恋が始まるシチュエーション
この世界は、優しくない。
世界の危機とて、いつもこちらの都合に構うことなくやってくる。
ゲームのように自分の強さに合わせてくれない。ましてやこちらが強くなるまで待っていてくれるはずもない。
たとえそれが理不尽極まりないものだったとしても、人は突然投げつけられた選択を瞬時に選択しなくてはならないのだ。
今まさに、秘密結社ライブラはその瞬間に立ち会っていた。
ヘルサレムズ・ロットの街中に突如現れた異界生物は、最初こそネズミほどのサイズだったらしい。それがゴミだろうと車だろうとお構いなしに暴食を続けた結果、今では3階建てのビルに相当するまでに成長した。
単に食べ過ぎの肥満体なら、問題はなかっただろう。
だがこの異界生物は食べたものの性質を自分のものにしてしまうらしい。
食べた中には好戦的かつ防御に優れた戦闘型異界人が含まれており、眼前にいる異界生物は例えるならば――これでもかと筋肉を盛った象の身体に毛のないイノシシの頭を載せ、二足歩行をする何かになっていた。
短足で短腕。遠距離攻撃なら余裕だろうと誰もが思ったのに、銃弾をあっさりと弾く鋼のボディにHLPDはあっさりと降参した。曰く、弾の無駄遣い。
しかしこの象イノシシの強さは防御だけではない。どういう原理か、いったい何を食べたのか、背中にある亀の甲羅のようなものから自由自在に軌道を変えるビームが発されて辺りが更地にされた日には、誰もが唖然とするしかなかった。ジャパニーズ怪獣か。
こうなっては人類の武器など、玩具同然。 彼らが出向くには、十分な理由であった。
「……ったく、何食ったらこんなにデカくなるんだか」
「まったくです。知能が低いことを幸いというべきか、不幸というべきか」
焔丸を構えたザップに、隣に立つツェッドが冷静に返す。
幾度となく挑んでは退いた彼らはすでに満身創痍。それでも敵に背を向けて逃げることなどはない。見えない背中の向こうに、守るべき世界があると知っているからだ。
後方に立つレオナルド、チェイン、そして彼らを守るように立つK・Kも同じ気持ちだ。
だが、さらに強い思いを胸に立っているのは、5人を、そして世界を守るべく前に立つクラウスとスティーブンだろう。
傷つき立ち上がるのもやっとの広い背中は、これまで幾度となく研鑽を重ね、世界の均衡を守ってきたことの証明。
彼らが諦めない限り、誰も諦めることはない。
「なかなかに頑丈だ。だが、必ずや道はある。そうだな、スティーブン」
「ああ、そのとおりだ、クラウス。レオナルドに『スティーブンさんのえっち(はぁと)』と言われるまで、倒れるわけにはいかない」
時が止まった。
凛々しい横顔と甘い声、さらには現状にまったく合わない台詞が飛び出してきた瞬間、人はいったいどう行動するべきだったのだろう。
1カメから3カメまで構図が変わる時間、誰ひとり、異界生物さえ動けなかった。おそらく周囲の凍りついた空気を読んだのだろうこの異界生物、どうやらただの脳筋ではないようだ。
そしてもっとも凍ったのは、疲労困憊ゆえに口が滑ったのだろうか、元凶であるスティーブン。
「……なんかスゲェおかしいことが聞こえなかったか?」
空気を読む気がないザップの呟きに、スティーブンの肩がビクリと震えた。
よりにもよってこのシリアスな戦闘真っただ中に言っていい台詞ではないことは、彼自身理解している。そしてもはや取り返しがつかないことも。
なお、ザップの呟きはこの凍った空気を溶かすほどの熱量がないどころか、ストリートアートどころかゴミ扱いされるのが関の山な氷像を1体生み出しただけだった。さようなら、ザップ。
再びやってきてしまった沈黙。瓦礫と化した町の中、しぶとくあり続ける野次馬とHLPDの視線を一身に浴びているのは、居心地が悪い。
ザップを凍らせたことで逆に少しだけ解凍されたスティーブンは、前にいる空気が読める異界生物を見つめたまま、隣で戸惑いの空気を纏った全幅の信頼を寄せる友に声をかけた。
「クラウス、答えてくれ。僕は今、なんと言っ」
た。と言おうと口を開きかけたところで、スティーブンは耳元にかすかな熱を感じる。離れた場所にいる異界生物の足では、パリパリと青白い雷光が弾けて消えた。
『スティーブン先生ー、クラっちに何を言わせようとしたのかしらぁ』
耳に装着されたインカムから聞こえるのは、静かな怒りを含んだ声。
たっぷりと間をとったゆったりとした話し方がかえって怖い。いや、実際に彼女は心の底から怒っているのだろう。理由はただひとつ、ピュアなクラウスに卑猥な言葉を言わせるという、セクハラまがいのことをさせようといた失態に対してだ。
これは完全にスティーブンに非があった。
クラウスに『えっち(はぁと)』何て言わせた日には、全世界のクラウスファンが嘆き悲しむに決まっている。彼の天然かつ純粋な心を弄ぶようなことをして許されるわけがない。
彼は清らかな光の中を歩けばいい。汚れた闇の中は自分がお似合いだ。
なんて、若干自分の世界に浸ってニヒルな笑みを浮かべてしまったスティーブンの耳に、新たな声が聞こえる。
「スティーブン、先程のことは……」
心の準備が出来る前に、言わせるのはいいが理由を問われたくない相手から恐る恐る声をかけられてしまった。
体幹を鍛えた身体が左右に揺れ、固まる。
横目で見れば、異界生物と問題発言、どちらを先に片づけるべきなのだろうとオロオロしているクラウス。こんな時どう答えることが正解なのか、スティーブンは答えを持ち合わせていなかった。無理もない。
「わ、私は常に君の味方だ。だが、は、破廉恥な言葉を公衆の面前で言うのはどうかと思うのだ」
今すぐに穴を掘って、ヘルサレムズ・ロットの裏側まで落ちていきたい。
そんな気持ちを抱えるほど絶望をトッピングした羞恥心に勝てるはずもなく、スティーブンはその場に膝をつく。
なお、旧紐育もといヘルサレムズ・ロットの裏側はインド洋である。
「ていうかぁ、スティーブン先生の言うレオナルドって、レオっちのことなの?」
いつの間にか距離をつめてきたK・Kが、スティーブンのすぐ脇に立つ。インカム越しではない生の声は、その気になれば頭を踏める位置だ。
目の前の異界生物を無視してまで追及し始めたK・Kに、スティーブンはついに道端に正座をして俯いてしまった。
「確かに、レオ君と同じ名前だからと言って、レオ君のこととは限りません」
「まぁ、それはそうだけど」
そうこうしているうちに、ツェッドとチェインも傍に近づいてくる。名指しされた可能性があるレオナルドは身の安全のためか彼らの後ろにいるが、HLPDは保護すべきかどうか迷っていそうだ。
ザップの氷は溶けない。
「ちょっとスカーフェイス、時間の無駄なんだから、さっさと答えなさいよ」
口を真一文字に結んで俯くスティーブンは、全身に嫌な汗をかいていた。
答えたら、公衆の面前で恥ずかしい台詞を言わせたいくらい好きな人がバレてしまう。そしてその好きな人に己の性癖が知られてしまう。これだけはなんとしても避けなければならない。
そう、賢明な読者諸君はすでにお気づきだろう。
秘密結社ライブラ副官、スティーブン・A・スターフェイズが好きすぎて色々拗らせてしまっている相手は、レオナルド・ウォッチその人なのである。
好きになった経緯は省略するが、スティーブンはレオナルドが好きだ。
同性で年下、育ちも生活水準もまったく違う、どこにでもいそうな糸目で少年にしか見えない青年が本気で好きだ。
だがそれはこんな形で知られていいものではない。ふたりきりの特別な時間、最高の雰囲気の中で一生の思い出になる瞬間に伝えなくてはならないものなのだ。
現実主義者で合理的な考えをするくせに意外にもロマンチックな一面を持つスティーブンは、どうにかしてこの場を上手く丸め込んでしまう手立てを必死に考える。
人生の中でもっとも頭を使った時間だろう。だが、相手は純粋な親友と最恐の仲間。
難易度が高すぎる。
「答えないってことは、レオっちなのね。ちょっとレオっちー、こいつの脳天ぶち抜いていいかしらー?」
答えても地獄、答えなくても地獄。
見えなくても確実に仕留めるべく銃口を向けているK・Kに、生まれて初めてともいえるほどの恐怖を覚え、スティーブンはおぼつかない動きながらも頑張って立ち上がった。
破壊を免れたコンクリートを革靴で踏みしめ、未だに空気を読んでおとなしくしている異界生物を視界に収めながら息を吐く。
憂いを帯びた横顔は切なげな美しさを内包しているように思える――が、今は人は見かけによらないという、いい例となってしまっていた。
振り返り、やはり銃口をこちらに向けているK・Kと、そして仲間たちと対峙するスティーブン。
「……この話、仕事が終わってからにしない?」
へら、と笑って言ったのがいけなかったのか、それともヘルサレムズ・ロット市民は秘密結社副官の弱みを握るのが大好きなのか、周囲から一斉にブーイングが巻き起こる。
どうでもいいから早く終わらせろと思っていたに違いないHLPDもこれには驚き慌てて市民を宥めるが、一度みつけてしまった面白いネタを逃すまいと、自称善良な市民はいっそう声をあげてきた。
天を見上げたスティーブンが、ここでは書くことが出来ないほどの罵詈雑言を呟いたのは、仕方のないことだろう。
さすがにK・Kもこの事態を予測していなかったのか、さてどうしたものかと頬に指を添えて苦笑しているし、クラウスは市民を宥めるべきかスティーブンを慰めるべきか、どちらを優先したらいいのか分からずオロオロしていた。
そしてまだ常識を失っていない若者たちは、逃げ出したい気持ちを抑えるために、終始無表情を貫く。
「世の中には、いまだに見たことのない地獄があるんですね」
「本当に。百億年の恋も冷めるわ」
鼻で笑って、遠くを見つめるチェイン。スティーブンに憧れと淡い恋心を抱いていた彼女が今夜、ヘルサレムズ・ロット中の酒を消失させたのはまた別の話である。
それはさておき、問題は何ひとつ片付いていない。自爆したとはいえ、仲間は仲間。そう周囲に認識されている以上、このままでは自分たちがとばっちりを喰らうに違いない。クラウスとレオナルドを除く全員の意見は一致していた。
「このままでは……」
ツェッドの呟きに、なるべく早く終わらせるために何が必要か。K・Kとチェインは相談することなく同じ答えをはじき出す。
「とっとと白状して、公開処刑されなさい」
「それがいいと思います」
前門のK・K、後門のチェイン。
眉間を確実に撃ち抜くK・Kと心臓を瞬時に握りつぶせるチェインに前後を取られ、スティーブンはこれまでにないほど嫌な汗が全身から吹き出している不快感に苛まれながら、それでも脱出経路はないかと視線を左右に向けた。
わずか数分の事態とはいえ、異界生物はおとなしい。いっそのこと暴れてくれればどさくさに紛れて逃げられるというのに、どうしてこういう時に限って空気を読むのか。
野次馬は減っていない、HLPDも動いていいのか分からず、戸惑っている。
そうこうしているうちに、このままではいけないと思ったのかクラウスとツェッドに左右を塞がれた。
「K・K、チェイン、スティーブンの言うとおり、後日改めて、とはいかないだろうか」
「そ、そうです。ひとまず撤収しましょう」
味方はいた。
「何言ってるのよ、ここで白黒はっきりさせておかないと、大変なのはレオっちなのよ?」
「そ、そうなのかね?」
「疑われたままでは、今後レオがライブラ副官の弱点として、敵対組織から狙われる可能性もあります。防衛手段を講じるために、知っておくことが重要かと」
「やっぱり今でなくてもい……いえ、なんでもありません」
冷静だが説得力の欠ける説明で説き伏せようとしたチェインにツェッドが疑問を投げかけようとしたが、そこは女性陣のひと睨みで勝負がついた。
「クラっちも分かって。これはレオっちのため、なの」
「う、うむ」
レオナルドのためと言われてクラウスはK・Kになにも返せなくなり、こうしてスティーブンの味方はいなくなった。
「で、話を戻すけれど、スティーブン先生があんな邪な感情を向けている相手は、レオっちなわけ? 本当にそうだったら、軽蔑するけど」
「姐さん、まだ軽蔑してなかったんだ」
軽蔑していることを隠そうとしないチェインの容赦ない言葉が、スティーブンの心臓を貫く。
思わずその場に膝をついた彼を、長身の仲間たちが見下ろす格好となった。
次第に哀れになってきたのか、盛り上がっていた野次馬たちも声を小さくしてなにやらこそこそと話をしている。ろくなことを言っていないというのは見えず聞こえずでもおおよそ見当がつくが、逆に沈黙を貫き困惑の表情を隠せないでいるHLPDの面々の方が、今は辛いだろう。
この中に顔馴染みの警部補がいなくてよかったと、誰もが思っていた。
「吐きなさい、スティーブン。吐いて楽になってしまいなさい」
穏やかで優しい声が耳元で囁かれる。
先程までの嫌悪に満ちていたものとはまったく違う、慈愛に満ちた声。
縋るように見上げ――た瞬間、背中が焼けるような熱量を感じると同時に強い風が駆け抜けていった。
その場にいる全員が熱と風の発生源を振り返れば、丸焦げになった異界生物の上に焔丸を構えたザップが仁王立ちしている。
「はっ、デカブツも背後ががら空きじゃ、ザマアねぇなぁ!」
焼ける肉のいい匂いにその場にいる全員がうっかり美味しそうだと思ってしまったのはさておき、先程まで凍っていたはずの男がなぜそこにいるのか。
己の待遇を忘れてスティーブンが問いかけようとした時、ザップは言わなくていいことを口にしてしまった。
「俺様にかかればテメェなんざ雑魚よ、ザーコ」
不意打ちという卑怯な手を使って倒したくせに、完璧に相手を見下すゲスな笑みを浮かべるザップの姿はまったくもって正義の味方には見えない。
それどころか悪役だ。
お陰でいい匂いを漂わせる異界生物に同情、もとい食欲を刺激されたがゆえの好感を抱いてしまった野次馬たちは、HLPDがいるから自分たちには向かってこないだろうと高を括ってザップを罵りだす。
「サイテー!」
「それでも人間か!」
「生き物を大事にしろー!」
当然ながらザップがそれらを無視することはなく、異界生物の上で肉の焼ける匂いに燻されながら野次馬を怒鳴りつけた。
「世の中ってのは弱肉強食なんだよ、バーカ! 悔しかったらここまで来てみやがれっ!」
中指を立ててあざ笑うザップに野次馬の怒りは爆発。活字にすることは出来ないほど酷い言葉が飛び交い、HLPDはさらに困惑の色を深めている。
混沌としすぎて何が何だか分からない状態だが、ひとまず全ての始まりであった異界生物を鎮圧することが出来たのは、喜ばしいことだ。
ただ、ザップと仲間だとは思われたくなくなったが。
そして同時に、これはスティーブンにとってチャンスであった。
この状態ではまともに話をすることなどできるはずがない。口先三寸でなんとか曖昧にして逃げ出し、後はぶり返さないようにうやむやにしてしまえばいいのだ。
ザップの愚行が役に立つ日が来るとは、夢にも思わなかった。
「撤収、しようか」
普段のように各自散開、そのままお開きにしてしまおう。クラウスに提案したその時、風が吹いた。
無意識に風が吹いた方角へ顔を向ければ、世紀末救世主伝説よろしく舞い上がった砂埃の中を歩いてくるシルエット。違うのは砂埃が鼻に入ったのか、途中で立ち止まって盛大にくしゃみをしているところか。
くしゃみで仲間たちが一斉に振り返る。幸い、ザップと野次馬、そしてHLPDまでは聞こえなかったようで、彼らがこちらを見ることはなかった。
鼻を何回かすすり、気を取り直してレオナルドが真っ直ぐに歩いてくる。
彼の真剣な面持ちに、スティーブンはおもむろに立ち上がり息を呑んだ。
「スティーブンさん、埒が明かないんで聞いちゃいますけど……僕じゃないですよね?」
おそるおそる、そしてわずかに不安のこもった声は、あからさまに自分が恋愛対象ではないことを祈っていることに他ならないことを示していた。
この時のスティーブンを襲った絶望は、たとえいかなる高名な作家であろうとも表現は出来ないだろう。そして周囲を囲んでいた仲間たちが彼の様子にすべてを悟ってしまったことは、ここに示す必要はないに違いない。
「す、スティーブン……?」
「え、ちょ、本気? 本気でレオっちなの?」
「ええ……」
「あー、うん、まぁ、人の趣味に口を出しちゃダメだわ。うん、そう、ダメダメ」
動揺し、驚き、引き、呆れた。
無理もないが、四面楚歌状態で言われたスティーブンは、この世の絶望を凝縮したような顔で、俯くしかなかった。
そして、誰もこの現状を打破する術を持たない以上、沈黙するしかない。
背後の罵詈雑言をBGMに、時が止まった空間。
長く感じた、しかし実際にはごく短い時が流れた後、おもむろに動いたのはレオナルドだった。
「好意を持っていただいていることは、一旦横に置いておきます。ひとつ、聞いていいですか?」
本人にそのつもりがあるかどうかは分からないが、言葉に容赦がない。
だがスティーブンは精神をなんとか保って、その場に踏みとどまった。
「さっき言ってた台詞、僕が相手っていうのはどうかと思うんですけど……どんなシチュエーションで?」
この時、誰もが頭の上に『?』を浮かべた。
付き合うつもりなどまったくなさそうな素振りを見せていたくせに、なぜここへ来てそんなこと聞くのか。これは真っ当な疑問だと誰もが思うだろうが、スティーブンだけは違っていた。
真剣な眼差しで、堂々とこう言ったのだ。
「入っていることに気づかず、うっかり脱衣室のドアを開けてしまった時。出来ればバスタオルや衣服で前を隠してくれるといい」
無駄に顔がいいうえに、無駄にいい声で言うべきことではない。
K・K、チェイン、ツェッドが困惑と侮蔑を織り交ぜた色を瞳に浮かべて一歩後ろに下がったが、どういうわけかレオナルドは力強く頷いた。
「そのシチュエーション、僕も憧れます。ですが! やっぱり僕っていうのが納得できないんですけど!?」
「どうしてだ! 好きな子にやってもらうのが、ラッキースケベってもんだろう!」
「激しく同意しますけど、スティーブンさんならよりどりみどり選び放題食べ放題でしょ!? どうせなら胸が大きい可愛い女の子にしてくださいよ!」
「その言い方、下品すぎるから君が言うのはやめろ! 見飽きるくらい見たけど、一度もときめかなかったんだから仕方がないじゃないか!」
レベルの低い言い争いだ。
クラウスは彼らの会話の内容が理解できていないらしく、動揺して落ち着かない様子。K・Kは頭に手を添えて深く溜息を吐き、ツェッドは人類の浅ましさを目の当たりにした人外代表として、数歩後ろに下がり目を逸らした。
そしてチェインは、この世のありとあらゆる穢れを集めて煮詰めたものを見下すような嫌悪を凝縮した顔でふたりを見ている。
「だいたい、童貞じゃない人が、なんで童貞みたいな妄想してんですか!」
「どうして僕が童貞じゃないって知ってるんだ?」
いつの間にか顔をあげていたスティーブンが、心底分からないと言いたげに首を傾げて問う。
きょとんとしてしまったレオナルドは腕を組み、やんわりと首を左右に振って自分の考えを整理してからこう言った。
「だって経験豊富っぽいし」
「確かにそのとおりだが、恋愛に関しては初心なんだよ」
顎に手を添え、恥ずかしいな、と言わんばかりにはにかむスティーブン。
これまでのことがなければさぞいい男の照れ笑いとして、女性をときめかせていたことだろうが、もう遅い。漏れ出した性癖を止めることなど出来るはずもなく、ただただ恋愛童貞のレッテルだけが浮き彫りになっていくだけだ。
いったい我々は、何を見せられているのか。
現にチェインはもう見ていられないと言わんばかりに飛び去り、丸焼き異界生物の上で喚いているザップの頭を、八つ当たりだと言わんばかりに蹴り飛ばしている。
「それはどうでもいいとして」
「聞いたのは君だよな!?」
「いやいや、僕が聞きたいのは、なんで百戦錬磨で結婚詐欺師をやってても納得なスティーブンさんが、童貞臭い妄想してるかであってですね」
「酷いこと言ってる自覚ある? 僕は確かにモテるし女の扱いも心得ている。だが、これまで本気で人を愛したことがなかったんだよ。……君以外はね」
恥ずかしいな、と目尻を下げながらやんわり微笑むスティーブン。
だがレオナルドの返事は、「はぁ」と素っ気ないものだった。
これまでの言動はさておき、本気で口説きにかかっているのが一目瞭然だ。それなのにレオナルドの態度はあきらかに意識していないということを、少し離れて見ているクラウスたちは分かっている。
分かっているのだが、だからといってどうしようもない。ただただ、スティーブンが不憫になってきた。
「あー……、スティーブン先生、今日はこれくらいにしておかない?」
「そ、そうですね。事件は解決しましたし、後は兄弟子に任せておきましょう」
初恋は叶わないものというが、三十路になってからだと少々重みが違う。もしかしたらここで拗らせて面倒な方向に暴走したら、たまったものではない。
レオナルドのためにもここは気持ちに見切りをつけて、次に進ませよう。そんな優しさゆえに出た言葉だったが、スティーブンはまだ折れてはいなかった。
いや、どういうわけか立ち直っていた。
「だいたい君だって、恋人いない歴=年齢だろ? 僕と似たようなもんじゃないか」
「はぁ!? どこが! 言っときますけど、好きな人のひとりやふたり、ちゃんといましたからね!?」
「付き合ってないのに?」
「そういう問題じゃねぇわ! 僕の方が恋愛に関する知識はあるって言いたいんですぅー」
どっちもどっちだろうに、ふたりの痴話げんかは止まらない。
「どうせ雑誌やネットの知識だろうが」
「聞き捨てなりませんね!」
「それなら、君は僕と付き合った時にどんなシチュエーションを望む?」
「なんでスティーブンさんと付き合う前提!? ええ……んー、その……可愛い女の子にチェンジしていいです?」
「却下」
「だからなんで!? 言っときますけど、スティーブンさんと付き合う未来は僕にはありませんからね」
これは痛恨の一撃だったようで、スティーブンの身体がよろめいた。話の流れと勢いで強引にでもレオナルドの言質をとり既成事実を作ろうとしていたようだが、その目論見は外れたようだ。
「ていうか、あんなこと言われた後に好きなんだって言われても、OKする人はいないです」
冷静なレオナルドの容赦ない鉄槌――もとい正論に、スティーブンは今度こそ膝をついた。
「だ、大丈夫かね、スティーブン!?」
「レオっち、もうやめて! これ以上は不憫すぎて見ていられないわ!」
いつもならばスティーブンの味方をすることのないK・Kさえ、涙を浮かべてレオナルドを止めに入る。ただ、クラウスもK・Kも、そして沈黙を守るツェッドすら、スティーブンたちから、いつの間にかずいぶんと距離を置いていた。
このまま遠ざかり、いつしか雑踏に混じって逃げるつもりだったらしい。そう思わせてしまうほど、現場は惨状を極めているのだから仕方がないが、被害者であったはずのレオナルドは腑に落ちないのか唇をへの字に曲げて眉間にしわを寄せた。
「もし皆さんが僕の立場だったら、OKします?」
全員が間髪入れずに首を横に振る。
それを見たスティーブンは、両手で頭を抱えて地面に額を打ち付けた。
もうスティーブンは立ち上がることすら出来ないかもしれない。誰もがそう思い始めたその時、レオナルドがスティーブンの前にしゃがみこんだ。
「確かにお付き合いすることは出来ません。でも、スティーブンさんの性癖にはとても共感が持てました。付き合うことは無理ですが、友達から始めませんか?」
「少年……」
よほど大事だと思ったのか、レオナルドは念入りに付き合えないと二度言った。それだけでさらにスティーブンが不憫だし色々とツッコミどころが多かったのだが、顔を上げたスティーブンの安堵した表情に何も言えなくなる。
人は絶望に落されると、こんなにも些細なことで幸福を錯覚してしまうのだろうか。
「ち、ちなみに、少年はどんなシチュエーションが好みなんだい?」
地べたに慣れていないだろう正座をし、胸の前で手を合わせて普段は死んだ魚のような目を輝かせてそう語るスティーブンは、救世主に救いを乞う罪人が近い。
なぜ今、そんなことを問う。と誰もが心の中でツッコまずにはいられなかったが、口に出さなかったのはこの異様な光景に巻き込まれたくなかったからだ。
我々は、一体何を見せられているのだろう。
「そうですねぇ、僕としては……」
だが、救世主もとい片想いの相手ことレオナルドは、スティーブンの態度などまったく気にする様子もなく、顎に拳を添えて考え出していた。
こんなよく分からない状況でも物怖じしない。それがレオナルド・ウォッチのいいところなのだ。
「曲がり角なんかで女の子とぶつかって、押し倒されたいです」
「押し倒す側じゃなくていいの?」
まったくもって素朴な疑問のつもりで発したスティーブンの言葉は、レオナルドの顔に露骨な嫌悪感の仮面をつけるものとなった。
「押し倒して、女の子が頭を打ったり腰を痛めたらどうするんですか。女性に傷をつけるような行為を推奨するような人は、今すぐに自由の女神に踏まれて潰されたらいい」
断言したレオナルドに、野次馬の女性陣はときめいてしまったに違いない。男女平等は大事だが、女性はいつだってレディとして扱ってくれる男性を嫌えないものなのだ。
そして数の多さは分からないが、同じようにときめいてしまう男性もいるわけで。
「君って、すごく男らしいんだな」
「それはどうも。で、いつまでそうしてるんですか?」
表情を和らげ、す、と差し出された手に、スティーブンはレオナルドの顔とその手を何度も見ては少々戸惑いの様子を浮かべる。
――あれほどまでに得たかった赦しを目の前にした時、男は真に理解した己の罪に苛まれるのか。
などというありふれた物語をイメージしつつなんとなく誰もが見守る中、スティーブンがおそるおそる手を伸ばす。
戸惑いながら載せた手がしっかりと握られた瞬間、どこからともなく拍手が起こった。クラウスにいたっては目尻に涙さえ浮かべている。
K・Kは頭を抱え、斗流血法兄弟弟子とチェインは唖然として。つまり、ツッコむ者は誰もいない。だからこの後に起こることも、止める者はいないわけで。
「はは、情けないことに、足が震えてるみたいだ。少年、引っ張り上げてくれないか?」
「もう、仕方がないですね」
普段と変わらない屈託のない笑みを浮かべたレオナルドが、スティーブンの手を引いた――その時だった。
体格差と足元の瓦礫で踏ん張りが効かなかったせいだろう。バランスを崩したレオナルドは手を離して後ろへと倒れていき、地面にぶつかる衝撃に耐えるべくきつく瞼を閉じた。
だが、いつまで経っても来たるべき衝撃はやってこない。それどころか腰に力を感じると同時に背や頭は支えるものがないことに気づき、戸惑いながら瞼を開いた。
「大丈夫か、少年」
先程まで死んだ魚のような目をしていた男が、今では自分を見下ろしてその甘いマスクで微笑んでいる。
足が震えていると言っていたくせに、そんな素振りを見せることなく支えているスティーブンの大きな手の感触と表情。
レオナルドは、顔が熱くなるのを感じた。このシチュエーション、逆の立場でも悪くないかもしれない、と。
「あ、あの、スティーブンさん」
「気を付けてくれよ。僕は君が怪我をするの、本当は嫌なんだからさ」
抱き寄せたまま体を起こされ、自然とレオナルドはスティーブンの腕の中に納まる。
そしてスティーブンはレオナルドを見下ろすと、軽くウィンクして見せた。
「スティーブンさん……」
「レオナルド……」
このシチュエーション、いいかもしれない。
意見が一致して見つめあうふたり。あまりにもベタで若干古風な流れだが、その場にいる全員が納得する。
このふたり、お似合いだ、と。
「……つまり、童貞の相手は童貞がいいってことか?」
「んなわけないだろ、バーカ」
丸焼き異界生物の上で乾いた笑みをこぼすザップの頭を、無感情な眼差しのチェインが蹴り飛ばした。
後日、ヘルサレムズ・ロットでは、いかにベタな恋愛シチュエーションを再現できるか、という挑戦が、若者たちの間で流行ったとか流行っていないとか。
なんにせよ、世界は今日も平和である。
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