本編




 廃屋同然といえる建物の窓から銀河は、空を見上げていた。

「そういや、もうすぐ十五夜か……」

 夜空に浮かぶ月を見て銀河が呟いた。しかし、既に秀吉は寝てしまい、真実も別室に篭ったきり音沙汰がない。彼女も一人考えながら寝たいのであろう。

「……そうか、そろそろ次の地に行く事を考えないと90日が経過するのか?」

 どうでもいい事ほど思いつくものである。銀河は大韓民国の滞在がノービザで可能な日数である90日以内という期限が迫っている事を思い出した。

「……バイトも不法労働だし、国境突破。大罪人じゃねぇか」

 銀河は一人苦笑すると、月を再び見上げた。

「あいつら、そろそろ就職先が決まる頃だな。吾郎、公務員試験受かったのかな?」
「考えていたよりも里心があるのだな」

 突然の声に銀河は肩を弾ませて驚いたが、振り返った瞬間に彼の表情は落ち着いた。

「私がいても不思議ではないという顔だな」
「そりゃそうだろ?」

 銀河は部屋の反対側にある窓に腰をかけるガラテアに言った。ガラテアは微笑んだ。夜風に長い深緑の黒髪が流れる。

「……その容姿、まだ実年齢と変わらないだろう」
「その言い回し、あんたは俺よりもずっと年上なんだな?」
「ああ。………あなたの名前はなんと申す?」
「名前を訊ねるなら、自分が名乗れよ? ……まぁ知っているからいいんだけどな。後藤銀河だ」
「銀河殿か」
「殿とは……って、日本語を話せるのか? ガラテア・ステア!」

 今更な銀河の驚きにガラテアは呆れて息を吐くと、銀河に言う。

「いきなりフルネームで呼ぶ事もないだろう……。最初にブツブツと独り言を日本語で言っていれば、日本語で話しかけるのが普通だろう?」
「確かに。……それで、ステラさんは何をしに来たんだ?」
「ガラテアでいい。私は銀河殿に会いに来た、見定める為に」
「見定める……。どうやら、ただ談笑をしに来た訳じゃないんだな?」
「単刀直入に話す。銀河殿は何をしにここへ来た」
「……多分、お前がここに来た理由の一つと同じだよ?」
「私…だな?」
「あぁ。俺は「G」を知りたいから旅をしている。「G」がいるとわかったから来た」
「……なるほど。これも因果なのか…」
「え?」

 一人納得しているガラテアに銀河が首をかしげる。

「銀河殿の力を教えて欲しい」
「それってプライバシーじゃないか?」
「教えるつもりがないなら、無理やり教えてもらおう」

 ガラテアは窓から床に降り立つと、右手を広げた。
 刹那、右手の爪が鋭利に伸びた。そして、ネコ科の肉食動物の狩りの様に、銀河に向って素早く動いた。

「わっ! ちょっ!」

 銀河はあまりに突然な攻撃に、ガラテアの切り裂きをギリギリで回避はできたものの、後ろに避けてしまい、建物から落ちる。

「いてて……」
「身体は丈夫なようだな?」
「そう言えば、怪我知らずってのが昔から自慢だったかな?」

 腰をさすりながら銀河は、窓から見下ろすガラテアを見上げて言った。

「私の攻撃を回避するのだから、瞬発力もあるようだな」
「火事場の馬鹿力って奴だけどな?」
「血の流さない者を切り裂いても何も面白くはない。さっさと本性を見せてもらおう」
「爪を伸ばせるからって強がるなよ?」

 銀河は余裕を見せて挑発的に言った。しかし、ガラテアは澄ました表情で窓から飛び降りてきた。その瞬間、彼女の手は炎に包まれる。

「なっ!」

 銀河は慌てて身を転がして、落下してきたガラテアを回避する。ガラテアは爪の伸びた炎に包まれた手を地面に突き立てた。
 刹那、地面から水蒸気と爆風が起こり、銀河は吹っ飛ぶ。

「……幾らなんでも、デタラメすぎるだろ?」
「そんな事はない。全て、一つの力の成すものだ」

 ガラテアは立ち上がると、爪を元の長さに縮め、地面に這い蹲る銀河を見下して言った。悔しい事に、月明かりを背に受ける彼女の姿を一瞬でも銀河は美しいと思った。

「くっ! ……こうなったら自棄だ!」

 銀河は懐から護符を取り出し、ガラテアに投げつける。
 しかし、ガラテアは護符に触れる瞬間に紙に火を起こし、護符を燃やす。

「珍しいものを知っているようだな」
「冗談だろ?」
「冗談ではこのような力は使えない」

 ガラテアは土に手を添えて、銀河に言った。彼女の手の周りから湯気が立ち上る。そして、ゆっくりと手を引き上げると、湯気が出ている地面とは逆に、手の下には地面から氷柱が伸びている。

「……氷? 確かに、炎を起したりというのが力なら、爪が伸びるのは説明できない。……まさか! 化学変化? いや、結局爪の説明が……」
「半分は正解と言えるな。……私の力は、変化。水の変化、摩擦熱による熱の変化、爪の成長による変化。縮んで見えたのは、長い部分を風化させて消し去っただけ。……自分自身の身体が一番この力は簡単に発揮できる」
「つまり、超ご都合主義な能力って事か?」
「そういう事かもしれない。銀河殿、力の特性からして、私の力は攻撃に適している。対して、銀河殿は私に、先の紙以外に攻撃を素振りがない。そして、疑問形の多い言い回し。……やはり」

 ガラテアは地面から長い氷柱を作り出すと、それを銀河に向けた。銀河が息を呑んで構えた瞬間、氷柱は消滅し、湯気が周囲を包み込んだ。

「蒸発させたのか!」
「動くな」

 湯気で銀河の視界が奪われた隙に、ガラテアの鋭利な爪が銀河の喉元を捉えた。そして、銀河の背中から片手で彼の両手を掴む。

「くっ!」
「私と共に来い。爾落人である以上、その存在だけでも戦力になる」
「……その名前をどこで?」
「忘れた。……次、何か言葉を発したら、構わずに喉を…」
「俺を殺せない!」
「! ………やはり」
「ガラテアは俺を殺せない!」
「くっ……。言霊を操る能力……」
「心理! それが俺の力だ。自制心を働かせろ! ガラテアは俺を殺す事ができない!」

 銀河は少しずつ具体的な言葉を言う。ガラテアの爪は銀河の喉を掻き切るギリギリのところで留まる。

「………手、離せよ? いつまでも俺を抱きしめているつもりか?」
「どうやら、私の負けらしい」
「そうだな?」

 ガラテアは爪を元に戻し、銀河を解放する。

「……銀河殿はどうするつもりだ?」
「俺は当初の目的通りだ。輝香さんを救出する。それだけさ」
「そうか。……今夜は帰ろう」

 ガラテアはそう告げると、身を翻した。

「ガラテア」

 銀河に名前を呼ばれて、ガラテアは足を止めた。彼女の背に銀河は別れを告げる。

「おやすみ」
「……おやすみ、銀河殿」

 ガラテアは振り返らずに応答すると、そのまま歩いていく。
 月明かりの下、二つの人影はそれぞれの行先に向って離れた。


 

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 2012年初夏、平壌に二つの混乱が起きた。

「あの噂は本当か?」
「なんの噂だ?」
「……核の話だ」
「あー、核の恒久的撤廃を条件に、米帝と日帝との国交正常化をしようと考えているという話か?」
「馬鹿! 声が大きい!」

 地下鉄駅構内の一角で、政府職員らしい男が二人ひそひそと話していた。
 例え、国家への不平についての内容でなくても、国家や政治に関する話題を外でしているとわかると反乱分子として強制収容所へと送られる可能性があるのだ。

「しかし、外交も核撤廃の条件も経済的なものだけを要求しているという噂だ。軍事や政治関係の介入を認めないつもりらしい」
「南朝鮮のように米帝の軍を駐留させる事は決してするつもりがないという事だろうな」
「初めはあまりに若すぎる首領様だと思っていたが、共和国の土地に石油が取れない以上、輸入に頼るのが実状だったからな」
「知っているか? 首領様は「G」を研究して、新エネルギー資源を開発しようとしているらしい。資本的な独立を目指しておられるんだ。これで、大国によって経済や国力が左右されない!」
「だけど、それならば何故大国との国交正常化に動くのだ? 逆じゃないか?」
「た、確かに……」
「結局、今までと同じなんだよ」
「そうかもな……」

 男達は地下鉄がまもなく到着する事に気がつき、会話を切り、雑踏に紛れ込む。
 プラットホームに地下鉄が到着し、人々が乗り降りする。

「……あれ?」
「どうした?」
「今……外国人が乗っていたぞ」
「馬鹿。今の首領様になって、外貨獲得の為に地下鉄も外国人に解放されているのを忘れたのか?」
「だが、今の外国人に……ガイドがいなかったような」
「そんな訳があるか。行くぞ!」
「あぁ」

 男達はそのまま地下鉄に乗り込み、電車は走り去った。
 雑踏に紛れて、赤いスカートを揺らす一人の外国人女性が平壌に現れた。
 金日民による新たな外交、後に掲げられる全軍制への布石となるこの政策の噂が混乱の種の一つであり、一つの種こそが突如現れた外国人女性の存在である。




 


「王に、金日民首領殿にお会いしたい」

 謎の外国人女性の噂が平壌で耳にする様になって数日後の夜、平壌市内のある建物の前で警備をしている兵に噂の女性が突然現れ、話しかけてきた。

「き、貴様は噂の外国人!」
「私は噂の外国人などという名前ではない。………あなたに用があるのではない。私は金日民首領殿にお会いしたいのだ」
「首領様はここにはおられない!」

 兵は銃を女性に突きつけて言った。しかし、彼女は一切銃を気に留める様子もなく言う。

「不要な嘘はつかなくていい。私はこの数日間、苦労して探して突き止めたのだ。金日民首領殿はここにいる。だから、私は会いにきたのだ」
「………不審者を通す訳にはいかない! 無理にでも通ろうとするならば、発砲する!」
「……こんな中古では役には立たないぞ」

 女性は銃身を握りしめて言った。兵は銃を見た。

「なっ! 馬鹿な! 先程手入れをしたばかりなのに! 錆びている!」
「朽ちる前に手入れをしておくべきだったな」

 ボロボロの赤褐色に錆びた銃を顔面蒼白で見つめる兵に女性は優しい口調で言うと、そのまま建物の中へと歩いて行った。

「何者だ!」
「内部の警備を厳重にしているのか」

 建物の中に入ると、10人を優に越える兵が彼女の前に立ちはだかった。既に彼らは銃を構えており、すぐさま殺害をする覚悟ができているとわかる。

「それでこそ兵というものだ。……あなた達の主殿にお会いしたい。ここを通してもらおう」
「断る!」
「無理にでもと申せば?」
「強制的に止める! 貴様の入国は一切情報がない。他国の工作員と判断する」
「つまり、殺すのか?」
「そうだ!」

 隊長らしき兵が彼女に言った。それを聞くと、彼女の口元が緩んだ。

「……殺す覚悟を持つというのは、殺される覚悟を持つのと同じ。覚悟はいいのだな?」

 彼女は言い終わると同時に動いた。隊長は叫ぶ。

「撃てぇ!」

 銃声は、一瞬で止んだ。

「……うぅ」
「金日民首領殿はどこだ? 言えば、命は助けよう」
「………「G」の力とやらか?」
「その勘の良さであれば、己がどう行動すればいいかわかるだろう?」
「……地下階層だ」
「ありがとう」

 彼女は血だらけになった隊長に笑顔で礼を言うと、彼を床に倒した。水のはねる音がフロアに響いた。
 彼は階段へと向って歩いていく彼女の姿を黙って見送るしかなかった。四肢の筋を切り裂かれ、身を起こす事すらできないからだ。
 そして、恐怖から試す事も出来なかった。
 首は勿論、全身の血管を鋭利な爪で切り裂かれた無残な部下の死体が転がる血溜まりの床に頭をつけて、彼はこの上のない生を実感していた。
 
 



 

「入れ!」

 地下階層の扉の前に、両手を鮮血で染め上げた女性が立つと、室内から声がした。
 彼女は躊躇せずに扉を開けた。

「よくも俺の腹心の護衛達を殺してくれたな?」
「私の邪魔をした彼らが悪い」

 イスに座って金日民は余裕をもった態度で彼女に言った。床に返り血が爪を伝って滴る。

「床が汚れる。俺は血が好きでない」
「ああ、失礼」

 彼女は赤く染まった爪を見て言うと、爪を元の長さに戻した。同時に血液は全て蒸発し、砂鉄が床に落ちる。

「他の「G」を見るのは初めてだ。便利そうだな。……何か二つ名の様なものはないのか?」
「変化の爾落」
「爾落? ……古きからはそういう呼称が存在していたのか。ならば、さしずめ俺は憑依か」
「自らの心を他者に移す力か?」
「コピーというのが正しい。触れた相手に意識の一部を移す。操る事も出来るが、意識が散漫になってしまうのでな。通常は何か大きい意識の変化が起こった時にその主観を俺に伝える程度に留めている。お前が生かした護衛兵もその一人だ」
「それで私が来る事をあなたは察知していたのか」
「そういう事だ。改めて、金日民だ」
「ガラテア・ステア、王の守護者だ。日民殿、あなたがその力を使って、国の頂点に立った事は既にわかっている。私はあなたを王と認める。そして、私があなたを守ろう」
「王……、その響きも悪くはない。用心棒という判断でいいのか?」
「ああ。王、あなたは私の主となるか?」
「なろう。今からお前に、護衛総局護衛特別官の任を与える。俺に服従を誓ってもらう。いいな?」
「王、私はあなたが王である限り、命を賭けてお守り致します」

 ガラテアは日民の足元に跪いた。
 翌日、この前代未聞の事態に平壌は、日民が最高指導者になった時以来の混乱に見舞われた。
 そして、一部の人間の怒りが頂点に達し、クーデターの計画が動き出した。
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