀河はゴーグルの男、エージェント・イエローと握手をすると、そのまま人込みに消えて行った。
そんな銀河の姿を見送ると、彼らも車に乗り、その場を後にした。
「只今戻りました」
「少し時間がかかったな。……どうした、服がボロボロになっているぞ?」
買い物を終えて帰ってきた銀河の姿に秀吉が心配する。
「ちょっとそこで転んでしまって」
「気をつけろ。なんでもさっき、近くで事故があったらしいから」
銀河が笑って誤魔化して買い物をカウンターに乗せると、秀吉が言った。思わず、彼の肩が動く。
「その事故って、どんなのですか?」
「ん? なんか人身事故だったとか騒いでたらしいけど、突然加害者も被害者も、それどころか目撃者とかもどっかいっちまって、警察が来た時には何があったのかよくわからない状態だったらしい」
「へぇー………。あ、買い物、しまってきます!」
「おう!」
銀河はスタッフルームに入ると、ホッと息を吐き出した。
そして、買い物を冷蔵庫にしまう。冷蔵庫にしまっていると、違和感に気がつき、左腕の袖を捲くった。
「あ、刺さってる」
錆びた釘だった。銀河は釘を二の腕から抜き取ると、ポケットにしまった。二の腕には錆びがこびりついているのみで、血の一滴も流れはしない。
「そうだ、後藤! ……ん? どうした?」
「いえ、何でもないです」
突然、ドアを開けた秀吉は、慌てて二の腕
を隠して誤魔化す銀河に怪訝そうな顔をしつつも、用件を言う。
「まあいい。もうお客様が来ているから、さっさと服を着替えてきなさい」
「わかりました!」
銀河は素早く、自室へ繋がる廊下へと出た。
勢い良く廊下へと出ると、そこには輝香がいた。
「……何、慌しく動いているの?」
「あ、お帰りなさい」
「………ただいま」
怪訝そうな顔をする輝香に笑顔で誤魔化しつつ、銀河は自室へと入っていった。
そんな彼に肩をすくませると、輝香は上着を羽織ながら、廊下を出た。
「ん? 輝香、出かけるのか?」
「ちょっと漢江を散歩してくる」
「夕方までには戻ってこいよ」
「はーい」
輝香は秀吉の言葉に適当な返事を返すと、そのままロビーから外へと出て行った。
すぐ後に、ロビーに薄褐色の肌に細い端整な顔立ちをした若い美女が客室側から現れた。
「ア、佐藤様。お出かけデスか?」
「ああ、宿の方。久しぶりの漢江なので、少し散策しようと思う」
「そうデスか。韓国は何度かいらしてイルのデスか?」
「ああ。でも、ソウルとしては初めてだな」
「?」
「いや、私自身の話だ。それでは、行って参ります」
「いってらっしゃいマセ」
秀吉が頭を下げて送り出すと、佐藤市という美女は微笑みを浮かべつつ、長く綺麗な深緑の黒髪と赤いロングスカートを靡かせながら、雑踏に消えて行った。
「………」
「なんだ。後藤、いたのか。………どうした?」
カウンターの前で目を見開いて立っていた銀河に秀吉は聞いた。
銀河は驚愕と呆然が混在した様な表情をしたまま答える。
「いえ、ちょっと………勘違いをしたものですから」
「今日のお前さんは変だぞ?」
「多分、大丈夫です。……今の女性は、お客様ですか?」
「そうだ。佐藤市さんという日系二世の方だそうだ。……後藤。お前さん、一目惚れしたのか? 止めといた方がいいぞ、彼女がしていた蛇の形をしたカチューシャだが、アレは純金だ。きっとどこかの社長令嬢か石油王の娘に違いない。我々には手の届かない高嶺の花だよ」
「後半の情報、殆ど親父さんの妄想ですよね?」
「馬鹿! せめて推測と言え!」
秀吉とのやりとりで銀河の中にあった疑念は忘れ去られた。7年前にクマソガミと対峙した際に、同種と感じた感覚を彼女に感じたという疑念を。