Advent Rose
毒の混入も警戒した食事だったが、そんなものは一切なく、どこの高級レストランからシェフを連れてきたのかと思うほど美味だった。
食事の最中にさりげなく、この素晴らしい料理を作ったシェフに逢いたいと毛玉に申し出たのだが、すべてステッキの老紳士が行っているのだという。
いったいどうやって。という考えは勝手に動く皿やワインボトルを見てしまっては無用だろう。そしてそれはスティーブンの居室としてあてがわれた客室でも見て取れた。
申し分ない柔らかさのベッドに、濃い霧に包まれ続けているらしいこの城では想像ができない太陽の香りがするシーツ。掃除が行き届いた部屋は塵一つ落ちていないし、ご丁寧にパジャマやガウンまで用意してある。
「ますます訳が分からん」
毛玉は自分の部屋に戻ると言って部屋の前で別れたために今はひとりきり。翌朝は朝食のために起こしに来ると言っていたが、時間指定はしていない。
ベッドに腰かけたスティーブンは、ジャケットを脱いで手にしたまま、後ろに倒れこんだ。
その時内ポケットから硬いものが床に落ちた音がした。
起き上がって床を見ると、そこには見覚えのない黒い板が落ちていた。手に取ってみるが、見覚えがあるような、ないような。
なんだこれはと思うものの、なくしてはいけない気がしてジャケットの内ポケットに戻す。
「……ひとまず、探りを入れるべきか」
この場所が何なのか、そしてあの毛玉の正体はなんなのか。
明日にやるべきことを脳内で整理したスティーブンは、速やかに休息をとることにした。
霧に覆われた朝は日の出に反して薄暗く、分厚いカーテン越しではさらに部屋の中の夜が居座り続ける。
それでもスティーブンが夜明けより早く起きることが出来たのは、慢性的な眠りの浅さのせいか、初めての場所での緊張感ゆえか。
両方だろうな、と考えつつ、客室の洗面台で顔を洗い、律儀に用意されている剃刀で髭を剃る。
そして昨日着ていた服をそのまま着込んだ。
着替えを用意すると老紳士のステッキは話していたが、これ以上の厚意は申し訳ないとやんわり断った。元々長居するつもりはなかったのだし、自分のものを誰かに預けられるほど警戒が解けたわけではない。
眠る時も外さなかった腕時計を見れば、時刻は7時を回ったところ。たとえ誰かと会ったとしても、目が覚めたので散歩をしていたと言い訳しやすい時間だろう。
音を立てることなく部屋を出たスティーブンは、周囲に気配がないことを確認した。
カーテンのない廊下の窓からは輪郭をなくした光が差し込んではいるが、やはり薄暗い。速やかに移動をして、反対側にある図書室のドアに手をかける。だが、意外なことに昨日はかかっていなかった鍵が今朝はしっかりとかけられていた。
ここには何かがあり、見られることを警戒しているのか。
昨日の毛玉の態度と相まって直感的にそう感じたスティーブンだが、ここで鍵をこじ開けることは出来たとしても、毛玉が起きてくる前に調べつくすのは無理だと入るのは諦めた。
では次はどこを調べるべきか。
図書室のドアに背を向け、廊下の窓辺に歩いていく。
寂れた中庭に人の姿はなく、使用人の道具たちがいそうなところは論外。他に情報が得られそうな場所となれば――窓越しに見上げた先には、この城で唯一の3階部分。外側から見た分には、スティーブンにあてがわれた客室とほぼ同じ程度の部屋がひとつある程度だろうか。
毛玉は自分の部屋だと言っていたことから、彼はあそこで休んでいるに違いない。
スティーブンに対する警戒心がないし、動きもさして早くなかった。おそらく忍び込んだとしても、到底気づかれるとは思えない。ならば、と速やかに行動に移る。
廊下を回り込んで自室の前に戻り、誰もいないことを確認する。
さすがにこの時間になったら朝食に呼びに来てもいい頃だと思うのだが、ねぼすけなのか毛玉が来た様子はない。これなら部屋で毛玉と遭遇したとしても、来ないから代わりに起こしに来たと言い訳も出来るだろう。
その時を脳内でシミュレーションして、スティーブンは3階へと上がっていく。
これまでの階段よりわずかに急になっているが、はたしてあの毛玉が短い手足でどうやって階段を上り下りしているのだろうか。
不思議だ、と思っているとあっという間に3階にたどり着いた。廊下はなく踊り場にドアがある。こちらもごく普通の人間が使うドアだ。と、思っていたら下の方にペット用と思わしき小さな押戸が備え付けられていて。どうやら彼はここから出入りしているらしい。
それはさておき、と慎重に人間用のドアノブを手に取る。鍵はかかっておらず、ゆっくりと内側に開くことが出来た。
カーテンで光はなく、暗い室内。それなりに暗がりを見るのは慣れているので問題はなかった。
見渡すと、子供用の天蓋がついたベッドが部屋の真ん中に置かれている。これは前後の壁は窓、左右に扉があるからか。
どこからでも侵入者が入ってきそうな作りというのは落ち着かないな、と感想を心の中で零すが、同時に毛玉が目を覚ましたら隠れる場所がどこにもないことを知る。
他には立派なアンティークのチェストや小さな本棚、子供用のテーブルと椅子。そして床にはおもちゃなどが散乱していて。
これは確かに見られたくないかもしれない、と苦笑したスティーブンは、チェストの上にあるものに目を引かれた。
「アドベントカレンダー?」
つい小さな声を零した先にあったのは、クリスマスツリーを模したアドベントカレンダーだった。
すでに半分以上が開いているが、今日の日付はまだ閉じたまま。何が入っているかは分からないが、彼は律儀に毎日ひとつずつ開けているようだ。
部屋の様子といい、こういうところを見ると本当に彼は幼い子供のように思う。
正体は分からないが、スティーブンが求めている情報を持っているようには思えなかった。
ふと、気づく。
「僕が求める情報……?」
口に出してみるが、自分が何を求めていたのかを思い出せない。
それだけではない。あの霧烟る路地を歩く前はどこにいたのか、知り合いの顔も名前も分からなくなっている。
さ、と血の気が引いた。
「これが、この城の正体だというのか……」
早く逃げ出すべきだと、直感が警鐘を鳴らす。
よろめいた足が床に落ちている積み木に躓くことは回避したが、その時に目に入ったものは動揺するスティーブンの意識を引いた。
子供用の小さな丸いテーブルの上に、バラが飾られているのだ。
いや、カーテンのわずかな隙間から差し込む光に当てられたそれは、本物のバラではない。おもちゃのブロックを組み合わせて作っているらしく、幹は完成しているものの、テーブルに散らばった赤い花びらは数が足りていない。
おそらくだが、これがアドベントカレンダーの中身なのではないだろうか。
逃げ出したい感情より好奇心がわずかに強く動いた理由は、分からない。だがスティーブンの足は自然とテーブルに向いた。
「ん……おはよーです……ん?」
テーブルはベッドに近い。
そのことを忘れバラに集中したのがいけなかったか。
天蓋の中に納まった小さなベッドの中でもぞもぞと毛玉が起き上がり、呑気にくぁ、と大きなあくびをしては小さな手で目をこすっている。
予想していたはずなのに、予想外だったことのように面食らって硬直してしまったスティーブンと目が合うまで、大した時間はかからなかった。
「……すてぃーぶんさん、おはようございま……ふぇ?」
この時になって、ようやく毛玉は事の重大さに気づいたのだろう。
ポカンと開いた口から覗く獣らしい犬歯が、スティーブンに、向けられた。
「やぁ、おはよう」
「え、えと……なんで、ここに?」
寝ぐせなのだろうか、昨日見た時よりさらに毛があちこちに飛び跳ねて膨張した毛玉は、スティーブンの姿に戸惑っているようだ。
本来いるはずのないものがいるのだから当然の反応だが、慌ててシーツの中に飛び込んで恐る恐る再び顔を出す姿はどうにも愛嬌があって可愛らしい。
お陰で動揺している気持ちを隠すことが出来た。
「いつまでたっても君が起こしに来ないから、来たよ」
「え、えと、すてぃーぶんさん、はやおき?」
「とっくの昔に日は昇っているぞ、ねぼすけ」
勝手に部屋に入られたことと、からかわれたことで彼の自尊心が傷ついたのだろう。毛玉は勢い良く立ち上がると、ベッドから飛び降りた。いや、着地に失敗して前転した。
だがそれでめげることなく毛玉はずかずかとスティーブンの前に歩いてくると、あちこち跳ねた寝ぐせはそのままに、腰に手を当ててスティーブンを見上げる。
「しつれいしました! でもひとのへやにかってにはいってくるのはいけないことです! ぷらいばしーのしんがいです! あやまってください!」
謝るだけでいいのか、とうっかり聞きそうになったが、ここで彼の好意を無下にすることはないだろう。そこに、スティーブンは言葉を付け加えることにした。
「ごめんごめん。だが、僕には時間がなくてね」
「じかん?」
「一宿一飯の恩を返せないのは大変申し訳ないが、僕はもう帰らなくてはならないんだ」
毛玉は絶句した。
目に見えて分かるほど衝撃を受けたらしい毛玉は、開かないと思っていた瞼を思い切り開いて、青く美しい瞳をスティーブンに見せる。
その瞳はどの生物とも異なっていた。
幾何学模様が浮かんだ揺れる青の瞳。この瞳をどこかで見た気がするが、このように美しい瞳を見たら忘れることはないだろう。
何かが引っかかるが、それよりもとスティーブンは話を続けた。
「君がこの城の主であるように、僕には僕の役割がある。そこへ帰らなくてはならないんだよ」
「どうしても?」
「どうしても」
どこに帰るか分からず、ましてや帰るための道が分からないままだが、長居する必要はない。
こちらの決意が伝わったのか、毛玉は再び瞼を閉じて糸目に戻ると、肩を落としてがっくりと項垂れた。
分かりやすすぎる意思表示に少々胸が痛んだが、ここで絆されている暇はない。
「それじゃあな。元気で」
毛玉は項垂れたまま応えないが、それでいい。
踵を返したスティーブンは振り返ることなく部屋を出ると2階へ戻り、1階へと続く大階段へ出た。
一歩、また一歩と階段を下りていくと、かすかに鼻腔をくすぐる良い香りがする。おそらく、あの老紳士が朝食の支度をしてくれているのだろう。食べることが出来ず、申し訳ないことをした。
もしやあの老紳士たちなら何かを知っていただろうか。そんな考えが浮かんだが、後の祭りだ。
階段を下りたところで、なんとなく肩越しに振り返る。
この仕草にどのような意味があるのか。すぐに気持ちを切り替えて前を向き、眠っているのか大人しい玄関ドアへと歩いていく。
「まってください!」
小さな身体に見合わない大きな声がスティーブンに響いた。
振り返れば二階から飛び出してきた毛玉が短い足で転がるように――いや、実際に転がっている――中階段を下り、そのままの勢いで大階段を落ちてくる。
あまりに勢いよく転がっては弾むものだから、ついスティーブンは駆け寄ってしまった。
ころころと転がって1階に下りた毛玉が床に倒れるものだから、腰を屈めて様子を見てしまう。
「おい、大丈夫か?」
そして、声をかけてしまった。
目を回した毛玉はすぐには起き上がることはできなかったが、やがてのろのろと立ち上がり、ふらつきながらスティーブンの足にしがみついた。
「すてぃーぶんさん、いっちゃやです! ぼく、またひとりぼっち、やです!」
小さな手で必死にスラックスを掴み、顔を埋めて泣いているらしい毛玉にスティーブンの強固だったはずの意志がほろほろと溶けていく。
逃げ出すべきだと警鐘を鳴らしていた警戒心すら、今は完全に沈黙してしまっていた。
「やだ……すてぃーぶんさん、いっちゃやだ……」
力強い手とは裏腹に、弱々しくなっていく声。
気が付けば伸ばしていた手は、柔らかな毛を撫でていた。
「甘えただなぁ。君にはこの城のみんながいるじゃないか」
「そうですけど、でも、でも、すてぃーぶんさんがいなくちゃやです……!」
おもむろに毛玉を抱き上げ、頭を優しく撫でてやる。
こんなことを言われて見捨てられるほど冷徹になれない自分に小さく息を吐き、スティーブンは腕の中のぬくもりに苦笑した。
「分かった分かった。実はここを出た後、どうしたらいいか分からなくてね。それが分かるまで、ここにいてもいいかな?」
勢いよく上がった毛玉の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
濡れた毛が艶々しているのと同時に、スティーブンのスーツも濡れて色が変わっている。これは毛玉と一緒に洗うべきか。
だが、不思議と気分は悪くない。
「ふへへ、だいかんげいですよ!」
「そりゃどうも。さて、飯の前に君と僕の服は洗濯かなぁ」
「ぼく、せんたくものちがいます!」
「毛玉は洗濯だろ?」
「けだまちがうし!」
毛玉の大声が耳元で響き、さすがにうるさくて顔を顰めていると、ドアが目を覚まし、声が聞こえた道具たちがぞろぞろと出てくる。いや、コートハンガーだけはどこかでさぼっているらしく、その姿がなかった。
「酷いお顔ですな。では、朝食の前に湯浴みをされてはいかがでしょう。その間に、お客様の着替えを支度いたします」
「おふろいやです……」
泣いて怒ったと思ったら、今度は風呂が嫌で萎れた顔をする毛玉。
しかしながらこれから長居するというのならば、着替えは必要になってくる。未だに警戒が解けたわけではないが、今回はありがたく受け入れることにした。
広くはないが豪華な浴室で温かい湯に浸り、毛玉をよく洗う。
風呂が苦手な理由は、湯上りによく分かった。
「君、意外と細いよな」
湯冷めしてはいけないと、火がつけられた今の暖炉の前に座り込み、スティーブンは濡れたせいですっかり細くなった毛玉をバスタオルに包んでせっせと拭いてやる。
「うう……もういいです?」
「まだまだ。しっかり乾かさないとな」
いわく、このもふもふとした毛を乾かすのにいつも時間がかかるので、風呂は嫌なのだそうだ。
ドライヤーのないこの屋敷では確かにそれは面倒だろう。そういえば家電の類がこの城ではなにも見当たらない。勝手についたのでさほど気にしていなかったが、照明ですらレトロなランプだった。
それはさておき、とスティーブンは膝に乗せた毛玉を拭くことに専念する。
ちなみにスティーブンに用意された着替えは白いシャツに黒のスラックス。まさか下着まできちんと整えられているとは思わなかったが、洗濯も快く引き受けてもらえたのは助かった。
「もーいーですかー」
「ダメだ」
「うう、すてぃーぶんさん、いじわる」
「意地悪じゃない。ちゃんと乾かさないと、風邪をひくのはお前だろうが」
文句が絶えない毛玉だが、逃げ出そうとはしない。
暖炉の炎に照らされて温かいこともあるのだろうが、完全にスティーブンに懐いている様子は存外悪くないものだ。
だからこそ、少しの物足りなさに口を開く。
「なぁ、しばらくここにいるとして……僕は君のことを何と呼んだらいい?」
これまで身体を委ねていた毛玉がバスタオルの中で動いたので、一旦拭くのをやめる。するとバスタオルの中から顔を出した毛玉がきょとんとした顔でスティーブンを見上げてきた。
「それって、なまえですよね?」
彼に名前がないことは出会った時に聞いている。見た目から何となく口には出さなくても毛玉呼びしていたが、これは本人は不服だったようだし、だからといって野獣呼びは外見にそぐわなさすぎて微妙だ。
ゆえに当人に呼び方を聞いたわけだが。
「名前じゃなくてもいいんだが、なんにせよ呼び名がないと不便だろう?」
「そっかー、そうですよね。ぼく、すてぃーぶんさんしかよんだことないから、きにしてませんでした」
「彼らも名がないのから、それが当たり前になっていたわけか」
彼ら、とは今も部屋の中にいて、座ってもらいたいという気持ちが溢れているにこにこした椅子や、まだ警戒されているのか椅子の傍でじっとスティーブンを睨んでいるランプたちのこと。
こくりと頷く毛玉。
それで問題なければ口出しをすることではないか。と考え直していると、またバスタオルの中の毛玉がもぞもぞと動き出す。
背中を向けていた身体を反転させてスティーブンと向き合った毛玉は、何度か顔を左右に動かしてもじもじし、やがて少しためらいながらこう言った。
「あの、あの、すてぃーぶんさんになまえをつけてもらいたい……です」
「僕が!?」
予想しなかった申し出に、思いがけず素っ頓狂な声が出る。
名をつける。それは名付け親となり責任を伴うものではないかと悩むが、毛玉の期待がこもった眼差しをぶつけられると、とても断りづらい。
「……気に入らない名前でも怒るなよ?」
「おこりません! だってすてぃーぶんさんがつけてくれるなまえですもん!」
どこからそんな信頼が生まれるのかと困惑するが、これで逃げ道は断たれた。
拭き終わるまでに考えるから、と伝え、時間稼ぎをする。素直に膝の上に戻った毛玉を拭きながらはたしてどんな名前がいいのかと必死に脳内の知識を思い出すが――不思議なことに、名前はひとつしか浮かばなかった。
「決まったよ、君の名前」
ほぼ拭き終わったところでそう伝えれば、毛玉は勢いよくバスタオルを跳ねのけて振り返る。
「どんななまえですか!?」
尻尾があれば勢いよく振っていただろう、毛玉の興奮具合はなかなかのもの。
落ち着け、と宥めると、自分を拭いていたバスタオルを手にしてスティーブンの膝から降り、向き合ったところでソワソワしている。
その様子が可愛らしく、スティーブンは肩から力を抜いて背中を丸めた。
「レオ、レオナルド。どうだ?」
「れお・れおなるど?」
「違う違う。レオは愛称で、名前はレオナルド。どういうわけか、君を見ているとこの名前しか浮かばないんだよなぁ」
さして変わった名前ではないが、スティーブンの中でこの名がとびきり大切で、それでいてこの毛玉にふさわしいと思えた。
なぜそうかと問われればまったく記憶にないが、膝から飛び降りて辺りをぴょんぴょん飛び跳ねて、付いたばかりの名を連呼する毛玉改めレオナルドを見ていると、これでよかったのだと思う。
「きょうからぼくのことは、レオってよんでくださいね」
「心得た、レオナルド君」
「レオっちね、とっても素敵よ。あの腹黒そうな男が付けただなんて、全っ然思えないわぁ」
我がことのように嬉しそうにレオナルドの名を呼ぶ椅子と、相変わらず警戒心がむき出しのランプ。そこへ朝食の支度が出来たと如雨露がやってきたところで、レオナルドがこんなことを言い出した。
「そうだ! みなさんもスティーブンさんに、なまえをつけてもらいましょうよ!」
「おいおい、僕が付けるくらいなら、城主である君がつけるべきじゃないか?」
「ぼく、そういうのにがてなんで。それにスティーブンさんなら、きっといいなまえがつけられますよ」
満面の笑みを浮かべたレオナルドは、スティーブンに駆け寄って腕の中へと飛び込んできた。どうしても乾かしきれなくてまだわずかに湿り気のある毛が指にやんわりと触れる。
「それはいい。ぜひとも我々に名を与えてもらえないだろうか」
「こんな胡散臭い男に? まぁでも、名前がないのは確かに不便だったわよね」
「僕も名前をいただけるのは、とても嬉しいと思います」
こちらはどうしたものかと考えている最中だというのに、すでにその気になっている椅子たちがわらわらと近づいてくる。
ランプと如雨露は小さいのでそれほどでもないが、座ればスティーブンでさえ頭まですっぽりと支えてくれるほどの背もたれを有した椅子の存在感が大きく、暖炉に近いおかげで逃げ場がない。
「あー、分かった分かった。それなら……椅子の君がクラウス、ランプはK・K、如雨露はツェッドでどうだろう」
ろくに考えず、頭に浮かんだ名前を矢継ぎ早に告げていく。
レオナルドの時と同じように妙に全員がしっくりくる気がするのだが、これは自分が名づけの天才だからというわけではないだろうが、どうしてだか他の名が浮かばなかった。
「クラウス。うむ、ありがとう、スティーブン」
「んー、まぁ、いいわ。K・Kね。レオっち、これからは私のことはK・Kって呼んでちょうだい」
「はい、K・Kさん!」
「れ、レオ君、僕のことも呼んでください」
「ツェッドさーん」
レオナルドに自分の名を呼ばせては喜んでいる道具たち。嬉しそうなので良かったが、スティーブンにはどうしても引っかかるものがあった。
この光景が、どうにも馴染みがある気がして仕方がないのだ。
よく見ていた光景、というべきだろうか。レオナルドがいて、クラウスたちが楽しそうに話をしていて。それを少し離れた場所から眺めている自分。
以前にも見たのだろうか。いや、そんな記憶はどこにもない。
何かがおかしい、と眉間に皺を寄せもぬけの殻となったバスタオルを握りしめていると、名前を呼び終わったレオナルドが近づいてきた。
「スティーブンさん、みんなになまえをつけにいきましょう!」
言われてここには全員がいないことを思い出す。
スティーブンの膝に手を置いて嬉しそうに糸目で見つめてくるレオナルドに、考えなくてはならないはずのことが、どうでもよくなってくる。
考える時間はたくさんある。ならば彼の仲間に名をつけ、朝食を食べてからでも遅くはないだろう。
立ち上がり、バスタオルを如雨露に預けてコートハンガーたちを探しに行く。
すぐに玄関ホールで騒いでいたコートハンガーたちをみつけ、コートハンガーにはザップ、アイロンにチェイン、ドアはドグ、ドアノブはデルドロと名付けた。
最後に朝食の準備をし終えて迎えに来たステッキにギルベルトと名付けて終了。
「いいか、陰毛毛玉、これからは俺のことをザップ様と呼べ」
「名前をもらうなんておこがましいレベルの屑が何言ってんの」
コートハンガー改めザップと、アイロン改めチェインが早速火花を散らす。この2人の仲の悪さも見覚えがあるが、自分の中でもっとも意識が変わったのはステッキ改めギルベルトだ。
「さあ、料理が冷めてしまいますよ」
「すみません、ギルベルトさん」
老紳士という認識は最初からあったが、今では敬うべき存在の1人という認識に変わっている。
お陰で口調もこのとおり自然と変化してしまっているわけだが、なぜかと問われたらなんとなくとしか言えないだろう。まったく不思議なものだ。
「スティーブンさん、ごはんをたべたらなにします?」
食堂への道すがら、仲間たちが一緒だからか抱っこをされることを拒否したレオナルドが、早足で歩きながらそう問いかけてきた。
スティーブンと一緒にいられることが嬉しい。そんな気持ちが声の端々に表れてることに気づいてしまうと、どうにも朝から気分がよくなってしまう。
だが、それでもこの城を去らなくてはならない。
「そうだなぁ……ああ、図書室を借りていいかな?」
帰るべき場所も共にいた人々の顔も名も思い出せないが、ここが自分のいるべき場所ではないことだけは、しっかりと確信している。
ならばスティーブンがするべきことは、本来の自分を取り戻す術を探し出すことだ。
「もちろんですよ! ぼくもスティーブンさんといっしょにほんをよみます!」
「君、字が読めるんだ」
「しつれいな! こちとらむずかしいたんごもよゆうっすわ!」
そうは見えないし、食堂についたのでこの話はここまでとなった。
朝食はトーストとサラダ、スクランブルエッグという定番のワンプレートに加え、ブロッコリーを使ったポタージュスープ。レオナルドはロールパンに切り込みを入れてスクランブルエッグとサラダを入れたロールパンサンドになっている。
相変わらず椅子のサイズが合わないので立った状態だが、これが彼のスタイルならば仕方がない。
どの料理もシンプルながらとても美味しく、ギルベルトの腕前に舌を巻く。
レオナルドは小さな手の構造が人とは違うためにカトラリーを持てないようで、ロールパンやスープが入ったマグカップを両手で押さえるように持っては口に運ぶ姿が愛らしい。
和むな、と思うとそれだけで顔の筋肉がほぐれていく。そして同時にたまらなく幸せを感じる気がした。
朝食後は後片付けをギルベルトたちに任せ、レオナルドと共に今朝は鍵がかかっていた図書室へ赴く。
今回は1階から入ることとなったのだが、こちらは鍵がかかっていなかった。
「2階だけ、夜間は鍵をかけているのかい?」
中に入りつつそれとなく尋ねれば、レオナルドの足がピタリと止まる。
どうしたのかと彼を見れば、なぜか胸の前で手を合わせてもじもじとしながら、上目遣いでスティーブンを見上げて。
しゃがんで少しでも目線を合わせようとしたところ、「わらわない?」と小さな声が聞こえてきた。
「あのですね……ぼく、まえにねぼけてよなかにここへはいったことがあるんです。それで……かいだんでころんで、おちちゃって。けがはなかったんですけど、おちたままそこであさまでねて、ザップさんにむちゃくちゃわらわれたんです」
皮膚が見えていたら顔が真っ赤になっていたのではないかと思うほど、レオナルドは恥ずかしそうにそう告げる。
怪我がなくてよかったじゃないかと慰めるが、城中に響いたザップの笑い声に自尊心が砕かれたらしい。そこで夜間は2階のドアに鍵をかけて自己防衛しているのだとか。
他にも階段があるのに、なぜそこだけ。という疑問は指摘しないでおいた。
「失敗を反省して対処した点は、大いに評価出来る」
「そうなんです?」
「そうだ。自信をもてよ、“少年”」
レオナルドを抱き上げながら無意識に呟いた言葉は、スティーブンを困惑させた。
腕の中の黒い毛玉は確かに幼い容姿だが、名前を付けた今になってなぜ自分は“少年”と呼んだのか。
じわり、と不可思議な違和感が心の中に広がっていく。
「スティーブンさん?」
「ん、あ、ああ、すまないね、“レオ”」
レオナルドに声をかけられて我に返ったが、一度芽生えた違和感はスティーブンを蝕み続けている。
それでもふたりで読みたい本を探した。この城に関してヒントになるような本はタイトルだけではみつけることは出来なかったが、目星をつけて数冊を選んだ。
本を持ってテーブルに向かおうとしたが、レオナルドついてきたので隅に敷かれたカーペットの上に座ることにする。
「スティーブンさん、むずかしそうなほんばっかりですよね」
「そうか? まぁ、君に比べたらどれも難しいだろうな」
レオナルドの手の中にある『美女と野獣』の絵本を見て、スティーブンは苦笑した。
美しい装丁の絵本だから挿絵を眺めるだけでも楽しそうだが、それでもやはり絵本は絵本だ。
「ぼくだって、このほんをよみたくてえらんだわけじゃないんです。これにはふかいじじょうというものがあるんです」
カーペットに置いた本の表紙をぽふぽふと手で叩きながら、レオナルドはカーペットに足を伸ばして寛ぐスティーブンに説明を始めた。
「ぼく、てがこれなもので、ぺーじがうまくめくれないんです。だからあついほんだと、ぜんぜんすすまなくなっちゃうんですよね」
にゅ、と挙げられた小さな黒い肉球のついた手に、なるほどと納得する。
食事の時もそうだったが、レオナルドの手はものを掴むのに適していない。だとするならば厚みのある本は読むことが出来たとしても、1ページをめくるのにかなりの時間がかかってしまうに違いない。
自分の思うとおりに読み進められないとあっては、確かに読書が億劫になってしまうに違いない。
「なるほどね、君の苦労は理解したよ。それなら、僕が読んでやろうか?」
なんとなくの思い付きだったが、レオナルドはすぐに膝の上に載ってきた。
許可を得ることなく人を椅子にする気らしい毛玉に苦笑を零すが、腹に感じるもたれてきた小さな重みが心地いい。
仕方ないな、などと口に出すが、今の自分がどんな顔をしているか、鏡を見たくなかった。
「それで、やっぱりこの絵本?」
「はい! ぼくじゃないだれかがすきだったなぁ、っておもいだしたんですよ。でも、だれだかわかんなくて。だからよんだらおもいだすかもっておもったんです」
わずかに寂しさが滲んだ声音に、スティーブンは緩んでいた表情を引き締める。
レオナルドは言った、思い出した、と。しかし誰のことなのかが分からない、と。
まるで自分と同じではないかと口に出しかけてやめる。自分のことを含めまだ確証が持てないことが多い以上、迂闊に口にするべきではないと思ったからだ。
絵本を開き、世界中に知られた美しい物語を声で紡いでいく。
感情を込めるのは苦手だからどうしても淡々とした語り片になってしまうが、レオナルドはじっと耳を傾けてくれている。
一夜の寝床を求めてやってきた老婆が、傲慢な王子に差し出したのは1輪のバラ。しかし王子は老婆を拒絶した。老婆は美しい魔女へと姿を変え、王子だけでなく王子の住む城と召使いたちに呪いをかけ、バラを置いて去っていった。
バラの花弁が全て散る前に王子が真実の愛をみつなければ、呪いは永遠に解けることはない。
物語は野獣へと化した王子が愛する人と結ばれることで呪いが解けて終わる。
最終的に野獣は美しい王子に戻って美男美女が結ばれるわけだが、この物語の本質は姿形に囚われることなくその人の内面で善し悪しを判断するところにある。