Z -「G」own path-
マリクの願いが通じたのか、夕食を我慢することにならずに状況が進展した。
「水深700メートルに対象を発見!」
そこは哨戒を開始した魚釣島沖から東へ約100キロ離れた八重山海底地溝内であった。宮古島と石垣島の間にある多良間島の北沖になる。
「探したぞ。……解析はまだか!」
「今出します!」
対象のエリアが拡大されて表示される。対象は一匹のみ。大きさは20メートル程度。ゆっくり遊泳しており、頭部が左右に伸びている。その特徴はシュモクザメ。別名ハンマーヘッドシャークそのものであった。
「形状はこの海域にも生息するヒラシュモクザメと一致します」
「ってゆうと確かフカヒレだな」
「まさか食べる気ですか?」
瞬がマリクを呆れた顔で見る。
「まぁ無理だろうな。同一の特徴を持つ生物が存在しているならほぼ間違いなくオリハルコンが原因だろ。……さて、始めよう! ヒラシュモクザメの情報を出してくれ!」
「はい!」
艦長席のモニターにヒラシュモクザメの情報が表示される。同科の中では最大種で6メートル強にも達し、肉食で何でも捕食するが、アカエイを特に好む。
「サメだし、嗅覚は優れているだろうから引っかかるか? なぁ、確かダイビングやるって言ってたな?」
マリクは隊員の一人に声をかける。
彼は起立し、ハイと答える。
「ハンマーヘッドは肉食ですが、イタチザメやホオジロザメのようにすぐに人を襲うような性質はありません。ただ、電気を感知する器官が発達しているのと、嗅覚が優れているので、基本的には出現すると遊泳禁止の対応を取るサメになります」
「なるほど。より確実性を求めるなら餌の臭いで引き寄せてから魚雷を撃ちたいが、一応射程内か。……命中率は算出できるか?」
「対象の回避能力が不明なので、命中率の算出は困難ですが、深度、距離、対象の大きさともに魚雷の的中範囲内です」
「よし、ならここに我々がいることを教えてやろう! 魚雷は2弾。追撃と反撃に備えた次弾の準備は?」
「追撃に同じ長魚雷2弾、反撃の対潜ミサイル及び短魚雷、全弾準備できています」
「……念の為、冷凍弾入りのものを装填しておけ」
「了解。……装填完了!」
「よし。バハムートは?」
『出撃可能』
「よし! 始めるぞ!」
マリクが号令をかけた。
戦闘開始だ。
項羽はこれまでの常識を覆す唯一の軍用艦であった。四面楚歌という潜水艦とステルス航空機の存在意義を消滅させた完全無欠の索敵システムもその一つだが、開発時の様々な事情から旗艦であると同時に単独出撃を前提とした万能艦として設計された。即ち、索敵、空母、戦艦の三役を一隻で担う航空戦艦である。
ミサイルの発達と共にそもそも戦艦の高い防御力と単体火力の存在意義が失われ、巡洋艦や駆逐艦がその役割を担うようになって久しい。しかし、それは費用対効果の観点からも当然であり、ミサイルや潜水艦などの立体的な中遠距離戦闘を行う上で必要となるのは防御力でも単体火力でもなく、索敵能力と防衛機能の充実だ。海上自衛隊をはじめとした世界の海軍で重宝されたのは垂直離着陸の可能なヘリコプターなどの艦載機とミサイル迎撃性能と対潜水艦戦で空中というアドバンテージを取れるハープーンだった。
しかし、対怪獣戦を専門とするGフォースの海洋戦力は全く違った。それは前世紀での海上防衛での度重なる敗北がまさにそれだ。当時の最新鋭の海上自衛隊戦力はゴジラやバトラの攻撃になす術もなく轟沈した。一方で、白星とまではいえないものの陸上自衛隊の空中要塞スーパーXシリーズや時代錯誤の先代艦である大戸号の残した戦果は後継艦の方向性を決定づけるのには充分なものであった。
つまり、項羽に課せられたテーマは絶対に墜ちない鉄壁の防御力とあらゆる想定に対応できる万能な火力であった。その性能を活かすのが正確な全体の状況を把握する四面楚歌であり、機動性と強襲白兵戦に長けた艦載機のバハムートであった。
しかしながら、その開発は困難であった。実戦配備のバハムートは最終的に六機のみであったが、計画上は更に四機を外装無しで艦上戦闘、または空中戦闘で運用し、必要に応じて追加開発予定であった海中戦闘用装備を換装しての三次元の立体的な戦闘を展開させ、あらゆる怪獣の出現に対応しようとしていたのだ。
戦艦を戦艦たらしめる強固な防御力は大戸号から流用した装甲と追加された最新の合成ダイヤモンドコーティングによりクリアされ、莫大な燃料の問題も同様にこれまでのGフォースのノウハウによって解消されたものの、非常に根本的な課題が開発者達を悩ませた。
如何に機動性に優れていようと離着艦をするスペースと格納庫が必要であり、展開式のカタパルト射出機を採用したとしても他の火力を置くスペースが作れない。つまり、難解なパズルであった。
これは完全に解決しきることはできず、最終的に完成した項羽は、全長400メートル、最大幅90メートル、全高は50メートル、最大速力は約40ノット。つまり、時速70キロ以上で進む怪獣を倒す為の怪獣級の世界最大艦となった。
左舷側は延長可能な電磁カタパルトを有する射出口と上段に着艦用の滑走路の二段式を採用。後部の昇降機により、格納庫は下層に収納することとなる。そして、中央にはブリッジと管制塔が聳え、その内部に四面楚歌の本体である縦約30メートルにも及ぶ巨大な装置が設置されている。その脳を守るように砲筒状の装甲板で保護された主砲のメーサー、副砲の冷凍レーザーが多段に配置され、船首尾に一基ずつ実弾兵器として単装砲が設置されている。右舷には巡洋艦と同等の装備として八連ミサイル発射口と四連装発射筒が四基設置されている。それぞれ従前はバラバラであった規格の冷凍弾や魚雷、フルメタルミサイルを換装可能な新規格として製造し、同じ発射装置で異なる武装を可能とした。そして、喫水線に船首、船尾それぞれ2門ずつショックアンカーが内臓されている。
更に、基本的な運用は海上戦を想定しているもののその推進システムはこれまでのGフォース兵器と同様に飛行推進も可能となっている。もっとも、宇宙戦艦のような空間戦闘を想定した開発ではない為、水深の浅い場所等での座礁を回避することが目的となっている。
項羽開発後に控えていたバハムートの量産とデルスティア開発が見送られたのは開発部門の大幅な縮小と予算削減が最たる理由ではあるが、デルスティアに予算を残して中途半端なものを仕上げるよりも完成されたものを仕上げようと、予算の全てを使い果たして項羽が作られたこともその原因の大きい部分を占めていた。
しかしながら、項羽開発の恩恵は四面楚歌を完成させた中国のみならず、件の武装規格の互換、標準化は現在開発中のガンヘッドを含め、世界の兵器開発に革命をもたらすほどの影響を与えたのは過言ではない。
「魚雷発射! …着水!」
隊員の声がブリッジに響く。
項羽右舷の四連装発射筒から2射長魚雷が発射され、着水すると対象へ向かって海中深く潜っていく。
対象は魚雷の音に反応し、真っ直ぐ魚雷へ向かって浮上している。本能的な行動で、高速で迫る存在を脅威と認識していないことを示していた。
マリクは勝てると内心思い、拳を握った。
「着弾! 2発ともに命中!」
「対象の生死を確認しろ!」
もう少し浅ければ攻撃前に生体音の特定によるバイタル監視も可能だが、水深700メートルだとその特定は困難だ。四面楚歌の情報が中心になる。
攻撃によって体が吹き飛んだらしい。周囲にモヤモヤとゲル状のものが拡散している。体液などが四面楚歌は捉えているのだろう。
しかし、それは早戻し映像のようにサメのシルエットに戻っていく。
「なんだ?」
「対象、急速浮上!」
「くっ! 次弾発射! 続けて冷凍弾発射!」
項羽は更に2発の長魚雷を撃ち、更に別の四連装発射筒から冷凍弾入りの短魚雷が4連射される。
水深200メートル付近で第二射命中。一度動きが止まり、そこに冷凍弾が全弾命中。
浮上速度からするとギリギリのところであった。
対象は海中に体液を広げた状態で氷結した。四面楚歌には大きな氷塊が映っている。
そして浮力によってゆっくりと浮上しながら海流に流されて東へと移動している。
「海水温が高いな。……フルメタルミサイルと対潜ミサイルでまた動かれる前に破壊する。準備しろ!」
「了解!」
「劉、強襲装備のバハムートで艦上に出て待機してくれ。サンプル回収のサルベージだ」
『了解。……二機を後部甲板、二機を着陸板、一機を射出板に待機させ、高機動外装のアイダは格納庫に残します』
劉の声から落胆の色が伺える無理もない。散々待機して回ってきた仕事はサルベージ作業だ。埋め合わせが必要だなとマリクは思った。
「艦長、ミサイルの装填完了です」
瞬が伝達した。
「よし、対象の水深は?」
「水深100メートル付近です。浮上速度が落ち、流されてます」
海の浅い層は混合層、そして深海へと変わるが、その境界が存在している。単純に上と下で海水そのものが異なるのだ。重たい海水は沈み、軽い海水は浮く。そしてその境目は密度躍層と呼ばれ、僅かな深さの差で別世界となる。
そして混合層は深層の海流とは異なる海流が流れている。今氷塊は密度の差で浮上をしているが、混合層に入り、僅かながら浮上速度が落ち、また海流によって東へと流されている。当然海水温も上がり、溶けやすくなる。
「あまり散らせたくないが、仕方ない! フルメタルミサイル発射! 続き、対潜ミサイル発射!」
「了解!」
項羽の右舷からミサイルが連続で打ち上げられ、大きく空中でUターンすると、真っ直ぐ海面に突っ込み、水柱と共に海中へと潜った。
「……着弾!」
今度は浅く近い距離である為、対潜ミサイルの爆発による衝撃が船内でも感じられた。
バラバラになった破片のうち大きい塊は三つあった。それらが海面にまもなく浮かんだ。爆破に巻き込まれた魚の死骸も同時に浮かんでいる。
そして、怪獣の破片の中から赤紫色のジェル状の液体が流れ落ち、浮遊する魚の死骸に入り込んでいくが、四面楚歌ではその事実に気づくことはできなかった。
「うっ! これは強烈だな……」
スポットライトの明かりに照らされた後部甲板に出たマリクの第一声はそれだった。
怪獣の死骸はまもなくバハムートによって回収され、三つに分かれた大きな塊は全てここ後部甲板に置かれた。
沖縄の気温は既に夜間でも20℃近くあり、氷結はすぐに溶けた。
それによって暴露されたのがこの強烈な悪臭だ。若い隊員の中にはその臭いだけで嘔吐をしていた。
マリクもタオルで顔を覆う。
「既に衛生班が確認しましたが、これは未知の毒などでなくただの腐敗臭で間違いないそうです」
既に甲板上で現場指揮を行なっていた瞬が報告した。彼は防毒マスクを装着している。
「にしても、すごいな。……こんなすぐに腐るものなのか?」
「サンプル採取を行った者の報告だと、既に内部までドロドロになっていて、とてもさっき死んだようには見えないものだったと」
「そうなると、いつものオリハルコンと決め付けられないか。…うっぷ! ……このまま持って帰るのは現実的じゃない。米軍基地で降すように連絡しよう」
「夕食食うんじゃなかった」と呟きながらマリクは艦内へ戻って行った。
一方、格納庫から繋がっている階段から出てきた劉は、悪臭に顔をしかめながらも煙草に火をつけ、それを吹かしながら腐乱した巨大な死骸を見つめていた。
「Z……全く、こんなことがあってたまるか」
一人、自身の言葉に苦笑し、首を振るとまだ半分も吸っていない煙草を吸殻入れにしている水を入れたバケツに投げ込んだ。
『……ということで、死骸はこっちの米軍基地に揚げてサンプル回収やら一通りのことを終えて焼却処分しました。項羽も洗浄をしてからの出港になるので、今日一日は足留めとなります』
一夜明け、将治はマリクからの報告を受けていた。ある程度はリアルタイムで報告を受けていたが、彼自身も北海道からつくばへ戻る移動中であったので、改めて映像通話で直接話を聞くことにしたのだ。
「わかりました。それで項羽でわかっていることは?」
『焼却前に一応解剖というか、バハムートで解体をしました。一応、映像でこっちの大学の海洋学者さんにあえて何も伝えずに見てもらいましたが、見てわかる通りヒラシュモクザメの腐乱した死骸だと。……20メートル近くあって数時間前まで泳いでいたと伝えたら、いくら未知の怪獣でもこんなに腐敗するのはあり得ないとのことでした』
「実際、どのくらいの腐敗ですか?」
『状況にもよって変わるらしく専門家でもはっきりとはわからないらしいですが、サンプルのアンモニア臭の発生状況を伝えたら、死後1週間~10日程度は経ってる可能性が高いらしい』
「つまり、死骸の状況から判断すると、そもそも項羽が戦闘したのは巨大なサメの死骸だったと?」
『馬鹿げた話だが、そうなっちまう! ……一応、四面楚歌の記録をそっちに送って海中を漂っていた死骸を生きていると誤認した可能性がないか調べてもらっています』
「そうですね。もし誤認であった場合、2隻を襲った怪獣がまだ生きていることになります」
『そうですね』
「綾瀬艦長、申し訳ありませんが、記録の解析が終わるまで沖縄の基地で項羽は待機とします。基地にはこちらから改めて連絡をしておきます」
『了解です』
通信を終えた将治は、自身のデスクのログを確認する。
「……ん!」
アドノア島からの直通回線での通信記録があった。時刻は昨夜だ。
慌てて将治はアドノア島の状況を調べる。ゴジラ、G観察研究センターともに何も起きてはいない。とりあえず、想定される最悪のケースは起きていないらしい。
「……となると、どっちだ?」
あと可能性の高いパターンは二つ。
一つは、観察官個人の身に緊急性のある事案が発生した場合だ。
『あ、おはよう! 悪いな、突然電話して』
同じ回線を繋ぐと2コールで健の元気な声が返ってきた。その声を聞いて、将治は額の血管が浮き上がったのを感じた。
もう一つのパターン、健が単純に将治へ連絡を取りたかった場合。つまり、国連が用意した緊急用直通回線の私的利用だ。
「桐城ぉっ! この回線はゴジラに異変があった場合に使う緊急用だと言っているだろ!」
『悪い悪い。ツイだよツイ』
「その電話機を手にしてて、よくそんな事を言えるなぁ!」
G観察研究センター側の電話機は、一目で緊急回線とわかるように赤色で、普段の生活では最早見かけることすらない昔の黒電話と同じ外見をしている。
「……まさか、まだ電話機に『将治』と書いた紙を貼っているんじゃないだろうな?」
『いやぁまさか』
「今、紙が破れる音が聞こえたぞ」
『気のせいだよ。……それに、少なくとも俺達にとっては緊急かつ重要な用事なのは本当だ』
「……わかった」
将治は嘆息し、彼の私的利用の共犯になることを決めた。
そして、健から陸海についての話を聞いた。
「なるほど。……確かに僕達にとってそれは由々しき事態だ」
ガダンゾーアとの戦いでゴジラと世界、そして未来が守られた。その勝利を導いた睦海が今も尚、苦しんでいるのだとしたら、それは彼女を犠牲にして今の平和を得たのと同義になる。
「いいだろう。僕も協力する」
『ありがとう』
「但し」
『ん?』
「但し、睦海が会うべきなのは僕じゃない。もっと適した人がGフォース本部にいる」
『え? 本部って?』
健が戸惑った声を上げた。
無理もない。Gフォースは軍事部門だ。つくばのGフォースといえば将治が司令をする環太平洋地域司令部だろう。
しかし、組織なのだから全て支部だけということはない。少なくとも国連やG対策センターと各支部を繋ぐ事務レベルの本部機能は必要となる。組織再編でかつてGフォース本部と呼ばれていた存在は環太平洋地域司令部と名を変え、G対策センターの建物内のGフォース事務局に本部は統合された。
そして、Gフォース本部長という肩書きの人物が存在するが、Gフォース含むG対策センター関係機関の幹部でなければ名前を見る機会もないだろうから健がピンとこないのも仕方がない。
「10年経過しても夫婦仲が非常に良いらしく、早々に完全週休二日の定時上がりの名誉職に退いた元総司令の新城本部長だよ」
『あれ? どっかの山で教官になったんじゃなかったけ?』
「それは佐藤元副司令だな。あと、教官ではなく、訓練センターの校長職だ」
『あぁ、そうか。……でも、何故?』
「さっきも言ったな? 非常に夫婦仲が良くてね。サイキックセンターとG観察研究センター、精神科学開発センターの3足のわらじは大変だったらしく、君に引き継いで早期退職をして、専業主婦とはなったのだが、色々なところに恒久名誉会長や特別顧問などを拝命されてしまったこともあって、夫の新城本部長が妻の窓口役をつとめているんだ」
今ではどちらが本業だか分からない状態らしいが。
『じゃあ、三枝さんが?』
「あぁ。彼女は超能力関連であるが、怪獣災害被災者達の心のケアは精神科学開発センターで長年行われている取り組みの一つだ。あの夫妻以上の適任者を僕は知らない」
『わかった。ありがとう!』
「おいおい。まだアポイントを取っていないのに気が早いぞ? 全く君は……」
喜ぶ健の声に苦笑しつつ、通話を終了した将治は真顔で思案する。
睦海をもう戦場に立たせたくないという健達の気持ちは将治も同じだ。それに偽りはない。
しかし、Gフォース司令という立場は全く逆の願望を抱いていた。健から聞いた睦海のスペックは項羽にいる精鋭達にも匹敵する。
プライベート用の携帯端末で調べると睦海が優勝した昨日のゲーム大会についてのSNS投稿が多数見つかった。賞金稼ぎJKというネットスラングも生まれている。それらの情報から将治の推測する彼女のスキルは、兵器の操縦も可能なレベルというものだった。
願いとは裏腹に、彼の思い描く睦海の将来像は平和な日本でスーツを着て一般企業で働く姿とは対極的な血と硝煙の漂う戦場で怪獣と戦うGフォース隊員の姿であった。
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奄美群島沖の洋上を一隻の漁船が網を引き揚げていた。船の名は、第五空丸。
「達也! 鳥に取られるんじゃねぇぞぉ!」
船長は息子の野沢達也49歳バツイチ独身に叫んだ。
「たりめぇだぁっ!」
筋肉隆々の黒光りする小麦色の腕で網の巻き上げ装置を操作しながら達也は叫んだ。
酒癖の悪さが祟って妻子に逃げられ、引退を考えていた漁師の父の元に帰って10年が経過した。喧嘩っ早い血の気の多さや酒癖の悪さはまだ残っているものの、海の男としては既に父親から跡継ぎとして認められる程になっていた。その実力は既にその日の漁獲が網を引く前からわかる程であった。
そして、今朝はこれまでにない大漁の兆しがあった。
まず、第一に海鳥の数が異常だ。網が仕掛け終わるよりも先に海鳥が次々に魚を襲って海に飛び込んでいる。潜って取る海鳥の姿は何度か見たことはあるが、今日は入れ食い状態なのか何度も潜っている。中にはこの辺で見ることのない大きさのものもいる。
第二に当然だが、魚群探知機が反応している。これを見た父親が目の色を変えていたので、尋常ではない規模の魚群なのだろう。
第三に周囲の漁船だ。達也達の漁場だけでなく、両隣の漁場も大漁らしく、先程から興奮した声が聞こえる。
最後に網の上がり方だ。網の中で暴れる魚が多ければそれだけ網は重くなる。
そして、その大漁の兆しを受け、達也は興奮と同時に緊張もあった。これほどの規模の大漁となると、網の中で魚が傷つけ合って折角の水揚げが売り物にできなくなってしまうのだ。これに対しては最早スピード勝負しかない。魚が傷付くのが先か、引き揚げるのが先か、漁師の実力が今試されているのだ。
「来るぞぉぉおお! 達也ぁぁぁっ!」
「応っ!」
海面が魚で黒くなり、そして激しく水飛沫が上がる。こんなに早く、これほどの範囲で海面が水飛沫で白く波立つ景色は達也の人生で初めてのものだった。
否、父親も初めてらしい。網を上げる達也の元に駆け込んできて、海面を見て叫んでいる。
そして、最初の獲物が上がってくる。アジだ。しかもかなり生きがいい。
「駄目だ! 傷モノだ! 次!」
「っ! コレも傷モンだ!」
その瞬間、二人の間に嫌な予感が浮かんだ。生きは良いが、これほどの大漁は普通のことではない。鮫等が大量発生して追い立てられた可能性が出てきた。そうなると、魚はパニックだ。傷モノも多い可能性が高い。
その時、達也は隣の漁場の船の異変が目に入った。何か暴れている。もしかしたら鮫がかかったのかもしれない。あの様子だと獰猛なイタチザメが二、三匹まとめてかかってしまったのかもしれない。
「ボサッとするな!」
「応っ!」
父親に怒られ、自分の漁に集中する。いよいよ塊で上がってきた。
「来たぞ来たぞぉぉぉっ!」
「うおぉぉぉぉ……お? おおっ! おおおおっ!」
「うぎゃぁぁぁぁっ!」
網が大量のアジを引き揚げた瞬間、そのアジが歯を立てて次々に二人へ向かって飛びかかってきたのだ。それはまるでピラニアの大群であった。
当然、二人はアジがこんな行動をする筈がないことを知っていた。
それ故に二人はパニックになった。
しかし、暴れても暴れても次々とアジは飛びかかり襲う。
そして遂に漁船は二人の血飛沫で赤く染まった。
「………!」
数分後、静まり返った第五空丸に倒れた達也の手が動き、ゆっくりと立ち上がった。
全身が傷だらけになり、首からは今尚、凝固しかけた血液が垂れている。
しかし、その致命傷といえる首の傷口から赤紫色のゼリー状の液体がプクプクと膨らみ、それが傷口の中に戻ると出血は止まっていた。
空を見上げ、右に傾いていた頭がガクリと下を向くと、大袈裟なしゃっくりをしたかのように上半身をビクッと跳ねらせ、ゆっくりと顔を上げながら叫び声を上げた。
「アアアアアアァァァーッ!」
そして、その声に呼応するかのように、彼の足元で倒れていた父親も体をビクッと跳ねらせ、むくりと起き上がった。
父親の方は夢遊病を患ったかのように体幹が安定しない動きで、両手をだらりと下げ、目は虚ろ、口はだらしなく開けて涎を垂らしている。
「アァァ……」
それを見つめていた達也は、ゆっくりと右手を上げ、視線を自身の掌に向ける。そして、ゆっくりと手首を回しながら、確認をすると、その手を自分の首に当てた。
「アアアァァァー……アァーアーアーアー…ア」
発声練習をするように声を出し、その確認が終わると、口角だけを上げた不気味な笑みを浮かべ、口を開いた。
「ア……ツ…マレ」
「アァァ……?」
「アツ…マレ……アツマレェェェェーッ!」
次第に声は大きくなり、最後は片言ながらはっきりとした言葉で達也は叫んだ。
そして、その声が聞こえた両隣の船が揺れ、漁師達が体を起こすと次々に海に飛び込んで、第五空丸へ泳いできた。
それだけではない。彼の足元の海面には大量のアジが集まっていた。
それを目だけを動かして確認した達也は、スゥっと片手を伸ばし、海の先を指さすと口角のみを釣り上げた不気味な笑みを再び見せて言った。
「イク……ゾッ!」