7年後の24時
Day1 6:00 am
遮光カーテンを締め切った部屋、暗闇の中でピピピピ、と小気味よい電子音が耳に届く。
無機質で優しさのない音に覚醒を促され、うっすらと瞼を開く。レオナルドはまだ微睡みの中に浸りながら、手探りでスマホを探した。
寝る前と同じ枕元にあったことが幸いし、すぐにアラームを止める。
自分で設定したにも関わらず、礼儀知らずだと言わんばかりにスマホを握って隣を見れば、恋人はまだ夢の中。静かに上下する肩も枕をしっかりと抱きしめた横顔も、いつしか見慣れてしまった。
昔は彼が先に起きてレオナルドを待ち構えていたというのに、いつからか立場は逆転して。年をとったと言えば必ず拗ねるが、それだけ彼がゆっくりと休めるようになったのは悪くない。
寛いでいてもどこか空気が張り詰めていた頃が、なんだか懐かしい。
ふたりが出会ってから、7年が過ぎた。
くぁ、と大きく欠伸をしてベッドを抜け出したレオナルドは、今日という日を迎えられたことを昨日の自分に感謝し、スマホを手にしてベッドルームを後にした。
身支度を調え、鼻歌を歌いながら熱したフライパンに卵を落とせば、ジュワ、と食欲をそそる音が聞こえる。
テーブルにはすでにカトラリーとパン、それにサラダを準備したし、デザートは冷蔵庫の中でスタンバイ。
後はこの目玉焼きが焼けた頃に恋人が起きてきてくれれば、準備は万端だ。
肩にわずかな重みを感じた。
「おはよう、ソニック」
動物の寿命を考えれば年老いてしまった相棒も食べ物のこととなれば若返るようで、すかさず起きて肩の上に乗ってきたのだ。
頬に顔をすり寄せて挨拶を返したソニックは、背後の気配に気づいたのかスッと姿を消す。
目玉焼きの様子を気にしつつ振り返り、吹き抜けになっている2階から下りてきた恋人へとレオナルドはにっこりと笑った。
「おはようございます、スティーブンさん」
「……おはよう。いい匂いだね」
癖のある髪はあちこちに跳ねさせて、ゆったりしているパジャマのまま出てきたスティーブンの目はまだ半分ほど閉じたまま。顔を洗うより早くキッチンに歩いてくる彼へ、レオナルドはこう声をかけた。
「本日の予定は、午前8時出勤、10時より違法薬物対策会議、13時に牙狩り本部との電話会談、こちらはクラウスさんも参加します。何事もなければ18時にヘーバイ社社長夫妻とのディナーです」
すらすらと今日のスティーブンのスケジュールを伝えたのだ。
迷うことなくやってきた彼に背後から抱きしめられたと思えば、頭上から溜め息が降ってくる。
目玉焼きを焼いているので出来ればやめてほしいところだが、朝のスティーブンは駄々っ子だ。仕方なく火を止めれば、今度は耳の傍で溜め息が聞こえた。
「本当に有能な助手で助かるよ」
「お褒めの言葉、どうも。すぐに飯が出来ますから、さっさと顔を洗ってきてください」
「俺としては有能な助手より、キスで起こしてくれる可愛い恋人がいいんだけど」
「それはご期待に添えず、申し訳ございません」
毎朝同じことを繰り返しているというのに、よく飽きないものだ。渋々と離れたスティーブンが、顔を洗うべく背中を向けて歩いていく。
可愛い駄々っ子の姿にくすりと笑うレオナルドも、よく飽きないものだ。
Day1 8:00 am
「今日こそ覚悟しやがれーっ! グハっ、ゲシャ、うごっ」
今日も今日とてクラウスに仕掛けて見事に返り討ちにあったザップを無視して、レオナルドは昨夜のうちに用意しておいた書類をスティーブンのデスクに置いた。
秘密結社ライブラが設立されてから早10年という歳月が流れた。何度もいざこざがあっては再建された事務所だから古さは感じないが、構成員たちは着実に年を取っている。
いや、クラウスは別だろう。彼は三十路となり、レオナルドが出会った頃のスティーブンより年上になっている。それでも鍛え上げた肉体も力強い眼差しも衰えない。それどころか年々強さを増しているのだ。同じく三十路になったザップも、頭の中がまったく成長していない。
そんな彼らは、揃いも揃ってレオナルドが一番変わったという。まず身長がわずかだが伸びた。残念ながら170㎝にはギリギリで届かなかったが、それでも伸びたものだ。
次にスティーブンと付き合い、その後彼の助手となったことで服装も変わった。
今のレオナルドの服装はダークグレーのスーツに白いシャツ、そして紺色のネクタイ。靴は黒のプレーントゥシューズ。あくまで仕事着ではあるが、ぶかぶかの服や丈夫なスニーカーも、今のレオナルドには必要なくなってしまった。
そして一番変わったのは、黒縁でオーバル型の眼鏡。もちろん神々の義眼があるので眼鏡をかける必要は一切ないのだが、スティーブンの助手として、そして童顔ゆえに交渉の場で少しでもなめられないようにとかけている。
「こちらが会議の資料になります。目を通しておいてください」
「ありがとう、レオ。ところで、今日なんだけど……会議の後にランチはどう?」
腰掛けているからこその身長差を利用した上目遣いで、あざとくレオナルドを誘うスティーブン。しかしレオナルドは無表情のままこう答える。
「仕事が忙しいんで、お断りします」
数年前ならこの手を使えば確実に誘えた、すっかり可愛げがなくなった恋人を見上げて頬杖をつくスティーブン。
少し唇を尖らせて粘ってみるが、スマホを取り出したレオナルドはあっさりと踵を返してしまった。
「どこかの誰かさんが仕事を入れたの忘れました? 僕はこの後、別件の仕事です」
どこかの誰かに思い当たる節しかないスティーブンは、溜め息を吐きながら書類を手に取るしかなかった。
Day1 11:00 am
スーツから白いシャツに黒のスキニー、有名ブランドのスニーカーに着替え、最後にカーキグレーのフィールドジャケットを羽織ったレオナルドは、ゴーグルを首にかけてとあるビルの屋上にいた。
見張りの構成員と代わって位置を確認すると、背負っていたガンケースを下ろす。中身は1丁のライフル銃。今ではレオナルドの良き相棒だ。
慣れた手つきでスコープを、そして銃口にサイレンサーを装着し、二脚を立て腹ばいになって構える。目標のポイントは予定どおり見通しが良く、これならばまず外すことはないだろう。スコープを調整して精度を高め、弾薬を1発だけ装填する。
ボルトアクションのライフルはパトリックとニーカが改良を加えたほぼレオナルドのためのオリジナル。
このようなことをレオナルドがするようになったのは、3年ほど前のこと。
神々の義眼を有するレオナルドの秘密結社ライブラでの主な役割は、神々の義眼による調査。そして血界の眷属の諱名を看破すること。
だが長い年月を過ごす間にレオナルドはライブラの中で古株となり、同時に様々な問題を目の当たりにするようになった。
主に、休暇取得に関して。
いや、これはずいぶん昔から問題視されてきたものだが、改善されることはなかった。
理由はヘルサレムズ・ロットから世界の均衡を崩そうとはしゃぐ連中がこりもせずにやってくるからだ。仕方がないことなのだと副官であるスティーブンが訴えをのらりくらりと躱しては、ブラック企業よろしく構成員を容赦なく働かせてきた。
この副官がワーカホリックすぎて、下っ端はなかなか意見が言えない。死ぬか運よく生き残って引退するまで頑張るしかないと皆が諦める中、唯一声をあげたのはスティーブンの古馴染みであるK・Kだった。
夜間はよほどのことがない限りは免除されているとはいえ、家庭を持つ彼女はただでさえ少ない一家団らんの時間を奪い続けるスティーブンに、ついに銃口を向けるほどキレたのだ。
世界最強の兼業主婦以外に有能な狙撃手がいないのは、以前からライブラの悩みの種ではあった。ここで彼女にボイコットされようものなら一大事だ。日夜会議が行われ、出た答えは育成。信頼のおける者たちから素質のある者を探し出し、新たな狙撃手として仕立て上げる。
なんとも気の遠くなるような話だが、これがスティーブンの時間稼ぎであることは誰の目にも明白だった。
そして白羽の矢が立ったのがレオナルド、というわけである。
「こちらブルー。ポイントに到着」
耳にはめたインカムから、「了解」と聞こえた声にレオナルドは眉を顰めた。
本来ここにいるはずのない人物の声がしたからだ。
「ちょっとちょっと、なんであなたがいるんです? 今日はブリゲイドさんでしたよね?」
『個人名を出すのは感心しないなぁ』
「だったら事前に変更を教えてくださいよ、スティーブンさん」
スコープを覗き引き金に指をかけたまま、インカムの向こうにいるスティーブンを咎める。だがこんなことが彼に通じないのは、長年の経験で分かっていることだ。
『たまには君の仕事ぶりを見たくてね。この後、ランチはどう?』
「会議が早く終わってなによりです。ランチは約束があるんで、遠慮します」
『つれないなぁ』
わざとらしい溜め息を無視し、レオナルドは神経を集中させる。
神々の義眼、観察眼、体力と運動神経。多くがヘルサレムズ・ロットで培われたそれらは、いつしか狙撃手にとって必要なものへと変わっていった。
自分の身を守るためではなく、あくまで任務を遂行するために鍛え上げた技術は、師匠であるK・Kも認めるほどになっている。
『おーい、レーオ』
「個人名出すなって言ったの誰ですか」
『はは、それもそうだ。間もなく時間だな。回収地点は予定どおり。健闘を祈る』
そこで通信は途切れた。私情を挟んできても、仕事に手を抜かないのがスティーブンだ。
気を取り直して深呼吸をし、見つめた先は800m先にあるとあるビルの出入り口。一般的なビルだし、車や人通りはあまりない。全ては事前に仕入れた情報どおりだ。
静かに、静かにその時を待つ。空を行く異界生物の泣き声がやたらと大きく聞こえた。
やがて、その時は来る。
黒塗りの高級車がビルの前に止まった。降りてきたのは道路側の後部座席と助手席から、目つきが悪く厳つい男が2人。周囲を警戒しつつ出入り口の側に近づき、次に運転手が降りた。こちらも風貌は似たようなものだ。
運転手が後部座席のドアに近づいて、周囲を警戒しながら開ける。チャンスを確実なものとするため、レオナルドは呼吸を浅くし――息を呑んだ。
「こちらレオ。スティーブンさん、聞こえますか。ターゲットを確認。ただ、ひとつ情報と違いが」
『スティーブン。どうした』
「子供がいます」
今回のターゲットが降りてきた。まだ年若いが風格のある男は、その腕に少女を抱いていたのだ。年は3,4歳ほど、栗色の髪に大きな緑の瞳の少女は、年相応のあどけなさを隠した暗い表情をしている。
ターゲットは先日ヘルサレムズ・ロットに来たばかりの裏組織のボスだが、子供を連れてきたという情報はなかった。
どうするかと指示を仰げば、予定どおり威嚇射撃をして撤退を命じられる。
今回は相手を傷つけることが目的ではない。ヘルサレムズ・ロットで悪さをするな、秘密結社ライブラが見張っているぞと警告をするのがレオナルドの役目だ。
言われたとおりにライフルを構え、引き金を引く。弾は狙ったとおりにボスの足元に着弾、部下たちが慌ててボスを建物の中に避難させた。
この後、部下たちは狙撃の犯人を捜して慣れない土地を走り回ることだろう。
そうなる前にレオナルドは素早くライフル銃をガンケースにしまうと、肩に背負って駆け出す。途中で床に落ちた薬莢を回収して屋上の反対側に回り、隣のビルへと飛び移る。ヘルサレムズ・ロットを逃げ回るうちに自然に身についた軽やかな動きで、振り返ることなくその場を後にした。
今も狙撃に慌てる彼らは、のちに知ることとなる。秘密結社ライブラの狙撃手『不殺のブルーアイ』の名を。
Day2 12:30 pm
「レオ、ちょっといいか」
呼ばれてデスクから顔をあげたレオナルドは、正面よりやや右側にあるスティーブンに顔を向けた。
助手となったことで自分のデスクをもらったレオナルドの、ここでの仕事は主に書類や資料の整理。
昨日のような狙撃手としての仕事がなければ、普段はここにいる。お陰でザップからは付き合いが悪くなったと散々言われているが、年齢を重ねても相変わらず行動が変わらない方がどうかしている。とはいえ、それがザップだ。
「どうかしましたか?」
立ち上がってスティーブンのデスクに向かうと、速やかにタブレット端末を見せられた。
画面にいるのは昨日レオナルドが見た少女。ただし、困惑するしかない内容がそこには書かれていた。
「……亡くなってる……?」
そう、少女はすでに亡くなっていた。死亡したのは2年前、ヘルサレムズ・ロットの外での事故死。
「僕が見たのは妹とか?」
「いや、一人娘だ。それに奴が妻と共にヘルサレムズ・ロット入りした時に、子供の姿はなかったそうだよ」
デスクに頬杖をついたスティーブンは、レオナルドを試すかのように不敵な笑みを浮かべて。
それよりも目の下にうっすらと出来ている隈が気になって仕方がない。昨夜というより、ほとんど朝方にひとりで帰ってきた彼が何をしていたのかレオナルドは聞くことさえしないが、何かしらの情報収集に尽力していたのだろう。その努力は尊敬するが、隈を許しては健康管理をリーダーから任されている助手の名折れだ。
「詳しく調べる必要がある案件ということですね。ところで、徹夜はするなとあれほど言いましたよね?」
曰く、年々凄みを増しているといわれる、わざとらしいくらいの満面の笑みを向けてそう言えば、スティーブンは頬杖をついたまま硬直した。それまでの不敵な笑みが剥がれていき、目が泳ぎだす。
この人もまた、感情を隠すのが下手になったものだ。
「あ……どうしてもやっておきたい仕事があってね。そう、今回は急だったから仕方がない……んだよ?」
「はっ、どうせ出来そうだからやっておきたいとか思っただけなんでしょうけど、いい年なんだからそういうのはやめてくれません? その隈で情報源引っかけようなんて、鼻で笑うわ」
タブレット端末を団扇のように仰ぎながら見下ろせば、スティーブンは肩をすぼめて俯いていく。
長い付き合いのお陰で昔のように年齢差や上下関係を気にすることのない言い方をするようになり、仲間たちからはレオナルドがスティーブンを尻に敷いていると言われるのは少々心外だ。悪いのは、年齢を考えず健康をおろそかにしがちなスティーブンなのだから。
「年って……僕、まだ40前だけど」
「変わらないでしょ。とりあえず、飯を食いながら話しません?」
不意に昼食の誘いを受け、パッと顔を上げるスティーブン。だがレオナルドのデスクに置かれているサブウェイの袋を見て、「君ってそういう奴だよな」とぼやいた。
1時間ほどレオナルドが席を立ったのはスティーブンも知っているが、まさかランチを買い出しに行っていたとは思わなかったようだ。
手早く済ませられるサブウェイはスティーブンも気に入っているところだが、こんなところまで似なくていい。そうスティーブンは呟きながら渋々と席を立った。
「どうせなら、僕も一緒に行きたかったんだけど」
「忙しそうでしたから。コーヒーを淹れてきます」
慣れた様子でスティーブンにソファを勧めて、レオナルドは給湯室へ向かう。
昔はスティーブンがリードするのが当たり前だったのに、いつの間に立場が逆転してしまったのか。少し寂しいな、と思いつつスティーブンは、デスクに置かれたサブウェイの紙袋を手にソファへ移動した。
コーヒーの湯気が揺らぐマグカップをテーブルに置き、ふたり並んで座ったら揃って大きく口を開いてサンドイッチに齧り付く。
たくさんの野菜とすっきりしたドレッシングが良く似合うチキンに舌鼓を打ちつつ、スティーブンは隣でBLTサンドを頬張るレオナルドを横目でちらりと見て、昔より距離が近くなったつむじにキスをしたい気持ちをぐっと堪えた。
「話は戻しますけど、この子、実の娘ではないとしたら、何者なんです?」
不意に聞こえたレオナルドの問い。
邪な気持ちを隠すようにスティーブンはサンドイッチを飲み込み、コーヒーで口の中を洗い流す。
「未だ確証は得られていないが、彼女はクローンである可能性が高い」
「人類のクローン製造は違法ですよね」
「ありとあらゆる非合法なものが揃っているヘルサレムズ・ロットでもね。まぁ、倫理的な問題はいつでもどこでもそれなりの規制を見繕っておかないと、後々面倒だからな」
異界と交わったことによって、紐育大崩落時より飛躍的に科学技術は進歩している。人が踏み入れて良い領域を超えてしまうものは少なくなく、ヘルサレムズ・ロット再構築後は様々な議論を置き去りにして速やかに法整備がなされた。
とはいえ、目の前に餌がぶら下がっていて食いつかないわけがない。法の目をかいくぐって色々とやらかす輩は後を絶たず、秘密結社ライブラが仕事に困らない要因のひとつとなっている。
「医療用生体パーツを製造しているサルバーシオ社は知ってるだろ?」
サルバーシオ社。なんらかの理由で身体の一部が欠損した場合、特殊なクローン技術によってその部分を製造し患者に提供する会社だ。短時間で拒絶反応のない欠けたはずの身体を作れるということで、法外な値段ながらもすこぶる人気が高く急成長中。ただし異界技術が使用されているので、ヘルサレムズ・ロットで何が起ころうとも責任はとらないという、一応法の範囲内で事業を展開している。
「もちろん。きな臭い噂込みで」
「そこと接触してるんだよ、イレネオ・マルキが。1年ほど前から頻繁にやりとりをしていたようだ」
レオナルドが昨日威嚇したマルキ・ファミリーのボスにして、クローンと疑われる娘の父親だ。
「それじゃあ、亡くなった娘さんを蘇らせたくてヘルサレムズ・ロットに?」
「急成長中のイタリアンマフィアが、自分のシマを放棄してまでヘルサレムズ・ロットに籠もるか?」
「そっか、蘇らせても異界の技術を使ってるから、クローンの娘さんは外に出て無事か分かりませんもんね」
「単純に父親の願いって思えないだろう?」
「調べます?」
「もう頼んであるよ。ただ、いざという時は頼む」
「了解」
信頼出来る構成員たちだ。素直に待つことにして、止まっていた食事を続けようと再び大きく口を開いたレオナルドに、スティーブンは身体を屈めて覗き込むようにしながらこう言った。
「明日は、ふたりでランチに行かない?」
「仕事次第っすね」
やはり恋人兼助手はつれない。
Day5 2:00 pm
多くの事件や案件で進展がなかったとしても、時間だけは過ぎていく。
あくせくしても仕方がないのは、この数年で学んだことだ。だから本日は定められた休暇であるレオナルドは、特に緊急の呼び出しがなければ自宅で惰眠を貪ることにしていた。
スティーブンと同棲したことで、意図せず身に余るほど広大な家に住まうことになってしまったのは4年前。最初こそ恐縮してしまっていたものだが、ここで過ごす時間とスティーブンの甘やかしっぷり、そして少しずつ増えていった私物がいつしかここをレオナルドの居場所に変えた。
というわけで、ソニックと共にリビングで腕を伸ばした部屋着のレオナルドは、人をダメにしてしまうと名高いクッションに背中から身を投げる。
「ふぁ……なんか何もしてないと、それはそれで退屈だよなぁ」
家事は家政婦のヴェデッドがほとんどしてくれるのでレオナルドが出る幕は最初からないし、かといって休暇に楽しめるような趣味らしい趣味はない。
やれることと言えば相棒であるライフルの整備くらいだが、こちらは仕事なので休日は行わないようにしている。
メリハリは大事だと思ったのは、仕事とプライベートの境界線がほとんどない反面教師を傍で見ているからだ。
「なんていうか、ひとりって久しぶりだしなぁ」
大抵はスティーブンが職権を乱用して同じ日を休みにするからだ。今日はどうしても合わせることが出来ないとスティーブンは嘆いていたものの、たまにはひとりの時間が欲しかったレオナルドとしては願ったりかなったりというもので。
なのにいざその日が来ると、とても暇で、少し寂しい。
「ソニック、出かけるか?」
退屈と寂しさを紛らわせるために外に出ることを考えたが、昼食を腹いっぱい食べたソニックはお気に入りのクッションから離れることを拒むかのように、両手両足を広げ大の字になって寝ている。
彼にとって昼寝の時間だから仕方がないと思うが、昔はすぐに肩に乗ってきたことを思い出すと少し切ない。それでもどこにも行くことなく傍にいてくれるこの時間を大切にしたいと思った。
「とはいえ、暇だよなぁ。どうしよっかなぁ」
ソニックにクッションを譲って起き上がったレオナルド。大きく欠伸をした時を狙ったかのようにスマホにメッセージが送られてきた。スティーブンからだ。
「『ティータイムは空いてる?』か。ずっとランチに行けなかったこと、根に持ってんのかな」
くすりと笑い、『空いてます』と返す。それから少し考え、こう付け加えた。
『寂しがり屋のダーリンに、甘いお菓子をあげに行きます』
遮光カーテンを締め切った部屋、暗闇の中でピピピピ、と小気味よい電子音が耳に届く。
無機質で優しさのない音に覚醒を促され、うっすらと瞼を開く。レオナルドはまだ微睡みの中に浸りながら、手探りでスマホを探した。
寝る前と同じ枕元にあったことが幸いし、すぐにアラームを止める。
自分で設定したにも関わらず、礼儀知らずだと言わんばかりにスマホを握って隣を見れば、恋人はまだ夢の中。静かに上下する肩も枕をしっかりと抱きしめた横顔も、いつしか見慣れてしまった。
昔は彼が先に起きてレオナルドを待ち構えていたというのに、いつからか立場は逆転して。年をとったと言えば必ず拗ねるが、それだけ彼がゆっくりと休めるようになったのは悪くない。
寛いでいてもどこか空気が張り詰めていた頃が、なんだか懐かしい。
ふたりが出会ってから、7年が過ぎた。
くぁ、と大きく欠伸をしてベッドを抜け出したレオナルドは、今日という日を迎えられたことを昨日の自分に感謝し、スマホを手にしてベッドルームを後にした。
身支度を調え、鼻歌を歌いながら熱したフライパンに卵を落とせば、ジュワ、と食欲をそそる音が聞こえる。
テーブルにはすでにカトラリーとパン、それにサラダを準備したし、デザートは冷蔵庫の中でスタンバイ。
後はこの目玉焼きが焼けた頃に恋人が起きてきてくれれば、準備は万端だ。
肩にわずかな重みを感じた。
「おはよう、ソニック」
動物の寿命を考えれば年老いてしまった相棒も食べ物のこととなれば若返るようで、すかさず起きて肩の上に乗ってきたのだ。
頬に顔をすり寄せて挨拶を返したソニックは、背後の気配に気づいたのかスッと姿を消す。
目玉焼きの様子を気にしつつ振り返り、吹き抜けになっている2階から下りてきた恋人へとレオナルドはにっこりと笑った。
「おはようございます、スティーブンさん」
「……おはよう。いい匂いだね」
癖のある髪はあちこちに跳ねさせて、ゆったりしているパジャマのまま出てきたスティーブンの目はまだ半分ほど閉じたまま。顔を洗うより早くキッチンに歩いてくる彼へ、レオナルドはこう声をかけた。
「本日の予定は、午前8時出勤、10時より違法薬物対策会議、13時に牙狩り本部との電話会談、こちらはクラウスさんも参加します。何事もなければ18時にヘーバイ社社長夫妻とのディナーです」
すらすらと今日のスティーブンのスケジュールを伝えたのだ。
迷うことなくやってきた彼に背後から抱きしめられたと思えば、頭上から溜め息が降ってくる。
目玉焼きを焼いているので出来ればやめてほしいところだが、朝のスティーブンは駄々っ子だ。仕方なく火を止めれば、今度は耳の傍で溜め息が聞こえた。
「本当に有能な助手で助かるよ」
「お褒めの言葉、どうも。すぐに飯が出来ますから、さっさと顔を洗ってきてください」
「俺としては有能な助手より、キスで起こしてくれる可愛い恋人がいいんだけど」
「それはご期待に添えず、申し訳ございません」
毎朝同じことを繰り返しているというのに、よく飽きないものだ。渋々と離れたスティーブンが、顔を洗うべく背中を向けて歩いていく。
可愛い駄々っ子の姿にくすりと笑うレオナルドも、よく飽きないものだ。
Day1 8:00 am
「今日こそ覚悟しやがれーっ! グハっ、ゲシャ、うごっ」
今日も今日とてクラウスに仕掛けて見事に返り討ちにあったザップを無視して、レオナルドは昨夜のうちに用意しておいた書類をスティーブンのデスクに置いた。
秘密結社ライブラが設立されてから早10年という歳月が流れた。何度もいざこざがあっては再建された事務所だから古さは感じないが、構成員たちは着実に年を取っている。
いや、クラウスは別だろう。彼は三十路となり、レオナルドが出会った頃のスティーブンより年上になっている。それでも鍛え上げた肉体も力強い眼差しも衰えない。それどころか年々強さを増しているのだ。同じく三十路になったザップも、頭の中がまったく成長していない。
そんな彼らは、揃いも揃ってレオナルドが一番変わったという。まず身長がわずかだが伸びた。残念ながら170㎝にはギリギリで届かなかったが、それでも伸びたものだ。
次にスティーブンと付き合い、その後彼の助手となったことで服装も変わった。
今のレオナルドの服装はダークグレーのスーツに白いシャツ、そして紺色のネクタイ。靴は黒のプレーントゥシューズ。あくまで仕事着ではあるが、ぶかぶかの服や丈夫なスニーカーも、今のレオナルドには必要なくなってしまった。
そして一番変わったのは、黒縁でオーバル型の眼鏡。もちろん神々の義眼があるので眼鏡をかける必要は一切ないのだが、スティーブンの助手として、そして童顔ゆえに交渉の場で少しでもなめられないようにとかけている。
「こちらが会議の資料になります。目を通しておいてください」
「ありがとう、レオ。ところで、今日なんだけど……会議の後にランチはどう?」
腰掛けているからこその身長差を利用した上目遣いで、あざとくレオナルドを誘うスティーブン。しかしレオナルドは無表情のままこう答える。
「仕事が忙しいんで、お断りします」
数年前ならこの手を使えば確実に誘えた、すっかり可愛げがなくなった恋人を見上げて頬杖をつくスティーブン。
少し唇を尖らせて粘ってみるが、スマホを取り出したレオナルドはあっさりと踵を返してしまった。
「どこかの誰かさんが仕事を入れたの忘れました? 僕はこの後、別件の仕事です」
どこかの誰かに思い当たる節しかないスティーブンは、溜め息を吐きながら書類を手に取るしかなかった。
Day1 11:00 am
スーツから白いシャツに黒のスキニー、有名ブランドのスニーカーに着替え、最後にカーキグレーのフィールドジャケットを羽織ったレオナルドは、ゴーグルを首にかけてとあるビルの屋上にいた。
見張りの構成員と代わって位置を確認すると、背負っていたガンケースを下ろす。中身は1丁のライフル銃。今ではレオナルドの良き相棒だ。
慣れた手つきでスコープを、そして銃口にサイレンサーを装着し、二脚を立て腹ばいになって構える。目標のポイントは予定どおり見通しが良く、これならばまず外すことはないだろう。スコープを調整して精度を高め、弾薬を1発だけ装填する。
ボルトアクションのライフルはパトリックとニーカが改良を加えたほぼレオナルドのためのオリジナル。
このようなことをレオナルドがするようになったのは、3年ほど前のこと。
神々の義眼を有するレオナルドの秘密結社ライブラでの主な役割は、神々の義眼による調査。そして血界の眷属の諱名を看破すること。
だが長い年月を過ごす間にレオナルドはライブラの中で古株となり、同時に様々な問題を目の当たりにするようになった。
主に、休暇取得に関して。
いや、これはずいぶん昔から問題視されてきたものだが、改善されることはなかった。
理由はヘルサレムズ・ロットから世界の均衡を崩そうとはしゃぐ連中がこりもせずにやってくるからだ。仕方がないことなのだと副官であるスティーブンが訴えをのらりくらりと躱しては、ブラック企業よろしく構成員を容赦なく働かせてきた。
この副官がワーカホリックすぎて、下っ端はなかなか意見が言えない。死ぬか運よく生き残って引退するまで頑張るしかないと皆が諦める中、唯一声をあげたのはスティーブンの古馴染みであるK・Kだった。
夜間はよほどのことがない限りは免除されているとはいえ、家庭を持つ彼女はただでさえ少ない一家団らんの時間を奪い続けるスティーブンに、ついに銃口を向けるほどキレたのだ。
世界最強の兼業主婦以外に有能な狙撃手がいないのは、以前からライブラの悩みの種ではあった。ここで彼女にボイコットされようものなら一大事だ。日夜会議が行われ、出た答えは育成。信頼のおける者たちから素質のある者を探し出し、新たな狙撃手として仕立て上げる。
なんとも気の遠くなるような話だが、これがスティーブンの時間稼ぎであることは誰の目にも明白だった。
そして白羽の矢が立ったのがレオナルド、というわけである。
「こちらブルー。ポイントに到着」
耳にはめたインカムから、「了解」と聞こえた声にレオナルドは眉を顰めた。
本来ここにいるはずのない人物の声がしたからだ。
「ちょっとちょっと、なんであなたがいるんです? 今日はブリゲイドさんでしたよね?」
『個人名を出すのは感心しないなぁ』
「だったら事前に変更を教えてくださいよ、スティーブンさん」
スコープを覗き引き金に指をかけたまま、インカムの向こうにいるスティーブンを咎める。だがこんなことが彼に通じないのは、長年の経験で分かっていることだ。
『たまには君の仕事ぶりを見たくてね。この後、ランチはどう?』
「会議が早く終わってなによりです。ランチは約束があるんで、遠慮します」
『つれないなぁ』
わざとらしい溜め息を無視し、レオナルドは神経を集中させる。
神々の義眼、観察眼、体力と運動神経。多くがヘルサレムズ・ロットで培われたそれらは、いつしか狙撃手にとって必要なものへと変わっていった。
自分の身を守るためではなく、あくまで任務を遂行するために鍛え上げた技術は、師匠であるK・Kも認めるほどになっている。
『おーい、レーオ』
「個人名出すなって言ったの誰ですか」
『はは、それもそうだ。間もなく時間だな。回収地点は予定どおり。健闘を祈る』
そこで通信は途切れた。私情を挟んできても、仕事に手を抜かないのがスティーブンだ。
気を取り直して深呼吸をし、見つめた先は800m先にあるとあるビルの出入り口。一般的なビルだし、車や人通りはあまりない。全ては事前に仕入れた情報どおりだ。
静かに、静かにその時を待つ。空を行く異界生物の泣き声がやたらと大きく聞こえた。
やがて、その時は来る。
黒塗りの高級車がビルの前に止まった。降りてきたのは道路側の後部座席と助手席から、目つきが悪く厳つい男が2人。周囲を警戒しつつ出入り口の側に近づき、次に運転手が降りた。こちらも風貌は似たようなものだ。
運転手が後部座席のドアに近づいて、周囲を警戒しながら開ける。チャンスを確実なものとするため、レオナルドは呼吸を浅くし――息を呑んだ。
「こちらレオ。スティーブンさん、聞こえますか。ターゲットを確認。ただ、ひとつ情報と違いが」
『スティーブン。どうした』
「子供がいます」
今回のターゲットが降りてきた。まだ年若いが風格のある男は、その腕に少女を抱いていたのだ。年は3,4歳ほど、栗色の髪に大きな緑の瞳の少女は、年相応のあどけなさを隠した暗い表情をしている。
ターゲットは先日ヘルサレムズ・ロットに来たばかりの裏組織のボスだが、子供を連れてきたという情報はなかった。
どうするかと指示を仰げば、予定どおり威嚇射撃をして撤退を命じられる。
今回は相手を傷つけることが目的ではない。ヘルサレムズ・ロットで悪さをするな、秘密結社ライブラが見張っているぞと警告をするのがレオナルドの役目だ。
言われたとおりにライフルを構え、引き金を引く。弾は狙ったとおりにボスの足元に着弾、部下たちが慌ててボスを建物の中に避難させた。
この後、部下たちは狙撃の犯人を捜して慣れない土地を走り回ることだろう。
そうなる前にレオナルドは素早くライフル銃をガンケースにしまうと、肩に背負って駆け出す。途中で床に落ちた薬莢を回収して屋上の反対側に回り、隣のビルへと飛び移る。ヘルサレムズ・ロットを逃げ回るうちに自然に身についた軽やかな動きで、振り返ることなくその場を後にした。
今も狙撃に慌てる彼らは、のちに知ることとなる。秘密結社ライブラの狙撃手『不殺のブルーアイ』の名を。
Day2 12:30 pm
「レオ、ちょっといいか」
呼ばれてデスクから顔をあげたレオナルドは、正面よりやや右側にあるスティーブンに顔を向けた。
助手となったことで自分のデスクをもらったレオナルドの、ここでの仕事は主に書類や資料の整理。
昨日のような狙撃手としての仕事がなければ、普段はここにいる。お陰でザップからは付き合いが悪くなったと散々言われているが、年齢を重ねても相変わらず行動が変わらない方がどうかしている。とはいえ、それがザップだ。
「どうかしましたか?」
立ち上がってスティーブンのデスクに向かうと、速やかにタブレット端末を見せられた。
画面にいるのは昨日レオナルドが見た少女。ただし、困惑するしかない内容がそこには書かれていた。
「……亡くなってる……?」
そう、少女はすでに亡くなっていた。死亡したのは2年前、ヘルサレムズ・ロットの外での事故死。
「僕が見たのは妹とか?」
「いや、一人娘だ。それに奴が妻と共にヘルサレムズ・ロット入りした時に、子供の姿はなかったそうだよ」
デスクに頬杖をついたスティーブンは、レオナルドを試すかのように不敵な笑みを浮かべて。
それよりも目の下にうっすらと出来ている隈が気になって仕方がない。昨夜というより、ほとんど朝方にひとりで帰ってきた彼が何をしていたのかレオナルドは聞くことさえしないが、何かしらの情報収集に尽力していたのだろう。その努力は尊敬するが、隈を許しては健康管理をリーダーから任されている助手の名折れだ。
「詳しく調べる必要がある案件ということですね。ところで、徹夜はするなとあれほど言いましたよね?」
曰く、年々凄みを増しているといわれる、わざとらしいくらいの満面の笑みを向けてそう言えば、スティーブンは頬杖をついたまま硬直した。それまでの不敵な笑みが剥がれていき、目が泳ぎだす。
この人もまた、感情を隠すのが下手になったものだ。
「あ……どうしてもやっておきたい仕事があってね。そう、今回は急だったから仕方がない……んだよ?」
「はっ、どうせ出来そうだからやっておきたいとか思っただけなんでしょうけど、いい年なんだからそういうのはやめてくれません? その隈で情報源引っかけようなんて、鼻で笑うわ」
タブレット端末を団扇のように仰ぎながら見下ろせば、スティーブンは肩をすぼめて俯いていく。
長い付き合いのお陰で昔のように年齢差や上下関係を気にすることのない言い方をするようになり、仲間たちからはレオナルドがスティーブンを尻に敷いていると言われるのは少々心外だ。悪いのは、年齢を考えず健康をおろそかにしがちなスティーブンなのだから。
「年って……僕、まだ40前だけど」
「変わらないでしょ。とりあえず、飯を食いながら話しません?」
不意に昼食の誘いを受け、パッと顔を上げるスティーブン。だがレオナルドのデスクに置かれているサブウェイの袋を見て、「君ってそういう奴だよな」とぼやいた。
1時間ほどレオナルドが席を立ったのはスティーブンも知っているが、まさかランチを買い出しに行っていたとは思わなかったようだ。
手早く済ませられるサブウェイはスティーブンも気に入っているところだが、こんなところまで似なくていい。そうスティーブンは呟きながら渋々と席を立った。
「どうせなら、僕も一緒に行きたかったんだけど」
「忙しそうでしたから。コーヒーを淹れてきます」
慣れた様子でスティーブンにソファを勧めて、レオナルドは給湯室へ向かう。
昔はスティーブンがリードするのが当たり前だったのに、いつの間に立場が逆転してしまったのか。少し寂しいな、と思いつつスティーブンは、デスクに置かれたサブウェイの紙袋を手にソファへ移動した。
コーヒーの湯気が揺らぐマグカップをテーブルに置き、ふたり並んで座ったら揃って大きく口を開いてサンドイッチに齧り付く。
たくさんの野菜とすっきりしたドレッシングが良く似合うチキンに舌鼓を打ちつつ、スティーブンは隣でBLTサンドを頬張るレオナルドを横目でちらりと見て、昔より距離が近くなったつむじにキスをしたい気持ちをぐっと堪えた。
「話は戻しますけど、この子、実の娘ではないとしたら、何者なんです?」
不意に聞こえたレオナルドの問い。
邪な気持ちを隠すようにスティーブンはサンドイッチを飲み込み、コーヒーで口の中を洗い流す。
「未だ確証は得られていないが、彼女はクローンである可能性が高い」
「人類のクローン製造は違法ですよね」
「ありとあらゆる非合法なものが揃っているヘルサレムズ・ロットでもね。まぁ、倫理的な問題はいつでもどこでもそれなりの規制を見繕っておかないと、後々面倒だからな」
異界と交わったことによって、紐育大崩落時より飛躍的に科学技術は進歩している。人が踏み入れて良い領域を超えてしまうものは少なくなく、ヘルサレムズ・ロット再構築後は様々な議論を置き去りにして速やかに法整備がなされた。
とはいえ、目の前に餌がぶら下がっていて食いつかないわけがない。法の目をかいくぐって色々とやらかす輩は後を絶たず、秘密結社ライブラが仕事に困らない要因のひとつとなっている。
「医療用生体パーツを製造しているサルバーシオ社は知ってるだろ?」
サルバーシオ社。なんらかの理由で身体の一部が欠損した場合、特殊なクローン技術によってその部分を製造し患者に提供する会社だ。短時間で拒絶反応のない欠けたはずの身体を作れるということで、法外な値段ながらもすこぶる人気が高く急成長中。ただし異界技術が使用されているので、ヘルサレムズ・ロットで何が起ころうとも責任はとらないという、一応法の範囲内で事業を展開している。
「もちろん。きな臭い噂込みで」
「そこと接触してるんだよ、イレネオ・マルキが。1年ほど前から頻繁にやりとりをしていたようだ」
レオナルドが昨日威嚇したマルキ・ファミリーのボスにして、クローンと疑われる娘の父親だ。
「それじゃあ、亡くなった娘さんを蘇らせたくてヘルサレムズ・ロットに?」
「急成長中のイタリアンマフィアが、自分のシマを放棄してまでヘルサレムズ・ロットに籠もるか?」
「そっか、蘇らせても異界の技術を使ってるから、クローンの娘さんは外に出て無事か分かりませんもんね」
「単純に父親の願いって思えないだろう?」
「調べます?」
「もう頼んであるよ。ただ、いざという時は頼む」
「了解」
信頼出来る構成員たちだ。素直に待つことにして、止まっていた食事を続けようと再び大きく口を開いたレオナルドに、スティーブンは身体を屈めて覗き込むようにしながらこう言った。
「明日は、ふたりでランチに行かない?」
「仕事次第っすね」
やはり恋人兼助手はつれない。
Day5 2:00 pm
多くの事件や案件で進展がなかったとしても、時間だけは過ぎていく。
あくせくしても仕方がないのは、この数年で学んだことだ。だから本日は定められた休暇であるレオナルドは、特に緊急の呼び出しがなければ自宅で惰眠を貪ることにしていた。
スティーブンと同棲したことで、意図せず身に余るほど広大な家に住まうことになってしまったのは4年前。最初こそ恐縮してしまっていたものだが、ここで過ごす時間とスティーブンの甘やかしっぷり、そして少しずつ増えていった私物がいつしかここをレオナルドの居場所に変えた。
というわけで、ソニックと共にリビングで腕を伸ばした部屋着のレオナルドは、人をダメにしてしまうと名高いクッションに背中から身を投げる。
「ふぁ……なんか何もしてないと、それはそれで退屈だよなぁ」
家事は家政婦のヴェデッドがほとんどしてくれるのでレオナルドが出る幕は最初からないし、かといって休暇に楽しめるような趣味らしい趣味はない。
やれることと言えば相棒であるライフルの整備くらいだが、こちらは仕事なので休日は行わないようにしている。
メリハリは大事だと思ったのは、仕事とプライベートの境界線がほとんどない反面教師を傍で見ているからだ。
「なんていうか、ひとりって久しぶりだしなぁ」
大抵はスティーブンが職権を乱用して同じ日を休みにするからだ。今日はどうしても合わせることが出来ないとスティーブンは嘆いていたものの、たまにはひとりの時間が欲しかったレオナルドとしては願ったりかなったりというもので。
なのにいざその日が来ると、とても暇で、少し寂しい。
「ソニック、出かけるか?」
退屈と寂しさを紛らわせるために外に出ることを考えたが、昼食を腹いっぱい食べたソニックはお気に入りのクッションから離れることを拒むかのように、両手両足を広げ大の字になって寝ている。
彼にとって昼寝の時間だから仕方がないと思うが、昔はすぐに肩に乗ってきたことを思い出すと少し切ない。それでもどこにも行くことなく傍にいてくれるこの時間を大切にしたいと思った。
「とはいえ、暇だよなぁ。どうしよっかなぁ」
ソニックにクッションを譲って起き上がったレオナルド。大きく欠伸をした時を狙ったかのようにスマホにメッセージが送られてきた。スティーブンからだ。
「『ティータイムは空いてる?』か。ずっとランチに行けなかったこと、根に持ってんのかな」
くすりと笑い、『空いてます』と返す。それから少し考え、こう付け加えた。
『寂しがり屋のダーリンに、甘いお菓子をあげに行きます』
1/6ページ