7年後の24時
Day17 6:35 pm
全ては一瞬で終わった。
レオナルドが放った弾丸は義体を貫きへその緒を切断。すかさずスティーブンが義体の下半身部分を凍らせて固定し、ザップとツェッドが切り裂いて赤子を摘出することに成功する。
透明な体液で濡れていた赤子だが、外の空気を吸った途端に生まれたことを歓喜するかのような産声を上げた。
クラウスとチェインに守られていたソフィアが、少し戸惑いながらも丁寧に赤子を腕に抱いたツェッドに駆け寄る。そして彼から受け取った娘をしっかりと抱きしめた。
彼女が愛おしそうに涙を流しながら赤子に微笑む姿は、まさしく聖母のようだったと後にクラウスは語る。
だが、これで全てが終わったわけではない。
タイミングよくやってきたHLPDに事情を説明する間もなくソフィアと赤子を保護させ、ライブラは散り散りになる。
レオナルドもいつまでも屋上に留まってはいられないので、素早くライフルを片づけると、薬莢を探してくれたソニックと共に外階段を降りていった。
「見事だった」
「お褒めの言葉、どうも。それで、状況は」
裏路地で待っていたスティーブンと合流した途端の褒め言葉。けれどもついそっけなく返してしまうのは、素直になりきれない照れ隠しだ。
「ソフィア・マルキと赤ん坊はHLPDが保護。だが、イレネオ・マルキが逃亡した」
「元凶が奥さんと子供を置いてとんずらっすか。いい度胸してんなぁ」
騒動が起きた道には戻らず、裏路地を抜けて建物を挟んだ反対側に出る。そこに止めてあったスティーブンの車に乗り込むと、タイミングよくチェインから連絡が入った。彼女は逃げたイレネオを追っているのだ。
逃亡先をおおよそだが見当をつけ、スティーブンが車を出す。
夕闇迫る街は、すでに平穏を取り戻していた。
Day17 8:00 pm
霧烟る街の夜は、街灯の明かりさえ霧に覆われる。ぼんやりと白い霧に照らし出された淡い光は暗闇を歩くのには心許ない。ましてやろくに歩いたことのない裏路地だ。ひとりきりではさぞかし心細いことだろう。
幾度となく背後を振り返りながら歩き続けたイレネオは、疲労に重くなった足を休ませるべく立ち止まった。
どこの世界にでもある、華やかな表舞台とは無縁な汚れた、暗く疲弊しきっているくせに強欲な者たちがのし上がるべくありとあらゆる罪を犯すことで成り立つ場。ここは、イレネオが生きてきた世界だ。
ホテルでの騒動から逃げ、どさくさに紛れて絡んできた人類と何ら変わらない異界人のゴロツキから何度も逃げているうちに、すっかり迷子になってしまった。スマホはあるので部下を呼べるが、そもそもここがどこなのかすら分からない。商売敵に居場所を知られることを恐れてGPSをセットしなかったことが裏目に出た。
なんとか拠点に戻り、速やかにヘルサレムズ・ロットを出なくてはならない。妻を置き去りにすることになるが、それなりに愛していただけに惜しいとは思っても、一度裏切った者を傍に置いておくことは出来ない。自分に銃を向けた時点で、彼女は敵となった。
長く息を吐き、側にある壁にもたれかかる。むき出しのコンクリートは冷たく、火照った身体に心地いい。
「……なにやらお困りですか?」
不意に聞こえた優男の声に、イレネオは弾かれるように壁から離れた。
とっさにジャケットの中に手を入れたのは、このような場所にまともな一般人が来るとは到底思えないからだ。
だが、ゆっくりと暗闇の中から出てきた姿に、息を呑む。
長身の男は、少々猫背だが均整のとれたモデルのような体格を上等なスーツに包み、穏やかで落ち着くのある端正な顔立ち。頬に傷跡は残るものの、年齢を考えれば若い頃の失敗だと懐かしめるアクセサリーにも思える。
なによりその柔和な笑みは朗らかで敵意がないどころか人懐こさを演じるには申し分ない。だが、今この場においては警戒心しか生み出さないものだ。
あまりにも、違和感がありすぎる。
「こんなところを1人で歩かれていては、危ないですよ」
言葉に詰まる。
いや、適当にごまかしてしまえば良かったのだろうが、この男の普通さがかえって異常なまでの違和感となって、イレネオに圧をかけてくるのだ。喉が渇き、舌が麻痺する。
疲れから鈍った頭のせいで気づくのに遅れた。この男は敵に回してはいけない、と。
「あ、ああ、少し道に迷ってね。なに、すぐに表通りに戻るさ」
「ほう、僕はてっきり、何かから逃げているのかと思いましたが。たとえば……自分が捨てた妻と娘から」
顎に手を添え、ニヤリ、という言葉が似合いそうなほど唇を弧にした男に全身の毛が立つ。逃げ出さなくてはいけないのに、背中を向けた瞬間に命を奪われる。そう思わされる笑みだ。
「な、なにを言っている」
全身から血の気が引き、震える手でジャケットの中から銃を取り出す。照準が合わなくても、武器を持たない相手に対しての威嚇には十分だ。
そう、少なくとも外の世界では。
「まあまあ、そう怯えないでください。僕としては事を荒立てたくないんですよ」
「何が目的だ、ど、どこの組織だ」
「まず、どこの組織かは答えることは出来ない。目的は、そうだな……わざわざヘルサレムズ・ロットまで来て死んだ娘を蘇らせようとしたくせに、失敗作だと分かった途端、対立組織を潰す手段に使おうとした父親の顔を見に、かな」
男が一歩前に出て、イレネオが後ろに下がる。
「赤ん坊を覆っていた義体は、彼女が成長するまでの保護容器の役割をしていたそうだな。だが不完全ゆえ、色々と問題も多かった。そのひとつが、感情の爆発による暴走。これは赤ん坊が外部か極度の刺激を受けることで義体とのバランスを崩すというものだ。外部からの刺激を断つために、赤ん坊はほぼ睡眠状態に近い形で納められていたのだろう?」
「なぜそこまで知っている!?」
「親切に教えてくれた人がいてね」
多額の資金援助をして、秘密裏に作らせたクローンのことを誰が話したのか。関係者たちの顔が頭に浮かんでは消え、同時に自分の身が本当に危ないのだと悟る。
「金か、金が目的か。それともサルバーシオ社の情報が目的か」
「ライバルを葬るためにクローンとはいえ娘を利用しようとした屑を許せないってだけだよ。大方、現場に娘を連れていって、痛みなどの強い刺激を与え暴走させるつもりだったんだろう? まったく、ただ娘が可愛い父親を演じていればよかったのにな」
完全に人を見下しあざけ笑う男の言うことは、図星だった。
可愛かった娘とは違うクローンを、イレネオは愛することが出来なかった。義体の中で成長すればと何度も研究者たちに言われたが、イレネオが会いたかったのは亡くなった時まで成長した娘。そうでなければ必要ないと、処分方法と利用法を考えていた時に耳に届いたライバル組織のヘルサレムズ・ロット入り。
ソフィアの裏切りは予想外だったが、あれは娘ではない。そう、娘でなくては価値はないのだ。
「貴様に何が分かる!」
「分からんよ。失った命を蘇らせようとしたことも、失敗だからとその命を利用しようとしたことも」
「言うな……っ!」
哀れだ、とでも言いたげな男に激昂したイレネオは、引き金に指をかけた。
だが、その引き金を引くことなく、銃はイレネオの手から離れて地面に落ちる。そしてイレネオは右肩を押さえその場に膝をついた。
突然右肩に強い痛みを感じたのだ。おそらく撃たれたのだろう、強い衝撃で腕が上がらない。出血はないことからゴム弾のようなものか。痛みに脂汗が流れ俯いて歯を食いしばるイレネオの視界に、上等な革靴が入り込んだ。
「その程度で済んでよかったな、イレネオ・マルキ」
「き、貴様……」
虚勢を張って顔を上げれば、冷ややかな眼差しに射貫かれる。
「僕には青い瞳の女神がついているんでね。僕に銃口を向けてその程度で済んだんだ、彼女に感謝するといい」
青い瞳の女神。狙撃手だと悟るが、イレネオの見える範囲にそんな人物はいなかった。男が盾になっていたにもかかわらず、正確に肩を撃った手腕。はたしてどんな人物なのか、この状況下でも興味を抱いてしまう。
「そんな女神がいるなら、ぜひ会ってみたいものだ」
「お前にはもったいないな」
満面の笑みでは隠しきれない怒りが滲んだ声が、イレネオが最後に聞いた男の台詞だった。顎を強く蹴りあげられたことで脳震盪を起こし、そのまま気を失ってしまったのだ。
気が付いた時は留置所。イレネオ・マルキは捕らえられていた。
「……なんなんすか、青い瞳の女神って」
『もちろん、君のこと』
イレネオが気を失ったのを確認した直後、遠く離れた場所でライフルを構えていたレオナルドはインカム越しに文句を言った。
そして返ってきたのが、語尾にハートでもついていそうなほど明るい声。先程までのシリアスさが嘘のようだが、スティーブンにとっては逃亡するチンピラを捕まえることなど朝飯前、日常の些細な出来事なのだ。
「K・Kさんに怒られません?」
ライフルを手にしてゆっくりと歩いていくと、腰に手を当てたスティーブンの背中が見える。
やはりこの広い背中が好きだ。
「彼女には言えないけど、君が女だと広めておけば、何かと都合がいいだろう? 秘密結社ライブラ副官スティーブン・A・スターフェイズには女がいる。不殺のブルーアイと呼ばれる、青い瞳が美しいとびきりの狙撃手が。なんてね」
「その心は?」
「世界中の誰よりも愛する恋人が、勇敢で優しく非の打ち所がない、誰よりも可愛らしさと格好良さを併せ持つ男だと知れ渡ってみろ、老若男女問わず君に興味を持ち、そしてありとあらゆる好意を寄せるだろう。そんなことになったら、僕が嫉妬で狂い世界を滅ぼしかねない」
振り返ったスティーブンは本気か冗談か分からないことを平気で口にする。
対するレオナルドは呆れてなにも言えず、黙ってスマホを取り出した。
「ロウ警部に連絡しときます」
兄弟揃って面倒かつ厄介な事件に多々遭遇したお陰で昇進――という名の責任の押し付け――して、ダニエル・ロウは警部になった。
レオナルドとも仕事で顔を合わせるようになり、そのうちスティーブンとの中が露呈すると、今度は男の趣味の悪さと苦労の愚痴を話し合うほど仲が良くなっている。それに関してはスティーブンがあまりいい顔をしないが、仕事で良好な関係を築けることは悪いことではない。
なにはともあれ、これで事件は解決だ。
恋人が好きで堪らないアピールをしたスティーブンは、無視をされて拗ねていた。
Day17 10:00 pm
夜のヘルサレムズ・ロットを見下ろす、秘密結社ライブラ事務所執務室。
クラウスたちはすでに帰宅し、今この場にいるのはレオナルドとスティーブンだけ。今回のクローン騒動の後始末をすべく、事務処理を進めていたのだ。
とはいえ、今回の件でライブラ側が破壊したものはないし、ホテル側は保険で賄うだろう。イレネオが狙っていた組織に関しては、現在のところヘルサレムズ・ロット内で何かを企てている動きもないので、監視に留めている。
ただ、サルバーシオ社に関しては倫理を逸脱した研究が明るみに出た以上、放っておくことは出来ない。イレネオ以外にもクローン提供を持ちかけている可能性のあり、その辺りの調査を早急に行わなくてはならないだろう。
「明日から、また忙しくなりそうだ」
書類を整えたところでスティーブンに呼ばれ、レオナルドはデスクを離れる。
もう誰も来ないと分かっているから、デスクから椅子を離し両腕を広げた彼へ素直に上半身を傾けて肩に手を添えれば、スティーブンはレオナルドの腰を支えた。鼻が触れ合いそうなほど顔を近づけ、くすりと笑いあって唇を重ねようとした時、タイミング悪くスマホが着信を告げる。
苦笑しあって軽くキスをしてから離れ、スティーブンが電話に出る。相手はチェインだった。
『今、ブラッドベリ総合病院にいます。検査の結果、赤ちゃんは正常。詳しい検査はこれからですが、異界技術の影響はなく、ごく普通の人類だそうです』
「つまり、ヘルサレムズ・ロットの外に出ても問題はないということか」
それを聞いてレオナルドは胸を撫で下ろす。
ソフィアと赤ん坊は警察の管轄下におかれるが、罪のすべてをイレネオに押し付け諸々の手続きをライブラが行って後押しをすれば、2人は平穏に暮らすことも可能だろう。
「なにはともあれ、僕らが出来ることはやった。しばらくは穏やかに行きたいものだね」
通話を終えたスティーブンが腕を上げて軽く身体を伸ばすと、再びレオナルドに来るよう手招きをする。
素直にそれに応えようと再び顔を近づけ――またスマホが着信を告げた。
苦虫を嚙み潰した顔をしつつ、スティーブンが出る。
「スティーブン。はぁ……こんな時間に動き出すとは、密売組織もご苦労なことだ」
どうやら今夜は穏やかに終われないらしい。
盛大な溜め息を吐いてスティーブンは立ち上がると、速やかに動き出す。
「レオ、ザップとツェッドに連絡を。あっちが尻尾を出している間に仕留めるぞ」
気持ちを切り替えて歩き出したスティーブンの背中を、レオナルドは追いかけていく。
やはりこの人の背中が、大好きだ。
To be continued.
全ては一瞬で終わった。
レオナルドが放った弾丸は義体を貫きへその緒を切断。すかさずスティーブンが義体の下半身部分を凍らせて固定し、ザップとツェッドが切り裂いて赤子を摘出することに成功する。
透明な体液で濡れていた赤子だが、外の空気を吸った途端に生まれたことを歓喜するかのような産声を上げた。
クラウスとチェインに守られていたソフィアが、少し戸惑いながらも丁寧に赤子を腕に抱いたツェッドに駆け寄る。そして彼から受け取った娘をしっかりと抱きしめた。
彼女が愛おしそうに涙を流しながら赤子に微笑む姿は、まさしく聖母のようだったと後にクラウスは語る。
だが、これで全てが終わったわけではない。
タイミングよくやってきたHLPDに事情を説明する間もなくソフィアと赤子を保護させ、ライブラは散り散りになる。
レオナルドもいつまでも屋上に留まってはいられないので、素早くライフルを片づけると、薬莢を探してくれたソニックと共に外階段を降りていった。
「見事だった」
「お褒めの言葉、どうも。それで、状況は」
裏路地で待っていたスティーブンと合流した途端の褒め言葉。けれどもついそっけなく返してしまうのは、素直になりきれない照れ隠しだ。
「ソフィア・マルキと赤ん坊はHLPDが保護。だが、イレネオ・マルキが逃亡した」
「元凶が奥さんと子供を置いてとんずらっすか。いい度胸してんなぁ」
騒動が起きた道には戻らず、裏路地を抜けて建物を挟んだ反対側に出る。そこに止めてあったスティーブンの車に乗り込むと、タイミングよくチェインから連絡が入った。彼女は逃げたイレネオを追っているのだ。
逃亡先をおおよそだが見当をつけ、スティーブンが車を出す。
夕闇迫る街は、すでに平穏を取り戻していた。
Day17 8:00 pm
霧烟る街の夜は、街灯の明かりさえ霧に覆われる。ぼんやりと白い霧に照らし出された淡い光は暗闇を歩くのには心許ない。ましてやろくに歩いたことのない裏路地だ。ひとりきりではさぞかし心細いことだろう。
幾度となく背後を振り返りながら歩き続けたイレネオは、疲労に重くなった足を休ませるべく立ち止まった。
どこの世界にでもある、華やかな表舞台とは無縁な汚れた、暗く疲弊しきっているくせに強欲な者たちがのし上がるべくありとあらゆる罪を犯すことで成り立つ場。ここは、イレネオが生きてきた世界だ。
ホテルでの騒動から逃げ、どさくさに紛れて絡んできた人類と何ら変わらない異界人のゴロツキから何度も逃げているうちに、すっかり迷子になってしまった。スマホはあるので部下を呼べるが、そもそもここがどこなのかすら分からない。商売敵に居場所を知られることを恐れてGPSをセットしなかったことが裏目に出た。
なんとか拠点に戻り、速やかにヘルサレムズ・ロットを出なくてはならない。妻を置き去りにすることになるが、それなりに愛していただけに惜しいとは思っても、一度裏切った者を傍に置いておくことは出来ない。自分に銃を向けた時点で、彼女は敵となった。
長く息を吐き、側にある壁にもたれかかる。むき出しのコンクリートは冷たく、火照った身体に心地いい。
「……なにやらお困りですか?」
不意に聞こえた優男の声に、イレネオは弾かれるように壁から離れた。
とっさにジャケットの中に手を入れたのは、このような場所にまともな一般人が来るとは到底思えないからだ。
だが、ゆっくりと暗闇の中から出てきた姿に、息を呑む。
長身の男は、少々猫背だが均整のとれたモデルのような体格を上等なスーツに包み、穏やかで落ち着くのある端正な顔立ち。頬に傷跡は残るものの、年齢を考えれば若い頃の失敗だと懐かしめるアクセサリーにも思える。
なによりその柔和な笑みは朗らかで敵意がないどころか人懐こさを演じるには申し分ない。だが、今この場においては警戒心しか生み出さないものだ。
あまりにも、違和感がありすぎる。
「こんなところを1人で歩かれていては、危ないですよ」
言葉に詰まる。
いや、適当にごまかしてしまえば良かったのだろうが、この男の普通さがかえって異常なまでの違和感となって、イレネオに圧をかけてくるのだ。喉が渇き、舌が麻痺する。
疲れから鈍った頭のせいで気づくのに遅れた。この男は敵に回してはいけない、と。
「あ、ああ、少し道に迷ってね。なに、すぐに表通りに戻るさ」
「ほう、僕はてっきり、何かから逃げているのかと思いましたが。たとえば……自分が捨てた妻と娘から」
顎に手を添え、ニヤリ、という言葉が似合いそうなほど唇を弧にした男に全身の毛が立つ。逃げ出さなくてはいけないのに、背中を向けた瞬間に命を奪われる。そう思わされる笑みだ。
「な、なにを言っている」
全身から血の気が引き、震える手でジャケットの中から銃を取り出す。照準が合わなくても、武器を持たない相手に対しての威嚇には十分だ。
そう、少なくとも外の世界では。
「まあまあ、そう怯えないでください。僕としては事を荒立てたくないんですよ」
「何が目的だ、ど、どこの組織だ」
「まず、どこの組織かは答えることは出来ない。目的は、そうだな……わざわざヘルサレムズ・ロットまで来て死んだ娘を蘇らせようとしたくせに、失敗作だと分かった途端、対立組織を潰す手段に使おうとした父親の顔を見に、かな」
男が一歩前に出て、イレネオが後ろに下がる。
「赤ん坊を覆っていた義体は、彼女が成長するまでの保護容器の役割をしていたそうだな。だが不完全ゆえ、色々と問題も多かった。そのひとつが、感情の爆発による暴走。これは赤ん坊が外部か極度の刺激を受けることで義体とのバランスを崩すというものだ。外部からの刺激を断つために、赤ん坊はほぼ睡眠状態に近い形で納められていたのだろう?」
「なぜそこまで知っている!?」
「親切に教えてくれた人がいてね」
多額の資金援助をして、秘密裏に作らせたクローンのことを誰が話したのか。関係者たちの顔が頭に浮かんでは消え、同時に自分の身が本当に危ないのだと悟る。
「金か、金が目的か。それともサルバーシオ社の情報が目的か」
「ライバルを葬るためにクローンとはいえ娘を利用しようとした屑を許せないってだけだよ。大方、現場に娘を連れていって、痛みなどの強い刺激を与え暴走させるつもりだったんだろう? まったく、ただ娘が可愛い父親を演じていればよかったのにな」
完全に人を見下しあざけ笑う男の言うことは、図星だった。
可愛かった娘とは違うクローンを、イレネオは愛することが出来なかった。義体の中で成長すればと何度も研究者たちに言われたが、イレネオが会いたかったのは亡くなった時まで成長した娘。そうでなければ必要ないと、処分方法と利用法を考えていた時に耳に届いたライバル組織のヘルサレムズ・ロット入り。
ソフィアの裏切りは予想外だったが、あれは娘ではない。そう、娘でなくては価値はないのだ。
「貴様に何が分かる!」
「分からんよ。失った命を蘇らせようとしたことも、失敗だからとその命を利用しようとしたことも」
「言うな……っ!」
哀れだ、とでも言いたげな男に激昂したイレネオは、引き金に指をかけた。
だが、その引き金を引くことなく、銃はイレネオの手から離れて地面に落ちる。そしてイレネオは右肩を押さえその場に膝をついた。
突然右肩に強い痛みを感じたのだ。おそらく撃たれたのだろう、強い衝撃で腕が上がらない。出血はないことからゴム弾のようなものか。痛みに脂汗が流れ俯いて歯を食いしばるイレネオの視界に、上等な革靴が入り込んだ。
「その程度で済んでよかったな、イレネオ・マルキ」
「き、貴様……」
虚勢を張って顔を上げれば、冷ややかな眼差しに射貫かれる。
「僕には青い瞳の女神がついているんでね。僕に銃口を向けてその程度で済んだんだ、彼女に感謝するといい」
青い瞳の女神。狙撃手だと悟るが、イレネオの見える範囲にそんな人物はいなかった。男が盾になっていたにもかかわらず、正確に肩を撃った手腕。はたしてどんな人物なのか、この状況下でも興味を抱いてしまう。
「そんな女神がいるなら、ぜひ会ってみたいものだ」
「お前にはもったいないな」
満面の笑みでは隠しきれない怒りが滲んだ声が、イレネオが最後に聞いた男の台詞だった。顎を強く蹴りあげられたことで脳震盪を起こし、そのまま気を失ってしまったのだ。
気が付いた時は留置所。イレネオ・マルキは捕らえられていた。
「……なんなんすか、青い瞳の女神って」
『もちろん、君のこと』
イレネオが気を失ったのを確認した直後、遠く離れた場所でライフルを構えていたレオナルドはインカム越しに文句を言った。
そして返ってきたのが、語尾にハートでもついていそうなほど明るい声。先程までのシリアスさが嘘のようだが、スティーブンにとっては逃亡するチンピラを捕まえることなど朝飯前、日常の些細な出来事なのだ。
「K・Kさんに怒られません?」
ライフルを手にしてゆっくりと歩いていくと、腰に手を当てたスティーブンの背中が見える。
やはりこの広い背中が好きだ。
「彼女には言えないけど、君が女だと広めておけば、何かと都合がいいだろう? 秘密結社ライブラ副官スティーブン・A・スターフェイズには女がいる。不殺のブルーアイと呼ばれる、青い瞳が美しいとびきりの狙撃手が。なんてね」
「その心は?」
「世界中の誰よりも愛する恋人が、勇敢で優しく非の打ち所がない、誰よりも可愛らしさと格好良さを併せ持つ男だと知れ渡ってみろ、老若男女問わず君に興味を持ち、そしてありとあらゆる好意を寄せるだろう。そんなことになったら、僕が嫉妬で狂い世界を滅ぼしかねない」
振り返ったスティーブンは本気か冗談か分からないことを平気で口にする。
対するレオナルドは呆れてなにも言えず、黙ってスマホを取り出した。
「ロウ警部に連絡しときます」
兄弟揃って面倒かつ厄介な事件に多々遭遇したお陰で昇進――という名の責任の押し付け――して、ダニエル・ロウは警部になった。
レオナルドとも仕事で顔を合わせるようになり、そのうちスティーブンとの中が露呈すると、今度は男の趣味の悪さと苦労の愚痴を話し合うほど仲が良くなっている。それに関してはスティーブンがあまりいい顔をしないが、仕事で良好な関係を築けることは悪いことではない。
なにはともあれ、これで事件は解決だ。
恋人が好きで堪らないアピールをしたスティーブンは、無視をされて拗ねていた。
Day17 10:00 pm
夜のヘルサレムズ・ロットを見下ろす、秘密結社ライブラ事務所執務室。
クラウスたちはすでに帰宅し、今この場にいるのはレオナルドとスティーブンだけ。今回のクローン騒動の後始末をすべく、事務処理を進めていたのだ。
とはいえ、今回の件でライブラ側が破壊したものはないし、ホテル側は保険で賄うだろう。イレネオが狙っていた組織に関しては、現在のところヘルサレムズ・ロット内で何かを企てている動きもないので、監視に留めている。
ただ、サルバーシオ社に関しては倫理を逸脱した研究が明るみに出た以上、放っておくことは出来ない。イレネオ以外にもクローン提供を持ちかけている可能性のあり、その辺りの調査を早急に行わなくてはならないだろう。
「明日から、また忙しくなりそうだ」
書類を整えたところでスティーブンに呼ばれ、レオナルドはデスクを離れる。
もう誰も来ないと分かっているから、デスクから椅子を離し両腕を広げた彼へ素直に上半身を傾けて肩に手を添えれば、スティーブンはレオナルドの腰を支えた。鼻が触れ合いそうなほど顔を近づけ、くすりと笑いあって唇を重ねようとした時、タイミング悪くスマホが着信を告げる。
苦笑しあって軽くキスをしてから離れ、スティーブンが電話に出る。相手はチェインだった。
『今、ブラッドベリ総合病院にいます。検査の結果、赤ちゃんは正常。詳しい検査はこれからですが、異界技術の影響はなく、ごく普通の人類だそうです』
「つまり、ヘルサレムズ・ロットの外に出ても問題はないということか」
それを聞いてレオナルドは胸を撫で下ろす。
ソフィアと赤ん坊は警察の管轄下におかれるが、罪のすべてをイレネオに押し付け諸々の手続きをライブラが行って後押しをすれば、2人は平穏に暮らすことも可能だろう。
「なにはともあれ、僕らが出来ることはやった。しばらくは穏やかに行きたいものだね」
通話を終えたスティーブンが腕を上げて軽く身体を伸ばすと、再びレオナルドに来るよう手招きをする。
素直にそれに応えようと再び顔を近づけ――またスマホが着信を告げた。
苦虫を嚙み潰した顔をしつつ、スティーブンが出る。
「スティーブン。はぁ……こんな時間に動き出すとは、密売組織もご苦労なことだ」
どうやら今夜は穏やかに終われないらしい。
盛大な溜め息を吐いてスティーブンは立ち上がると、速やかに動き出す。
「レオ、ザップとツェッドに連絡を。あっちが尻尾を出している間に仕留めるぞ」
気持ちを切り替えて歩き出したスティーブンの背中を、レオナルドは追いかけていく。
やはりこの人の背中が、大好きだ。
To be continued.