Z -「G」own path-
まだ通勤客の少ない朝の電車に乗り、30分。郊外へ向かう下り列車は特に人が疎らだ。最寄り駅を出て10分緩やかな登り坂に沿って広がる閑静な住宅地に沿った通学路を進むと煉瓦造りで統一された学校の校舎が見えてくる。
私立茂名久女子高等学校。都内女子校の中でも文武共に好成績を残す人気校の一つであり、睦海はその2年だ。
教室でなくグラウンド脇にあるクラブハウス棟にある陸上部部室へ入り、手早く体育着に着替える。
「あ、桐城。今朝も早いな」
「あ、部長おはようございます」
陸上部の部長が入室し、彼女も着替えを始める。彼女は走り高跳び競技で2年連続のインターハイ出場という快挙を成し、今年も出場は確実視されている。むしろ今の彼女の目標は公式大会での自己記録更新と上位入賞、そして大学のスポーツ推薦だ。
一方、睦海は少なからず焦りがあり、その焦りが早朝登校による朝練に繋がっていた。
「お先行ってます」
「桐城」
部長に呼び止められ、睦海の足が止まり振り向く。
「地区大会までまだ一月ある。種目変更後の初の公式大会だ。今は順位より自己ベストを正しく出せる調整を意識しろ」
「……はい」
トラックに移動し、睦海は呼吸を整えて地面に両手をつけた。脳裏に浮かぶのは過去の時代で出会った義父桐城健の姿。その姿と自身の姿を重ねる。
「HAL、レディーゴー!」
睦海は声を上げると同時にクラウチングスタートした。同時に彼女の左腕につけたリングに表示されたストップウォッチが動き始める。数年前にリリースされ、既に王手数社の寡占市場であったデジタルアシスタントのシェアに入り込み、特に疑似意識と呼べる高度な感情入出力が可能な人工知能によるデジタルアシスタントとしてユーザー個々に合わせた感覚的操作を実現させたスマートツールの一つのゴール。それがHALだ。
『睦海、ペースが早い。後半まで保たない』
「五月蝿い!」
このペースでないと10分の壁を越えられない。HALのアドバイスを睦海は一蹴した。
女子3000メートル走。それが今の睦海の種目であり、現在の練習自己ベストは10分13秒。決して悪い成績ではなく、この春に短距離から長距離に種目を転向した事情を加味すれば好成績といえる。むしろ昨年入部直後に選択した短距離走よりも自己ベストの更新ペースは上々であり、自身の体質に合わせて種目変更したのは正解だった。しかし、彼女の目標としているインターハイ出場は10分未満がボーダーの目安だ。
トラックの周回を続け、ラスト一周に入る。
「ハッ…ハッ…ハッ…はうっ!」
息が上がりペースが乱れた。脇腹に痛みを覚える。拡張現実のARツールを外していてもわかる。前周回の自身と重なっていた自分が少しずつ引き離されていく。
テンポよく流れていたポニーテールが乱れ、左右に大きく振られている。
そして、ゴールに到達。
「はぁはぁはぁはぁはぁ………」
トラックに膝から崩れる睦海。時間は見ないでもわかっていたが、左腕に目を向けた。
10分32秒。大幅に自己ベストから遅れた。地方大会までなら好成績とはいえるが、インターハイ出場の上位入賞には遠い記録だ。
「次は放課後ね…」
長距離走はスタミナと時間の消費が当然ながら大きく、無理に連続で練習すると故障などの原因にもなる。残り時間はストレッチなどをすることにする。小一時間程余るだろう。
焦って失敗をした。これならば練習でなく校外か外周を使ってのマラソンにすればよかった。
ケアを終えた睦海は朝練を切り上げ、始業時刻まで教室で過ごすことにした。
「おはよう」
「むっちゃん、今日は早いね。朝練しなかったの?」
「ううん。早めに切り上げたの」
早めに登校していたクラスメイトの友達と挨拶を交わし、自分の席に着くと鞄の中から眼鏡ケースを取り出し、眼鏡をかける。そしてケースの中に入っていたビー玉大の白い球体のデバイスを指で摘んだ。
眼鏡のレンズはARツールになっている。邪魔な背景の光を遮る様に睦海はそのまま机に突っ伏した。親指と人差し指で摘んでいるデバイスを動かす。
視界にウィンドウが表示される。眼鏡の耳掛けには骨伝導スピーカーが内臓されており、彼女だけが音声を聞き取ることができる。睦海は画面のカーソルを慣れた動きで操作し、国際連合G対策センターの公式ページへとアクセスする。ほぼ広報を目的としたコンテンツで構築されているこのページだが、一箇所だけライブコンテンツが存在している。
アドノア島にあるG観察研究センターの定点カメラ映像がそれだ。殆どの場合、ゴジラが映り込むことはなく、ベーリング海を背景に草木の乏しい荒涼とした島の海岸線を映しているだけで景色の変化すらほぼない。そもそも地表面と大気中の放射線量が人体への危険のない数値で人が常駐できる設備も建設されているものの以前は使用済み核燃料の投棄によって汚染されて不毛の地となっていた。今も元々の気象条件、治水能力の低い島の構造から地衣類と渡鳥、そしてゴジラとその観測者しか生存していない。
しかし、彼女はそれで構わない。映像の端に観測基地の一部が映り込んでおり、ワイヤーで柱が補強されている。そのワイヤーに小さな布がつけられている。今日は黄色と白。
机に伏した睦海の口元が緩む。元気にしており、ゴジラにも会えた。二人とも元気というメッセージだ。
メッセージの主は睦海の義父である桐城健で、毎日安否確認も含めてメッセージをこうして出すことを睦海と約束しているのだ。離島僻地の単身赴任。一年の半分を人が生活することが困難な過酷な環境での生活である為、世界でもトップクラスの制限をかけられた基地という事情の中でも赴任者の精神的健康の為、最大限の譲歩がなされ、特定の時間帯、特定の端末とはプライベートな映像通話は認められている。しかし、その殆どは睦海が不在になっている通学時間帯になることが多いため、実際にリアルタイム通信が可能なのは週末の在宅時間帯の連絡とこのライブ映像によるメッセージだけとなってしまっている。特に今は部活も週末にある日が多い為、直接話したのは2週間前になる。
ごく親しい友人の何人かは睦海が養子で義父、祖父ともに海外単身赴任の女家族三世代同居というやや変わった家族構成であることを知っているが、片親家庭や介護別居も珍しくない昨今だとそこまで奇異の目で見られることもなかった。また親の世代だと睦海の様な怪獣災害による孤児も少なからずいた為、体感的にも偏見より理解のある人が多いと感じている。
まだ時間があるので、ウィンドウを切り替えてニュースを眺めていく。スポーツや芸能を流し読みしつつ、時事関連のトップニュースを見ていく。友達との話のタネになりそうな芸能ニュースはありつつも興味を引くトピックが特にある様子はないなと思いつつページを送っていくと、昨夜深夜に尖閣諸島周辺海域で何かあったらしい。
領土問題への関心を持っている訳ではなかったが、『海上自衛隊が…』というワードに琴線が触れた。外交上デリケートな海域の事案だと基本的には警察である海上保安庁が対応するのが無難だ。少なくとも相手側から見たら国境付近の海域に軍隊が来たら気になるところだろう。改変前の世界で初期段階で自国内での核兵器使用をして人類滅亡の歩みを早めた記憶がある睦海は、自身が人民解放軍に対して偏見があることを自覚していた。
トピックを表示させると、更に気になる単語が目に入った。先程まで閲覧していた組織の名前だ。G対策センターの名前があるということは怪獣に関する何かだ。
ちゃんと本文を読むことにした。
『日中 真夜中の緊張
昨夜1時頃、尖閣諸島周辺海域に海上自衛隊が哨戒を行ったことを今朝防衛省関係者が明かした。
また、同刻に中海軍も照会が行われており、両国間の緊張が危ぶまれたが、外交ルートから対象が生物である可能性が共有されたことで、双方の哨戒は国連G対センターへ引き継がれ、現在もGフォースによる哨戒が継続中。
日本近海でのGフォースの派遣は今年初。政府からの公式発表は朝の定例会見を予定しており、現在は周辺海域への操船、漁業活動の自粛を海上保安庁が呼びかけている。』
ここ20年間のGフォース派遣は主にオリハルコンことガダンゾーアのカケラによって生じた怪獣で、物的、経済的な被害は避けられてはいないものの人的被害は最小限に抑えられており、ことに睦海も旧知である麻生将治が環太平洋地域の司令となってからはGフォース派遣以降の死者を出さずに解決をしている。その為かかつては研究者肌の人以外であまり怪獣マニアを公言する大人がいなかったが、近年は芸能人やインフルエンサーでも怪獣マニアであることを明かしていたり、それを自己のセールスポイントにしている人も現れている。
今回も怪獣の出現が示唆されたことよりも二国間で緊張が高まったことを主に取り上げられている。
睦海にとって望んでいた世界の姿ではあるものの、怪獣を軽視している様な印象を受けることもあり、複雑な思いを抱く。
周囲の声が増えてきたのを感じ、睦海はARを終了させて顔を上げた。既に教室はほとんどの生徒が登校しており、前の席では朝から話すべきではない類の話題でゲラゲラとクラスメイトが笑っていた。ちらっと一人が睦海と目があった。
瞬間、心の中で嘆息する。あまりこの類の話は得意ではないのだが、ただでさえ同性からは疎まれやすい容姿をしているので敵を作らないように振る舞う事を心がけている。幸い経験はないが、女子校の虐めは荒廃した世界でのユーラシア大陸横断時よりも精神的苦痛が大きい可能性があると教えられている。
「ねーねー桐城さんは当てる派? 入れる派?」
「うーん。一応入れる派なのかな?」
「へぇー流石じゃん」
睦海の回答にリーダー格の娘がニヤニヤとする。一方、数名の眉が動いた。この後の返答次第では心象に影響を与えかねない。恐らく彼女達には消耗品の二者択一のみで、一方の使用者に対してステレオタイプなイメージを抱いている。そして、どちらにしても睦海を自分達にとって都合の良い解釈に落とし込むことは明白である。
しかし、そもそもの前提に睦海は当てはまらない。なので、あえて偽りのない言葉を出すことにした。
「そうなのよ。シリコンカップって感染症のリスクが低いし、交換の頻度も少なくて済むからマラソンする時とかも安心なのよ」
「え?」
数名の顔色が変わった。消耗品を前提とした先入観を若い女性で抱いているのはある意味日本人らしいのかもしれない。ドラッグストアでも販売しているが、初期費用がかかる為、英語圏ほど普及していない。
逆にこの情報はスクールカースト上位にいるセレブリティないしそのアンテナやパイプを持つ娘達の支持を集める。
「桐城さんも使ってるの? アレっていいわよね!」
「そうそう。意外と使い捨てより衛生的だし……って、貴女も使ってたの?」
選択肢を増やし、影響力の高い人達が支持をする。大衆心理として、他の娘たちはそのメリットに対して興味を抱く。
後は仕上げだ。睦海はさり気なく話に同調し、国内での評価の高い製品の情報をARで共有した。
よし。これで後は彼女達が勝手に宣伝する者とそれを受ける者になり、睦海がフェードアウトしても気に留めることはない。
例のニュースの続報が気になるが、まだ会見もG対センターの広報でも情報は開示されていない。続きは昼休みにしようと切り替え、授業の準備をすることにした。