終わりじゃない、はじまり

「……怒ってるだろ」
 王子のキスではなく部下からの眼球支配によって目覚めたスティーブンは、覚醒から2時間後には異常なしということで病院から退去させられた。もちろんレオナルドも同じだ。
 あの時レオナルドはスティーブンの眼球を支配して彼の脳を強引に覚醒させるという荒業を使ったのだが、本人曰くバスの窓から飛び降りさせるイメージを必死に見せただけだという。どうやら彼はどのように脳を覚醒させたのかは分からないらしい。
 なんにせよ、スティーブンは夢の中で無意識にエスメラルダ式血凍道を発動してバスを地面に縫い付け、窓から脱出することに成功したのは間違いない。
「別に怒ってませんよ」
 ふたりが生還した途端、日常は戻ってきた。
 事務所にいたクラウスから緊急招集がかかり、仲間たちは慌ただしく病院を後にする。レオナルドとスティーブンは大事をとって今日は休みとなったのだが、どうにも居心地が悪くてレオナルドはスティーブンと距離を置いている。
 ただそれだけで、本当に怒っているわけではない。
「いいや、怒ってるね。僕が君だけをバスから降ろしたことことを根に持っている。違うか?」
 対するスティーブンはというと、レオナルドの横にぴったりと並んで離れない。
 自分の家に帰ろうと歩いているレオナルドとスティーブンの生活圏はまったく違うはずなのに、なぜ一緒に歩いているのか。皆目見当がつかなかった。
「それは……まぁ、なんでスティーブンさんが残るんだ、とは思いましたけど」
「やっぱり怒ってるじゃないか」
「いやいや、怒ってるわけじゃないですけど」
 なにがなんでも怒っていることにしたいらしいスティーブンに妥協すべく、レオナルドは顎に軽く指を当てて考える。怒りの沸点が低いわけではないが、スティーブンに対して怒りを覚えることなど本当に思いつかない。
 だが、悔しいことならあった。
「うーん、強いて言うなら、僕を守ろうとした時にエスメラルダ式血凍道を使わなかったこと、かな」
 これは予想外だったらしく、スティーブンの足がピタリと止まる。
 数歩先に進んだレオナルドが気づいて振り返ると、きょとんとしている彼が立ち尽くしていた。
 中心部から離れたブラッドベリ総合病院に近い道路上は人通りが少ない。お陰でいつもなら人ごみに流されるだろうレオナルドは、ぽつんと立っているスティーブンと向き合って話をすることが出来た。
「氷が当たったのは、運が悪かっただけです。だからその程度のことで、自分の身を危険にさらさないでください」
「……そうか」
「そうっすよ! 僕は何回もスティーブンさんの氷に助けられてるんですよ! 自信を持ってください!」
 さすがに言葉に遠慮がなさすぎたかと思ったが、スティーブンはバスの中と同じように大きな声で笑い、軽い足取りでレオナルドに近づいてきた。
「そうかそうか、少年はそう思ったのか」
「へ、違うんですか?」
 追い越して行こうとするスティーブンを追うように振り返れば、彼はレオナルドの肩に腕を回して。少々雑な感じだったので首に圧迫感を感じると同時に困惑したが、見上げた先で機嫌が良さそうな笑みを浮かべるものだから、何も言えなくなってしまった。
「躊躇したの、それは君を巻き込む可能性があったからだ。確かに僕は自信を失い一瞬だが迷った。しかしそんなに嬉しいことを言ってくれるなら、これからは巻き込むことを恐れず、大いに使ってやろう」
「で、出来れば身の安全は、考慮していただきたいですけど」
「努力してやろう。……ありがとな」
 唐突にスティーブンに感謝を述べられ、レオナルドはポカンと口を開いたまま閉じることが出来ない。これまでこんなふうに仕事以外で褒められることなど、なかったはずだ。もっとも、仕事でも褒められることは滅多にないのだけれど。
「おいおい、なんて顔をするんだよ」
 歩き出したスティーブンに押されるようにして、レオナルドも歩き出す。
 楽しそうに笑うスティーブンの顔は、これまで見たことのないものだ。本当に心から楽しい、そう思わせる裏表のない表情はバスの中で見た笑みとも違っていた。
「僕が礼を言ったらおかしいか?」
「そんなことないですけど、なんでかなって」
「少年が僕の身を案じてくれたことに、またこのクソったれな世界に戻してくれたことに。そして、殺すばかりの技でたくさんのものを守っているんだと思い出させてくれたことに、かな」
 予想もしなかったたくさんの理由。
 けれどどれもレオナルドにとっては当然だと思っていたことばかりなので、やはり礼を言われるほどではないと思ってしまう。
「僕は口に出さなくてもお前は分かってるだろ、と思われてしまう質でね。だから少年から聞けて嬉しかった。それだけさ」
「頭が良くて仕事が出来すぎるのも、大変なんですね」
 またスティーブンは大きな声を出して笑う。
 さっきまで死にかけていた人は、死にかける前によくしていた死んだ魚のような目が嘘のように楽しそうに瞳を輝かせていた。
「そりゃどうも。ところで少年、これを機会に君との親睦を大いに深めたいと思うのだけれど、この後は遅めのランチなんてどう?」
「行きます!」
 丸1日寝ていて食べていなかったのだ。上司との親睦云々はさておき、空きっ腹をなんとかしろと訴えてきた本能に忠実に従ったレオナルドの反応に、スティーブンは幸せそうに頷いた。
「やはり君は、僕を救う」

 “ふたり”で帰ってきた。
 霧烟る、この街へ――。


end
2/2ページ
スキ