7年後の24時
Day17 5:40 pm
「只今戻りましたー」
ガンケースを背負い、ソニックを肩に載せたレオナルドが、執務室の扉を開く。
師匠であるK・Kの代わりに実働部隊の援護に行っていたのだが、結果は上々。異界からの違法武器取引の現場をしっかりと押さえることが出来た。その報告のために戻ってきたわけだ。
「お疲れ様です、レオナルドさん」
「ギルベルトさん、お疲れ様です」
真っ先に声をかけてきたのは、包帯グルグル巻きの執事、ギルベルト。昔と変わらずクラウスに執事として仕えている彼は、レオナルドにとって見本となる大人のひとりだ。
「お疲れレオ。作戦成功の報告は聞いている。報告書は後日で構わない、ゆっくりと休み給え」
「ありがとうございます、クラウスさん」
自分のデスクで巨体を丸くしながらそう言ったのは、クラウス。年齢を重ね三十路となっても昔とまったく変わらない彼は、厳つい顔に似合わない優しい眼差しでレオナルドを労う。
そして彼の隣に立っていたK・Kが、赤いコートを翻してレオナルドを抱きしめた。
「お疲れ様、レオっち! 今日は結構面倒だったんじゃない? みつからなかった? 怪我はしなかった?」
40代になっても若々しく、それどころか熟女の美しさに磨きがかかった人類最強の主婦。昔はレオナルドにとってヘルサレムズ・ロットで頼れるもうひとりの母親のような存在だったが、今や彼女は狙撃の師匠だ。弟子になった後も変わらず可愛がってくれており、仕事優先にするしかなかった彼女が家族にかける時間を増やせたことを、幾度となく感謝してもらっていることが誇らしい。
「僕は照明や武器を撃ち落としたり、相手の気を逸らせるくらいでしたから、大丈夫です」
「精度の高い技術が求められる仕事ばかりね。相手を殺せたらもっと楽なのに」
頭を撫でながら言うことではないが、K・Kの言うことはもっともだ。
レオナルドが狙撃手になるにあたって、クラウスとスティーブンから相手を殺さないことを厳命されている。いざとなればそうする覚悟はあったが、2人は絶対に首を縦に振らなかった。これはレオナルドの性格を考慮してのことだ。ありがたいことだが、7年間をここで過ごしたというのに水臭いと思う。
それでも2人の優しさは、嬉しかった。
「僕にはちょうどいいんですよ」
ただし、不殺を貫くならば、それ相応の技術を身につけなくてはならない。
高い技術力は一朝一夕で身につくものではない。K・Kが師となり徹底的に鍛え上げたわけだが、神々の義眼という高性能なスコープすら歯が立たない眼を自在に操ることによって腕を上げていった。1年後には実戦に投入出来るほどになり、成績は優秀、裏社会では“不殺のブルーアイ”の異名で存在を知られつつある。
「そうよねぇ。うんうん、レオっちはそのままでいてね」
なにやら別のことまで混じっていそうなほどしみじみと頷きつつ、K・Kはレオナルドの頭を撫でる。
息子が反抗期に突入したと聞いているから、家庭内で何かがあったのかもしれないが、そこは触れないことにした。
と、ここまではレオナルドが事前に知っていた執務室にいる人たちだ。しかし本来この時間にいるべき人物が、もうひとり足りない。
「スティーブンさんは不在なんですね」
K・Kから離れ自分のデスクにガンケースを置きながら、主のいないデスクに目を向ける。
「急な用事が出来たとのことでして、30分ほど前に出かけられました」
速やかに、けれどレオナルドの言葉に被せることなく程よい間を置いてからギルベルトが答えた。スティーブンに限らず、ライブラメンバーが不意に出かけるのはよくあることだ。その都度スケジュールは変更を余儀なくされてしまうが、滞りなく進められるかどうかは、執事や助手の腕次第。
まだまだギルベルトのように上手くいかないが、レオナルドは今後のスティーブンのスケジュールを脳内に整列させ、組み直しをしていく。
「……スティーブン、なにか分かったのかね」
不意にそんな声が聞こえて振り返れば、クラウスがスマホで通話をしていた。
相手はスティーブン。K・K、ギルベルトと共に自然とクラウスのデスクに近づくと、聞かせて良い内容と判断したのだろう。クラウスはスマホをデスクに置き、スピーカーに切り換えた。
『ようやくクローン製造のネタが割れたよ。と言ってもまだ不確定要素が多いがな』
「なにもったいぶった言い方してるのよ」
『K・Kもそこにいたか。ならちょうどいい、急で悪いが僕が戻り次第、ミーティングを行う。レオ、ザップたちに連絡してくれ』
速やかにスマホを取り出し、ザップとツェッド、そしてチェインにメッセージを送る。ツェッドとチェインからはすぐに返事が来たが、ザップからは返事がない。とはいえいつものことなので、病院に搬送されるか地獄に落ちていなければ来るだろうと放置しておく。
「……と、すみません」
しまおうとしたスマホに着信の通知が入る。
見ればソフィアから。上司たちに断りを入れ、少し離れたところで電話に出た。
「はい、レオナルド」
「レオ、お願い、助けて」
固く小さな、周囲に聞こえることを警戒している声。レオナルドは察してクラウスたちに顔を向ければ、彼らは気づいてくれたのだろう。神妙な面持ちで沈黙を守った。
「どうしたんです、ソフィアさん」
「やっぱりあの子をイレネオに任せられない。話を聞いたの、もう限界だ、処分を検討するって」
「……娘さんを、処分する……? どういうことですか」
クローンとはいえ、自分の血を引く我が子を処分するというのはどういうことか。
「分かんない。でも時間がないのは確かみたい。だから、一緒に逃げることにした。お願い、お金は払うから、どこかに匿って!」
「大丈夫です、もう準備は進んでます。ソフィアさんは自分の身の安全を最優先にしてください。娘さんを連れて逃げ出せるんです?」
「夕食の時間は私に預ける、その時がチャンスだと思う。念のために色々仕込んでおいて、こっちも準備は済んでる」
夫を信じたいという気持ちを匂わせた発言をしながら、同時にいつでも逃げられるように準備も進めていたとは。彼女がただのか弱い女性ではないと気づかされると同時に、やはり妹と似ているとレオナルドは確信した。
「分かりました。僕たちが絶対に守ります。だからソフィアさん、無茶はしないでください」
待ち合わせ場所と時間を決め、通話を終える。
再びクラウスたちを見れば、力強く頷いてくれた。
『どうやらミーティングの時間はなさそうだな』
改めてレオナルドがした説明を聞いたスティーブンは、全員を招集することとチェインをソフィアの警護に回すことを指示する。全員を現場にというのは少々大げさな気がしたが、まだ聞いていない情報と合わせての判断だろう。
つまり、ソフィアの身に危険が迫っているということだ。
「我々に残された時間は少ないようだ。行こう」
クラウスの一声で、秘密結社ライブラは動き出した。
母子を救うために。
Day17 6:00 pm
『どうやら異界技術が不完全だったらしくてね、時間が経つと共に不安定になってきているらしい』
「不安定って、どういうことです?」
ビルの屋上に座り、愛用のライフルをガンケースから取り出しながら、レオナルドはスマホの向こうにいるスティーブンに尋ねた。
待ち合わせ場所ではなく離れたビルの上で待機するよう指示されたレオナルドだが、スコープがなくても見える大通りにはソフィアとの待ち合わせ場所がよく見える。
そして、万が一に彼女に不逞の輩が近づいた場合も。
とはいえなぜレオナルドが待ち合わせ場所にいなくていいのか、そこのところをスティーブンは話さなかった。代わりに彼が待ち合わせ場所に行くというので、未だに色々と警戒しているのだろう。
『サルバーシオ社の医療スタッフに話を聞いたんだが……クローン技術自体は完成しているが、短時間で人類を成長させることなんて、夢物語だったそうだ』
医療スタッフが素直に違法行為を見ず知らずのスティーブンに話すわけがないだろうが、そんなことよりも今は目の前の問題だ。どんな方法を使ったのかは聞かないで、話を進める。
「亡くなった後にクローンを作ったとしても年齢が合わないのって、もしかして」
『そう、異界の技術を強引に用いた結果ってこと。お陰で身体のバランスがおかしいらしい。感情が乏しく偏食というよりろくに食わないのもそのためだ。そしてそのバランスが完全に崩壊した時、何が起こるか分からない、だとさ』
「人の命を何だと思ってるんだ」
スティーブンに言ったわけではなく、完全な独り言だ。しかしそれを聞いたスティーブンの沈黙の意味を、レオナルドは否定しない。ヘルサレムズ・ロットにおいて人の命など塵よりも儚い。それでも抗う術すら持つことを許されなかった小さな命だ。全てを守る大きな力はないが、必死に運命に抗おうと手を伸ばした者の手助けにはなりたい。いや、なるのだ。
『そのために、君がいる』
背中を押す声に、迷いも躊躇いもない。
ただ信じているのだと分かる男の言葉は、どんな言葉より――クラウスとミシェーラの言葉以外――心強い。
『なんだって!?』
作戦のためにスマホからインカムに切り換えた途端、耳元でスティーブンの大きな声が聞こえた。
『作戦を変更する必要がありそうだ。イレネオ・マルキは予定を変更し、娘を妻に預けることなく共に街へ出た。ザップとツェッドは移動。万が一の場合、ソフィア・マルキを所定の場所まで誘導しろ』
すでに動き出してしまった歯車が、狂いだした。
Day17 6:20 pm
一度は取り出したライフルをガンケースに収め、肩に掛けたレオナルドは軽やかな跳躍でビルからビルへと駆け抜けていく。
イレネオが向かっているのは高級ホテル。情報を照らし合わせたところ、今日はそこで極秘裏にヘルサレムズ・ロット入りしたマフィアたちの会合があるらしい。しかも片方はイレネオ率いるマルキファミリーのライバルとなれば、何をしでかすか分からない。
そこへ娘を奪い損ねたソフィアも向かっていると、護衛をしているチェインから連絡が入る。
『タクシーで向かってる。移動手段がないのに無茶しかねないから、注意して』
『ホテル内ではこちらも手出しをしにくいですね』
『はぁ? んなもん、マフィア同士の抗争と見せかけて、どさくさ紛れにとんずらすりゃいいだろ』
「ザップさんらしいっすけど、無茶はしないでくださいよ」
インカムの向こうの仲間たちと軽口をたたきつつ、レオナルドは屋上の縁に足をかけて勢いよく飛ぶ。重力から一瞬でも解放された心地よさを全身に感じる暇もなく隣の屋上に移れば、すぐ傍にある外階段を駆け下りていく。鉄製の階段の足音は響くが、幸い裏路地に面したこの階段から見える人影はない。途中の梯子から地面に降り立ち、速やかに駆け出す。
『イレネオ・マルキが到着しました。正面玄関。ソフィア・マルキの姿はまだ見えません』
先に到着したツェッドから連絡が入る。
『こっちも到着。マズい!』
ザップに対する憐れみと怒り以外は感情をあまり前に出すことのないチェインの咄嗟の声に、レオナルドだけでなくインカムの向こうにいる仲間たちに緊張が走る。
速やかに全員がホテルと向かい――息を呑んだ。
高級車を背に、娘を片腕で抱っこしたイレネオに銃を向けるのは、ソフィア。
イレネオの周りには彼を守ろうと部下たちがいるが、相手が上司の妻とあって躊躇しているのだろう。距離を縮めることが出来ず、また何も言うことが出来ずに立ち尽くしている。そしてそれはホテル側も同じだ。
おそらく誰かが通報はしているだろうが、それ以上手出しすることはできず、遠巻きに3人を見ている。そしてそれは、ライブラ側も同じだ。
ソフィアひとりならば強引に助けることが出来るが、イレネオの腕には娘がいる。迂闊にツッコむことが出来ない中、野次馬だけは何事かと集まってきた。
ならばと、レオナルドは野次馬をすり抜けて静かにその場を離れ、近くのビルに目星を付ける。
今の自分は昔のようにただ状況を見守っているだけの存在ではない。最善の結果をもたらすために自分で考え、動くことが出来るのだ。
『レオっち、位置は取れた?』
「後1分で」
『OK。速やかに準備なさい』
「了解」
師匠たるK・Kに返事をする間も、レオナルドはビルの外階段を駆け上がっていく。
ホテルの斜め向かい、3階建ての屋上はさほど高い場所ではないが、角度距離共に申し分はない。すぐさまライフルを取り出し、構えた。
角度を考えて立て膝。肘を膝の上に載せて安定させ、スコープを覗く。幸い野次馬たちがこちらを意識することはない。
それにしても、とレオナルドはかすかに苦笑する。K・Kがどこにいるのか、まったく分からない。彼女のことだからレオナルドよりも最適な場所を取っているには違いないが、そこがどこなのかがまったく見当がつかないのだ。
未熟な自分を痛感しつつ、それでも今は目の前の任務をこなすべく、集中する。
インカムにはもっとも近くにいるチェインが拾った音が聞こえた。
「その子を渡しなさい、イレネオ」
「どうしてだ、ソフィア。この子は俺たちの娘だぜ?」
動きやすいパンツスタイルのソフィアが険しい表情をしているのとは裏腹に、イレネオは余裕に満ちた表情だ。部下たちを軽く片手を上げて制し、ホテル従業員たちにもこれがただの夫婦喧嘩であるかのように見せている。
ヘルサレムズ・ロットで拳銃を使った犯罪など腐るほどあるし、重火器や呪術の類を持ち出されないだけまだ平和だ。
それが分かっているから、周囲はまだ落ち着いている。ただ1人を除いて。
「なに言ってんの!? アンタがその子を使って何か企んでるって知ってるんだから!」
「へぇ、どんなことを企んでるんだ?」
ソフィアは言葉に詰まる。
夫が何かを企んでいるに違いないとしても、彼女はそれ情報を持っていないのは明白だ。これでは、彼女が被害妄想で夫に銃を向けていると思われても弁解出来ない。
「……その子の秘密、ばらすから」
切り札であり、出す場所を間違えれば致命傷となりかねない、唯一ソフィアがイレネオと共有している情報。
これを悪手と察したザップたちがさりげなく身構える中、緊迫した空気がマルキ夫婦の間に流れ――銃声が、響く。
倒れたのは、ソフィアだった。
横向きに倒れ右肩を押さえているが、服に滲む血の量はさほど多くなく、致命傷ではないとうかがえる。しかし妻に向けて発砲したイレネオは、迷うことなく銃口を再びソフィアに向けた。
咄嗟にジャケットに隠した銃を取り出し、早撃ちをしたイレネオに間に合わなかったことを屋上のレオナルドは舌打ちする。
しかしあの迷いのなさでは、K・Kでさえ間に合わなかっただろう。そう、イレネオという男は、愛しているはずの妻を撃つことになんの迷いもなかったのだ。
そして間近くで銃声が聞こえたにもかかわらず、イレネオの腕にいる娘は相変わらず無表情でぼんやりと宙を見つめ、そしておもむろに下を向いた。
「コイツは失敗作だろうが。なら、処分するにもひとつくらい役立った方がいい」
「なに言ってるの! その子は生きて……っ!?」
肩から血を流しながらふらつく足で立ち上がろうとしたソフィアが目を見開き、息を呑む。わずかに遅れてイレネオも気づいた。
腕の中の娘が、それまで表情に乏しかった子が、顔を歪ませて今にも泣きそうになっているのだ。
「泣くんじゃない……!」
イレネオの怒鳴り声が引き金となったのか、盛大に声を上げて泣きだした。
「不味い、暴走するぞ!」
スティーブンの鋭い一声を合図にしたかのように、イレネオの腕の中にいる娘の身体が以上に膨れ始める。最初は小さなこぶがいくつも出来、次第にそれが泡のように結合しては肥大していく。
すでに人の肌ではなく異界人の灰色の肌に近い色合いとなり、突然の変化に怯えたイレネオが娘だったものを落とした。
「どういうことっすか、スターフェイズさん!?」
「クローンを急成長させた正体がこれだ。胎児を核にして義体に組み込み、あたかも元の年齢まで急成長したかのように見せた。だが生体を利用した異界技術だ、感情の爆発で義体と胎児のバランスが崩れたんだ」
逃げ出したイレネオの背後で、娘はさらに膨れ上がっていく。人の名残はもうなく、例えるならば上下左右に肥大化した灰色のウミウシのようになっている。
それがさらに巨大化してくると、周囲にいた人々が逃げ出す。だが、ソフィアだけはその場にとどまった。撃たれたことで逃げられない、というよりも真っ直ぐに異形を見つめる目は覚悟を決めている。
「あなたをひとりにしない」
たとえクローンであっても、娘と認めている母の想いが込められた声。しかしその声が届くより早く、ザップの血紐がソフィアの身体を絡め捕って彼女を異形から引き離した。次の瞬間、彼女がいた場所もイレネオが載っていた高級車も、そしてホテルの玄関も押しつぶされていく。
ソフィアをツェッドに押し付けたザップは、焔丸を構えて前に立った。
「間一髪ですね」
「屑猿にしてはよくやった」
「当然だ。つーかなんでテメェは上から目線なんだ!?」
呆然とするソフィアを後ろに下げ、ツェッドとチェインも彼女を庇うように前へ出る。すぐさま噛みつくザップだが、そうしている間にも異形ウミウシは膨らんでいった。
「さて、どうする、クラウス」
「出来ることならば、核となっている赤子を救出したい」
「だそうだ、レオ」
パニックになる群衆の波をもろともせず、クラウスとスティーブンも前に出る。
呑気に構えているようにすら見える彼らだが、おそらくこの場にいる誰よりも現状を把握し、何をすべきかを理解しているからに他ならない。
そしてそれは、屋上でライフルを下ろしゴーグルを装着したレオナルドも同じだ。
「……ほぼ中心、います。へその緒みたいなので義体と繋がっているようです」
しかし中にいるのはスティーブンが話していたような胎児ではない。赤子の成長を見たことのないレオナルドにはどれくらいの年齢かは分からないが、少なくともすでに生まれているくらいには成長している。
義体の中で育ったのか、それとも元々のクローンがここまで成長していたのかは分からないが、義体の中で泣きじゃくるその子はとても可愛かった。
『取り出すことは?』
「肉が分厚いっす。感覚を共有してるとしたら、むやみに傷つけられませんね」
野次馬たちの退避や逃げ遅れた人たちの救出を優先しているので、未だライブラは攻撃をしていない。しかしもしも義体を攻撃したことで中の赤子が傷つくようなことがあってはならなくなった。
なぜなら今も、ソフィアが変わり果てた我が子を助けたくて前に出ようとしているのを、クラウスがやんわりと押し留めているのだから。
『へその緒を先に切り落とした瞬間に、動きを封じて取り出すしかないか。やれるか、レオ』
赤子とへその緒の正確な位置を知るのはレオナルドのみ。それゆえのスティーブンの指示だが、彼の声音にはまったく不安がない。やれるか、と聞きておきながら、その裏にはやれるな、という絶対の圧力さえ感じる。
もっとも、スティーブンは昔からこうだ。口には出さないが仲間たちの力に絶大な信頼を寄せているからこそ、多少無茶な作戦でもやらせようとする。
そして、それに応えてきた。
「了解。ただ、僕の手元にはへその緒まで貫通する威力のある弾はありません」
『それならこっちにあるわよ。ふふ、もう取りに来てくれた』
インカムの向こうでK・Kが笑っている。おそらく、状況を察したソニックがK・Kのところへ向かってくれたのだろう。レオナルドでさえすぐにみつけられなかったK・Kの位置を瞬時にみつけて動いてくれるのだから、本当に頼りになる相棒は心強い。
そしてその相棒は、速やかに一発の弾薬をレオナルドの許へ運んできた。
金色に輝く弾薬は、K・K手製の徹甲弾。手のひらに納まるサイズながら、その威力は頑丈さが売り物のHLPDのポリスーツすら貫通する。確かにこれならば、今も肥大する義体を貫通することが出来るだろう。
状況に応じて弾を変えるレオナルドだから、現時点でライフルに弾薬を装填していない。速やかにボルトハンドルを起こしてボルトを後ろに引き、弾薬を装填。ボルトを押して元に戻しハンドルを倒して固定すれば、ライフルの準備は出来た。
引き金に指を添え、息を吐く。そして、右目だけ瞼を開いた。
ヴン、という音ともに発動した神々の義眼がスコープとリンクし、視界が変化する。スコープの前に、神々の義眼に施された青い紋様が現れたのだ。
「準備が出来ました。いつでもいけます」
『了解。そろそろHLPDが来るだろう、速やかに終わらせよう』
ディナーに間に合わせようと言わんばかりの、いつもと変わらない口調で悠然とスティーブンが前に出る。
その姿を上から眺めていると、いつも不思議な気持ちになる。それはおそらく、長いことレオナルドが戦場の場で見ていたのが彼の大きな背中だったからだろう。見る位置は変わっても、スティーブンを想う気持ちは変わらない。
いや、昔より近くなった分、この気持ちは大きくなったように思う。本人には、言えないが。
くすりと笑い、再び意識を一点に集中させる。幸い肥大した義体は巨大化が止まり、もぞもぞと動くだけで暴れる気配はない。
レオナルドは迷うことなく、静かに引き金を引いた。
「只今戻りましたー」
ガンケースを背負い、ソニックを肩に載せたレオナルドが、執務室の扉を開く。
師匠であるK・Kの代わりに実働部隊の援護に行っていたのだが、結果は上々。異界からの違法武器取引の現場をしっかりと押さえることが出来た。その報告のために戻ってきたわけだ。
「お疲れ様です、レオナルドさん」
「ギルベルトさん、お疲れ様です」
真っ先に声をかけてきたのは、包帯グルグル巻きの執事、ギルベルト。昔と変わらずクラウスに執事として仕えている彼は、レオナルドにとって見本となる大人のひとりだ。
「お疲れレオ。作戦成功の報告は聞いている。報告書は後日で構わない、ゆっくりと休み給え」
「ありがとうございます、クラウスさん」
自分のデスクで巨体を丸くしながらそう言ったのは、クラウス。年齢を重ね三十路となっても昔とまったく変わらない彼は、厳つい顔に似合わない優しい眼差しでレオナルドを労う。
そして彼の隣に立っていたK・Kが、赤いコートを翻してレオナルドを抱きしめた。
「お疲れ様、レオっち! 今日は結構面倒だったんじゃない? みつからなかった? 怪我はしなかった?」
40代になっても若々しく、それどころか熟女の美しさに磨きがかかった人類最強の主婦。昔はレオナルドにとってヘルサレムズ・ロットで頼れるもうひとりの母親のような存在だったが、今や彼女は狙撃の師匠だ。弟子になった後も変わらず可愛がってくれており、仕事優先にするしかなかった彼女が家族にかける時間を増やせたことを、幾度となく感謝してもらっていることが誇らしい。
「僕は照明や武器を撃ち落としたり、相手の気を逸らせるくらいでしたから、大丈夫です」
「精度の高い技術が求められる仕事ばかりね。相手を殺せたらもっと楽なのに」
頭を撫でながら言うことではないが、K・Kの言うことはもっともだ。
レオナルドが狙撃手になるにあたって、クラウスとスティーブンから相手を殺さないことを厳命されている。いざとなればそうする覚悟はあったが、2人は絶対に首を縦に振らなかった。これはレオナルドの性格を考慮してのことだ。ありがたいことだが、7年間をここで過ごしたというのに水臭いと思う。
それでも2人の優しさは、嬉しかった。
「僕にはちょうどいいんですよ」
ただし、不殺を貫くならば、それ相応の技術を身につけなくてはならない。
高い技術力は一朝一夕で身につくものではない。K・Kが師となり徹底的に鍛え上げたわけだが、神々の義眼という高性能なスコープすら歯が立たない眼を自在に操ることによって腕を上げていった。1年後には実戦に投入出来るほどになり、成績は優秀、裏社会では“不殺のブルーアイ”の異名で存在を知られつつある。
「そうよねぇ。うんうん、レオっちはそのままでいてね」
なにやら別のことまで混じっていそうなほどしみじみと頷きつつ、K・Kはレオナルドの頭を撫でる。
息子が反抗期に突入したと聞いているから、家庭内で何かがあったのかもしれないが、そこは触れないことにした。
と、ここまではレオナルドが事前に知っていた執務室にいる人たちだ。しかし本来この時間にいるべき人物が、もうひとり足りない。
「スティーブンさんは不在なんですね」
K・Kから離れ自分のデスクにガンケースを置きながら、主のいないデスクに目を向ける。
「急な用事が出来たとのことでして、30分ほど前に出かけられました」
速やかに、けれどレオナルドの言葉に被せることなく程よい間を置いてからギルベルトが答えた。スティーブンに限らず、ライブラメンバーが不意に出かけるのはよくあることだ。その都度スケジュールは変更を余儀なくされてしまうが、滞りなく進められるかどうかは、執事や助手の腕次第。
まだまだギルベルトのように上手くいかないが、レオナルドは今後のスティーブンのスケジュールを脳内に整列させ、組み直しをしていく。
「……スティーブン、なにか分かったのかね」
不意にそんな声が聞こえて振り返れば、クラウスがスマホで通話をしていた。
相手はスティーブン。K・K、ギルベルトと共に自然とクラウスのデスクに近づくと、聞かせて良い内容と判断したのだろう。クラウスはスマホをデスクに置き、スピーカーに切り換えた。
『ようやくクローン製造のネタが割れたよ。と言ってもまだ不確定要素が多いがな』
「なにもったいぶった言い方してるのよ」
『K・Kもそこにいたか。ならちょうどいい、急で悪いが僕が戻り次第、ミーティングを行う。レオ、ザップたちに連絡してくれ』
速やかにスマホを取り出し、ザップとツェッド、そしてチェインにメッセージを送る。ツェッドとチェインからはすぐに返事が来たが、ザップからは返事がない。とはいえいつものことなので、病院に搬送されるか地獄に落ちていなければ来るだろうと放置しておく。
「……と、すみません」
しまおうとしたスマホに着信の通知が入る。
見ればソフィアから。上司たちに断りを入れ、少し離れたところで電話に出た。
「はい、レオナルド」
「レオ、お願い、助けて」
固く小さな、周囲に聞こえることを警戒している声。レオナルドは察してクラウスたちに顔を向ければ、彼らは気づいてくれたのだろう。神妙な面持ちで沈黙を守った。
「どうしたんです、ソフィアさん」
「やっぱりあの子をイレネオに任せられない。話を聞いたの、もう限界だ、処分を検討するって」
「……娘さんを、処分する……? どういうことですか」
クローンとはいえ、自分の血を引く我が子を処分するというのはどういうことか。
「分かんない。でも時間がないのは確かみたい。だから、一緒に逃げることにした。お願い、お金は払うから、どこかに匿って!」
「大丈夫です、もう準備は進んでます。ソフィアさんは自分の身の安全を最優先にしてください。娘さんを連れて逃げ出せるんです?」
「夕食の時間は私に預ける、その時がチャンスだと思う。念のために色々仕込んでおいて、こっちも準備は済んでる」
夫を信じたいという気持ちを匂わせた発言をしながら、同時にいつでも逃げられるように準備も進めていたとは。彼女がただのか弱い女性ではないと気づかされると同時に、やはり妹と似ているとレオナルドは確信した。
「分かりました。僕たちが絶対に守ります。だからソフィアさん、無茶はしないでください」
待ち合わせ場所と時間を決め、通話を終える。
再びクラウスたちを見れば、力強く頷いてくれた。
『どうやらミーティングの時間はなさそうだな』
改めてレオナルドがした説明を聞いたスティーブンは、全員を招集することとチェインをソフィアの警護に回すことを指示する。全員を現場にというのは少々大げさな気がしたが、まだ聞いていない情報と合わせての判断だろう。
つまり、ソフィアの身に危険が迫っているということだ。
「我々に残された時間は少ないようだ。行こう」
クラウスの一声で、秘密結社ライブラは動き出した。
母子を救うために。
Day17 6:00 pm
『どうやら異界技術が不完全だったらしくてね、時間が経つと共に不安定になってきているらしい』
「不安定って、どういうことです?」
ビルの屋上に座り、愛用のライフルをガンケースから取り出しながら、レオナルドはスマホの向こうにいるスティーブンに尋ねた。
待ち合わせ場所ではなく離れたビルの上で待機するよう指示されたレオナルドだが、スコープがなくても見える大通りにはソフィアとの待ち合わせ場所がよく見える。
そして、万が一に彼女に不逞の輩が近づいた場合も。
とはいえなぜレオナルドが待ち合わせ場所にいなくていいのか、そこのところをスティーブンは話さなかった。代わりに彼が待ち合わせ場所に行くというので、未だに色々と警戒しているのだろう。
『サルバーシオ社の医療スタッフに話を聞いたんだが……クローン技術自体は完成しているが、短時間で人類を成長させることなんて、夢物語だったそうだ』
医療スタッフが素直に違法行為を見ず知らずのスティーブンに話すわけがないだろうが、そんなことよりも今は目の前の問題だ。どんな方法を使ったのかは聞かないで、話を進める。
「亡くなった後にクローンを作ったとしても年齢が合わないのって、もしかして」
『そう、異界の技術を強引に用いた結果ってこと。お陰で身体のバランスがおかしいらしい。感情が乏しく偏食というよりろくに食わないのもそのためだ。そしてそのバランスが完全に崩壊した時、何が起こるか分からない、だとさ』
「人の命を何だと思ってるんだ」
スティーブンに言ったわけではなく、完全な独り言だ。しかしそれを聞いたスティーブンの沈黙の意味を、レオナルドは否定しない。ヘルサレムズ・ロットにおいて人の命など塵よりも儚い。それでも抗う術すら持つことを許されなかった小さな命だ。全てを守る大きな力はないが、必死に運命に抗おうと手を伸ばした者の手助けにはなりたい。いや、なるのだ。
『そのために、君がいる』
背中を押す声に、迷いも躊躇いもない。
ただ信じているのだと分かる男の言葉は、どんな言葉より――クラウスとミシェーラの言葉以外――心強い。
『なんだって!?』
作戦のためにスマホからインカムに切り換えた途端、耳元でスティーブンの大きな声が聞こえた。
『作戦を変更する必要がありそうだ。イレネオ・マルキは予定を変更し、娘を妻に預けることなく共に街へ出た。ザップとツェッドは移動。万が一の場合、ソフィア・マルキを所定の場所まで誘導しろ』
すでに動き出してしまった歯車が、狂いだした。
Day17 6:20 pm
一度は取り出したライフルをガンケースに収め、肩に掛けたレオナルドは軽やかな跳躍でビルからビルへと駆け抜けていく。
イレネオが向かっているのは高級ホテル。情報を照らし合わせたところ、今日はそこで極秘裏にヘルサレムズ・ロット入りしたマフィアたちの会合があるらしい。しかも片方はイレネオ率いるマルキファミリーのライバルとなれば、何をしでかすか分からない。
そこへ娘を奪い損ねたソフィアも向かっていると、護衛をしているチェインから連絡が入る。
『タクシーで向かってる。移動手段がないのに無茶しかねないから、注意して』
『ホテル内ではこちらも手出しをしにくいですね』
『はぁ? んなもん、マフィア同士の抗争と見せかけて、どさくさ紛れにとんずらすりゃいいだろ』
「ザップさんらしいっすけど、無茶はしないでくださいよ」
インカムの向こうの仲間たちと軽口をたたきつつ、レオナルドは屋上の縁に足をかけて勢いよく飛ぶ。重力から一瞬でも解放された心地よさを全身に感じる暇もなく隣の屋上に移れば、すぐ傍にある外階段を駆け下りていく。鉄製の階段の足音は響くが、幸い裏路地に面したこの階段から見える人影はない。途中の梯子から地面に降り立ち、速やかに駆け出す。
『イレネオ・マルキが到着しました。正面玄関。ソフィア・マルキの姿はまだ見えません』
先に到着したツェッドから連絡が入る。
『こっちも到着。マズい!』
ザップに対する憐れみと怒り以外は感情をあまり前に出すことのないチェインの咄嗟の声に、レオナルドだけでなくインカムの向こうにいる仲間たちに緊張が走る。
速やかに全員がホテルと向かい――息を呑んだ。
高級車を背に、娘を片腕で抱っこしたイレネオに銃を向けるのは、ソフィア。
イレネオの周りには彼を守ろうと部下たちがいるが、相手が上司の妻とあって躊躇しているのだろう。距離を縮めることが出来ず、また何も言うことが出来ずに立ち尽くしている。そしてそれはホテル側も同じだ。
おそらく誰かが通報はしているだろうが、それ以上手出しすることはできず、遠巻きに3人を見ている。そしてそれは、ライブラ側も同じだ。
ソフィアひとりならば強引に助けることが出来るが、イレネオの腕には娘がいる。迂闊にツッコむことが出来ない中、野次馬だけは何事かと集まってきた。
ならばと、レオナルドは野次馬をすり抜けて静かにその場を離れ、近くのビルに目星を付ける。
今の自分は昔のようにただ状況を見守っているだけの存在ではない。最善の結果をもたらすために自分で考え、動くことが出来るのだ。
『レオっち、位置は取れた?』
「後1分で」
『OK。速やかに準備なさい』
「了解」
師匠たるK・Kに返事をする間も、レオナルドはビルの外階段を駆け上がっていく。
ホテルの斜め向かい、3階建ての屋上はさほど高い場所ではないが、角度距離共に申し分はない。すぐさまライフルを取り出し、構えた。
角度を考えて立て膝。肘を膝の上に載せて安定させ、スコープを覗く。幸い野次馬たちがこちらを意識することはない。
それにしても、とレオナルドはかすかに苦笑する。K・Kがどこにいるのか、まったく分からない。彼女のことだからレオナルドよりも最適な場所を取っているには違いないが、そこがどこなのかがまったく見当がつかないのだ。
未熟な自分を痛感しつつ、それでも今は目の前の任務をこなすべく、集中する。
インカムにはもっとも近くにいるチェインが拾った音が聞こえた。
「その子を渡しなさい、イレネオ」
「どうしてだ、ソフィア。この子は俺たちの娘だぜ?」
動きやすいパンツスタイルのソフィアが険しい表情をしているのとは裏腹に、イレネオは余裕に満ちた表情だ。部下たちを軽く片手を上げて制し、ホテル従業員たちにもこれがただの夫婦喧嘩であるかのように見せている。
ヘルサレムズ・ロットで拳銃を使った犯罪など腐るほどあるし、重火器や呪術の類を持ち出されないだけまだ平和だ。
それが分かっているから、周囲はまだ落ち着いている。ただ1人を除いて。
「なに言ってんの!? アンタがその子を使って何か企んでるって知ってるんだから!」
「へぇ、どんなことを企んでるんだ?」
ソフィアは言葉に詰まる。
夫が何かを企んでいるに違いないとしても、彼女はそれ情報を持っていないのは明白だ。これでは、彼女が被害妄想で夫に銃を向けていると思われても弁解出来ない。
「……その子の秘密、ばらすから」
切り札であり、出す場所を間違えれば致命傷となりかねない、唯一ソフィアがイレネオと共有している情報。
これを悪手と察したザップたちがさりげなく身構える中、緊迫した空気がマルキ夫婦の間に流れ――銃声が、響く。
倒れたのは、ソフィアだった。
横向きに倒れ右肩を押さえているが、服に滲む血の量はさほど多くなく、致命傷ではないとうかがえる。しかし妻に向けて発砲したイレネオは、迷うことなく銃口を再びソフィアに向けた。
咄嗟にジャケットに隠した銃を取り出し、早撃ちをしたイレネオに間に合わなかったことを屋上のレオナルドは舌打ちする。
しかしあの迷いのなさでは、K・Kでさえ間に合わなかっただろう。そう、イレネオという男は、愛しているはずの妻を撃つことになんの迷いもなかったのだ。
そして間近くで銃声が聞こえたにもかかわらず、イレネオの腕にいる娘は相変わらず無表情でぼんやりと宙を見つめ、そしておもむろに下を向いた。
「コイツは失敗作だろうが。なら、処分するにもひとつくらい役立った方がいい」
「なに言ってるの! その子は生きて……っ!?」
肩から血を流しながらふらつく足で立ち上がろうとしたソフィアが目を見開き、息を呑む。わずかに遅れてイレネオも気づいた。
腕の中の娘が、それまで表情に乏しかった子が、顔を歪ませて今にも泣きそうになっているのだ。
「泣くんじゃない……!」
イレネオの怒鳴り声が引き金となったのか、盛大に声を上げて泣きだした。
「不味い、暴走するぞ!」
スティーブンの鋭い一声を合図にしたかのように、イレネオの腕の中にいる娘の身体が以上に膨れ始める。最初は小さなこぶがいくつも出来、次第にそれが泡のように結合しては肥大していく。
すでに人の肌ではなく異界人の灰色の肌に近い色合いとなり、突然の変化に怯えたイレネオが娘だったものを落とした。
「どういうことっすか、スターフェイズさん!?」
「クローンを急成長させた正体がこれだ。胎児を核にして義体に組み込み、あたかも元の年齢まで急成長したかのように見せた。だが生体を利用した異界技術だ、感情の爆発で義体と胎児のバランスが崩れたんだ」
逃げ出したイレネオの背後で、娘はさらに膨れ上がっていく。人の名残はもうなく、例えるならば上下左右に肥大化した灰色のウミウシのようになっている。
それがさらに巨大化してくると、周囲にいた人々が逃げ出す。だが、ソフィアだけはその場にとどまった。撃たれたことで逃げられない、というよりも真っ直ぐに異形を見つめる目は覚悟を決めている。
「あなたをひとりにしない」
たとえクローンであっても、娘と認めている母の想いが込められた声。しかしその声が届くより早く、ザップの血紐がソフィアの身体を絡め捕って彼女を異形から引き離した。次の瞬間、彼女がいた場所もイレネオが載っていた高級車も、そしてホテルの玄関も押しつぶされていく。
ソフィアをツェッドに押し付けたザップは、焔丸を構えて前に立った。
「間一髪ですね」
「屑猿にしてはよくやった」
「当然だ。つーかなんでテメェは上から目線なんだ!?」
呆然とするソフィアを後ろに下げ、ツェッドとチェインも彼女を庇うように前へ出る。すぐさま噛みつくザップだが、そうしている間にも異形ウミウシは膨らんでいった。
「さて、どうする、クラウス」
「出来ることならば、核となっている赤子を救出したい」
「だそうだ、レオ」
パニックになる群衆の波をもろともせず、クラウスとスティーブンも前に出る。
呑気に構えているようにすら見える彼らだが、おそらくこの場にいる誰よりも現状を把握し、何をすべきかを理解しているからに他ならない。
そしてそれは、屋上でライフルを下ろしゴーグルを装着したレオナルドも同じだ。
「……ほぼ中心、います。へその緒みたいなので義体と繋がっているようです」
しかし中にいるのはスティーブンが話していたような胎児ではない。赤子の成長を見たことのないレオナルドにはどれくらいの年齢かは分からないが、少なくともすでに生まれているくらいには成長している。
義体の中で育ったのか、それとも元々のクローンがここまで成長していたのかは分からないが、義体の中で泣きじゃくるその子はとても可愛かった。
『取り出すことは?』
「肉が分厚いっす。感覚を共有してるとしたら、むやみに傷つけられませんね」
野次馬たちの退避や逃げ遅れた人たちの救出を優先しているので、未だライブラは攻撃をしていない。しかしもしも義体を攻撃したことで中の赤子が傷つくようなことがあってはならなくなった。
なぜなら今も、ソフィアが変わり果てた我が子を助けたくて前に出ようとしているのを、クラウスがやんわりと押し留めているのだから。
『へその緒を先に切り落とした瞬間に、動きを封じて取り出すしかないか。やれるか、レオ』
赤子とへその緒の正確な位置を知るのはレオナルドのみ。それゆえのスティーブンの指示だが、彼の声音にはまったく不安がない。やれるか、と聞きておきながら、その裏にはやれるな、という絶対の圧力さえ感じる。
もっとも、スティーブンは昔からこうだ。口には出さないが仲間たちの力に絶大な信頼を寄せているからこそ、多少無茶な作戦でもやらせようとする。
そして、それに応えてきた。
「了解。ただ、僕の手元にはへその緒まで貫通する威力のある弾はありません」
『それならこっちにあるわよ。ふふ、もう取りに来てくれた』
インカムの向こうでK・Kが笑っている。おそらく、状況を察したソニックがK・Kのところへ向かってくれたのだろう。レオナルドでさえすぐにみつけられなかったK・Kの位置を瞬時にみつけて動いてくれるのだから、本当に頼りになる相棒は心強い。
そしてその相棒は、速やかに一発の弾薬をレオナルドの許へ運んできた。
金色に輝く弾薬は、K・K手製の徹甲弾。手のひらに納まるサイズながら、その威力は頑丈さが売り物のHLPDのポリスーツすら貫通する。確かにこれならば、今も肥大する義体を貫通することが出来るだろう。
状況に応じて弾を変えるレオナルドだから、現時点でライフルに弾薬を装填していない。速やかにボルトハンドルを起こしてボルトを後ろに引き、弾薬を装填。ボルトを押して元に戻しハンドルを倒して固定すれば、ライフルの準備は出来た。
引き金に指を添え、息を吐く。そして、右目だけ瞼を開いた。
ヴン、という音ともに発動した神々の義眼がスコープとリンクし、視界が変化する。スコープの前に、神々の義眼に施された青い紋様が現れたのだ。
「準備が出来ました。いつでもいけます」
『了解。そろそろHLPDが来るだろう、速やかに終わらせよう』
ディナーに間に合わせようと言わんばかりの、いつもと変わらない口調で悠然とスティーブンが前に出る。
その姿を上から眺めていると、いつも不思議な気持ちになる。それはおそらく、長いことレオナルドが戦場の場で見ていたのが彼の大きな背中だったからだろう。見る位置は変わっても、スティーブンを想う気持ちは変わらない。
いや、昔より近くなった分、この気持ちは大きくなったように思う。本人には、言えないが。
くすりと笑い、再び意識を一点に集中させる。幸い肥大した義体は巨大化が止まり、もぞもぞと動くだけで暴れる気配はない。
レオナルドは迷うことなく、静かに引き金を引いた。