7年後の24時
Day13 4:15 pm
それからしばらくは平穏だった。
あくまでヘルサレムズ・ロット基準であり、ライブラは何度も出動したしレオナルドも猿の手を借りるほど忙しい。
副官の助手兼狙撃手という二足の草鞋なので仕方がないが、この忙しさにはもう慣れた。
今日も今日とてスティーブン宛てに送られてくる大量の書類を優先順位に基づいて区分し、速やかに整理していく。
ソフィアから連絡がないことは気になっていたが、監視を行っている構成員からの情報では、彼女が外出をする時はボディーガードという名の監視が増えたそうだ。家庭内で何かがあったに違いないが、一般人を装って接触しているうちはこちらから手を出すことはできない。
歯痒いな、とこれまでも幾度となく思った気持ちに蓋をして、書類をファイルに挟み込む。
立ち上がり、パソコンと向かい合っているスティーブンのデスクへ。
「ナイン・ハックの新情報です。目を通しておいてください」
「ありがとう。チェックが済んだらアニラに届けて」
淡々と必要な事だけを話し、互いに目を合わせることはない。デスクに置いたファイルをスティーブンが手に取る頃には、レオナルドはすでに踵を返している。
が、立ち止まった。スマホに着信があったのだ。
スーツの内ポケットから取り出して画面を見れば、ソフィアから。肩越しに振り返ってスマホの画面をスティーブンに向ければ、まるで誰からかかってくるか分かっていたかのようにスティーブンと目が合い、彼は頷いた。
「はい、レオナルド」
『ああ、レオ。急に電話をかけてごめん。でも、もうどうしたらいいのか分からなくって……』
切羽詰まった、焦りを感じる声。
この声に何も気づかないふりは出来ない。
「どうしたんです、ソフィアさん」
『電話では言えない。けれどこの街で頼れるのは貴方しかいない。お願い、レオ』
「この後、会えます?」
『今日は無理。明日……この時間に、あのパブで』
「分かりました。兄も連れていきますか?」
『ううん、貴方ひとりで』
「兄さんに嫉妬されそう」
気持ちを和らげようとちょっとした冗談を言えば、スマホの向こうからくすっと笑う声が聞こえた。
この分なら彼女はまだ大丈夫だろう。ひとりで抱えきれないなら何時でもいいから連絡をしてほしいと伝えて通話を終える。
報告しようと振り返れば、仏頂面のスティーブンに手招きされた。
「僕が嫉妬するってなんだよ」
「弟が美人とふたりきりで会ったら、弟に嫉妬するって設定。リアルでしょ」
「実際に嫉妬するのは、彼女にだけど」
そう言って椅子に腰かけたままレオナルドの腰に手を回して抱き寄せ、スティーブンは胸に顔を埋める。
「どうしてこんなふうに育っちゃったかな」
「あなたが育てたんでしょうが」
くすくすと笑いながらスティーブンの髪を撫でると、胸の中の彼は盛大に溜め息を吐いた。
なお、少し離れたソファでこの光景を見ていたザップは後に語る。恋人がいちゃついているというより、飼い主が猫を吸っているみたいだ、と。
Day14 4:20 pm
約束どおり知り合ったパブに行き、フィッシュアンドチップスとビールを手に出会った時に語り合ったテーブルについたレオナルドは、ソフィアがやってくるのを待った。
「別にひとりで良かったのに」
ひとりなのにそうぼやけば、耳の中で笑い声が聞こえる。
髪で隠した耳の中、インカムの向こうでこの場にいないスティーブンが笑ったのだ。
『君に万が一のことがあったら嫌だからな』
スティーブンは現在、パブから少し離れた場所に止めた車の中で待機している。レオナルドは話を聞くだけだからひとりで十分だと同行を遠慮したというのに、いざという時の逃走手段は必要だという理由でついてきた。
「そりゃどうも。……ソフィアさん、来れられそうです?」
『監視は入るだろうが、人の多いパブの中なら迂闊なことはしないだろうさ。それより、盗聴器は仕掛けたか』
「仕掛けましたよ、僕に」
レオナルド自身に仕掛けておけば、咄嗟の移動にも対処が出来る。これでは仕事よりもレオナルドを優先しているように思えるが、実際のところスティーブンはレオナルドを優先しているので仕方がない。
「いつまでも半人前扱いなんですから」
『向こうが君に本気になったら困るだろ』
冗談のつもりで言えば、冗談であってほしい真面目な声が返ってくる。
聞かなかったことにして沈黙を守ると、まるでお忍びの女優がパパラッチに警戒しているかのようにきょろきょろと辺りを見回しながら、不安そうな表情でソフィアがパブに入ってきた。
こちらに気づいた彼女は軽く手を振り、カウンターでビールを頼みグラスを受け取ってから近づいてくる。
あくまで飲みに来た客として振る舞うようだと思うのは、顔色が良くないからだ。
「ソフィアさん、こんにちは」
向かいの椅子を勧めれば、彼女は息を吐きながら腰掛ける。ようやくで落ち着くことが出来たのだろう、一気に半分ほど飲み干したビールの泡をそのまま口の周りにつけて、長い溜め息を吐いた。
「呼び出してごめん。でも、もう貴方しか頼れる人がいなくて」
「そのために来たんですから。力になれるか分かりませんけど、話したいことを話して、すっきりしちゃってください」
「ありがとう。でも、どこから話したらいいかな。……娘がいることはこの前、言ったよね」
「偏食が激しい娘さん、でしたよね」
夫か娘、それともヘルサレムズ・ロットでの生活についての相談だと想像はしていたが、どうやら当たりを引いたようだ。
少し声を落として確認すれば、ソフィアは今にも泣きだしそうな顔で頷く。
「娘はね、ヘルサレムズ・ロットにいたんだ。あ……色々事情があってね。問題は、うちの夫。あの人、娘を使って何か良くないことを考えてるの。だってやっと娘に会えたっていうのに、私にはあの子の食事と寝る時以外、ろくに会わせないんだよ。君は疲れてる、ベビーシッターがやるから気にするなって」
「ベビーシッターさんには会ってるんです?」
「知らない、会ったこともない」
再び溜め息を吐いたソフィアは、グラスに残っていたビールを一気に飲み干した。
出会った時もここで酒を飲んでいた彼女だが、あの時はこんな飲み方はせず、単に暇つぶしをしていたという感じだった。それがこの荒れ方。よほど我慢し、不安に耐えていたのだろう。
「本当は娘を預けないでずっと連れまわしてるんだ。だからあの子は、感情をなくしちゃったんだよ」
「感情を? どういうことです」
「……笑わないの。いつもぼんやりしてて、私の声に答えない。ご飯だってろくに食べてくれないし、もうどうしたらいいのか」
「病院には? それにヘルサレムズ・ロットで会う前は、どうしてたんです?」
ソフィアが俯き、口を噤んだ。
彼女はおそらく嘘が下手だ。だから色々とごまかして、娘がクローンであるという事実を隠し通すことが出来ないのだろう。そしてイレネオはそんな彼女だからこそ、真実を告げないでいると考えるべきか。
しかし時が経てば、嘘は疑惑へと変わる。薄々夫の企みを感じたのだろう妻が、たった2回しか会っていない素性のしれない男に頼るほどに。
「分かりました、詳しいことは聞きません。でも、娘さんのことが心配だっていうなら、警察に相談してみてはいかがです?」
「警察はダメ、絶対にダメなの。でも、あの人のところにいさせたくない。なんとかしなくちゃいけないのに、どうしたらいいか分からない」
俯いたまま、必死に絞り出すような声で言うソフィア。
夫の企みは分からなくても、娘が非合法に生まれた存在であることは知っている。万が一警察に行けば娘を奪われるに違いないと考えているのなら、それは間違ってはいないだろう。
すでに予想していた答えだ。だからレオナルドは別の選択肢を用意していた。
「僕の兄は、この街に精通しています。いろんな業種の人を斡旋する仕事って話してましたけど……中には裏の抜け道を知っている人もいます。もしソフィアさんが娘さんのことを本気で想うのなら、協力出来ます」
踏み込むレオナルドに、ソフィアは弾かれたように顔を上げた。
目尻に浮かんだ涙より笑顔が似合うこの人を、なんとか救いたい。仕事のことを、インカムの向こうにいるスティーブンのことを忘れたわけではないが、今はそうするべきだとレオナルドは決めた。
糸目だが、真っ直ぐに自分を見る目にソフィアは息を呑み、力強く頷く。彼女にとっては未だ完全に信頼出来る存在ではないにせよ、知らない土地で得た一縷の希望。ただ、それを邪魔するものもいる。
「ありがとう。でも、もう少しだけ待って。あの人が……夫が本当にあの子を愛しているのか、それだけは確かめたいの」
娘を愛する母だが、彼女は同時に夫を愛する妻だ。そして娘にとっては父親だ。その愛情を無下にすることは出来ない。
「分かりました。ですが僕らも準備があるので、早ければ早い方がいい。いつでも連絡をしてください」
「ありがとう、レオ。この街で貴方に出会えてよかった」
ようやく見せてくれた笑顔に、レオナルドは気づく。
どうしてこの人の笑顔がいいと思ったのか。今も故郷で頑張っている、最愛の妹の笑顔によく似ているからだ。
先に出るというソフィアを見送り、フィッシュアンドチップスをしっかりと平らげてからレオナルドはパブを出た。
背後から静かに路肩につける車を見て、迷うことなく助手席に乗る。
「ヘルサレムズ・ロットの外には逃がせないよ」
振り向くことなく車を再び走らせながら、スティーブンはそう言う。忠告ともとれる言葉だが、レオナルドとてそれはよく分かっていることだ。
「父親がヘルサレムズ・ロットから撤退すれば、なんとかなります」
「違いない。しかし感情がなく偏食が激しい、か。失敗作なのかな」
「言い方」
たとえ人道に反する生まれ方をしたとしても、母親に愛されるひとりの少女に違いはない。素早くレオナルドが叱れば、スティーブンは素直に「ごめん」と謝ってくれた。
「君のその優しいところ、何年経っても変わらなくて好きだよ」
「それはどうも。ところで……つけられてましたね」
「うん、向こうが徒歩でよかった」
バックミラーの中、遠ざかっていく路上に2人の男が映っている。スーツ姿の厳つい男たちは、パブから出たレオナルドを背後からつけていたのだ。
「これで彼女が君に会っていることが、イレネオにバレているということが分かった」
「時間がありませんね」
妻が何かを隠れて行っていると知れれば、イレネオが動き出すに違いない。こちらとしては好都合だが、母子を危険にさらすのは問題だ。速やかに準備を行わなくてはならないだろう。
「母子の隠れ家を手配してくれ。それとHLPDへの根回しもよろしく」
「了解。新しい身分証明書も用意します」
「娘に関しては、ブラッドベリ総合病院に協力を要請する。あそこなら問題はないだろう」
「連絡しておきま……どうしました?」
信号に掴まって走りをやめた車内で、スティーブンがじっとレオナルドを見つめている。
それに気づいて小首を傾げると、視線を逸らされた。
「いや、今更なんだが、有能な助手が恋人っていうのはフィクションだけだと思っていた頃を思い出したんだ。まさか現実に、しかも自分の身に降りかかるなんて思わなかったってね」
「新しい口説き文句ですか?」
「本音。頼りにしてるよ、ダーリン」
やはり口説きにかかっているとしか思えない言葉に、レオナルドは何も答えず窓の外の喧騒へと顔を向けた。
Day15 5:30 pm
広いリビングは、物を散らかすのに適している。
小さいながらも楽しい我が家はもちろんいいが、やはり作業をするにはそれなりのスペースが必要だ。
ホームパーティーを想定している広々としたダイニングテーブルの上、整列した弾薬をひとつひとつ確認するレオナルド。
小さな傷ひとつでもあればそれだけで弾道が変わり、任務に支障をきたしかねない。
「プライベートと仕事は分けるんじゃなかったのか?」
キッチンから聞こえた声に顔をあげたレオナルドは、目にした光景に手を止めた。
小さなレストランなら開けるのではないかと思うほど、設備の充実したアイランドキッチン。そこに立つのは、黒いエプロンがよく似合うスティーブンだ。
「銃の手入れは事務所でしたんですけど、弾は時間がなくて。もうやめます」
「飯の支度を手伝ってほしいから、そうしてくれ」
「今日の晩御飯は?」
「ロールチキンのトマト煮、タコとグレープフルーツのカルパッチョにデザートはいちごのムース。ロールチキンとムースはヴェデッドが作ってくれ……どうした?」
メニューを口にするスティーブンを頬杖ついてついて眺めていたことを気づかれた。
顔をあげたレオナルドはくすりと笑い、こう答える。
「年々、エプロンが似合ってきてるなぁって思って」
「老けたっていいたいのか?」
年をとれば誰だって老ける。それは寿命のある生物として生まれた以上、抗うことは出来ない。けれどそれに抗おうとするのは、老いを恐れるゆえ人間の性だ。
スティーブンも年齢の離れたレオナルドと付き合いだしてから、老いに敏感になった。けれど老いは悪いことばかりではない。
「昔より幸せそうってこと。そう思ったら、僕も幸せだなぁって感じちゃって」
ふにゃりと頬の筋肉を緩ませて笑ったら、スティーブンは目を丸くしただけではなく頬まで赤くして。
格好をつけることが得意だった頃より随分と丸くなった彼に「可愛い」とつい呟いてしまったのは、許してほしい。
「そういうとこだぞ!」
許してもらえなかったらしいスティーブンの怒鳴り声に、レオナルドはやはり幸せだとくすくす笑う。
急いで、けれど丁寧に弾薬を箱に詰めこんだら、蓋をするのは傍にいたソニックに任せ、椅子から立ち上がる。そして足早にスティーブンに近づくと、彼を抱きしめてから背伸びをし、頬に軽く口づけた。
「……それで俺が機嫌を直すと思ったか」
「元々悪くなってないでしょうが」
スティーブンの顔はわざとらしくしかめっ面をしているが、目が笑っている。機嫌を理由におねだりしようとしている恋人の企みなど、とうの昔に看破しているのだ。
まだ頬に赤みの残るスティーブンから離れ、まな板の上で奇麗に皮が剥かれたグレープフルーツを一切れ頂戴する。
口の中に一気に広がる、柑橘系の酸味は酸っぱいがとても爽やかだ。
「……ソフィアさんの娘さんも、美味しいものが食べられたらいいのに」
不意に娘の偏食を思い出し、レオナルドは表情を曇らせる。美味しいものを好きな人と楽しむという幸せを知らない幼子と、その子を想って悲しむ母親が、急に不憫で仕方なくなってきたのだ。
世界中、生まれた環境など様々な要因によって美味しいという幸せを得られない者たちは大勢いる。彼ら全てに手を差し伸べることなど到底不可能に違いないが、それでも言葉を交わし名を知った者たちだけでも、出来る限り手を差し伸べたいと思うのは傲慢だろうか。
「彼女に勇気があるのなら、事態は変えられる。必要なのは手助けだけじゃない。それを受け入れる勇気を得られるかどうかだ。そして君は、勇気を得るきっかけを与えた」
背後からそっと抱きしめてきたスティーブンの手に、自分の手を重ねる。
「でも、ソフィアさんは大丈夫でしょうか。無理をしないといいんですけど」
「出来る限りの監視は続けているが、いざとなればHLPDに踏み込ませる必要もあるだろう。ただ、素性を隠して保護する場合と違い、娘は重要な証拠として監視下に置かれるに違いない。なにせ異界の技術を使ったクローンだ。無事で済むかどうか」
「……イレネオは、安全が問われる異界の技術を使ってまで蘇らせた子供を、どうする気なんですかね」
「まだ分からん。だが、人道に反して誕生させた命を、さらに人道に反するようなことに利用するなら、僕らが黙っちゃいないよ」
耳元にささやかれる声のトーンが落ちる。
イレネオに対するスティーブンの怒りを感じたレオナルドは、身震いした。恐ろしいからではない、最後にふっ、と息を吹きかけてきたからだ。
スティーブンの腕を強引に外して振り返れば、してやったりとニヤリと笑うスティーブン。カッコよかった彼の悪戯は、これまでの雰囲気を一変させた。
「もー! なにやってんすか!」
「ははっ、飯の前に暗い雰囲気は良くないと思ってさ。食事のムードはいつだって明るい方がいい」
そう言ってふくれっ面のレオナルドのこめかみにキスを落とし、スティーブンはこう言った。
「手を洗って。それからとびきりの笑顔で一緒に飯を作ろう。まずは僕たちが幸せにならないとね」