「G」vsディアボロス

〈第一章〉


 異常の報せは、深夜2時を過ぎた頃であった。当直管理についていた男性社員の櫻井は、モニターと端末が整然と並ぶ管理室と呼ばれるその20メートル四方のオフィスでモニターを触れつつ、手元のデスクに置いたまますっかり冷めて味も濃くなった珈琲を煽る。
 入社7年目。当直管理5年目の宮野だが、この異常は経験のないものだった。デスクに置いてある掌サイズのカードに触れるとカードの表面にマニュアルが表示される。

「……やっぱりマニュアルに無いか」
『宮野』

 頭部に装着しているインカムから同僚の女性社員、花澤からの通信だ。彼女はシステム内部の当直管理で会社のある東京からリニアで1時間の距離にある大阪の自宅にいる。宮野とは入社時期、キャリア共に近い為、互いにライバルであり同時に気の置けない仲間でもある。

「花澤、わかってるだろ」
『勿論よ。だから声をかけたの。こんなのサーバーの電源が落ちたか、有線の接続障害くらいしか考えられないわ』

 花澤の言うのは一理ある。どんなにセキュリティや通信環境、システムが進歩しても必ずそれらを物理的に管理するサーバーが必要になる。分散化、仮想化の技術の進歩により、消失のリスクはほぼ皆無となったものの、障害の発生リスクは完全に無くなった訳ではない。それ故にトラブルに対応する為に管理室詰めの当直管理が必要なのだ。
 彼らの企業はネットワーク通信負荷軽減の為の転送サーバーサービスであり、これが機能しないと同じ通信圏のネットワークは兎も角、海外からのアクセスなどで負荷軽減がされず、環境条件次第では前世紀のダイヤルアップ回線レベルの通信速度にまで遅延しかねない。言わずもがな、2046年の現代では到底処理できる負荷ではない為、ネットワーク障害の発生が予想される。
 もっとも、仮に社のサービスが完全に停止しても最大で24時間以内に他社がフォローを完了させるだろうが。

「残念だが、問題ない。どこも物理的には異常なし」
『直接確認して。絶対に通電していないところがあるわよ』
「つまり、その管理システムそのものにエラーが発生して偶々通電していないという二重のトラブルってことか? ビンゴだったら、宝くじを奢ってやる」
『無駄口いいから、確認』
「もうしている。不通箇所なし。該当する場所はわかったか?」

 管理室の隣にあるサーバールームに入った宮野は、冷房が常時稼働している為、身を強張らせながら答える。不通もなく、異常を伝える点灯や点滅もない。少なくともハード面の異常はない。

『特定したわ。F2c1919番よ。こっちから中には入れない。貴方が直接中に入って』
「わかった。……セキュリティシステムの異常は?」
『もう調べ済み。かなり可能性は低いけれど、セキュリティシステムを突破して内部データを破壊するソフトウェアを起動させたクラッカーの攻撃というのが一番状況に近い。ただ、すでにネットワークから遮断しているから遅効性のウィルスだったか、かなり手の込んだ専用のプログラムを使用しているか』

 宮野は壁のホルダーに災害用ヘルメットと同じ並びで吊り下げられているヘッドギア型の端末を取ると、『01』と管理番号のシールが貼られたヘッドギアからは2本のコードが伸びており、インカムと有線接続させ、もう一本をサーバーコンピュータの該当箇所の端子に接続し、ヘッドギアを被った。
 現在、この中に入って直接状況を確認する術は本体への直接接続以外の手段はない。

「じゃあ見てくる」
『よろしく。障害の処理はこっちでやっておくわ』
「頼んだ。……接続開始」

 宮野が発声すると視覚情報でログイン画面が表示される。彼はパスコードを意識すると画面に✳︎が並び入力がなされる。体感覚の切り替えの注意、同意、アバターとの同期設定の画面になり、拡張現実から仮想現実への切り替え画面となる。

『3,2,1』

 感覚がこれまでの拡張現実、視野に浮かぶモニターとそれを意識操作していた入力感覚だけでなく、自身に出力される感覚も切り替わり、サーバールームにいる宮野自身の感覚が薄れ、アバターを主観とした擬似感覚が優位となった。
 感覚操作、ユビキタスといわれる意識入力が可能となり、登場した従前のVRとは一線を画したフルダイブVRが現実のものとなった。
 もっとも彼の入った仮想空間は一般ユーザー用ではなく、スタッフオンリーである為、非常に簡素かつ無機質なスペースとなっている。倉庫というが最もイメージに近い。ソフトウェア、プログラムがブロック状のオブジェクトとして何列にも分かれて並べられている。それが広い空間に存在している筈だが、宮野のアバターの視界に入った仮想空間は異なっていた。

「なんだ、これは……」

 宮野の手前にあるオブジェクトは彼の見知った光景であったが、その先、空間の奥はまるで爆発現場かの様に崩壊していた。崩壊している奥は空間の形を保てずにノイズや破損データが雷雲の稲光のように度々起きている。現実には存在しえない世界の崩壊を具現化した光景であった。
 しかし、そうした視覚的な情報に対しての衝撃以上に宮野は驚愕していた。ゲームや映画などでは存在する演出であるが、通常のバグやソフトウェアの破損では起こり得ない光景である。つまり、仮想空間そのものが崩壊している訳であるが、そもそも宮野が入れている時点で崩壊や破損という表現に矛盾が生じる。偶々、奇跡的にコンソールからのアクセスが生きていたという可能性はあるが、別の可能性を宮野は疑う。花澤が言っていた低い可能性。
 宮野は原因を突き止める為に奥へと進む。視界、聴覚、様々な体感覚に目眩の様なグラつき、ノイズが発生する。恐らくコンソールからのアクセスも維持できなくなるのも時間の問題だろう。

「……うわっ!」

 突然、足元と周囲のオブジェクトがバラバラと砕け、上下分からず落下するように倒れる。ノイズが全身に走り、イヤホンの音割れに似た不快感と共に仮想化された体感覚が仮想空間内部から弾き出される。フルダイブを維持できなくなったのだ。
 視覚情報もヘッドギアのモニター越しになったが、最早ノイズだらけのその視界は仮想空間崩壊の瞬間にその奥で蠢く原因の姿が見えた。

「蜘蛛? どういうことだ……?」

 ヘッドギアを外した宮野は呆然とサーバーコンピュータを見つめて呟いた。当該端子には使用不能を示す赤色のランプが点灯していた。
 宮野が見たソレは蜘蛛の様な姿をした何かであった。




 


『LINK START』

 接続画面に切り替わり、視界が変わる。これまでのアイコンが視界に浮かぶパールホワイトの背景画面から一変、夜空に煌々と聳える高い壁に囲まれた城の前に立っていた。
 そんな不夜城を体現したかのような城の前に立つのは、赤いジャケットが異様に目立つ上に覆面フードと暗視ゴーグルを被った非常に怪しい格好をしたアバターだった。
 “彼”は高い城壁を見上げる。壁の上部をレーザー光線が伸び、上空はサーチライトが耐えず空を警戒している。
 顎に人差し指の甲当て、思案する仕草をしながら“彼”は城壁を触れながら歩く。

「……!」

 フードの下で“彼”の口角が上がった。
 まるで手品師の様に赤いジャケットからロープを取り出すと、壁にロープを四角く広げながら貼り付ける。そして、ロープに囲まれた壁面をなぞる様に触ると、指をパチンと鳴らしてトンッ! と壁を突く。
 刹那、ロープに囲まれた壁が砂のように崩れて消滅し、四角い穴が空いた。その中に“彼”は悠々と潜る。
 城内は無数のパイプが複雑に伸びている広い通路となっていた。その中を球体の浮遊物が動いている。侵入者を発見し、攻撃、排除するセキュリティシステムの一つだ。
 球体浮遊物が近づくと“彼”は飛び上がり、天井のパイプの隙間に入ってその場をやり過ごす。
 そのまま“彼”は猿のようにパイプにぶら下がりながら通路を天井伝いに移動する。

「っ!」

 通路を過ぎ、床に音を立てずに着地すると目の前にある堅牢な鉄扉に向き合う。扉にはドアノブに該当する場所はなく、代わりに立体表示のウィンドウで認証システムが表示された。本来ならばそのウィンドウで認証をパスしなければ扉は開けられない。当然ながら、侵入者の“彼”は認証のパスがない。
 しかし、“彼”は赤いジャケットの内ポケットから薄ビニール手袋を取り出して手に装着すると、ウィンドウにその掌を翳した。ウィンドウの上にシェルウィンドウと呼ばれる旧世紀のコンピュータで用いられていたコマンドによる文字入力操作画面が表示された。所謂技術者に好まれるコンピュータシステムだ。
 そして、この仮想空間でのアバター操作やマウス操作などの感覚的入力操作だけでは困難なコンピュータ側との相互やり取りもコマンドで可能となる。それは管理者権限による実行の為に必要なパスのやり取りなども含まれる。
 しかし、手を替え品を替えてそのやり取りを繰り返したり、そもそもこの認証そのものを丸々写し取ったコピーを使って仮に1を入れたら、2を入れたらという仮定の実験をエンドレスに繰り返したりすればいずれ答えにたどり着く。これを最短最速かつ発覚リスクの低い方法で試行する処理の実行。“彼”は即座にそのプログラムをウィンドウ上で構築し、実行させた。

「ビンゴ」

 一瞬にして管理者権限の取得に成功した“彼”は、別のウィンドウでその権限によって認証パスを構築、“彼”の認証パスを作成した。加えて、この城の構造とセキュリティシステムの種類も入手し、操作可能なものは全て“彼”に対して無効化させた。
 これで実質的に“彼”はこの城の主と同等の扱いになった。
 当然、扉は自動的に開き、“彼”を招き入れる。
 扉の先にある螺旋階段を登る途中にあるセキュリティシステムも“彼”を無視し、“彼”は堂々と深部へと進んでいく。
 階段を登り切り、出口となる鉄扉も掌を翳しただけで開き、“彼”は扉の先へ進む。

「!」

 そこに足を踏み入れた瞬間に“彼”は異常に気づくが、既に遅く、鉄扉は閉ざされてしまった。
 “彼”の立つそこはクリスタルの箱だった。“彼”にはこの箱の正体を知っていた。これは先程“彼”が管理者権限で無効化させたセキュリティシステムとは全く異なるセキュリティシステムだ。通称鼠取り。または初見殺し。仮想空間化が主流となったことで、感覚操作も一つの鍵として利用できるようになったことで生まれたセキュリティシステムで、パターンロック認証に似ているがよりシビアな知識認証であり、新たに行動認証とも呼ばれている。
 この鼠取りの特徴は二つある。一つはこの空間は他の空間と独立しており、アバターを捕らえていること。つまり、様々な工作をしても今現在その空間に存在しているアバターはこの空間から脱出しないと強制ログアウトが不可能なのだ。勿論、フィクションの題材のように意識も捕らえられるという訳ではなく、ユーザー自身は強制ログアウトで端末を外すことができる。しかし、アバターはこの空間内に取り残されてしまう。即ち、ハッカーの商売道具であるアバターを失い、かつ証拠品となりかねない。ログの削除や偽装といった工作が全く意味をなさなくなる危険があるのだ。
 もう一つの特徴がそもそも認証を受ける為の手続きが存在しないという点だ。最も有効な警備システムは何かと言われれば、鍵をつけるのではなく扉を付けない。または、とりあえず誰彼構わず射殺することだ。そして、この鼠取りはその両方を満たしたシステムを採用している。このシステムを導入する際、管理者は二つ以上の動きを覚える。そして、その動きと連動する色とマークを覚える。以上だ。

「……っ!」

 箱の奥に3つの色のマークが順番に異なる場所に表示された。
 そして次の瞬間、レーザービームが箱の中を飛び交い始めた。このレーザービームはアバターを破壊する。生身であれば死を意味する恐ろしいものだ。しかし、予め色とマークと動きを覚えている者は3つ表示された色のマークの内、一つだけ知っている色とマークの組み合わせがあり、それに応じた動きをするとこのレーザービームに当たらない。
 そして、該当するマークが表示された場所を殴るとそこが壊れて箱からの脱出が可能となる。非常に豪快ながらそもそもバレにくいセキュリティシステムといえる。特に、これは今回のようにゴール地点に設置することで真価を発揮する。
 “彼”も城の構造でこの場所をゴール地点だと判断していた。しかし、本当のゴールはこの箱の外側にある。
 “彼”は迫り来るレーザービームをスレスレで回避し、そのコースから正解の動きを推測する。現実的なところで相手が人間である以上、あまり複雑な動きは覚えても咄嗟に反応できない。この箱の攻略方法は正解の動きを導き出し、マークが出現した3箇所全てをほぼ同時に攻撃して突破するという強引な方法が唯一だ。

「っ! ……これか!」

 “彼”は先程管理者権限を取得した際に入手した他の管理者の情報を思い出した。この城の責任者は50代の恰幅の良い中年男性。副責任者も同じく同世代の中年女性。そして、他の管理者は二、三十代の男女であった。責任者の彼らがアバターとはいえ、元々の体の感覚でも動ける範囲で、かつわかりやすい動き。特にマークや色などとの連想がし易いもの。つまり、彼らの世代といえる2000年前後に流行したものでそれを知らない若い世代もすぐに覚えられる単純な動き。レーザービームの軌跡から推測される正解の動きの足と胴体の位置。
 “彼”は視界の端にかつて流行した海パン姿で腕を動かすお笑い芸人の動画を表示させる。同時に、三つのマークの中で海パンを連想させる形があった。“彼”は恥を捨てて動画の芸人の動きを真似る。

「そんなの関係ねぇ! そんなの関係ねぇ!」

 そして、芸人が決めのポーズを取ると同時に“彼”の伸ばした腕は海パンマークを表示させた壁を殴り、箱は砕け散った。

「ふぅー……。ゴールだ」

 その空間は先程の箱と対して変わらない無機質な白い箱上の立方体空間であった。しかし、先程とは異なり、その中央部に顧客情報の入った水晶玉型のオブジェクトが存在しており、“彼”が触れるとその中身は管理者権限で閲覧可能な状態であった。

『動くな!』
「!」

 その瞬間、部屋の中が赤い照明に染まり、室内に武装した白い格好をした警備員のアバターが次々と現れ、“彼”を立方体の結界で拘束した。
 白いヘルメットを被った警備員の一人が“彼”にメーザーライフル型の武器を構えて近づき、“彼”は暗視ゴーグル越しにその警備員を睨んで、声高らかに宣言した。

「85点! 評価はBだ!」

 その瞬間、警備員らは一斉に「あぁ〜」と落胆した声を上げて肩を落とした。
 そして、“彼”を拘束していた結界も解け、彼はウィンドウに表示させた評価表を見せながら、説明を始める。

「まずは最終地点に鼠取りを設置したのは高評価だ。しかし、他のセキュリティシステムが管理者権限一つで無効化可能な単一の方式であるのは、大きな減点だ。城の最初の通路は単純だが、アレがあったから俺が退散する前に駆けつけられたと言える。ファイアウォールの規格は問題ない。むしろ予算によっては他に金をかけて最低限の品にランクダウンさせても良いと思う。管理者権限でもどうしようもないのは単純な移動時間になる。ショートカットを構築するという手段が無いわけではないが、初めて侵入した場合ならわざわざ痕跡を残すリスクを犯してショートカットを構築するよりは走って時間を短縮するか、いっそのこと壁を破壊して道を作る方が圧倒的に多い。前者の選択に対しては迷路も有効だが、後者は迷路を無視する。となれば、単純な直線距離を増やして時間を稼ぐのが内部情報にアクセスされるリスクの低い外角で有効な対策だ。合格といえるが、これについては更なる強化を推奨する。逆に次の認証式ゲートはむしろハッキングのチャンスを作る。これの設置は最後の鼠取り手前一つで十分だ。このゲートは同じ認証式のセキュリティゲートを設置して時間稼ぎをするならば、単純に統一のパスコード入力だけでいい。一定期間毎に自動変更が理想だ。突破されることを前提に時間稼ぎとなればいいと思う程度と割り切って、パスコードの通知はメール送付でいいと思う。とりあえず、ここのセキュリティシステムや認証コードと直結しやすい社内コミュニティでなく、シンプルな外部のネットワーク通信を利用したメールが一番確実だ。螺旋階段は直線の通路と同様に長くできるならそれに越したことはない。ハッカーやクラッカーは痕跡を残して、後で警察に発見されるリスクを嫌う。セキュリティシステムは正解が存在する以上、必ず突破される。これらはプログラムの侵入対策と割り切るんだな。……最後に、あの鼠取りはもう少しユーザー側にセキュリティレベルを上げる努力を求めた方がいい。リサーチを事前にされていたらバレるし、相手側に人工知能がいたらそれこそ特徴的な動きだから特定されやすい。よって、評価点の加減がこの通りとなり、85点のB評価。到着と同時に拘束したのは良かったが、あの時点で俺はデータを閲覧していたから、最悪強制ログアウトしてユーザー側へデータを材料に示談交渉が可能だ。兎に角、発見と初動確保を間に合わせることに力を注ぐのが吉だな。以上」
「「「「「ありがとうございました!」」」」」

 “彼”に警備員達は一斉に礼を言った。
 それを片手を挙げて応えつつ、「抜き打ちテスト、お疲れ様」と労いの言葉を残してログアウトした。




 


「ふぅー……」

 自作の配線が剥き出しになっている無骨な外見のヘッドギア型を外した男は、潰れた髪の毛をかき上げて大きく息を吐き出した。ボサボサの髪に数日伸ばしたままの無精髭によって、丸みのある目元や本来ならばモデルも出来そうな容姿、マイルドな顔立ちをすべて台無しにしている。服装に至っては白いランニングシャツ一枚でヨレヨレのベージュのチノパンに裸足と、三十代後半という実年齢以上に中年男性の無頓着感を強調している。
 そもそも部屋も建築年が昭和という最早歴史的建造物の域に達する木造アパートで2Kという間取りの六畳間で、床に敷かれた皺だらけで黄ばんだ布団の上に座り込んでいるその姿は、不摂生な独身男性そのものであった。
 部屋自体も六畳二間の間取りにしては物が多い。ヘッドギアから伸びるケーブルが襖の先に伸びており、その隙間から冷気が漏れていることからその理由は示唆される。隣の六畳間は中央に鎮座するサーバーコンピュータと回線設備、そしてそれを冷却する為に常時フル稼働している冷房が効いた部屋になっているからだ。
 彼は当然無職でもなければ、悪質なブラックハッカーでもない。ペネトレーションテスター。ホワイトハッカーとも呼ばれるペンテスターは、先程のように企業に侵入し、セキュリティの評価やアドバイスを行うハッカーにしかできない対ハッカー技術者だ。
 そんな彼の名は、尾形白嶺。“シロー”という名で呼ばれるペンテスターである。
 重そうに腰を上げた白嶺は明かりが薄ら漏れるカーテンを開けると部屋に朝日が差し込んだ。時刻は5時50分。

「HAL、濃いコーヒーのホットを頼む。ブラックで」

 眉間に皺を寄せつつ白嶺は指示を出して窓から離れ、ガラス戸をガラガラと開いて台所へ行く。
 台所のコンロ台には冷蔵庫とオーブンレンジを掛け合わせたようなデザインの家電が鎮座していた。築半世紀以上の木造アパートには不釣り合いな最新家電は白嶺が近づくと機械音を鳴らす。

『火傷に気をつけて』
「ありがと」

 専用規格のシリコンカップに入った濃いインスタントコーヒーを機器から取り出すとズズズと音を立てながら啜る。苦みが口から頭に広がる。

「あー効く。……やっぱ糖分も欲しいな」

 結局、スティクシュガーを3本連続投入し、極甘コーヒーを摂取する。
 そして、六畳間に戻り、カップを片手にテーブルに置いてある眼鏡を手に取り、片手で器用にかける。この眼鏡は視力矯正用でなく、AR端末用だ。
 頭の中で意識をすればレンズの一部が遮光され、モニターが表示される。リアルタイムのニュース映像を次々と送っていき、最低限の情報を収集しながらこれからどうするかと思案する。午後まではフリーなので、昼前まで寝ることもできるが、どうにも頭が冴えてしまっている。体を動かして脳を活性化させるのも一つだが、会員登録をしている行きつけのボクシングジムは日中営業で、こんな早朝はやっていない。ジョギングという選択肢もあるが。

「……今ならいるかも知れないな」

 白嶺は眼鏡を外し、カップと共にテーブルへ置くと、畳の上に無造作に置かれていた先程まで使用していた物とは別のヘッドギアを掴み、装着する。こちらも彼の自作品だが、これはプライベート用だ。
 事故防止の最低限の安全確認をする。先週あたりから夏休みの学生がフルダイブゲームに熱中しすぎて熱中症で緊急搬送されたというニュースが季節の風物詩の如く毎日目にしている。ヘルスモニター機能で普通はそんな状況になる前に通知と強制終了となる筈だが、メーカー側としても安全性の保証は必須事項である為、非常に感度が良い。極端に言えば、白熱し過ぎてバイタルが上昇したら強制終了。オンラインゲームユーザーは当然、この仕様を嫌煙し、メーカー側が禁止している非正規のフリーソフトウェアによってヘルスモニター機能と強制終了といった安全装置との連動を解除しているケースが大半となっている。
 刺激的なゲームの方が売れる一方で、強制終了になり難いゲームは刺激を減らすしかない。つまり、退屈なゲームになりやすく、売れない。その為、メーカー側も保証対象外と明言し、基本的に非正規ソフトウェアの使用は認めないというスタンスであるが、所謂改造ソフトとは異なり、取り締まりやシステム的に使用が禁止されるようなことはせず、あくまでも自己責任というニュアンスが強い。つまり、メーカー側も黙認しているのだ。
 加えてゲーマーは白嶺レベルでないにしても、フルダイブ用ヘッドギア端末やコンピュータの自作をしていることが多く、白嶺のようにヘルスモニターや通知機能などの細かい設定を自身で調整し、根本的にメーカー既製品とは異なる仕様となっているものも少なくない。
 確認を終えた白嶺はヘッドギアの起動ボタンを押した。後の操作はヘッドギアに内蔵されている思考入力装置(Thinking device)を用いて操作が可能なので、白嶺は安楽な姿勢になる。
 十数年前、非接続式接触型思考操作機器という名称で登場した思考入力装置は脳科学と精神科学の融合ともいえる全く新しい概念であった。脳や頭部に大量の電極をつける訳でもなく、装置が頭部の該当箇所に接しているだけで思考を読み取れるだけでなく、相互通信、つまり意識へ直接情報を送ることも可能となるインターフェースの登場は世界の常識を一変させた。かつては世界でも僅かな限られた超能力者が特殊な装置を用いて行っていたことが世界中の誰でも頭にヘッドギアを付けるだけで可能となったのだ。
 そんなことを考えている間にプライベート用端末は起動した。

『起動。おかえりなさい』
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