本編








ウシャスはまだ真っ黒な炭の木の前にいた。
彼女は、背後から大きな足音を耳にする。
何事かと振り向くと、そこには一人の青年がシタールを背に立っていた。距離は約3m。
あの時のまま、年もとらず。深き悲哀の爆弾で彼の心の時計は針を止めた。
あの時のまま。それなのに、彼は変わってしまった。
「ウシャス、」
彼は彼女に話し掛ける。それにウシャスの心臓が跳ねた。
彼女は、10年ぶりに会う彼に、歓喜と同時に恐怖を覚えたからだ。
どちらのカルナか分からない。知ってる彼なのか、知らない彼なのか。
だが、次に紡いだ言葉で、その懸念は霧散する事になる。

「待たせて、ごめんな。」

優しく彼は、微笑んだ。
少し、悲しみを隠したように。
「……!!」
ああ、カルナだ。
涙が溢れ出す。さっきまでの悲しい涙と同じ物質ではあるが、意味が違う。
防護服を来ているから、涙を拭えない。
だから目なんて開けられたものじゃないし、後で頬が乾いてしまうだろう。
それでも、止められなかった。


「カルナァ!」
思わずウシャスはカルナに抱きついた。
その触覚では、覚えていた以上に彼の体は細かった。
彼女に応えるように、カルナはウシャスの肩を抱く。
「カルナ…こんなに小さかったっけ…?」
「バカ、お前がでかくなっただけだろうが…」
暴言の割に、カルナの声色は頼りなかった。
確かにあの頃は大きく見えた彼だが、今ではこんなに小さく見える。それでも、頭一つ分はウシャスよりカルナの方が高い。
10年ぶりの再会の感動に浸っていると、また、大きな足音がした。
「きゃあ!」
その足音の主を見て、ウシャスはカルナに更にひっつく。無理もないだろう。アグニ国を筆頭とした元・アグネア保有国を火の海にした怪獣――ゴジラなのだから。
「大丈夫、俺の仲間だ。それに危害を加えるならとっくにしている。」
カルナがウシャスを安心させるように言う。確かにその通りだ。
それにゴジラはカルナ達のかなり後方、といってもゴジラが巨大なのであまり遠くに感じないのだが、100m強は距離をとっている。
気を遣ってるのかもしれない。
カルナは背負っていたシタールを手前に持ち、炭の木の下にあぐらをかいて座った。
「ウシャス、俺の演奏…聴いてくれるか?」
カルナがウシャスに問う。
彼女の答えは、決まっていた。
「…うん!」





一体無音はいつまで続くのだろう
愛の永遠(とわ)へと言う
花咲く時まで

明日が見えなくても
微かな光を

例え短い人生だったとしても
自分らしく生きることが出来たなら
それは良い死なのだろう

笑いながら
夜明けの光は来る

闇を振り払い
天則(リタ)に従い
方角を見失わず

笑いながら
夜明けの光は来る





10年ぶりの歌と音色。
ウシャスは静かに演奏が終わる迄、耳を傾け、口をつぐんでいた。
「うわあ…!」
そして、達者になった上手な拍手で彼を讃える。
それにカルナは嬉しそうに微笑んだ。
だが、
「うっ…!」
突然、彼は胸を押さえて背中を丸める。
「カルナ!?」
ウシャスが驚く間もなく、今度は彼の顔左半分の皮膚が見る見る爛れ、火傷が現れた。
それだけではない。胸を押さえていた手を、慌てて口にあてがったかと思うと嗚咽し始める。呼吸する暇さえなく、それは一向に治まる気配がなかった。寧ろ激しさを増していく。


「げほっ、げほっ!っはぁ…うぅ…うぇ…かはっ…えほっ…」
「カルナ!カルナ!!」
その時だ。
彼の口を押さえ付けていた両手の指の隙間から、どす黒い血が溢れ出したのだ。
その血がウシャスの防護服の窓に飛び散る。だが、そんなことお構いなしにウシャスはカルナを支えた。
内臓がやられている。使い物にならなくなった血肉を吐き出すカルナ。普段使わない筋肉を絶えず緊張させて、喉が引きつり、全身が痙攣する。
「うぅ…はぁはぁ…っはぁ、触、るな…血が…けほっ、付く…」
カルナは息すらままならず、感情に関係なく生理現象で涙が垂れる。にもかかわらず、彼はウシャスを気遣う。
「喋らないで。」
忍耐強く背中をさすってやる。すると、カルナの呼吸が安定し、嗚咽が治まった。
しかし火傷が消えたわけでも、体調が良好になったわけでもない。彼の火傷と喉笛が、それを十分に表していた。
「カルナ…」
「悪ィなウシャス…うわ…ひっでー色…」
手にべっとり付いた血を見るカルナ。自分の体なのに、まるで彼は他人事だ。その様子は、ひどく冷静にも見えた。
「もう、時間がないんだ。」
彼はそう言うと、背後の黒い柱にもたれる。
「…この歌は、暁の女神から、名を付けた。」
ゆっくりと、深く、彼は息を吸う。呼吸の度に体内が痛むのであろう、その都度眉をひそめていた。
曇天を眺めていた彼は、視線を下げて、ウシャスと目を合わせる。
「その暁の女神の名は、『ウシャス』。」
精神的要因なのか肉体的要因なのか分からないが、彼の目は活力がない。しかし、その瞳には穏やかな色を抱いている。吸い込まれるような夜空の色だ。そしてウシャスを映していた。
「ウシャス…?私と同じ名前…」
自分の歌であるような、不思議な感覚だ。真実を映すように黒い彼の目には、窓越しに彼女の驚いている顔が見えているのだろう。
「恐らくお前の名前の由来もそれなんだろう…名前を聞いた時、正直、驚いた。」
「凄い偶然だね…」
運命だったのかな。
そう言おうとして、ウシャスは思い止まる。「運命」という言葉を耽美な意味合いで使いたい年頃だが、アグネアがなければ、ウシャスはカルナに出会わなかった。
ボロ雑巾のようになった身体、ズタズタに切り刻まれた精神、ネジをバールで抉り取られた心。そのアグネアで地獄のどん底に突き落とされたカルナ。
彼の有様を嘲笑うに等しい言葉となる。



彼がこんな目に遭わなくてすむなら、最初から会わなくてもいいとさえウシャスは思った。
「あんな思いして迄の偶然なんて願い下げだ…」
カルナは笑う。
その薄ら笑いは、底のまるで見えない凄絶さがあった。
「けど…お前に会えて、…嬉しかった。」
言葉通りカルナは、今度は嬉しそうに笑う。
「カルナ…」
しかし、染み付いた悲しさはあまりにも不可逆で、それは狐の皮衣にも似ていた。
それが、常に顔に滲んでいる。例え笑みを湛えていても、微かながら例外ではない。
彼は言葉の途中で、時折口内の何かを嚥下する仕草を見せる。唾液なのか血液なのか。どちらかなど分かり切ったことだ。それでも、後者でないことを、ウシャスは願うばかりだった。
カルナは右手の血を服の裾で拭うと、それを手前に掲げた。
その掌は仄かに光っている。掌自体が光っているというよりは、オーラのようなものがそこに収束され、光っているといった方がいいだろう。
不穏な光ではなかったが、だからといって聖なる光でもない。善悪がない。善でも悪でもある。もしくはそれらを超越したような、そんな光だ。
「ウシャス…左手を…」
カルナに促される。何かしようとしている事は目に見えていた。
だが、ウシャスは敢えて、いや、だからこそ左手を彼の右手に添える。
光自体に温度は感じられないが、カルナの手は死体じみた冷たさだった。
彼はその片手同士でいくつかの印を結ぶ。
『ガジャ・ナーガ、吾は帰命す。吾がサンカルパとクローダと共に、千代八千代ヴィブーティを授け賜え。成就あれ。』
印を組ながら、カルナは何やらボソボソと呪咀らしき言葉を紡ぐ。
そして、最後の印を結んだ時だった。
カルナの右手の光が、ウシャスの左手に流れ込んだのだ。
それは、風(ヴァーユ)のように体を擦り抜けるような感覚だった。光は彼女の体中に浸透し、やがて見えなくなる。
「…、…ごめんな……」
カルナがそう言うと、今迄無理にでも閉まらないようにしていた彼の目蓋が、下りた。それと同時に、頸椎は頭を支えるのを止める。
そして、ウシャスの手から彼の手が――擦り抜けた。
「あっ…」
糸の切れた操り人形のように、弛緩した腕が無造作に死の灰の上へ投げ出される。それは、ウシャスの目に、とても、とても、ゆっくり映った。
そしてそれっきり、カルナは動かなくなった。
彼は眠るように目蓋を閉じたのだ。彼の体は砂になり、風の中へと姿を消していく。
支えを失ったシタールが倒れた。悲しげな音色を立てて。
「……カルナ…やっと、解放されたんだね…」
消え行く彼の体を抱き締め、ウシャスは微笑む。しかしその目には、光る雫を湛えていた。



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