Advent Rose
読み終えたところでふと見下ろせば、レオナルドがふにゃふにゃと緩んだ顔で見上げていて。
この毛玉も自分のことを野獣だと言っていたが、もしかしたらこの物語から自分のことをそうだと判断したのだろうか。だとしたら、やはり野獣というより毛玉だ。
「レオは野獣らしくないよなぁ」
「ぼくはりっぱなやじゅうですよ!」
両腕を上げてそうやって怒るが、人の腹にもたれながらではなんとも迫力に欠ける。いや、愛嬌のある顔でどれだけ怒っても、まったく怖くないどころかつい笑いが零れてしまう。
本を足の上に置き、空いた手でレオナルドをやんわりと抱きしめた。
「君は野獣じゃない、レオナルドだ。そうだろ?」
「……そうです、ぼくはレオナルド。スティーブンさんがだいすきなレオナルドです!」
にっと白い歯を見せられ、さすがにこれには面食らう。
昨日出会ったばかりだというのに、どうしてこの毛玉は臆面もなくそんなことが言えるのか。だが悪い気は全くなく、むしろ胸の奥がじんわりと温かくなるほど嬉しかった。
「どうしてかなぁ、出会ったばかりなのに、僕も君が可愛いよ」
ペットみたいだから。
「えと、えと、うわー、はずかしいですっ」
自分が口に出した時はなんともなかったくせに、スティーブンから伝えた途端に照れて腕の中でもがきだす。
本当に可愛い小動物だと苦笑しながらも、腕を解いてやるつもりはなかった。
それに、新たな問題の謎も未だに解けていない。
レオナルドが暴れたせいでスティーブン膝から落ちた『美女と野獣』。
この本と奇妙に一致するものがある。
ひとつは自身を野獣だといったレオナルド。彼に仕えている道具たち。レオナルドの部屋にあったバラの立体パズル。
アドベントカレンダーならば、レオナルドは今日の分を開けたのだろうか。そしてあのパズルにはどんな理由があるのだろうか。
「はいはい、暴れるな。僕はこれから本を読むが、君はどうする?」
「ぼくもほんをよみますよ。スティーブンさんとおはなししてたら、おもいだしたおはなしがあるんです」
暴れるのをやめてスティーブンの膝から下りたレオナルドは、読み終えた美女と野獣の絵本を胸に抱えるようにして持ち上げた。
「へぇ、どんな話?」
「ゆうれいにさらわらたおひめさまをたすけにいく、かめのきしのおはなしですよ。でも、たいとるがわかんなくて」
その話には聞き覚えがないが、亀の騎士の一言には何か引っかかるものがあった。どこかで聞いたことがある気がするのだが、それがどこなのかさっぱり思い出せない。
顎に軽く指を添えて考えてみるが、とても大切な誰かの称号だったような気がするし、そうじゃなかったような気もする。
「……僕もその話を知っているような? いや、思い出せないな」
「スティーブンさんも!? じゃあ、ぼくがみつけたらいっしょによみましょうね!」
レオナルドはそう言うと、スティーブンの読書を邪魔してはいけないと思ったのか、絵本をその場に置いてひとりで本を探しに2階へと上がっていった。
初めて見るレオナルドの階段の上り方は、両手を使って1段1段よじ登っては立ち止まり、また上っては立ち止まるというもの。足の短さゆえに仕方がないが、じれったくて手伝いたくなってしまう。
目を細めてその姿を観察していると、意外に早くレオナルドは2階へとたどり着いた。そうなるとスティーブンのいる部屋の隅からではレオナルドの姿は見えない。
ひとりきりになってようやく落ち着いて本が読めると思ったのに、なんだかむしょうに落ち着かない。レオナルドがいた空間がぽっかりと空いてしまった寂しさだと気づくのは、彼が置き去りにした絵本を手に取ってしまったからか。
「真実の愛、か」
そんなものがはたして自分にあったのだろうか。
思い出せない記憶の中に、それらしいものがあるのだとしたら、取り戻したいと思う。しかし同時に、なぜか記憶がないことに焦らない自分がいる。
今ではレオナルドと共にいるのなら、ここも悪くないと思えるほどに。
「いいわけないだろ……」
記憶をなくしても忘れない。
大切な何かを、探していることを。
結局探していた本はみつからなかったまま昼食の時間となり、その後レオナルドはスティーブンとの昼寝を所望した。これが毎日のルーティンだというが、だとしたらこの短足毛玉は相当運動不足ではないのだろうか。
そう思って外を散歩することを提案したが、寒いから嫌だと断られた。
「クリスマスが近いんだぞ? 寒いのは当然だろう。それなのに引きこもってばかりでは脂肪が増えるばかりじゃないか」
「そうだ、忘れてました!」
諭そうとしたというのに、レオナルドは別のことを思い出したらしい。
慌てて廊下をぱたぱたと走っていくので普通に歩いて後を追いかけると、彼は自室へと続く階段を上がろうとしていた。
相変わらず1段1段上がるのがじれったく、途中から担いで共に上がる。
昨日のように腕の中で文句を言うどころか、「いつもこうならいいのに」などと今日は人をエスカレーター扱いしているので、落としてやろうかとつい思ってしまったのは仕方がない。
そうしてやってきた彼の自室のドアを開けたところでレオナルドを下ろした。そして追い返されると思ったのに、今回は素直に入れてくれて。
「僕も入ってよかった?」
「ぼくにむだんじゃなければいいですよ。それに、きょうはとくべつです」
レオナルドが向かったのは、例のアドベントカレンダー。
「スティーブンさん、きょうのところをあけてください」
「いいの?」
彼が大切に毎日開けているものだと思ったのでそう尋ねたのだが、レオナルドは嬉しそうに頷いて、再びドアの前に立つスティーブンに駆け寄ってくる。
「もちろん! それでですね……あの、ぱずるをくみたてるのをてつだってもらえたらいいな……なんて」
少し恥ずかしそうにもじもじとするレオナルドに、スティーブンは事情を察して噴き出した。
今朝にこの部屋に来た時、テーブルの上のブロックが組み立てられていないのは、単純にブロックが少ないから保留にしてあるのだと思っていた。
しかし本当はそうではない。
レオナルドがパズルの組み立てに苦労して、放置していただけのことだったのだ。
「わ、わらうことないでしょう!? ぼくのてだとちっちゃいぶろっくをもつのにひとくろうなんですよ! すぐにおちちゃうしすっげーたいへんなんです!」
「すまんすまん、そうだな。たしかにその小さな手では大変だ」
カトラリーを掴むことすら大変なのだ、スティーブンの爪のサイズほどしかないブロックをはめ込むという作業は骨が折れるに違いない。
アドベントカレンダーの今日の日付を開けると、真っ赤なバラの花びらが1枚出てきた。それをつまみ上げ、床に散らばったおもちゃを避けながらレオナルドと共に作りかけのバラが置かれたテーブルへ歩いていく。
レオナルドを椅子に載せたら、スティーブンは立ったまま散らばった花びらを1枚1枚丁寧に組み立てる。
ブロックは単純な作りだが、1枚はまるたびにレオナルドが歓喜の声を上げるものだから、スティーブンも嬉しくて瞬く間に今ある分のブロックを組み立てることが出来た。
「やっぱりスティーブンさんはすごいですね」
「褒めても何も出ないぞ」
「でなくていいですよー」
何が面白いのか、クスクスと笑うレオナルド。
外側の花びらが足りないバラをくるくると指で回しながら、スティーブンは不意に疑問を口にした。
「なぁ、レオナルド。君は美女と野獣の話を読んだ時に、その話が好きだった人物を思い出せないと言ったよな? もしかしてなんだが、君はここに来る前のことを覚えていないとか……いや、そんなことはないよな」
「そうです! スティーブンさん、なんでわかったんです!?」
導入はこれくらいにして、たとえ違っていても自分のことを交えながらさりげなくレオナルドのことを探っていこうとしたのに、彼の反応はとても素直で早いものだったことに少々驚く。
なにせ迂闊に自分のことを話せば、それは弱点となりえる。余程気心が知れた相手であってもそこは警戒すべきだと思うのに、一度懐に入れた相手には開けっ広げというか、なんとも警戒心がなくて拍子抜けだ。
「なんとなく、ね」
「……あのですね、ぼくはきがついたらこのしろにいたんです。くらくてさむくて、だれもいなくて。さみしくてこわくてないてたら、ザップさんたちがうごきだしたんです。それからみなさんとすんでます」
「いつ頃から?」
「あのあどべんとかれんだーをあけたひから」
レオナルドが手で示して見せたのは、たった今スティーブンが組み立てたバラのブロックが入っていたアドベントカレンダー。
クリスマスツリーを模したアドベントカレンダーの大半がすでに開いているわけだが、基本的にアドベントカレンダーのボックスは24個。だとすれば彼は12月1日からここにいたことになる。
「アドベントカレンダーは、最初からここに?」
「はい。ザップさんたちもおしろのことをしらないっていったから、みんなでしらべたんです。そうしたらこのへやがあって、ちっちゃいからちょうどいいってザップさんがここをかってにぼくのへやにしたんですよ!」
当時のことを思い出したのか、両腕を上げては下げてとせわしなく動かして怒るレオナルド。
ここは子供部屋のようなので、子ども扱いをされたのが気に入らなかったのだろう。しかしながら彼のサイズにこの部屋がちょうどいいのは確かだ。
「なら、この城の調度品は君が来る前にはすでにあったということか」
「たべものやのみものはかってにほじゅうされるって、ギルベルトさんがいってました」
「つまり、どこの誰か分からんが、この城を管理しているやつが他にいる可能性が高い」
腕を組んで天井を見上げたことに意図はない。無意識に行ったことなのだが、なんとなく以前はその行動に意味があった気がする。見上げた先に誰かがいた、そんな感覚だ。
どうにも記憶が曖昧になっていくというのに、それに対して危機感を抱いていない自分へうすら寒さを感じることが出来たのは、大きな変化だ。
おそらくだが、確信に近づいていることがスティーブンに変化をもたらしているのだろう。
レオナルドと共にいてもいいと思う気持ちは変わらないが、それだけでは切り離すことの出来ない何かがしっかりと自分の中に根付いているのを感じる。
「話を戻そう。レオ、君はどうしてアドベントカレンダーを律儀に作ってるんだい」
天井から視線を下げてレオナルドへ向けると、彼はテーブルを回りこんでスティーブンの足元へやってきた。
何も言わないがだっこをしてほしいのだろうと思って、そっと毛玉を抱き上げる。
重くはないが、こうも毎回手がふさがってはいざという時に動きづらくなりそうだ。
「わかんないですけど、なんとなくつくらなくちゃっておもいまして。なんででしょうねぇ」
「君が分からないことは、僕にも分からんよ」
小首を傾げたレオナルドの頭を無造作に撫でると、彼は嬉しそうに笑って。
しかしスティーブンの鋭い視線は、どこにでも売っていそうなアドベントカレンダーを射貫いていた。
「……後1日か」
残っている日付は1つ。
つまり明日はクリスマスイブ。
この日までにはどうしても探している何かをみつけ、帰らなくてはならない。
そんな考えが脳裏に浮かんだ。
「レオ、僕はなんとしても帰らなくてはならない。その時、君を置いていくことが心苦しい」
撫でるのをやめて抱きしめたレオナルドが、そっと小さな手を上げてスティーブンの頬に触れた。消えることのない傷に感じる柔らかさが、とても愛おしい。
だからこそ、別れるのが辛い。
「ぼくも、スティーブンさんとおわかれしたくないです。どうしてかな、あったばかりなのに、スティーブンさんといるとぽかぽかしてしあわせなんです」
抱きしめる腕に力を込め、アドベントカレンダーから目を逸らす。
「スティーブンさんがいてくれるだけで、ぼくはうれしいです……ふぁ……」
習慣である昼寝を遅らせたせいか、レオナルドは大きく欠伸をして目をこすって。
今にも眠ってしまいそうな背中を撫でてやると、顔をすり寄せてくる彼の柔らかな毛が頬に当たった。
「昼寝はベッドで?」
「そうですけど……きょうはスティーブンさんといっしょがいいです」
どうしようもなく可愛らしいと思うようになってしまったのは、名前を付けたことで愛着を感じでしまったせいだろうか。
「なら、暖炉がある居間にするか。ギルベルトさんに火を熾してもらえるよう頼んでみよう」
返事はなく、見ればレオナルドはすでに腕の中で身体を丸めて眠りに落ちている。
無防備に寄りかかってきた柔らかく温かな重みに、スティーブンはくすりと笑って両手で彼の身体を支えた。
不思議な毛玉との生活は、とても穏やかでぬるま湯に浸りきったような感覚に陥る。レオナルドが昼寝をしていると眠気がうつったのか、スティーブンまで寝てしまった。
未だに警戒を怠ってはならないはずなのに、この体たらくはなんだと起きた時には少々落ち込みもした。だが原因がレオナルドにあるのはよく分かっている。
彼のふさふさした毛皮を撫でつつ完全に腑抜けた寝顔を見ていると、どうしても眠たくなってしまったのだ。
ペットを飼っている知人が同じような状況に陥ってしまったことを思い出すが、困ったことにその知人のことはまったく思い出せなかった。
「記憶力は悪くないと思っていたんだが……いや、やはりこの城に何かあるんだろうな」
スティーブンもレオナルドも、そのせいで記憶をなくしてしまっているに違いない。そしてそれを焦ることすらしないなにかも、同様に城が何か影響していると考えるのが自然だろう。
起きた後は再び図書室で本を読み漁り、その間もレオナルドは傍で惰眠を貪っていた。
この毛玉はやることがないとほとんど寝ているらしいから、これが彼にとって普通なのだろう。
ゲームのひとつでもあれば退屈はしないか。そう考えてみるが、なにせここはずっとレオナルドと道具たちしかいなかった。普段何をやっているのか、ほとんど姿を見せない道具たちはそういったことを行ってこなかったというのだから、仕方がないのかもしれない。
このまま行くと年明けには丸々と太っていそうな毛玉は、夕食をしっかりと食べ、また風呂に入っては人に乾かしてもらいながら退屈だと大きなあくびをする。
乾かし終えた頃にはすっかり寝てしまっていて起こすのは忍びなく、そっと彼の自室に運んでベッドに寝かせた。
なんとも平和で、なんとも物足りない1日が過ぎていく。
夜が更けても眠くならないスティーブンは、すでに鍵がかけられた2階からではなく、1階から図書室に入って数冊の本を拝借して自室に戻った。
持ってきたのは呪術や魔法に関係するものが主だが、不思議なことにこれらは元々知識があったのか、するすると頭の中に入ってくる。
ベッドに腰かけて心許ないランプの薄明かりを頼りにして本を読みふけっていると、不意にドアをノックする音が聞こえた。
本を閉じ、ドアに歩いていく。
音が聞こえた位置から誰のものか分かっていたので、確認することなく開き、目線を下げた。
「こんばんは、レオナルド。枕と一緒に夜の散歩かな?」
自分の枕を抱えて少し恥ずかしそうに俯くながらも上目遣いで見上げてくるのは、もちろんレオナルド。
もじもじと身体を左右に揺らすのを黙って見つめていると、やがておそるおそるといった感じで口を開いた。
「あの、あのですね……きょう、スティーブンさんといっしょにねたら、だめ……です?」
「ひとりは寂しかった?」
「そ、そんなことありませんよ! ぼくはいっつもひとりでねてるんですからね! で、でも、スティーブンさんがさびしいかなーなんておもっちゃったりしちゃいまして……ってうそ! いまのはじょうだんですから!」
わあわあと勝手にわめいて騒ぐレオナルドの言い訳と慌てっぷりに、スティーブンはつい噴き出してしまう。
「そうだな、どうにもひとりでは寂しくて寝られなかったんだ。君なら、ちょうどいい抱き枕になりそうだ」
「だきまくらじゃありませんけど、スティーブンさんがそこまでいうなら、はいっちゃおうかなぁ」
ドアを押さえながら彼の前を開けてやれば、レオナルドは素早く部屋の中へと入ってきた。
そしてベッドに上がろうとしたが枕が引っかかってじたばたするので手助けすると、こちらに何かを言う前にいそいそと枕を置いて整えている。
その仕草のひとつひとつがどうにも愛らしくて、心が自然と休息を欲するようになっていた。
「あれだけ昼寝をしたっていうのに、よく寝られるなぁ」
「ねるこはそだつんですよ」
「まだ育つんだ」
「ぼくはまだせいちょうきです! ……たぶん」
自信がないと言いたげに声が小さくなっていくレオナルドは、ベッドの中へ潜り込んでいった。
濡れるとずいぶん細くなるし、今のふさふさとした毛は冬毛の可能性だってある。野獣だというくらいだからそれなりに大きくなる可能性も言い切れないということなのだろうか。
だがベッドから顔を出し枕に頭を埋めた小さな獣に、出来ればこのまま成長しないでいてほしいと身勝手な考えを抱いてしまうのは、その愛らしさゆえなのだ。
スティーブンもパジャマに着替え、ベッドに入る。
まだ眠気らしい眠気はほとんどないのだが、隣で幸せそうに糸目を細めるレオナルドを見ていると、良い安眠が得られそうな気がした。
「えへへ、スティーブンさんのかおがちかいです」
「嬉しそうだなぁ」
「だってスティーブンさんといっしょですもん」
こちらが照れるようなことを余すことなく伝えてくるレオナルドに返す言葉がみつからず、苦笑ともとれる曖昧な笑みを浮かべるしかない。
「ずーっとスティーブンさんといっしょだったらいいのに」
別れが来ると分かっているからだろう、彼は消え入りそうなほど小さな声で呟いて、布団の中に顔を隠した。
これが、スティーブンを動かすとも知らずに。
「レオナルド」
布団を捲り、小さくうずくまったレオナルドに優しく声をかける。
スティーブン自身が密かに驚くほど柔らかい声音に、彼はゆっくりと顔を上げた。
泣きそうなだったくせに無理に笑った顔が、たまらなく愛おしく、同時に胸が締め付けられる。
だが、もうスティーブンの気持ちは決まっていた。
「俺と城を出よう」
驚いて口も瞳も大きく開かれ、レオナルドの不可思議な青い瞳がスティーブンを照らす。
暗がりに見る青は、成層圏から見る地球を思わせるほど美しかった。
「ぼくが、スティーブンさんと? でも、おしろや、みなさんは……」
「城は君が来る前からあった。つまり君が城主じゃなくても大丈夫ってことさ。あいつらも連れていこう。きっと賑やかだ」
「いいんです? ほんとうに、いいんです?」
興奮のあまりレオナルドは起き上がってベッドに座り、前のめりになって何度もそうスティーブンに尋ねてくる。
そのたびに「本当だ」と言うスティーブンの顔は自然とほころんでいった。
「スティーブンさん、だいすきです!」
胸の中に飛び込んできたレオナルドを抱きしめ、この柔らかなぬくもりを守ると誓う。
そして確信はないが思うのだ。
自分が探していたのは、彼ではないのか、と。
翌朝、早起きをしたレオナルドと共に道具たちへこれからのことを伝えた。
玄関ホールに集まった道具とドアは、意外にも反対しなかった。
「レオナルド君が決めたことだ。我々も共に行こう」
「ま、正直ここじゃ退屈だしな」
「僕もお供しますよ、レオ君」
「馬鹿猿が何やらかすか分からないし、ついていくよ」
睨みあうコートハンガーとアイロンはさておき、反対はしなくても不安を口にしたのはK・Kだった。
「外に出るのはいいけれど、行く当てはあるわけ?」
「それについてなんだが、レオの鼻が頼りだ。彼は霧の中で僕をみつけ、迷うことなくこの城に帰ってきた。いざという時に頼りになる」
「まさか、そのためにレオっちを連れてくって行ったんじゃないわよね?」
ランプに睨まれてその手があったかと今更ながら思うが、今のスティーブンにその気はない。
違うと否定したが、彼女は鵜呑みにすることなく「ふぅん」と曖昧な返事を返してきた。
「ぼくにおまかせください!」
「では、朝食の後に必要なものを用意いたしましょう」
「僕たちは外して連れてってもらえたらいいな。ね、デルドロ!」
「かしこまりました。のちほどお手伝いしていただけますかな?」
一緒に行く気のドアは城の一部だがいいのか、と思うが、行きたがっているのなら止める気はない。
蝶番を外す手伝いをスティーブンが了承したところで、一旦お開きになった。
ここからは一気に慌ただしさを増す。
朝食を食べ終えたらギルベルトとの約束どおりドグの蝶番を外してやる。するとドアは閉じたままひとりでに動き出し、身体が軽いと言って外ではしゃぎだした。
なんとも妙な光景だが、今更といえば今更だ。
それからスティーブンは自室でギルベルトが洗濯を済ませた自分の服に着替え、胸ポケットに使い道の分からない板が入っていることを確認する。
上手く言えないがこれは大切なものだという認識はあり、ジャケットの上からそっと手を当てて小さく頷いた。
左腕の腕時計は、今も規則正しく時を刻んでいる。
「そろそろ時間だな」
短い間だったが世話になった部屋を一度だけ振り返り、ドアを閉めた。
そして3階への階段を上がり、ドアを軽くノックしてから開く。
「やあ、レオ。準備はいいかな?」
小さな体で一生懸命おもちゃを持ち上げては片付けをしているレオナルドが振り返った。
昨日は床に散らかっていたおもちゃのほとんどがどこかしらに身の置き場を得て、部屋はすっきりしている。
聞けばこの部屋は初めて来た時から散らかっていたそうで、なんとなくそのままにしておいたそうだ。それでも遣わせてもらった部屋だからと、一生懸命に片づけた彼をとても好ましく思う。
「きれいになりました?」
「ああ、見違えったよ。さて、最後の仕事をしようか」
最後の仕事は、アドベントカレンダーに入っていたバラを完成させること。
レオナルドと共にチェストの前に立ち、両手を彼の脇に添えて持ち上げる。小さな手でアドベントカレンダーの最後の数字を押して開けると、中から赤い花びらが出てきた。
ほぼ出来上がっているバラが置かれたテーブルへと、レオナルドごとそれを運ぶ。
楽しそうな彼を椅子の上へ置き、花びらを受け取った。
「このばらも、もっていきたいです」
「結局何のために作るのか、分からなかったのに?」
「そうなんですよね。なんでぼく、つくらなくちゃっておもったんだろ」
テーブルに両手を乗せて、小首を傾げるレオナルド。
結局、このバラを始めとして城のことは分からないままだが、むやみに首を突っ込むには時間がなさすぎる。
「このバラ……いや、城全体に何らかの意図があり、君はその影響下にあるんじゃないかな」
「じゃあ、ぼくがばらをつくらなくちゃっておもったのも、しろのせいです?」
「僕らが記憶をなくしても平然としているのも、ね」
素直に受け入れたレオナルドは項垂れてバラを完成することに躊躇し始めている。
とはいえこのバラを完成させることが現状を好転させる可能性もないとはいえない。どちらに転ぶか分からないうえに、スティーブンには時間がない。
ならば、さっさと結果を出してしまった方が早い。
「あー! まだなやんでたのにーっ!」
決められないレオナルドを無視して、最後の花びらをバラにつける。
ブロックなので丸みはなく角張ってはいるが、それは確かに美しく咲く真紅のバラ。てっきり完成した瞬間に何かが起きると思ったのだが、バラは沈黙したままだ。
いや、なんとなくバラを縦にした瞬間、それは起きた。
「ひかってます!」
レオナルドの言うとおり、バラは花びらから茎へと赤い光に包まれていく。そしてスティーブンの手を離れてもその場に浮いた。
息を呑み、薔薇の変化を注意深く見守る。
ぱきっ、と硬いものが弾ける音がした。
「……これ、やばいきがします」
「……同感だ」
弾けたのは、ブロックで作られたために棘がない茎。見れば茎は割れているのだが、その中にふたりが困惑するものが見えたのだ。
細い茎の中とは思えない、鋭い棘が無数に生えた蠢く蔦。
顔を引きつらせたレオナルドを速やかに抱き上げ、スティーブンはバラから後退った。
「バラがデカくなってるよな!?」
「なってますね!?」
ブロックのバラ全体が膨張し始めた。同時にひび割れは大きくなり、中から窮屈そうにしていた蔦が弾けるように飛び出してくる。自身の身を守るだけとは思えない鋭利な棘が、木製のテーブルに突き刺さる。
「こいつ、つるバラだったのか!」
「スティーブンさん、いまはそれどころじゃないですよ!」
急速に大きくなってくるバラの蔓が、ふたりに向かって飛んでくる。
咄嗟に避けて部屋の出口へと向かい、スティーブンは踊り場へと飛び出した。振り返ればすでに蔦は部屋中に埋まるほど溢れだし、わずかに見える花はブロックではなく生花と化している。
その毒々しい赤に、さすがのスティーブンも顔を引きつらせた。
だが、悠長に見ている暇はない。獲物だと認識したのか、蔦の先端が勢いよくドアから飛び出してきたのだ。それをすかさず避けて階段を駆け下りて2階へ。そして1階へ続く大階段へと走っていった。
1階の玄関ホールでは、クラウスたちがすでに集まっている。
「遅いぞ、陰毛毛玉」
「それどころじゃないです! みなさん、そとへにげてくださーい!」
レオナルドの叫びにザップが見上げ、驚きに固まった。
2階からありえない太さの棘付き蔦がタコ足のように蠢きながら飛び出してくるのだから無理もない。
「総員退避!」
クラウスが号令をかけ、道具たちが一斉に外へと飛び出していく。
普段はバラバラのくせに、見事に統率が取れた動き。スティーブンも階段の半分ほどを飛び降りてショートカットすると、脇目を振らず城を飛び出した。
「こちらへ!」
相変わらず霧に包まれた城の前では、幌のない馬車の御者台に載ったギルベルトが。だがこの馬車、馬がいない。
いったいどうするんだと戸惑うが、ドアを除く全ての道具たちが乗り込んでいるので疑っている暇はない。駆け寄ってまずはレオナルドを放り込み、次にスティーブンが乗り込むと、なんとドアのドグがロープを自身の身体にかけて走り出した。
「みなさん、しっかり捕まっててくださいね!」
そして、なぜか速い。
一瞬にして加速した馬車はすさまじい勢いで城から遠ざかっていく。
風を起して霧を切り裂き、これならば異形のバラから逃げられる。
誰もがそう思っただろう。だが、そうは上手くいかなかった。
何か硬いものが当たる痛々しい音がしたと思った瞬間、後輪が外れて馬車はバランスを崩す。勢いがついた馬車は跳ねるようにひっくり返り、全員が投げ出されて地面に叩きつけられた。
「大丈夫!?」
馬車を引いていたドグは割れることなくすぐに立ち上がり、クラウスたちもすぐに体制を整える。
唯一レオナルドが軽さゆえに高く放り出されて転がってしまったが、地面に落ちる前にスティーブンが受け止めることが出来た。
「うう……、めがまわりました……」
「それだけですんだのなら良しとしろ。それより今は、あのデカブツだ」
「大きすぎ、ですね……。レオ君が育てたんですか?」
「なによ、あのバラ!」
K・Kの怒鳴り声に、真面目なツェッドの問いかけが半ばかき消される。
確かに作ったのはレオナルドとスティーブンなので、育てたと言いえなくはないが、こうなると分かっていたら絶対に育てることはなかったので、不可抗力だと言わせてほしい。
いや、今はそれどころではない。
城の天井を突き破った馬鹿馬鹿しいほどに巨大過ぎる赤いバラの蔓が、あちこちの窓を突き破って外に飛び出てきている。それだけではなく馬車の近くには、バラが飛ばしたと思わる棘が地面に突き刺さっているのだ。
敵意をむき出しにしたバラは、あきらかにスティーブンたちに狙いを定めている。
「逃げられると思うかね?」
「どうだろうなぁ。僕の考えが正しければ、あのバラは最初からアドベントカレンダーを開けた者をどうにかするだったんじゃないか? だとしたら、狙いはレオだ」
仲間たちを守るように、クラウスとスティーブンが前に立った。
しかし今、スティーブンの腕の中にはバラが狙っているであろうレオナルドがいる。誰かに彼を預けるには、戦力がなさすぎだ。
「あ、あの、スティーブンさん。ぼくをおろしてください。ぼくがおとりになりますから、みなさんは……」
「駄目だ。君はそんなことを言う奴じゃないだろう? もっと僕らを信用しなさい」
「で、でも!」
「そうだね。あんなにデカくても植物なんだし、燃やせばいい」
「犬女の言うとおりだぜ。……ってんな火、どこにあるんだ?」
対策は分かっても、実行するためのものがない。
それをツッコまれた瞬間、ザップの顔にチェインことアイロンがのめり込んだ。
「なんにせよ、レオは囮にならなくていい」
「でも……」
納得がいかないのか、でも、と情けない顔で繰り返すレオナルドが堪らなく愛おしく、同時にこんな顔をさせてしまう自分が歯痒い。
そうこうしている間に迫ってきた蔦を皆が躱していく。上から叩きつけるような蔦に徐々に分断され、集まりたくても蔦が邪魔で上手くいかない。防戦一方に、スティーブンは舌打ちした。
「このままじゃ埒が明かないな。あれが呪術によるものなら、なにか核が……」
「スティーブンさん!」
考えをまとめようとしたところを大声で遮られ、何事かと振り返れば――顔が柔らかな毛に埋まった。
何が起こったのかと目を白黒させるが、唇に感じる毛とは違う柔らかな感触。
そして、スティーブンが見た彼の最後の笑顔が離れていく。
「さようなら、スティーブンさん。だいすきです」
腕からすり抜けるように落ちていったレオナルドは、転がりながら蔦を躱し、スティーブンたちとは別の方角へと走っていく。
囮になると決めた小さな背中に、スティーブンの中で何かが弾けた。
人が止めても勝手に突っ走ってがむしゃらに駆け抜け、気づけば世界を救っているあの平凡で気高い青年の背中を、いつのまにか目で追っていた日々が走馬灯のように駆け巡る。
輝くような笑顔、心から人を想う泣き顔、臆することのない怒り、気が緩んだ顔。全てが愛おしく大切だということを忘れていた自分が、あまりにも腹立たしい。
「こんなことをして、ただで済むと思うなよ」
低い、静かな怒りがにじみ出た声と共に周囲の空気が冷えていく。
息が白くなり、ぱき、ぱき、と水分が凍る音が聞こえた。
「エスメラルダ式血凍道――絶対零度の地平」
スティーブンを中心にまず地面が凍結し、地面に触れた蔦が瞬時に凍っていく。そして、砕けた。
しかし城のバラまで凍らすことはできず、蔦も回復して次々と襲ってくる。そのほとんどがレオナルドに向けられたものだったが、スティーブンは蔦を蹴って移動に使い、瞬時にレオナルドの傍に立つと彼を背中に庇った。
「絶対零度の盾」
地表から勢いよくせり出した巨大な氷が盾となってレオナルドを守る。
そして咄嗟にしゃがんだ彼を抱き上げると、スティーブンは震える頭にそっと唇を落とした。
「無茶しやがって」
「す、スティーブンさん……」
「バラを倒す。それまで、僕から離れるんじゃないぞ」
自信に満ちた声に何かを気づいたのか、レオナルドはぱっと表情を明るくすると、元気に「はい!」と頷いてスティーブンにしがみついた。
「頼んだ、スティーブン!」
「番頭、やっちまえー!」
「さっさと終わらせなさいよね!」
「スティーブンさん、レオ君、頼みます」
「お願いします」
「我々も努力いたしましょう」
「頑張ってねー!」
「とっととどうにかしやがれ!」
今も蔦を躱して逃げる、姿が違う仲間たちの声援を背に受けてスティーブンは駆け出す。
動き出したスティーブンとレオナルドに気づいた蔦が一斉に攻撃を仕掛けてきた。頭上から突き刺さんとばかりに勢いよく落ちてくる蔦を避けて城へと向かう。
腕の中でレオナルドが時折悲鳴を上げるが、しっかりとスーツを握った手の感触に自然と気分が高揚する。
「スティーブンさん!」
真正面から振り下ろされた蔦を紙一重で避けたスティーブンは、そのまま地面を蹴って飛び上がった。棘を足場にしてさらに高く宙を舞い、柔軟に動くくせに硬く滑ることはない蔦の上に着地する。
だが、それを大人しく許すはずがない。スティーブンが乗ったことを察した蔦はこれまで以上に暴れ出したのだ。
「このデカさなら俺が乗ったところで、大して気にならんだろ。意外とデリケートなやつだな」
「ぼくもじゅうぶんでりけーとで……うぷっ」
「スーツは汚すなよ」
「なら、もうすこししずかに……おぎゃぁぁぁぁぁ!?」
迫る蔦を凍らせては動きを止めたスティーブンは、レオナルドの叫びが周囲に響き渡るのを無視して一気に城まで駆け抜けていった。
どれだけ頑丈なのか未だに壊れない城に絡まる蔦を登るのはかなり急勾配だが、皮肉なことに滑らない蔦のお陰で、動きに気をつけさえすればさほど苦労はしなかった。もっとも、激しい揺れに腕の中のレオナルドはずいぶん前にぐったりとしているが。
なんにせよ、スティーブンは城の屋上に立った。
息を乱さず、汗ひとつかかない涼しげに微笑を浮かべる男の姿をバラがどのように見ているかは分からない。いや、知るつもりなど微塵もない。
「悪いが、僕らは今日中に帰らなくちゃならないんでね」
天に向かって咲き誇る巨大なバラに、愛着などないのだから。
「エスメラルダ式血凍道――絶対零度の剣」
背後から襲い掛かってきた蔦を避けると同時に飛び上がり、巨木に等しい太さの幹を蹴りつける。靴裏に刻まれた十字の刻印から放たれた血は瞬時にして幹を貫く氷となり、その氷は水を通す道管へと達し――内側から全てを凍らせて喰い破り、猛威を振るい続けたバラは美しい氷の彫刻となって静かな輝きを放つこととなった。
この毛玉も自分のことを野獣だと言っていたが、もしかしたらこの物語から自分のことをそうだと判断したのだろうか。だとしたら、やはり野獣というより毛玉だ。
「レオは野獣らしくないよなぁ」
「ぼくはりっぱなやじゅうですよ!」
両腕を上げてそうやって怒るが、人の腹にもたれながらではなんとも迫力に欠ける。いや、愛嬌のある顔でどれだけ怒っても、まったく怖くないどころかつい笑いが零れてしまう。
本を足の上に置き、空いた手でレオナルドをやんわりと抱きしめた。
「君は野獣じゃない、レオナルドだ。そうだろ?」
「……そうです、ぼくはレオナルド。スティーブンさんがだいすきなレオナルドです!」
にっと白い歯を見せられ、さすがにこれには面食らう。
昨日出会ったばかりだというのに、どうしてこの毛玉は臆面もなくそんなことが言えるのか。だが悪い気は全くなく、むしろ胸の奥がじんわりと温かくなるほど嬉しかった。
「どうしてかなぁ、出会ったばかりなのに、僕も君が可愛いよ」
ペットみたいだから。
「えと、えと、うわー、はずかしいですっ」
自分が口に出した時はなんともなかったくせに、スティーブンから伝えた途端に照れて腕の中でもがきだす。
本当に可愛い小動物だと苦笑しながらも、腕を解いてやるつもりはなかった。
それに、新たな問題の謎も未だに解けていない。
レオナルドが暴れたせいでスティーブン膝から落ちた『美女と野獣』。
この本と奇妙に一致するものがある。
ひとつは自身を野獣だといったレオナルド。彼に仕えている道具たち。レオナルドの部屋にあったバラの立体パズル。
アドベントカレンダーならば、レオナルドは今日の分を開けたのだろうか。そしてあのパズルにはどんな理由があるのだろうか。
「はいはい、暴れるな。僕はこれから本を読むが、君はどうする?」
「ぼくもほんをよみますよ。スティーブンさんとおはなししてたら、おもいだしたおはなしがあるんです」
暴れるのをやめてスティーブンの膝から下りたレオナルドは、読み終えた美女と野獣の絵本を胸に抱えるようにして持ち上げた。
「へぇ、どんな話?」
「ゆうれいにさらわらたおひめさまをたすけにいく、かめのきしのおはなしですよ。でも、たいとるがわかんなくて」
その話には聞き覚えがないが、亀の騎士の一言には何か引っかかるものがあった。どこかで聞いたことがある気がするのだが、それがどこなのかさっぱり思い出せない。
顎に軽く指を添えて考えてみるが、とても大切な誰かの称号だったような気がするし、そうじゃなかったような気もする。
「……僕もその話を知っているような? いや、思い出せないな」
「スティーブンさんも!? じゃあ、ぼくがみつけたらいっしょによみましょうね!」
レオナルドはそう言うと、スティーブンの読書を邪魔してはいけないと思ったのか、絵本をその場に置いてひとりで本を探しに2階へと上がっていった。
初めて見るレオナルドの階段の上り方は、両手を使って1段1段よじ登っては立ち止まり、また上っては立ち止まるというもの。足の短さゆえに仕方がないが、じれったくて手伝いたくなってしまう。
目を細めてその姿を観察していると、意外に早くレオナルドは2階へとたどり着いた。そうなるとスティーブンのいる部屋の隅からではレオナルドの姿は見えない。
ひとりきりになってようやく落ち着いて本が読めると思ったのに、なんだかむしょうに落ち着かない。レオナルドがいた空間がぽっかりと空いてしまった寂しさだと気づくのは、彼が置き去りにした絵本を手に取ってしまったからか。
「真実の愛、か」
そんなものがはたして自分にあったのだろうか。
思い出せない記憶の中に、それらしいものがあるのだとしたら、取り戻したいと思う。しかし同時に、なぜか記憶がないことに焦らない自分がいる。
今ではレオナルドと共にいるのなら、ここも悪くないと思えるほどに。
「いいわけないだろ……」
記憶をなくしても忘れない。
大切な何かを、探していることを。
結局探していた本はみつからなかったまま昼食の時間となり、その後レオナルドはスティーブンとの昼寝を所望した。これが毎日のルーティンだというが、だとしたらこの短足毛玉は相当運動不足ではないのだろうか。
そう思って外を散歩することを提案したが、寒いから嫌だと断られた。
「クリスマスが近いんだぞ? 寒いのは当然だろう。それなのに引きこもってばかりでは脂肪が増えるばかりじゃないか」
「そうだ、忘れてました!」
諭そうとしたというのに、レオナルドは別のことを思い出したらしい。
慌てて廊下をぱたぱたと走っていくので普通に歩いて後を追いかけると、彼は自室へと続く階段を上がろうとしていた。
相変わらず1段1段上がるのがじれったく、途中から担いで共に上がる。
昨日のように腕の中で文句を言うどころか、「いつもこうならいいのに」などと今日は人をエスカレーター扱いしているので、落としてやろうかとつい思ってしまったのは仕方がない。
そうしてやってきた彼の自室のドアを開けたところでレオナルドを下ろした。そして追い返されると思ったのに、今回は素直に入れてくれて。
「僕も入ってよかった?」
「ぼくにむだんじゃなければいいですよ。それに、きょうはとくべつです」
レオナルドが向かったのは、例のアドベントカレンダー。
「スティーブンさん、きょうのところをあけてください」
「いいの?」
彼が大切に毎日開けているものだと思ったのでそう尋ねたのだが、レオナルドは嬉しそうに頷いて、再びドアの前に立つスティーブンに駆け寄ってくる。
「もちろん! それでですね……あの、ぱずるをくみたてるのをてつだってもらえたらいいな……なんて」
少し恥ずかしそうにもじもじとするレオナルドに、スティーブンは事情を察して噴き出した。
今朝にこの部屋に来た時、テーブルの上のブロックが組み立てられていないのは、単純にブロックが少ないから保留にしてあるのだと思っていた。
しかし本当はそうではない。
レオナルドがパズルの組み立てに苦労して、放置していただけのことだったのだ。
「わ、わらうことないでしょう!? ぼくのてだとちっちゃいぶろっくをもつのにひとくろうなんですよ! すぐにおちちゃうしすっげーたいへんなんです!」
「すまんすまん、そうだな。たしかにその小さな手では大変だ」
カトラリーを掴むことすら大変なのだ、スティーブンの爪のサイズほどしかないブロックをはめ込むという作業は骨が折れるに違いない。
アドベントカレンダーの今日の日付を開けると、真っ赤なバラの花びらが1枚出てきた。それをつまみ上げ、床に散らばったおもちゃを避けながらレオナルドと共に作りかけのバラが置かれたテーブルへ歩いていく。
レオナルドを椅子に載せたら、スティーブンは立ったまま散らばった花びらを1枚1枚丁寧に組み立てる。
ブロックは単純な作りだが、1枚はまるたびにレオナルドが歓喜の声を上げるものだから、スティーブンも嬉しくて瞬く間に今ある分のブロックを組み立てることが出来た。
「やっぱりスティーブンさんはすごいですね」
「褒めても何も出ないぞ」
「でなくていいですよー」
何が面白いのか、クスクスと笑うレオナルド。
外側の花びらが足りないバラをくるくると指で回しながら、スティーブンは不意に疑問を口にした。
「なぁ、レオナルド。君は美女と野獣の話を読んだ時に、その話が好きだった人物を思い出せないと言ったよな? もしかしてなんだが、君はここに来る前のことを覚えていないとか……いや、そんなことはないよな」
「そうです! スティーブンさん、なんでわかったんです!?」
導入はこれくらいにして、たとえ違っていても自分のことを交えながらさりげなくレオナルドのことを探っていこうとしたのに、彼の反応はとても素直で早いものだったことに少々驚く。
なにせ迂闊に自分のことを話せば、それは弱点となりえる。余程気心が知れた相手であってもそこは警戒すべきだと思うのに、一度懐に入れた相手には開けっ広げというか、なんとも警戒心がなくて拍子抜けだ。
「なんとなく、ね」
「……あのですね、ぼくはきがついたらこのしろにいたんです。くらくてさむくて、だれもいなくて。さみしくてこわくてないてたら、ザップさんたちがうごきだしたんです。それからみなさんとすんでます」
「いつ頃から?」
「あのあどべんとかれんだーをあけたひから」
レオナルドが手で示して見せたのは、たった今スティーブンが組み立てたバラのブロックが入っていたアドベントカレンダー。
クリスマスツリーを模したアドベントカレンダーの大半がすでに開いているわけだが、基本的にアドベントカレンダーのボックスは24個。だとすれば彼は12月1日からここにいたことになる。
「アドベントカレンダーは、最初からここに?」
「はい。ザップさんたちもおしろのことをしらないっていったから、みんなでしらべたんです。そうしたらこのへやがあって、ちっちゃいからちょうどいいってザップさんがここをかってにぼくのへやにしたんですよ!」
当時のことを思い出したのか、両腕を上げては下げてとせわしなく動かして怒るレオナルド。
ここは子供部屋のようなので、子ども扱いをされたのが気に入らなかったのだろう。しかしながら彼のサイズにこの部屋がちょうどいいのは確かだ。
「なら、この城の調度品は君が来る前にはすでにあったということか」
「たべものやのみものはかってにほじゅうされるって、ギルベルトさんがいってました」
「つまり、どこの誰か分からんが、この城を管理しているやつが他にいる可能性が高い」
腕を組んで天井を見上げたことに意図はない。無意識に行ったことなのだが、なんとなく以前はその行動に意味があった気がする。見上げた先に誰かがいた、そんな感覚だ。
どうにも記憶が曖昧になっていくというのに、それに対して危機感を抱いていない自分へうすら寒さを感じることが出来たのは、大きな変化だ。
おそらくだが、確信に近づいていることがスティーブンに変化をもたらしているのだろう。
レオナルドと共にいてもいいと思う気持ちは変わらないが、それだけでは切り離すことの出来ない何かがしっかりと自分の中に根付いているのを感じる。
「話を戻そう。レオ、君はどうしてアドベントカレンダーを律儀に作ってるんだい」
天井から視線を下げてレオナルドへ向けると、彼はテーブルを回りこんでスティーブンの足元へやってきた。
何も言わないがだっこをしてほしいのだろうと思って、そっと毛玉を抱き上げる。
重くはないが、こうも毎回手がふさがってはいざという時に動きづらくなりそうだ。
「わかんないですけど、なんとなくつくらなくちゃっておもいまして。なんででしょうねぇ」
「君が分からないことは、僕にも分からんよ」
小首を傾げたレオナルドの頭を無造作に撫でると、彼は嬉しそうに笑って。
しかしスティーブンの鋭い視線は、どこにでも売っていそうなアドベントカレンダーを射貫いていた。
「……後1日か」
残っている日付は1つ。
つまり明日はクリスマスイブ。
この日までにはどうしても探している何かをみつけ、帰らなくてはならない。
そんな考えが脳裏に浮かんだ。
「レオ、僕はなんとしても帰らなくてはならない。その時、君を置いていくことが心苦しい」
撫でるのをやめて抱きしめたレオナルドが、そっと小さな手を上げてスティーブンの頬に触れた。消えることのない傷に感じる柔らかさが、とても愛おしい。
だからこそ、別れるのが辛い。
「ぼくも、スティーブンさんとおわかれしたくないです。どうしてかな、あったばかりなのに、スティーブンさんといるとぽかぽかしてしあわせなんです」
抱きしめる腕に力を込め、アドベントカレンダーから目を逸らす。
「スティーブンさんがいてくれるだけで、ぼくはうれしいです……ふぁ……」
習慣である昼寝を遅らせたせいか、レオナルドは大きく欠伸をして目をこすって。
今にも眠ってしまいそうな背中を撫でてやると、顔をすり寄せてくる彼の柔らかな毛が頬に当たった。
「昼寝はベッドで?」
「そうですけど……きょうはスティーブンさんといっしょがいいです」
どうしようもなく可愛らしいと思うようになってしまったのは、名前を付けたことで愛着を感じでしまったせいだろうか。
「なら、暖炉がある居間にするか。ギルベルトさんに火を熾してもらえるよう頼んでみよう」
返事はなく、見ればレオナルドはすでに腕の中で身体を丸めて眠りに落ちている。
無防備に寄りかかってきた柔らかく温かな重みに、スティーブンはくすりと笑って両手で彼の身体を支えた。
不思議な毛玉との生活は、とても穏やかでぬるま湯に浸りきったような感覚に陥る。レオナルドが昼寝をしていると眠気がうつったのか、スティーブンまで寝てしまった。
未だに警戒を怠ってはならないはずなのに、この体たらくはなんだと起きた時には少々落ち込みもした。だが原因がレオナルドにあるのはよく分かっている。
彼のふさふさした毛皮を撫でつつ完全に腑抜けた寝顔を見ていると、どうしても眠たくなってしまったのだ。
ペットを飼っている知人が同じような状況に陥ってしまったことを思い出すが、困ったことにその知人のことはまったく思い出せなかった。
「記憶力は悪くないと思っていたんだが……いや、やはりこの城に何かあるんだろうな」
スティーブンもレオナルドも、そのせいで記憶をなくしてしまっているに違いない。そしてそれを焦ることすらしないなにかも、同様に城が何か影響していると考えるのが自然だろう。
起きた後は再び図書室で本を読み漁り、その間もレオナルドは傍で惰眠を貪っていた。
この毛玉はやることがないとほとんど寝ているらしいから、これが彼にとって普通なのだろう。
ゲームのひとつでもあれば退屈はしないか。そう考えてみるが、なにせここはずっとレオナルドと道具たちしかいなかった。普段何をやっているのか、ほとんど姿を見せない道具たちはそういったことを行ってこなかったというのだから、仕方がないのかもしれない。
このまま行くと年明けには丸々と太っていそうな毛玉は、夕食をしっかりと食べ、また風呂に入っては人に乾かしてもらいながら退屈だと大きなあくびをする。
乾かし終えた頃にはすっかり寝てしまっていて起こすのは忍びなく、そっと彼の自室に運んでベッドに寝かせた。
なんとも平和で、なんとも物足りない1日が過ぎていく。
夜が更けても眠くならないスティーブンは、すでに鍵がかけられた2階からではなく、1階から図書室に入って数冊の本を拝借して自室に戻った。
持ってきたのは呪術や魔法に関係するものが主だが、不思議なことにこれらは元々知識があったのか、するすると頭の中に入ってくる。
ベッドに腰かけて心許ないランプの薄明かりを頼りにして本を読みふけっていると、不意にドアをノックする音が聞こえた。
本を閉じ、ドアに歩いていく。
音が聞こえた位置から誰のものか分かっていたので、確認することなく開き、目線を下げた。
「こんばんは、レオナルド。枕と一緒に夜の散歩かな?」
自分の枕を抱えて少し恥ずかしそうに俯くながらも上目遣いで見上げてくるのは、もちろんレオナルド。
もじもじと身体を左右に揺らすのを黙って見つめていると、やがておそるおそるといった感じで口を開いた。
「あの、あのですね……きょう、スティーブンさんといっしょにねたら、だめ……です?」
「ひとりは寂しかった?」
「そ、そんなことありませんよ! ぼくはいっつもひとりでねてるんですからね! で、でも、スティーブンさんがさびしいかなーなんておもっちゃったりしちゃいまして……ってうそ! いまのはじょうだんですから!」
わあわあと勝手にわめいて騒ぐレオナルドの言い訳と慌てっぷりに、スティーブンはつい噴き出してしまう。
「そうだな、どうにもひとりでは寂しくて寝られなかったんだ。君なら、ちょうどいい抱き枕になりそうだ」
「だきまくらじゃありませんけど、スティーブンさんがそこまでいうなら、はいっちゃおうかなぁ」
ドアを押さえながら彼の前を開けてやれば、レオナルドは素早く部屋の中へと入ってきた。
そしてベッドに上がろうとしたが枕が引っかかってじたばたするので手助けすると、こちらに何かを言う前にいそいそと枕を置いて整えている。
その仕草のひとつひとつがどうにも愛らしくて、心が自然と休息を欲するようになっていた。
「あれだけ昼寝をしたっていうのに、よく寝られるなぁ」
「ねるこはそだつんですよ」
「まだ育つんだ」
「ぼくはまだせいちょうきです! ……たぶん」
自信がないと言いたげに声が小さくなっていくレオナルドは、ベッドの中へ潜り込んでいった。
濡れるとずいぶん細くなるし、今のふさふさとした毛は冬毛の可能性だってある。野獣だというくらいだからそれなりに大きくなる可能性も言い切れないということなのだろうか。
だがベッドから顔を出し枕に頭を埋めた小さな獣に、出来ればこのまま成長しないでいてほしいと身勝手な考えを抱いてしまうのは、その愛らしさゆえなのだ。
スティーブンもパジャマに着替え、ベッドに入る。
まだ眠気らしい眠気はほとんどないのだが、隣で幸せそうに糸目を細めるレオナルドを見ていると、良い安眠が得られそうな気がした。
「えへへ、スティーブンさんのかおがちかいです」
「嬉しそうだなぁ」
「だってスティーブンさんといっしょですもん」
こちらが照れるようなことを余すことなく伝えてくるレオナルドに返す言葉がみつからず、苦笑ともとれる曖昧な笑みを浮かべるしかない。
「ずーっとスティーブンさんといっしょだったらいいのに」
別れが来ると分かっているからだろう、彼は消え入りそうなほど小さな声で呟いて、布団の中に顔を隠した。
これが、スティーブンを動かすとも知らずに。
「レオナルド」
布団を捲り、小さくうずくまったレオナルドに優しく声をかける。
スティーブン自身が密かに驚くほど柔らかい声音に、彼はゆっくりと顔を上げた。
泣きそうなだったくせに無理に笑った顔が、たまらなく愛おしく、同時に胸が締め付けられる。
だが、もうスティーブンの気持ちは決まっていた。
「俺と城を出よう」
驚いて口も瞳も大きく開かれ、レオナルドの不可思議な青い瞳がスティーブンを照らす。
暗がりに見る青は、成層圏から見る地球を思わせるほど美しかった。
「ぼくが、スティーブンさんと? でも、おしろや、みなさんは……」
「城は君が来る前からあった。つまり君が城主じゃなくても大丈夫ってことさ。あいつらも連れていこう。きっと賑やかだ」
「いいんです? ほんとうに、いいんです?」
興奮のあまりレオナルドは起き上がってベッドに座り、前のめりになって何度もそうスティーブンに尋ねてくる。
そのたびに「本当だ」と言うスティーブンの顔は自然とほころんでいった。
「スティーブンさん、だいすきです!」
胸の中に飛び込んできたレオナルドを抱きしめ、この柔らかなぬくもりを守ると誓う。
そして確信はないが思うのだ。
自分が探していたのは、彼ではないのか、と。
翌朝、早起きをしたレオナルドと共に道具たちへこれからのことを伝えた。
玄関ホールに集まった道具とドアは、意外にも反対しなかった。
「レオナルド君が決めたことだ。我々も共に行こう」
「ま、正直ここじゃ退屈だしな」
「僕もお供しますよ、レオ君」
「馬鹿猿が何やらかすか分からないし、ついていくよ」
睨みあうコートハンガーとアイロンはさておき、反対はしなくても不安を口にしたのはK・Kだった。
「外に出るのはいいけれど、行く当てはあるわけ?」
「それについてなんだが、レオの鼻が頼りだ。彼は霧の中で僕をみつけ、迷うことなくこの城に帰ってきた。いざという時に頼りになる」
「まさか、そのためにレオっちを連れてくって行ったんじゃないわよね?」
ランプに睨まれてその手があったかと今更ながら思うが、今のスティーブンにその気はない。
違うと否定したが、彼女は鵜呑みにすることなく「ふぅん」と曖昧な返事を返してきた。
「ぼくにおまかせください!」
「では、朝食の後に必要なものを用意いたしましょう」
「僕たちは外して連れてってもらえたらいいな。ね、デルドロ!」
「かしこまりました。のちほどお手伝いしていただけますかな?」
一緒に行く気のドアは城の一部だがいいのか、と思うが、行きたがっているのなら止める気はない。
蝶番を外す手伝いをスティーブンが了承したところで、一旦お開きになった。
ここからは一気に慌ただしさを増す。
朝食を食べ終えたらギルベルトとの約束どおりドグの蝶番を外してやる。するとドアは閉じたままひとりでに動き出し、身体が軽いと言って外ではしゃぎだした。
なんとも妙な光景だが、今更といえば今更だ。
それからスティーブンは自室でギルベルトが洗濯を済ませた自分の服に着替え、胸ポケットに使い道の分からない板が入っていることを確認する。
上手く言えないがこれは大切なものだという認識はあり、ジャケットの上からそっと手を当てて小さく頷いた。
左腕の腕時計は、今も規則正しく時を刻んでいる。
「そろそろ時間だな」
短い間だったが世話になった部屋を一度だけ振り返り、ドアを閉めた。
そして3階への階段を上がり、ドアを軽くノックしてから開く。
「やあ、レオ。準備はいいかな?」
小さな体で一生懸命おもちゃを持ち上げては片付けをしているレオナルドが振り返った。
昨日は床に散らかっていたおもちゃのほとんどがどこかしらに身の置き場を得て、部屋はすっきりしている。
聞けばこの部屋は初めて来た時から散らかっていたそうで、なんとなくそのままにしておいたそうだ。それでも遣わせてもらった部屋だからと、一生懸命に片づけた彼をとても好ましく思う。
「きれいになりました?」
「ああ、見違えったよ。さて、最後の仕事をしようか」
最後の仕事は、アドベントカレンダーに入っていたバラを完成させること。
レオナルドと共にチェストの前に立ち、両手を彼の脇に添えて持ち上げる。小さな手でアドベントカレンダーの最後の数字を押して開けると、中から赤い花びらが出てきた。
ほぼ出来上がっているバラが置かれたテーブルへと、レオナルドごとそれを運ぶ。
楽しそうな彼を椅子の上へ置き、花びらを受け取った。
「このばらも、もっていきたいです」
「結局何のために作るのか、分からなかったのに?」
「そうなんですよね。なんでぼく、つくらなくちゃっておもったんだろ」
テーブルに両手を乗せて、小首を傾げるレオナルド。
結局、このバラを始めとして城のことは分からないままだが、むやみに首を突っ込むには時間がなさすぎる。
「このバラ……いや、城全体に何らかの意図があり、君はその影響下にあるんじゃないかな」
「じゃあ、ぼくがばらをつくらなくちゃっておもったのも、しろのせいです?」
「僕らが記憶をなくしても平然としているのも、ね」
素直に受け入れたレオナルドは項垂れてバラを完成することに躊躇し始めている。
とはいえこのバラを完成させることが現状を好転させる可能性もないとはいえない。どちらに転ぶか分からないうえに、スティーブンには時間がない。
ならば、さっさと結果を出してしまった方が早い。
「あー! まだなやんでたのにーっ!」
決められないレオナルドを無視して、最後の花びらをバラにつける。
ブロックなので丸みはなく角張ってはいるが、それは確かに美しく咲く真紅のバラ。てっきり完成した瞬間に何かが起きると思ったのだが、バラは沈黙したままだ。
いや、なんとなくバラを縦にした瞬間、それは起きた。
「ひかってます!」
レオナルドの言うとおり、バラは花びらから茎へと赤い光に包まれていく。そしてスティーブンの手を離れてもその場に浮いた。
息を呑み、薔薇の変化を注意深く見守る。
ぱきっ、と硬いものが弾ける音がした。
「……これ、やばいきがします」
「……同感だ」
弾けたのは、ブロックで作られたために棘がない茎。見れば茎は割れているのだが、その中にふたりが困惑するものが見えたのだ。
細い茎の中とは思えない、鋭い棘が無数に生えた蠢く蔦。
顔を引きつらせたレオナルドを速やかに抱き上げ、スティーブンはバラから後退った。
「バラがデカくなってるよな!?」
「なってますね!?」
ブロックのバラ全体が膨張し始めた。同時にひび割れは大きくなり、中から窮屈そうにしていた蔦が弾けるように飛び出してくる。自身の身を守るだけとは思えない鋭利な棘が、木製のテーブルに突き刺さる。
「こいつ、つるバラだったのか!」
「スティーブンさん、いまはそれどころじゃないですよ!」
急速に大きくなってくるバラの蔓が、ふたりに向かって飛んでくる。
咄嗟に避けて部屋の出口へと向かい、スティーブンは踊り場へと飛び出した。振り返ればすでに蔦は部屋中に埋まるほど溢れだし、わずかに見える花はブロックではなく生花と化している。
その毒々しい赤に、さすがのスティーブンも顔を引きつらせた。
だが、悠長に見ている暇はない。獲物だと認識したのか、蔦の先端が勢いよくドアから飛び出してきたのだ。それをすかさず避けて階段を駆け下りて2階へ。そして1階へ続く大階段へと走っていった。
1階の玄関ホールでは、クラウスたちがすでに集まっている。
「遅いぞ、陰毛毛玉」
「それどころじゃないです! みなさん、そとへにげてくださーい!」
レオナルドの叫びにザップが見上げ、驚きに固まった。
2階からありえない太さの棘付き蔦がタコ足のように蠢きながら飛び出してくるのだから無理もない。
「総員退避!」
クラウスが号令をかけ、道具たちが一斉に外へと飛び出していく。
普段はバラバラのくせに、見事に統率が取れた動き。スティーブンも階段の半分ほどを飛び降りてショートカットすると、脇目を振らず城を飛び出した。
「こちらへ!」
相変わらず霧に包まれた城の前では、幌のない馬車の御者台に載ったギルベルトが。だがこの馬車、馬がいない。
いったいどうするんだと戸惑うが、ドアを除く全ての道具たちが乗り込んでいるので疑っている暇はない。駆け寄ってまずはレオナルドを放り込み、次にスティーブンが乗り込むと、なんとドアのドグがロープを自身の身体にかけて走り出した。
「みなさん、しっかり捕まっててくださいね!」
そして、なぜか速い。
一瞬にして加速した馬車はすさまじい勢いで城から遠ざかっていく。
風を起して霧を切り裂き、これならば異形のバラから逃げられる。
誰もがそう思っただろう。だが、そうは上手くいかなかった。
何か硬いものが当たる痛々しい音がしたと思った瞬間、後輪が外れて馬車はバランスを崩す。勢いがついた馬車は跳ねるようにひっくり返り、全員が投げ出されて地面に叩きつけられた。
「大丈夫!?」
馬車を引いていたドグは割れることなくすぐに立ち上がり、クラウスたちもすぐに体制を整える。
唯一レオナルドが軽さゆえに高く放り出されて転がってしまったが、地面に落ちる前にスティーブンが受け止めることが出来た。
「うう……、めがまわりました……」
「それだけですんだのなら良しとしろ。それより今は、あのデカブツだ」
「大きすぎ、ですね……。レオ君が育てたんですか?」
「なによ、あのバラ!」
K・Kの怒鳴り声に、真面目なツェッドの問いかけが半ばかき消される。
確かに作ったのはレオナルドとスティーブンなので、育てたと言いえなくはないが、こうなると分かっていたら絶対に育てることはなかったので、不可抗力だと言わせてほしい。
いや、今はそれどころではない。
城の天井を突き破った馬鹿馬鹿しいほどに巨大過ぎる赤いバラの蔓が、あちこちの窓を突き破って外に飛び出てきている。それだけではなく馬車の近くには、バラが飛ばしたと思わる棘が地面に突き刺さっているのだ。
敵意をむき出しにしたバラは、あきらかにスティーブンたちに狙いを定めている。
「逃げられると思うかね?」
「どうだろうなぁ。僕の考えが正しければ、あのバラは最初からアドベントカレンダーを開けた者をどうにかするだったんじゃないか? だとしたら、狙いはレオだ」
仲間たちを守るように、クラウスとスティーブンが前に立った。
しかし今、スティーブンの腕の中にはバラが狙っているであろうレオナルドがいる。誰かに彼を預けるには、戦力がなさすぎだ。
「あ、あの、スティーブンさん。ぼくをおろしてください。ぼくがおとりになりますから、みなさんは……」
「駄目だ。君はそんなことを言う奴じゃないだろう? もっと僕らを信用しなさい」
「で、でも!」
「そうだね。あんなにデカくても植物なんだし、燃やせばいい」
「犬女の言うとおりだぜ。……ってんな火、どこにあるんだ?」
対策は分かっても、実行するためのものがない。
それをツッコまれた瞬間、ザップの顔にチェインことアイロンがのめり込んだ。
「なんにせよ、レオは囮にならなくていい」
「でも……」
納得がいかないのか、でも、と情けない顔で繰り返すレオナルドが堪らなく愛おしく、同時にこんな顔をさせてしまう自分が歯痒い。
そうこうしている間に迫ってきた蔦を皆が躱していく。上から叩きつけるような蔦に徐々に分断され、集まりたくても蔦が邪魔で上手くいかない。防戦一方に、スティーブンは舌打ちした。
「このままじゃ埒が明かないな。あれが呪術によるものなら、なにか核が……」
「スティーブンさん!」
考えをまとめようとしたところを大声で遮られ、何事かと振り返れば――顔が柔らかな毛に埋まった。
何が起こったのかと目を白黒させるが、唇に感じる毛とは違う柔らかな感触。
そして、スティーブンが見た彼の最後の笑顔が離れていく。
「さようなら、スティーブンさん。だいすきです」
腕からすり抜けるように落ちていったレオナルドは、転がりながら蔦を躱し、スティーブンたちとは別の方角へと走っていく。
囮になると決めた小さな背中に、スティーブンの中で何かが弾けた。
人が止めても勝手に突っ走ってがむしゃらに駆け抜け、気づけば世界を救っているあの平凡で気高い青年の背中を、いつのまにか目で追っていた日々が走馬灯のように駆け巡る。
輝くような笑顔、心から人を想う泣き顔、臆することのない怒り、気が緩んだ顔。全てが愛おしく大切だということを忘れていた自分が、あまりにも腹立たしい。
「こんなことをして、ただで済むと思うなよ」
低い、静かな怒りがにじみ出た声と共に周囲の空気が冷えていく。
息が白くなり、ぱき、ぱき、と水分が凍る音が聞こえた。
「エスメラルダ式血凍道――絶対零度の地平」
スティーブンを中心にまず地面が凍結し、地面に触れた蔦が瞬時に凍っていく。そして、砕けた。
しかし城のバラまで凍らすことはできず、蔦も回復して次々と襲ってくる。そのほとんどがレオナルドに向けられたものだったが、スティーブンは蔦を蹴って移動に使い、瞬時にレオナルドの傍に立つと彼を背中に庇った。
「絶対零度の盾」
地表から勢いよくせり出した巨大な氷が盾となってレオナルドを守る。
そして咄嗟にしゃがんだ彼を抱き上げると、スティーブンは震える頭にそっと唇を落とした。
「無茶しやがって」
「す、スティーブンさん……」
「バラを倒す。それまで、僕から離れるんじゃないぞ」
自信に満ちた声に何かを気づいたのか、レオナルドはぱっと表情を明るくすると、元気に「はい!」と頷いてスティーブンにしがみついた。
「頼んだ、スティーブン!」
「番頭、やっちまえー!」
「さっさと終わらせなさいよね!」
「スティーブンさん、レオ君、頼みます」
「お願いします」
「我々も努力いたしましょう」
「頑張ってねー!」
「とっととどうにかしやがれ!」
今も蔦を躱して逃げる、姿が違う仲間たちの声援を背に受けてスティーブンは駆け出す。
動き出したスティーブンとレオナルドに気づいた蔦が一斉に攻撃を仕掛けてきた。頭上から突き刺さんとばかりに勢いよく落ちてくる蔦を避けて城へと向かう。
腕の中でレオナルドが時折悲鳴を上げるが、しっかりとスーツを握った手の感触に自然と気分が高揚する。
「スティーブンさん!」
真正面から振り下ろされた蔦を紙一重で避けたスティーブンは、そのまま地面を蹴って飛び上がった。棘を足場にしてさらに高く宙を舞い、柔軟に動くくせに硬く滑ることはない蔦の上に着地する。
だが、それを大人しく許すはずがない。スティーブンが乗ったことを察した蔦はこれまで以上に暴れ出したのだ。
「このデカさなら俺が乗ったところで、大して気にならんだろ。意外とデリケートなやつだな」
「ぼくもじゅうぶんでりけーとで……うぷっ」
「スーツは汚すなよ」
「なら、もうすこししずかに……おぎゃぁぁぁぁぁ!?」
迫る蔦を凍らせては動きを止めたスティーブンは、レオナルドの叫びが周囲に響き渡るのを無視して一気に城まで駆け抜けていった。
どれだけ頑丈なのか未だに壊れない城に絡まる蔦を登るのはかなり急勾配だが、皮肉なことに滑らない蔦のお陰で、動きに気をつけさえすればさほど苦労はしなかった。もっとも、激しい揺れに腕の中のレオナルドはずいぶん前にぐったりとしているが。
なんにせよ、スティーブンは城の屋上に立った。
息を乱さず、汗ひとつかかない涼しげに微笑を浮かべる男の姿をバラがどのように見ているかは分からない。いや、知るつもりなど微塵もない。
「悪いが、僕らは今日中に帰らなくちゃならないんでね」
天に向かって咲き誇る巨大なバラに、愛着などないのだから。
「エスメラルダ式血凍道――絶対零度の剣」
背後から襲い掛かってきた蔦を避けると同時に飛び上がり、巨木に等しい太さの幹を蹴りつける。靴裏に刻まれた十字の刻印から放たれた血は瞬時にして幹を貫く氷となり、その氷は水を通す道管へと達し――内側から全てを凍らせて喰い破り、猛威を振るい続けたバラは美しい氷の彫刻となって静かな輝きを放つこととなった。