7年後の24時
Day23 10:10 pm
夜の冷たい風が吹き抜ける。
無人の屋上で腹ばいとなり、レオナルドはライフルを構えた。見晴らしのいい高層ビルからは、ターゲットがいる部屋がよく見える。距離は約700m。タワーマンションに規則正しく並んだ窓たちの中から事前に聞かされていた情報を元に見つけ出した一室。
ターゲットが戻るまで、予定では後30分。待つことは辛くないが、じっとしているとそれだけで時間の流れは遅くなるものだ。
今夜はスティーブンの方が早く家に帰ることだろう。ひとりの家は寂しいという人だから、飲みに行くかもしれない。それなら間に合うといいな、と思うのは彼と飲む酒の美味しさを知ってしまったからだ。
そう思っていたら、タイミングよくスマホに着信が入る。見ればスティーブンからではなく、意外な人物からだった。
『ハァイ、レオ。久しぶり』
「ソフィアさん、連絡して大丈夫なんです?」
現在の彼女は、サルバーシオ社クローン事件の重要参考人だ。気軽に連絡が出来る立場にはまだなっていないはず。
さすがに驚きを隠せないレオナルドだが、電波の向こうでソフィアは楽しそうに笑っている。
『レオならいいって。それに、これが最後だから』
おそらくロウ兄弟辺りが手を回してくれたのだろう。これは大きな借りになった。
『私ね、娘と一緒に証人保護プログラムを受けられることになったんだ』
「でも、ソフィアさんって米国人じゃないですよね?」
証人保護プログラム。裁判における証人を保護することを目的としており、裁判が終了した後は新しい身分と政府の保護が保証されるというものだ。
今回、ソフィアは米国ならびにヘルサレムズ・ロットにおける保護を受けるのだという。今回の件で、HLFBIが動いているとは耳にしていたが、彼女にも話が行ったようだ。
『母が米国人だから、亡命して保護したって体にするみたい。子供を愛さない母だったけど、今回は感謝する』
「ソフィアさん……」
『夫だけを愛する人。私と弟はまったく見向きもしなかった。父も仕事と母だけが大事だから、国に未練なし。イレネオにはもう愛想が尽きたし、娘はちゃんと私の娘として育てていいって保証してくれた。だからこの話に乗っかることにしたんだよ』
「そうだったんですか。これからは、本当の親子になれるんですね」
『うん。あの子ね、よく笑うんだよ。それにミルクもいっぱい飲む。全然違うよ、亡くなったあの子と……レオーネと』
彼女の実の娘、レオーネは交通事故で亡くなったことをレオナルドは資料で知っている。
そしてその事故は、偶然にもソフィアに代わって一緒に散歩をしていた弟を巻き込んだことを。弟は最期まで姪を守ろうとしたが、庇いきれないほどひどい事故にそれは叶わなかった。
最愛の2人を一度に亡くして落ち込んだのはソフィアだけではない。イレネオもソフィアの弟を実の弟のように可愛がっていたため、夫婦の絶望は計り知れないものだったらしい。
『私さ、この子はレオーネとしてじゃなく、レオーネの妹として育てようって決めた。だって私が愛したレオーネとこの子は違うもん。一緒にしたら、2人がかわいそうって思う』
イレネオがやったことは許されないが、結果としてソフィアはクローンの娘に生きる理由をみつけた。それならばレオナルドは、2人の門出を祝福するだけだ。
『レオ、いっぱい助けてくれてありがとう。レオに会わなかったら、私はまた娘を亡くすところだった』
「……ソフィアさんと、お子さんの幸せを祈ってます」
証人保護プログラムが適用されれば、ソフィアはこれまでの人生を捨て、別人として生きなくてはならない。家族や友人など何もかも捨てるのだ。そのため、レオナルドとの会話もこれが最後になるだろう。
『ありがとう。それでね、レオにひとつ、お願いがあるんだけれど――』
Day23 10:20 pm
『ハロー、お兄ちゃん。やっと電話してくれたわね!』
まだ現れないターゲットを待ち構えながら、レオナルドは3時間前の妹に電話をかけた。ずっと暮らしていればごく当たり前のことなのだが、同じ国内なのに3時間も時差があるのを不思議と感じるのはやはりこうして電話をかけている時だろう。
相変わらず朗らかなミシェーラの声は、冷えた屋上でもレオナルドの心を温めてくれた。
『可愛い妹の誕生日を忘れてたなんて、すっかり薄情になってしまったのね。これが年をとるってことなのかしら』
「忘れてたわけじゃないし、ちゃんとプレゼントは贈っただろ?」
『ええ、それはもうとびきり可愛い帽子をちゃんと受け取ったわ。カードもありがとう。でもね、お兄ちゃん。私はお兄ちゃんに、「誕生日おめでとう」って言ってもらえたら、何もいらないのよ』
聡明な妹は結婚して子供を産んでも、レオナルドが決して勝つことの出来ないお姫様だ。今日もこの一言に敵うはずはなく、諸手を挙げて降参するしかない。
「……遅くなったけど、誕生日おめでとう、ミシェーラ。それと、君に話したいことがあるんだ――」
『レオにひとつ、頼みたいことがあるんだけど。この子の、名付け親になって』
まったく想像もしなかったソフィアの頼みに、レオナルドは驚きのあまり大声を出しそうになった。咄嗟に自分の口を両手で塞ぐことでなんとかしのいだが、動揺は隠せない。
なにせ子供に名前をつけること、それはすなわち人生で最初の、そして一生捨てることの出来ない贈り物をするということなのだから。スティーブンと一緒にいるうちはないだろうと思っていた――ミシェーラに頼まれたことはあったが、そこは義弟のために丁重にお断りした――のに、突然降って湧いてくるなんて思っても見なかったことだ。
「僕なんかに、そんな重要なことを任せちゃっていいんですか!?」
『なんかって、ひどくない? 私たちを助けてくれた恩人に、そんなこと言わないでくれる?』
「いや、だってその子の人生を左右しかねない、大事なことじゃないですか」
『だからこそだよ。証人保護プログラムを受けるにしても、元々この子は名前がなかったでしょう? だから私が付けていいって。それでね、私たちを助けてくれたレオのことを忘れないように、つけてほしいんだ』
ソフィアが本気だということは、スマホ越しに聞こえてくる声で分かる。
だからレオナルドはずっと見ていたスコープから目を離し、霧に包まれた空を見上げて深呼吸した。
これまでに出会った、たくさんの素晴らしい女性たち。彼女たちのどの名前を贈っても間違いはないと思うのだが、その中でももっとも愛する名前を気づけば呟いていた。
「……ミシェーラ。僕が知る、世界で一番聡明で優しくて、勇敢な女の子の名前です」
大切なお姫様の名前。
『ミシェーラ、ミシェーラ。うん、いい名前だね。聞いた? 貴女の名前は、ミシェーラ。絶対に幸せになろうね、ミシェーラ』
愛おしそうに何度も何度もミシェーラの名を口にするソフィアに、レオナルドは泣きそうになった。
「――ってことがあってさ」
多くのことは端折ったが、もう会うことのない女の子の名付け親になったことと、彼女に妹の名を贈ったことミシェーラに伝えて。
その時のことを思い出してしんみりした気持ちになったというのに、返ってきたのはくすりと笑う声。
『ダメなお兄ちゃんね』
「え、何がダメだった?」
『お兄ちゃんのことが大好きな、とっても幸せな女の子ですって言ってほしかったわ』
「……悪かった。今度会ったら、伝えておく」
たとえ足が自由に動かせなくても、たとえ光を失っても。レオナルドの最愛の妹は、やはり世界一素晴らしい女の子だ。もう女の子という歳ではないけれど、それでもレオナルドにとってはいつまでも可愛い妹に違いない。
自慢の妹に背中を叩かれた気がして、レオナルドは再びスコープを覗き込む。
『それはさておき、お兄ちゃんももうすぐ誕生日ね』
「この歳になると、誕生日って言われてもな」
『あら、妹に誕生日を祝わせないつもり? 私はずっとお兄ちゃんをお祝いしたいのよ。妹の楽しみを奪うなんて、サイテー』
「お前なぁ……」
口で勝てた試しのないから、最後はこういうしかない。
そしてこうなると自分の独壇場だと知っているミシェーラは、絶対ににんまりと笑っているのだ。
『おめでとう、お兄ちゃん。誕生日にそっちには行けないことが悔しくてたまらないけれど、もうひとりのお兄ちゃんと仲良くね』
もうひとりのお兄ちゃん。それが誰のことかすぐに分かってしまう。
ミシェーラはスティーブンとの仲を知っているが、彼を義兄と認めているとは思わなかった。未だに恋人という、なんの手続きもなく別れることの出来る関係から先へ進めと言われている気がして、どうにも返答に困る。
だが、潮時なのだろう。
「ありがとう、ミシェーラ。……またヘルサレムズ・ロットに来る気はあるか?」
『もちろん! その時を楽しみにしてるから、約束よ!』
これで後に引けなくなったな、と苦笑しつつ、おやすみを言って通話を終えた。
スマホをアウターのポケットにしまい、深呼吸をして呼吸を整える。スコープの向こうにまだターゲットは現れない。
覚悟を決めた今、ものすごくスティーブンに逢いたい。だが、仕事が優先だ。たとえ短い時間であっても世界の均衡を保てば、彼が穏やかに過ごせる。そのためにレオナルドは銃を手に取ったのだから。
はるか遠く、窓の端にターゲットの姿が見えた。
引き金に、指をかける。
Day30 12:00 am
1日の終わりはまっさらなシーツの海に身体を浮かべ、微睡みの中で他愛のないことを話して子守歌にする。
仕事のことは話さない、それだけが決まりごと。
けれど今日は、少しだけいつもと違っていて。
「誕生日おめでとう、レオ」
揃いのパジャマに身を包んだスティーブンは、この日を迎えたことが嬉しいと言わんばかりに目尻を下げて幸せに微笑んでいる。
起きている時とは違う間近な顔に、レオナルドははにかんだ。
「これからも様々なことがあるだろうが、眠る時はこうしてふたりでベッドに入る日がいつまでも続いてほしいもんだ」
「同感です。あなたと一緒に朝を迎える日が、ずっと続けばいいと思う」
間接照明による薄明かりの中、見つめあう。離れすぎていても近すぎても互いの顔をはっきりと見られない明るさは、ふたりの適切な距離を教えてくれる。
スティーブンの手がレオナルドの頬を撫で、レオナルドはスティーブンに身体を寄せた。触れ合ってはいないけれど、互いの体温が混ざりあって温かい。
「君は、俺の背中が好きだよな」
突然の指摘に、レオナルドの心臓が跳ね上がった。
不敵な笑みを浮かべるスティーブンのせいで眠気は吹き飛び、思わず見開いた目のせいで視界が青く染まる。
「ライブラに入って間もない頃は、俺たちの背中を見ていた。遠くにいるヒーローを見るような目で」
スティーブンの言うとおりだ。彼らは幾度となく事実に打ちのめされるのと諦めることは違うのだとレオナルドに示してきた。その背中はレオナルドの背中を押し、長く続く困難に立ち向かう糧となった。
「それがクラウスと俺の背中を見るようになった。ザップたちはレオの隣にいるようになったからだ。そして……いつしか俺の背中だけに」
恋心を抱いてしまったあの日から。
片想いを抱いて背中を見ていたことを知られてしまっていた。とはいえ相手がスティーブンだ。変化に対し異常なまでに敏感な彼に知らなかったと言われることの方が、驚きだろう。
知ってたんですね、と降参の意を示せば、まぁねと笑って。
「最初はくすぐったかったが、気が付けば俺も君の姿を追うようになっちまっててさ。こいつは厄介なことになったもんだと困りもしたが、今は人生で最良の選択をしたと思っている。レオを好きになって良かった」
改めての告白がくすぐったい。
気持ちはレオナルドも同じだ。スティーブンを好きになってよかったと、心から思っている。
「それでだな。俺としては、今後は背中を見ることをやめてほしい」
「どうしてです?」
なぜかスティーブンは起き上がってベッドの上に正座をするものだから、レオナルドも戸惑いつつそれに倣う。
すっかり温まっていた身体が、低めに設定した室温に冷えていく。
「俺の隣に立ってくれないか。……人生の、パートナーとして」
なんの前置きもなく、いや、まさか今までの会話が前置きとは露知らず、青天の霹靂に近いプロポーズ。
しかも普段の自信に満ちたスティーブンとは思えない蚊の鳴くような声で言われてしまっては、ぽかんと口を開いて唖然としてしまうのも仕方がない。
「結婚、しないか」
どうやらレオナルドは言葉の意味が分からなかったと思ったらしい。言い直したスティーブンの顔は耳まで真っ赤で、それは心が振るえるほどたまらなく愛おしかった。
そして、自分と同じ気持ちを抱いていてくれたことが、嬉しかった。
「はい!」
満面の笑みでそう答えた瞬間、スティーブンの身体がぐらつきベッドに横倒しになる。
「ああ……緊張した」
「滅茶苦茶嬉しい誕生日プレゼントっす。これでミシェーラに報告できるし。でも、先を越されたのはちょっと悔しかったかなぁ」
「なに、レオも考えてたんだ」
「そりゃまあ、こんなに長く付き合ってんなら、もうそろそろいいかなぁ、なんて思うくらいには」
嬉しくて泣きそうで、それが少し恥ずかしくて照れくさいから、軽口を叩いてみたり。
スティーブンの腕が伸びてきて、レオナルドの袖が思い切り引っ張られた。抵抗することなく倒れこんだレオナルドを、スティーブンが抱き寄せる。
「今夜は眠れる気がしない」
「明日は朝から会議なんで、早く寝てください」
冷静に予定を伝えれば、スティーブンはレオナルドを抱きしめる腕に力をこめる。やはりどうしようもなく可愛い駄々っ子だ。
仕方ないので今日だけは甘やかすことにする。
レオナルドもしっかりとスティーブンを抱きしめれば、どちらからともなく笑いが零れて。これからもこんな他愛のない日々が続いていくのだと思うと、たまらないほど幸せだ。
世界のどこにいようとも、どれだけの時を過ごそうとも、ふたりで過ごす日々は、続いていくのだから。
「来月は、レオからプロポーズしてよ」
「誕生日プレゼントが、結果の出てるプロポーズ?」
「最高だろ!」
「……マジか」
6/9
レオナルドのプロポーズを待ち構えていたスティーブンはこの日大変な目に遭うのだが、それはまた、別のお話。
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