「G」vsディアボロス
十五年が経った。既に世間は世界大戦や伊勢湾台風と同じ歴史上の出来事としてゴジラを扱っていた。
その日、尾形は南海汽船の社長宅に招かれていた。かつては小さな海運会社の社長であり、戦後復興の真っ只中の邸宅はサラリーマンの家庭と大差のない荒屋暮らしであった。しかし、それも過去の話。現在の彼の邸宅は都内有数の高級住宅街に流行の近代的かつ高級嗜好的な鉄筋プレハブ住宅となっていた。
兼ねてより社長は機会を窺っていたようで、尾形が酒を煽りたいと思っていたタイミングで招待をしてきた。
「成金趣味のワインが君の口に合うかはわからないが、君と飲む日にと以前から取っておいていたものなんだ」
そう言って応接間のソファーにドカッと座る社長はボトルを傾け、尾形のグラスに注ぐ。婦人と娘は配膳時に挨拶をして以降奥に下がっており、2人だけだ。
初めは仕事の話が中心であった。海運集約によって力をつけた大手海運グループとの単純比較はできないが、遂に来年の万博に合わせて大型タンカーを用いた国際物流に参戦する算段が得られた。そして、南海サルベージは一足先に新たな事業で確かな成功を確信する段階に入っていた。
「長年で培った君のコネクションが遂に実を結んだ。実にあっぱれだよ」
「生身の人間が潜って作業をするには限界があります。海底に眠るのは何も沈没船や魚だけじゃない。海に囲まれた島国の日本は海底資源、海底開発の宝の中にいるといっても過言ではありません。我々の科学、そしてそれを叶える資金がやっとそれにたどり着いた。それだけですよ」
尾形は謙遜した口調で社長へ答えるが、事実でもあった。国内外でも同様の計画は立ち上がっており、界隈では宇宙の次の開発競争の舞台こそ海底だと専ら言われている。尾形は他の人間よりも少しだけ早く、誰よりも深く、そして誰よりも明確な目的をもって海底調査、海底開発に臨んでいただけのことだ。
それが実を結んだものこそ、今回の有人深海潜水艇わだつみであった。
「“それだけ”で帝洋グループから対等な関係を勝ち取ればしないよ。君はわずか十五年で我が国の海と経済の勢力図を戦前のそれと大きく変えたんだ。誇っていい」
社長に言われ、尾形もそこは謙遜しなかった。本当のところ、どのような理由やある種の権力が影響したのかはわからない。
しかし、尾形の目指す目的に触れた途端、それまで大した興味も抱かず、算盤を弾くだけの損得勘定だけの利用価値のあるかないかという目をむけていた超大手企業が突然表情を変え、共同開発を申し出た。経由は兎も角、結果的には尾形を、そして南海サルベージ、南海汽船を大きく底上げすることになった。
そして、尾形を見つめ、咀嚼するように社長は再び言葉を繰り返す。
「そう。誇っていいんだ。……もう十五年だ。我が社の船員達もほとんどの家族から盆の挨拶は終わりにしてよいと言われている。君ももう誇っていいと思う。ゴジラによって君の人生は大きく狂った。あのお嬢さんの件もそうだ。君が責を感じ、それをバイタリティにするのは君の自由だよ。だけど、それによって得た成功は君自身の努力の成果だ。君がいなければ南海汽船はとっくに潰れていたし、遺族達にももっと辛い生活を強いることになったと思う。君自身を君は許してやれ。そして、誇ってほしい。……卑怯と言われようとあえて言うのが経営者だ。だから、この言葉を使うぞ」
そう言って、意を決した表情でグラスを仰ぎ、社長は尾形に言い放った。
『幸福に暮らせよ!』というあの言葉を。
「……はい」
心中で社長に卑怯だ! と恨み言を繰り返しながらも、膝を握り締める拳にぼたり、ぼたり、と大粒の涙が落ちていく。
わかっていたのだ。
尾形はその言葉をかけてもらうことを求めていたことを。そして、それが今日までの原動力であり、それが自らを呪う諸刃となっており、既に限界を迎えていたことを。
尾形の霞んだ視界に、今朝見た景色が浮かぶ。
「恵美ちゃーん! ねー聞いてー!」
「はいはい。ゆかり、どうしたの?」
「あのね、あのね!」
それは新吉を呼び止めようという口実を自分に作り、山根家の前で張り込んでいたところで目にした恵美子の姿であった。まだ齢三歳だったか、新吉の娘ゆかりが拙い覚えたての言葉を紡ぎ、恵美子に一所懸命に何かを伝えている。それを恵美子は根気強く聴き、微笑んでいた。
その瞬間、尾形の中で何かが砕けた。
それが何だったかは尾形自身でもわからない。しかし、悟ったのだ。恵美子は自身が結婚し、子を成すのではない、別の形での家族の幸せを得られたのだ。彼女は我が子のように姪の成長を見守る幸福な暮らしを見つけていた。
それは本当の意味で身を引く決断を尾形にさせる決定的な出来事であった。
「君の心中で何があったかは詮索しない。だけどな、尾形よ。君の事を案じる者は既に少なくないのだよ。それには気づいてほしい。勿論、私もその一人だ」
「……はい。すみません。……取り乱しました」
おしぼりで顔を拭い、尾形は答えた。
それを確認すると、社長は表情を変えた。真っ直ぐに尾形を見据えていた。
その只ならぬ雰囲気に尾形も再び込み上がり始めていた涙が引っ込み、思わず姿勢を正した。
「身を案じる者はいるのだ。……そして、私は君を買っている。それは私以上に南海汽船を牽引するのに適した人間だと断言できるほどに。……尾形、君はいくつになる?」
「今年で42です」
「婚期は過ぎたと思っている。……そうだな?」
「えぇ。それにご存知の通り、自分はその様な……」
「それはもう先の件で終わったことだろう! 確かにもう四十過ぎだ。だが、大手とは言えぬが、十分に中堅会社とは胸を張って主張のできる企業の社長となれば、世間の目も変わる。中年男だろうが、若い娘を妻にとっても誰も文句は言わない。会社を継ぐことと婚姻が同じ意味であれば尚更だ。むしろ、実力の伴わない者が婿になり、跡取りとなる方が心中穏やかでない者が多い筈だ」
明らかに社長の言う内容は、当初の予想と全く異なる方角へと向かっていると尾形も気づいた。
口を挟もうとするが、社長はそれを許さず、最後まで言われてしまった。
「尾形。娘と結婚して南海汽船を継いでくれ。勿論、後日改めて縁談の席は設けた上で事を進めるつもりだ」
「いや、しかし……」
「安心しろ。常務を仲人とする算段はついている。下らない横槍は誰にも入れさせない。我が娘は他所に出して恥ずかしくない品性は持たせたし、アイドルとまでは言わぬがそれなりに良いと親の色目を抜きにして言える。嫌とは言わせぬぞ」
それは最早断ることのできない縁談話であった。
「そして、僕は結婚して南海汽船の社長となった。ここから先は皆が知る話だ」
南海汽船グループの尾形秀人という実業家の人生としては、それはまさに成功物語といってよい。
しかし、一人の男の人生としてはどうだろうか。
勿論、彼が結婚をしなければ孫の白嶺は生まれなかった。だが、孫だからだろうか。もしも自分が結果的に尾形の孫として生まれるのが運命となっているとしたらば、白嶺はゴジラのいない世界であったらと考えてしまった。
ゴジラがいなければ、尾形は山根博士に正式な挨拶を行い、恵美子と婚約しただろう。芹澤も死ぬことはなく、オキシジェン・デストロイヤーも悪魔の兵器でなく、後のミクロオキシジェンのように技術的安定を得た上で世に出たかもしれない。この場で昔話を聞いているのは、白嶺だけでなく、他の家族やそれこそ芹澤もいたかもしれない。自己犠牲的な愛を捧ぐことのできた男であり、尾形に遺言を託した芹澤だ。間違いなく尾形と恵美子を祝福し、孫の白嶺にも自身の子孫のように想うことができたことだろう。
しかし、すべてはあり得ない世界の話だ。
白嶺の目の前に横たわる老人は、昭和29年の夏の後悔を半世紀以上も背負い、賞賛を得ながらもその胸の内を語らずに生きてきたのだ。
「おじいちゃん、恵美子さんとは会ったの?」
「いいや。その朝に彼女の姿を見たきりだ。新吉君の生前は彼を通じて伝え聞く機会もあったが、息子が学生の間に亡くなってしまってね。山根家ともそれから長いこと交流はない」
「そうか」
白嶺は窓の外を見た。嵐が抜けたのか、いつの間にか風雨の音は止んでいた。
時刻は既に深夜1時を過ぎていた。白嶺は立ち上がり、窓に近づいた。
暗闇の先に雲がかかり朧げながら、月が見えており、雨も止んでいた。
「雨、止んだみたいだ」
「そうか。……すまないな。こんな時間まで老いぼれの戯言につきあわせてしまって」
「いいよ。おじいちゃんこそ、無理しないでよ。……それに、話を聞けてよかった」
「そうかい」
「ねぇ、聴いてもいい?」
「なんだい?」
「おじいちゃんがわだつみを作った目的ってなんだったの?」
わだつみの話題が出た時から白嶺は気になっていた。海底開発がその後の海底ケーブルなど、南海汽船グループの重要な事業の一つになったことは白嶺も知っている。そして、その足がかりとなった事業こそわだつみ計画であり、帝洋グループとの共同開発であったこともそれこそ耳にタコができるほど、折に触れて父親らから聞かされている。
しかし、それは表面上の話だ。そもそも尾形は何故有人深海潜水艇開発という事業の発想を実現させようとしたのだろうか。白嶺は帝洋グループの全く態度の変わった瞬間にこそ答えがあり、帝洋グループの亡き総帥の話を知っていた為、一つの仮説を立てていた。だから、それを祖父自身の口から確かめたかったのだ。
「ふふ、お前の想像の通りだよ」
「じゃあ、ゴジラを探す為に?」
「んー……少し違うか。ゴジラがどこから来たか、探す為だよ」
「嗚呼」
それを聴いて、白嶺は喉の奥から声が漏れた。
そうだった。尾形と帝洋グループ総帥の故新堂靖明には共通点があった。ゴジラとゴジラザウルスの違いはあるが、ゴジラの最期を見た人物という共通点だ。だが、同じものを見ても同じことを考えるとは限らない。故新堂総帥は先代ゴジラを復活させる為に原潜を送り込んだ張本人であり、戦時下での経験からゴジラを一種の神格視していた。
新堂はゴジラと再会したいと探していたのだろう。一方で、尾形は全く違う。恐らくゴジラ再来を予言した山根博士の言葉が胸中に残っていたのだろう。そして、呪いから逃れたかったのだ。何故ゴジラが生まれたか。どこからゴジラはやってきたのか。それを知りたかったのだ。
それは似ているが、全く異なる動機であった。
何という運命の悪戯なのだろうか。もしも共同開発の出資者二人が目的の真意についてまで話していたら、恐らく二人は決別していたことだろう。知らぬが仏か、それともそれもまたゴジラとの因縁ともいえるのか。
いずれにしても真相に気づいてしまった白嶺は祖父から体を背けて再び窓の外を見つめ、顔を見せないようにして祖父に聞く。
「それで、見つかったの?」
「いいや。ゴジラの故郷は今も謎のままだ」
「もし見つかったらどうするつもりだったの?」
「さぁな。知りたかった。……それが知れた時、僕はどうしたのだろうな。……そうだな。芹澤さんに手向けができるのかもな。あの海に消えた芹澤さんに。……言ってやりたかったなぁ。嗚呼、僕はまだ芹澤さんの分まで生き切れてないのか……。悔しいなぁ……」
そう呟きながら、尾形は睡魔に抗えなくなったと見える寝息を立て始めた。
その幾重に連なる皺の刻まれた祖父の寝顔を一瞥すると、白嶺は思わず涙が込み上げてきて、顔を上げた。
尾形は自分で自身を呪ってしまった。後悔と贖罪の念を勝手に抱いた。しかし、そういうことはいつだって自身の内にあるものだ。彼は百歳手前にして尚も芹澤とゴジラの呪縛から逃れられず、足掻いているのだ。
「辛いなぁ……畜生」
病室の端にあるソファーに倒れ込み、天井を仰いだ白嶺は吐き捨てるように呟いた。
尾形秀人が死去したのは、その春の終わり頃であった。
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祖父の葬儀を終え、火葬場で納骨をするその瞬間まで白嶺にその発想はなかった。つまりは衝動的なものであった。
丁度自分の番が回った時、腰骨のカケラが一つ、掌に収まる大きさで転がっていた。
その瞬間までは他の家族と同じように骨壷へ骨を拾うつもりであった。
しかし、その瞬間にあの春の嵐の夜に祖父から聴いた話を思い出した。そして、脳裏に過ってしまった。祖父は死の瞬間まで、まだ生き恥と、後悔の念を抱いていたのではないかと。
それを考えた次の瞬間には、納骨の列から離れ、ポケットに手を突っ込んでいた。まだ薄ら熱を帯びたそれは、まるで祖父の成仏しきれない念のように感じた。
「尾形……お前は十分に生きた」
アクアライン海ほたるパーキングエリアに立つ学生服を着た白嶺はポケットから取り出した白い粉末を海に捨てた。
この場所はかつてデストロイアが出現した場所であり、その以前は芹沢博士がゴジラを葬った場所でもあった。
この行いに意味があったかはわからない。
しかし、それでも尾形秀人の生の意味を唯一知っている白嶺はしなければならないことだと思った。
海へと消えた粉は、もう白嶺の目にはわからなくなっていた。
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「……その年の冬、山根恵美子さんの命日に彼女の墓に報告をした。それが俺の知ること、したことの全てだ」
視線を伏せて白嶺は話を終えた。
「もしかして、ハッカーになったのも」
「考え過ぎだよ。確かにハッキングの対象にする際に祖父の話が影響していたところは多少なりあるかもしれない。だけど、ハッカーになったのは単に俺が人の秘密を覗くのが好きなクズだっただけだ。セキュリティを突破するのが好きなガキだっただけだ」
「そっ……」
そういう事にしよう。彼が祖父のせいにするということは恐らくできない。だから、それでいいのだ。そう睦海は思った。
「まるで話に出たわだつみ計画ね、私達。同じゴジラを見ているのに見え方や思いは逆」
「そんな事……いや、そうだな。……やっぱり俺は祖父を苦しめたゴジラという存在を肯定しきれない。例え、今のゴジラが全く別であったとしてもどうしても気持ちが追いつかない。わかっちゃいるんだけどなぁ」
白嶺は言った。その意味は睦海もわかる。アンドロイドとして、美少女として、自衛官として、睦海自身もこれまで何度となく向けられてきた人の性だ。知らないもの、内と外、レッテル、偏見、差別。個でなく集団や記号でしか認識できていない段階ではどんなに頭で理解させても感情が納得できないのだ。
白嶺はまだゴジラを種としてのゴジラでしか知らない。東京を燃やした最初のゴジラの話しか知らない。他はすべて歴史上の出来事にしかすぎない。
明日、彼はあのゴジラと会う。そうすれば、きっとゴジラを個として見ることもできるかもしれない。
しかし、それを彼にいきなり押し付けるのは乱暴なことだった。彼の方からもゴジラを知る気持ちの余裕が必要だ。ゴジラを知るきっかけが必要だ。
そう考えた睦海の出した結論は単純なものだった。
「尾形さん、ちょっと付き合ってよ!」
「なんだよ、藪から棒に」
「そんなモヤモヤしたままの人と一緒に戦いに行けないわよ。気晴らしよ!」
睦海の結論。それは単純だ。気晴らしをして気持ちの余裕を作ること。そして、白嶺がゴジラを知るきっかけに睦海自身がなること。睦海との信頼関係を強めて、睦海の信じるゴジラを白嶺に信じてもらおうというものだ。
「気晴らし?」
「そう。2人だったら、アレに挑戦できるじゃない」
「あれ? ……え、このタイミングでか?」
「このタイミングだから、やるんじゃないの! 尾形さんもまだ挑戦はできてないでしょ? 私と同じソロだから」
「まぁな」
「じゃあ決まりね。端末持ってきてるから、用意を……あ、ごめんなさい。尾形さん、端末データが」
「あぁ、アバターなら問題ない。今使ってるのが消失しただけの話だ。……俺にはとっておきのがあるからな」
睦海が失言をしてしまったと口に手を当てて慌てると、白嶺は自信満面の顔で笑った。