残りものの彼だから
「ただいま」
帰る家があるというのは、ありがたいものだ。
「おかえりなさい、スティーブンさん」
「ただいま、レオ」
顔に傷を作った証である絆創膏が痛々しいが、ふにゃりと笑う恋人の笑顔にどうしたって癒されてしまう。
出迎えに来てくれた年下の恋人に腕を広げてもたれかかろうとしたのだが、予期していたらしい彼はあと一歩のところで後退ってしまった。
狭い彼の家の中、逃げ場はないだろうがこの行為には少々傷つくというものだ。
だからわざとらしく寂しいのだとアピールすべく眉と肩を落とせば、案の定レオナルドはこちらに近づいてくる。そこをすかさず抱きこみたかったが、へそを曲げられてはたまらないのでやめておくことにした。
すると、レオナルドはニヤリと笑う。
「今日、デートだったんでしょ」
この言葉に、心臓が跳ねなかったと言えば嘘になる。
確かに今日は命を救ってくれた部下を労うためにディナーに行った。そのことは遠回しにだが、レオナルドにも事前に伝えてある。だというのにこの指摘は、一体何を示しているのか。
どう答えることが正解なのか迷う一瞬が、彼の中で何かを形作ってしまったと気づいたのは、逸らされた横顔がわずかに寂しげに思えたからだ。
気づけば、彼を抱きしめていた。
「ちょ、スティーブンさん?」
「何もしてないよ。ただ飯を食っただけ」
「そこは全然信用してますけど」
身の潔白をアピールしているというのに、腕の中のレオナルドはさも当たり前だと言わんばかりに呆れた調子で返す。
答えを間違えたのだと気づいた時には、もう手遅れだ。
やはりどうしたって恋人に勝つことの出来ない男は、どうしたら彼の機嫌をよくすることが出来るのかと、これからあたふたするしかない。
「でもまぁ、もしかしたらってのは、ちょっとだけ考えました」
腕からするりと抜け、玄関ドアのすぐ傍にあるキッチンに立つレオナルド。
彼は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをケトルに入れて、コンロにかける。その流れに無駄がないのは、ごく当たり前の、そしてスティーブンが心から安堵できる日常の風景だからだろう。
「スティーブンさん、その気がなくても女の人をその気にさせるから」
思わず息を呑んで立ち尽くす。
確かにスティーブンは世界の均衡を守るためならば、後ろめたいことを何度もしている。その中にいわゆるハニートラップというものも含まれているが、今回のディナーの要因がそうだったと彼には知らせていない。
だというのに、あまりにも的を射ってしまっているのはどういうことだ。
着ていたジャケットをぎこちない動きで脱ぎつつ、なんとか足を前に踏み出してレオナルドの後ろをすり抜ける。
いつものパターンならば、彼は自分のためにカフェオレを淹れてくれるはず。コーヒーはインスタントで薄く、お世辞でも美味くないコーヒーだが、ミルクを入れた途端に不思議と気持ちが和らぐ味になる。
これを好きだと言ったら、レオナルドは何かあった時には必ず淹れてくれるようになった。
何かとは、色々と上手くいかない時のことだ。
「ていうか、全然その気がないから、逆にすらすらと誑し込めるんですかね」
「……なんだか今日は、棘が多いなぁ」
ジャケットを小さなふたり用のダイニングテーブルに置いて椅子に腰掛けつつ呟けば、聞こえてしまったのか一気に空気が張り詰める。
何を言っても和みそうにない空気に居心地の悪さを感じてテーブルに頬杖をつけば、出てくるのは溜め息だけ。
誰が相手でもそれなりに上手くやれると自負しているスティーブンだが、どうしてもレオナルド相手だと上手くいかない。
「これは僕のささやかな嫉妬なんで、あんまり気にしないでください」
不意に聞こえた背中越しの声が、スティーブンの丸まった背中を真っ直ぐにする。当然頬をついてた手から顔が離れ、普段は死んだ魚のようだと言われている目は瞼が限界まで開く。
愛おしい恋人の拗ねている原因が分かったのだ、これはどうしたってニヤけてしまう。
「つまりレオは、俺がチェインと飯に行ったことが気に入らないと」
「ブォノ・ガストロミア。いつか連れてってくれるって約束してたのに」
「そっちかよ。なに、あの店ならはずれはないって確信していたから、選んだだけだよ。それに彼女はそれだけの働きをしてくれた。僕がこうしてレオの嫉妬を聞けるのも、彼女のお陰さ。そこは許してくれ」
「分かってます。分かってるから、自分が嫌になっただけなんで、ちょっと黙っててくれませんか」
そう言われても、時折不自然に上擦って途切れる声に立ち上がらないわけにはいかない。
待ちわびているカフェオレを淹れる手が止まったままの彼を背後から抱きしめ、そろそろやかましい笛の音を鳴らしそうなケトルを鎮めるべくコンロの火を見ることなく止めた。
「俺が帰るところは、レオの傍だ。それだけはどうしたって変えられないし、変える気もない。だがそのためには様々なことが必要になってくる。分かってくれとは言わん。だが、知っていてほしい」
「そんなこと、スティーブンさんと付き合うことになってから、百も二百も承知してます。でも、それでも、俺、待ってることしか出来ないから」
世界を幾度となく救っているレオナルドの言葉に、スティーブンは両腕で抱きしめながら彼の頭上で笑った。
大声で笑うと壁が薄いから苦情が来ると言われているが、知ったことではない。それくらい彼の気持ちがたまらなく嬉しく、わだかまりが溶けていった。
「バカだな。待つことが出来るってのは、本当は強い人間だけなんだぜ。信じていてくれなければ、待っていられないだろ」
「待ってるだけじゃ、世界の均衡を守れないのに」
「日頃散々走り回ってるだろうが。それに、何があっても待っていてくれると分かっているから、俺は世界の均衡を守れる。万人を救うために、どんな汚れ仕事をしてでもね」
ほんの少しだけ不憫に思ってしまった彼女のことを、そして自分のような男に恋を抱いてしまった彼女のことを思い出し、チクリと胸が痛む。
「それ、マジでどうにかなりません? K・Kさんじゃないですけど、ひとりで抱え込むの、本当にムカつきますわ」
「やめて世界の均衡が保てるなら、喜んで」
「ズルい」
「ん、酷い男でごめんな」
かすかに汗の香りがするレオナルドの癖毛に顔を埋めると、カフェオレを飲む前なのに心が落ち着く。
やはりここが、自分の帰る場所なのだ。
「……カフェオレ、飲みますよね。淹れますから、離れてください」
「うん。楽しみだ」
名残惜しさを感じつつ、レオナルドから離れる。またダイニングテーブルの椅子に腰かけようかと思ったが、今は少しでもくつろぎたいとベッドに向かった。
その途中でネクタイピンを外してネクタイを解き、ジャケットの上に放り投げる。シャツのボタンは首元だけ外したら、息を吐きながらベッドに座り込んだ。
レオナルドのベッドは狭くて固い。カーテンがかかっていない窓から入り込むネオンの光は羽虫のようにうっとうしい。それでも一度ここを知ってしまうと離れがたいと思うのは、彼の香りに満たされてしまうからだろうか。
革靴を脱いでベッドに寝転がれば、自然と息が吐ける。呼吸が楽になり、自然と瞼が落ちてきた。
「寝るなら、シャワーを浴びるか着替えるかしてくださいよ」
「カフェオレを飲むまでは、寝たくないんだが」
「じゃあ、飲んでください」
ほぼ閉じてしまった瞼をうっすらと開ければ、両手に青と黄色のマグカップを持ったレオナルドが見える。
うっかり寝たらカフェオレをぶちまけられそうだと思う半面、彼は自分のベッドにそんなことをしないだろうと確信を持っている。
それにせっかく淹れてくれたカフェオレだ。もったいないことをしたくはないと、スティーブンは上半身を起こして息を吐いた。
背中を丸め胡坐をかいた姿は、先程まで高級イタリアンレストランでディナーを楽しんでいた姿とは程遠い。だがこれが本当の自分の姿なのだと認めることが出来たのは、レオナルドのお陰だ。
青いマグカップを受け取ると、レオナルドもベッドに腰掛けた。そしてスティーブンの腕と肩を背もたれにする。
「君といると、気楽でいいな」
「おうおう、高級イタリアンが似合わないってんで、ディスってんすか?」
「違うよ。素の自分がどういうものか分かったってこと。何を考えているのか分からないってよく言われるだろ? あれ、僕自身もどんな感情を持っているのか、分からない時があるからさ」
「それはスティーブンさんが、自分のことを考えてないってことでしょ」
どういう意味だ、と尋ねようとしたが、自分から問うのは違う気がしてカフェオレをひと口飲む。
喉を通る甘いカフェオレの程よいぬくもりに、レオナルドの優しさを感じた。
「世界の均衡とクラウスさんのことばっかり考えてるから、自分のことがおろそかになるんですよ。だいたい、女性に対して下心も恋愛感情もなーんにもないなんて、どうかしてます」
予想外な展開に、レオナルドへと顔を向ける。とはいえ肩にもたれた彼だ。見えるのはほとんど後頭部だけでその表情はうかがい知れない。
「K・Kさんが言ってました。人の心が分かるから、その人が言われたいことを言う鏡みたいなことをやるくせに、自分のことが分かっていないから、そこに感情はない。そうやって簡単に勘違いさせて人を使う、ズルいやつだって」
反論したいところだが、女性に限って言うとつい最近のことを思い出して口を噤むしかない。
自分をおろそかにしたつもりはないのだが、言われれば心は常に置き去りだ。レオナルドの傍に。
「さすがはK・K、手厳しい」
「概ね同意っす。スティーブンさんは人をその気にさせるのが、本当に上手いですもん」
「君にはそんなことはないと思ってるけど。というより、何を言っても上手くいかないもんなぁ」
「それは褒めてんすか? でもまぁ、結婚詐欺師には向いてそうですよね」
自分が言ったことにウケたのか、カラカラとレオナルドは笑う。
しかしハニートラップを幾度となく仕掛けて成功している身としては、結婚詐欺師に向いていると言われて上手く否定が出来ないことが悔しい。
「レオには本気だよ。だからいつも空回りしちまう」
「スティーブンさん、結構残念なとこがありますもんね。とはいえ、なんでスティーブンさんが僕を選んだのかは、未だに謎なんですけど」
肩に感じていた重みが消える。
体幹は鍛えているはずなのだが、幸福を感じさせる重みが不意になくなると、自然と身体が揺れた。
自分自身の心が分からない男が、なぜレオナルド・ウォッチというごく普通の男に恋したのか。いつかは話さなくてはならないと思っていたが、今夜はいい機会なのかもしれない。
振り向けば、カフェオレを一気に飲み干したレオナルドが一息ついている。その横顔は、糸目なのに様々な感情が見え隠れしていた。
帰る家があるというのは、ありがたいものだ。
「おかえりなさい、スティーブンさん」
「ただいま、レオ」
顔に傷を作った証である絆創膏が痛々しいが、ふにゃりと笑う恋人の笑顔にどうしたって癒されてしまう。
出迎えに来てくれた年下の恋人に腕を広げてもたれかかろうとしたのだが、予期していたらしい彼はあと一歩のところで後退ってしまった。
狭い彼の家の中、逃げ場はないだろうがこの行為には少々傷つくというものだ。
だからわざとらしく寂しいのだとアピールすべく眉と肩を落とせば、案の定レオナルドはこちらに近づいてくる。そこをすかさず抱きこみたかったが、へそを曲げられてはたまらないのでやめておくことにした。
すると、レオナルドはニヤリと笑う。
「今日、デートだったんでしょ」
この言葉に、心臓が跳ねなかったと言えば嘘になる。
確かに今日は命を救ってくれた部下を労うためにディナーに行った。そのことは遠回しにだが、レオナルドにも事前に伝えてある。だというのにこの指摘は、一体何を示しているのか。
どう答えることが正解なのか迷う一瞬が、彼の中で何かを形作ってしまったと気づいたのは、逸らされた横顔がわずかに寂しげに思えたからだ。
気づけば、彼を抱きしめていた。
「ちょ、スティーブンさん?」
「何もしてないよ。ただ飯を食っただけ」
「そこは全然信用してますけど」
身の潔白をアピールしているというのに、腕の中のレオナルドはさも当たり前だと言わんばかりに呆れた調子で返す。
答えを間違えたのだと気づいた時には、もう手遅れだ。
やはりどうしたって恋人に勝つことの出来ない男は、どうしたら彼の機嫌をよくすることが出来るのかと、これからあたふたするしかない。
「でもまぁ、もしかしたらってのは、ちょっとだけ考えました」
腕からするりと抜け、玄関ドアのすぐ傍にあるキッチンに立つレオナルド。
彼は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをケトルに入れて、コンロにかける。その流れに無駄がないのは、ごく当たり前の、そしてスティーブンが心から安堵できる日常の風景だからだろう。
「スティーブンさん、その気がなくても女の人をその気にさせるから」
思わず息を呑んで立ち尽くす。
確かにスティーブンは世界の均衡を守るためならば、後ろめたいことを何度もしている。その中にいわゆるハニートラップというものも含まれているが、今回のディナーの要因がそうだったと彼には知らせていない。
だというのに、あまりにも的を射ってしまっているのはどういうことだ。
着ていたジャケットをぎこちない動きで脱ぎつつ、なんとか足を前に踏み出してレオナルドの後ろをすり抜ける。
いつものパターンならば、彼は自分のためにカフェオレを淹れてくれるはず。コーヒーはインスタントで薄く、お世辞でも美味くないコーヒーだが、ミルクを入れた途端に不思議と気持ちが和らぐ味になる。
これを好きだと言ったら、レオナルドは何かあった時には必ず淹れてくれるようになった。
何かとは、色々と上手くいかない時のことだ。
「ていうか、全然その気がないから、逆にすらすらと誑し込めるんですかね」
「……なんだか今日は、棘が多いなぁ」
ジャケットを小さなふたり用のダイニングテーブルに置いて椅子に腰掛けつつ呟けば、聞こえてしまったのか一気に空気が張り詰める。
何を言っても和みそうにない空気に居心地の悪さを感じてテーブルに頬杖をつけば、出てくるのは溜め息だけ。
誰が相手でもそれなりに上手くやれると自負しているスティーブンだが、どうしてもレオナルド相手だと上手くいかない。
「これは僕のささやかな嫉妬なんで、あんまり気にしないでください」
不意に聞こえた背中越しの声が、スティーブンの丸まった背中を真っ直ぐにする。当然頬をついてた手から顔が離れ、普段は死んだ魚のようだと言われている目は瞼が限界まで開く。
愛おしい恋人の拗ねている原因が分かったのだ、これはどうしたってニヤけてしまう。
「つまりレオは、俺がチェインと飯に行ったことが気に入らないと」
「ブォノ・ガストロミア。いつか連れてってくれるって約束してたのに」
「そっちかよ。なに、あの店ならはずれはないって確信していたから、選んだだけだよ。それに彼女はそれだけの働きをしてくれた。僕がこうしてレオの嫉妬を聞けるのも、彼女のお陰さ。そこは許してくれ」
「分かってます。分かってるから、自分が嫌になっただけなんで、ちょっと黙っててくれませんか」
そう言われても、時折不自然に上擦って途切れる声に立ち上がらないわけにはいかない。
待ちわびているカフェオレを淹れる手が止まったままの彼を背後から抱きしめ、そろそろやかましい笛の音を鳴らしそうなケトルを鎮めるべくコンロの火を見ることなく止めた。
「俺が帰るところは、レオの傍だ。それだけはどうしたって変えられないし、変える気もない。だがそのためには様々なことが必要になってくる。分かってくれとは言わん。だが、知っていてほしい」
「そんなこと、スティーブンさんと付き合うことになってから、百も二百も承知してます。でも、それでも、俺、待ってることしか出来ないから」
世界を幾度となく救っているレオナルドの言葉に、スティーブンは両腕で抱きしめながら彼の頭上で笑った。
大声で笑うと壁が薄いから苦情が来ると言われているが、知ったことではない。それくらい彼の気持ちがたまらなく嬉しく、わだかまりが溶けていった。
「バカだな。待つことが出来るってのは、本当は強い人間だけなんだぜ。信じていてくれなければ、待っていられないだろ」
「待ってるだけじゃ、世界の均衡を守れないのに」
「日頃散々走り回ってるだろうが。それに、何があっても待っていてくれると分かっているから、俺は世界の均衡を守れる。万人を救うために、どんな汚れ仕事をしてでもね」
ほんの少しだけ不憫に思ってしまった彼女のことを、そして自分のような男に恋を抱いてしまった彼女のことを思い出し、チクリと胸が痛む。
「それ、マジでどうにかなりません? K・Kさんじゃないですけど、ひとりで抱え込むの、本当にムカつきますわ」
「やめて世界の均衡が保てるなら、喜んで」
「ズルい」
「ん、酷い男でごめんな」
かすかに汗の香りがするレオナルドの癖毛に顔を埋めると、カフェオレを飲む前なのに心が落ち着く。
やはりここが、自分の帰る場所なのだ。
「……カフェオレ、飲みますよね。淹れますから、離れてください」
「うん。楽しみだ」
名残惜しさを感じつつ、レオナルドから離れる。またダイニングテーブルの椅子に腰かけようかと思ったが、今は少しでもくつろぎたいとベッドに向かった。
その途中でネクタイピンを外してネクタイを解き、ジャケットの上に放り投げる。シャツのボタンは首元だけ外したら、息を吐きながらベッドに座り込んだ。
レオナルドのベッドは狭くて固い。カーテンがかかっていない窓から入り込むネオンの光は羽虫のようにうっとうしい。それでも一度ここを知ってしまうと離れがたいと思うのは、彼の香りに満たされてしまうからだろうか。
革靴を脱いでベッドに寝転がれば、自然と息が吐ける。呼吸が楽になり、自然と瞼が落ちてきた。
「寝るなら、シャワーを浴びるか着替えるかしてくださいよ」
「カフェオレを飲むまでは、寝たくないんだが」
「じゃあ、飲んでください」
ほぼ閉じてしまった瞼をうっすらと開ければ、両手に青と黄色のマグカップを持ったレオナルドが見える。
うっかり寝たらカフェオレをぶちまけられそうだと思う半面、彼は自分のベッドにそんなことをしないだろうと確信を持っている。
それにせっかく淹れてくれたカフェオレだ。もったいないことをしたくはないと、スティーブンは上半身を起こして息を吐いた。
背中を丸め胡坐をかいた姿は、先程まで高級イタリアンレストランでディナーを楽しんでいた姿とは程遠い。だがこれが本当の自分の姿なのだと認めることが出来たのは、レオナルドのお陰だ。
青いマグカップを受け取ると、レオナルドもベッドに腰掛けた。そしてスティーブンの腕と肩を背もたれにする。
「君といると、気楽でいいな」
「おうおう、高級イタリアンが似合わないってんで、ディスってんすか?」
「違うよ。素の自分がどういうものか分かったってこと。何を考えているのか分からないってよく言われるだろ? あれ、僕自身もどんな感情を持っているのか、分からない時があるからさ」
「それはスティーブンさんが、自分のことを考えてないってことでしょ」
どういう意味だ、と尋ねようとしたが、自分から問うのは違う気がしてカフェオレをひと口飲む。
喉を通る甘いカフェオレの程よいぬくもりに、レオナルドの優しさを感じた。
「世界の均衡とクラウスさんのことばっかり考えてるから、自分のことがおろそかになるんですよ。だいたい、女性に対して下心も恋愛感情もなーんにもないなんて、どうかしてます」
予想外な展開に、レオナルドへと顔を向ける。とはいえ肩にもたれた彼だ。見えるのはほとんど後頭部だけでその表情はうかがい知れない。
「K・Kさんが言ってました。人の心が分かるから、その人が言われたいことを言う鏡みたいなことをやるくせに、自分のことが分かっていないから、そこに感情はない。そうやって簡単に勘違いさせて人を使う、ズルいやつだって」
反論したいところだが、女性に限って言うとつい最近のことを思い出して口を噤むしかない。
自分をおろそかにしたつもりはないのだが、言われれば心は常に置き去りだ。レオナルドの傍に。
「さすがはK・K、手厳しい」
「概ね同意っす。スティーブンさんは人をその気にさせるのが、本当に上手いですもん」
「君にはそんなことはないと思ってるけど。というより、何を言っても上手くいかないもんなぁ」
「それは褒めてんすか? でもまぁ、結婚詐欺師には向いてそうですよね」
自分が言ったことにウケたのか、カラカラとレオナルドは笑う。
しかしハニートラップを幾度となく仕掛けて成功している身としては、結婚詐欺師に向いていると言われて上手く否定が出来ないことが悔しい。
「レオには本気だよ。だからいつも空回りしちまう」
「スティーブンさん、結構残念なとこがありますもんね。とはいえ、なんでスティーブンさんが僕を選んだのかは、未だに謎なんですけど」
肩に感じていた重みが消える。
体幹は鍛えているはずなのだが、幸福を感じさせる重みが不意になくなると、自然と身体が揺れた。
自分自身の心が分からない男が、なぜレオナルド・ウォッチというごく普通の男に恋したのか。いつかは話さなくてはならないと思っていたが、今夜はいい機会なのかもしれない。
振り向けば、カフェオレを一気に飲み干したレオナルドが一息ついている。その横顔は、糸目なのに様々な感情が見え隠れしていた。
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