Advent Rose
「だー! あの屑先輩、なんつーことに巻き込んでくれるんだ!」
命の危険はヘルサレムズ・ロットで日常茶飯事。
分かっていても、人の厄介ごと、しかも自らタネをまいたことに巻き込まれたとあっては、道端で怒鳴りたくなったとしても仕方がないことだ。
なんとか路地裏に逃げ込み、追手がいないことに安堵して足を止めたレオナルドは乱れた息を整える。
「……金は無事だな」
服のあちこちに隠した金は、どれも盗られていない。そのことに頬が緩んだのは、この後に控えた大切なイベントのためだ。
まもなく訪れるクリスマス。
秘密結社ライブラでは、リーダークラウス主催のクリスマスパーティーがクリスマスイブに行われる予定だ。
この時にレオナルドはずっと好きな人にプレゼントを贈ろうと決めている。
上司で怖く厳しいところがある人だけれど、時折見せる気の抜けた様子や仲間想いなところにいつのまにか魅かれてしまった。
まさか年上でセレブな男に恋をするなんて夢にも思わなかったが、告白するつもりはない。ただ、いつも大変な彼に感謝と労いの気持ちをこめてプレゼントを贈りたいだけなのだ。
なにをプレゼントするかはまだ決めていないが、選択肢を多くするためにとずっと貯金をしていた。
「あと少し貯まったら、探しに行けるかな」
自分で考えていたくせになんだか気恥ずかしくて、へへっ、と笑みが零れる。しかし、周囲の霧が濃くなってきたことに気づいてすぐに表情を引き締めた。
ヘルサレムズ・ロットは霧が常に出ている。しかし妙に濃いこの霧はレオナルドの目に異変を見せていた。
うっすらとだが、呪術の流れが見える。町中に突如現れる、紡がれた糸のように空間を揺れる呪術に良いものはない。
逃げようと踵を返すが、すでに囚われていた。
「……くそ……連絡、しない……と……」
意思に反して意識は遠のき、やがてレオナルドは霧の中へと倒れていった。
なくしたものは、大切にしていたものほどみつからない。
確かにそのとおりだな、と肯定するのはたやすいが、認めたくない気持ちは焦りとなって冷静さを奪っていく。
部下であり、大切な子。子というには年齢こそほぼ大人なのだが、身長が低く笑うとあどけないあの子は少年と呼ぶにふさわしい。
いつから好きになったかは覚えていないが、仲間たちと騒ぐのを離れた場所から見つめ、戦いでは自らの意志で戦場を駆る。その姿を見続けていたら、いつのまにか目を離せなくなった。
告白なんて柄ではないと思っていたのだが、日々の忙しさからか年相応のものなのか、ひとりで過ごすクリスマスの寂しさに気づいてしまった。
それに普段の彼を見ていると、どうやら両想いらしい。ならばとクリスマスパーティーに狙いをつけたというのに、彼は消えて。
失うことの恐怖、何もできない苛立ちに我を失いかけていたのは認めよう。
スティーブンは舌打ちをして足を止めた。
四方八方しらみつぶしに探してもみつからないことに苛立ちが募り、考えもなしに入り込んだ裏路地。
霧けぶる街ヘルサレムズ・ロットは常に霧が発生しているので、多少視界が悪くなることもしばしある。
だが、ここは異常な街に慣れた身であったとしても異常だった。
「……なんだ、この霧の濃さは」
何度も訪れた、ごく普通に歩ける裏路地だったはずが次第に霧は濃くなり、気が付けばほんの数メートル先も白い壁に視界を奪われている。 それだけではない。
狭い路地は、両腕を伸ばせばすぐ壁に手が届くほどしか幅がなかったはず。だというのに今、前後左右、どの方角を見渡しても、白、白、白。
いつのまにか足を踏み入れてしまった危機に、スティーブンは奥歯をギリッ、と噛みしめる。
敵対するものの罠か、それとも迂闊に異界の怪異へ誘い込まれたか。
どちらにせよ、ミスをしたのは自分だ。連日の疲労と苛立ち、そして焦りに判断能力が鈍っていたことを認めざるを得ない。
だからか、足音なく近づいてくるものに先制攻撃を仕掛けるタイミングすら見誤ってしまった。
「こんにちはー」
深い霧の奥からやってきたそれは、なんとも気の抜けた声でそう挨拶をしてきて。
声がした方角、視線をやや下に向ければ、黒い毛玉が短い足を動かしてぽてぽてと歩いてきている。
背丈はスティーブンの膝より低く、黒毛はあちこちに跳ねていて、胸元は薄く茶色が入った白。目はどこにあるのか悩むほどの糸目で、黒い鼻は犬に似ているが、尻尾はない。
スティーブンの知る異界人のどれにも該当しない、二足歩行の毛玉。
何が一番近いかと言われれば、寝ぼけた顔で立ち上がったポメラニアンだろうか。
つまり、可愛い。
ただし人語を話さなければ、の話だが。
「こんにちはー」
正体の分からない毛玉に警戒して返事をしないでいると、毛玉は――犬ならば身体の構造上できないはずだが――もう一度挨拶をしてから、小さな手を顎に添えてこてんと首を傾げた。
「おはなしできます?」
口の作りがしゃべるのに適していないからか、舌足らずな話し方だ。
どうやら敵意はないようだが、まともに相手をするべきか迷う。だが、霧は一向に晴れる様子はない上に、スティーブンすら立ち止まる霧の中をどこからか歩いてきた毛玉だ。
なんらかの情報を得られる可能性があると考えたスティーブンは、見上げるのが大変そうな毛玉に配慮してその場にしゃがみこんだ。
「出来るよ。で、君は?」
「ひとにものごとをたずねるときは、まずじこしょうかいですよ!」
なぜか偉そうにそう言った毛玉は、胸を張った瞬間にバランスを崩して後ろに転がった。上手く起き上がれないのかじたばたする様子は、ひっくり返った亀のようだ。
助ける気はなく頬杖をついて見守っていると、毛玉は横に転がってなんとか起き上がり、振り向きざまにこう言う。
「たすけてくれてもいいじゃないですか! ひどい! ひとでなし! おに!?」
きゃんきゃんとよく吠えるが、小さい上になんとなく聞いていたくなる不快感のない声なので痛くもかゆくもない。
「自己紹介すら済ませていない間柄だぞ。それに君だって、一定の距離を保ったまま僕に近づかないじゃないか。それは警戒をしているからだろう? だというのに助けてほしいというのは矛盾していないか?」
図星だったのだろう。
ぐ、と言葉を詰まらせた毛玉は、胸の前で手を揃えてしゅんと耳を下げた。
未だ正体が分からないというのに、どうにも可愛らしく癒されそうになる。だがこのまま呑気に霧の中で会話をしている暇はない。
さてどうしたものかと考えていると、毛玉がおずおずと近づいてきた。
「あ、あの、ぼく、にんげんとあうのはじめてでして……だからまだ、おじさんのことちょっとこわくてですね……」
「誰がおじさんだ」
考えるより先に出た低い声に、毛玉はひっ、と短い悲鳴を上げて後退る。
箱入りらしい毛玉を無遠慮に威嚇したことを内心で反省しつつ、ならばと息を吐いた。
「僕はスティーブン。スティーブン・A・スターフェイズ。君は?」
名を尋ねると、毛玉の震えがピタリと止まる。
そこまでは良かったが、またしょんぼりと耳を下げて項垂れてしまったのはどういうことなのか。
感情の動きが読めずまじまじと毛玉を見つめていると、毛玉はその場にぺたりと座り込んだ。
「ぼく、なまえがないんです」
「名前がない? どういうことなんだ」
「わかんないです。ぼくもみんなも、なまえがないんです」
みんな。
その言葉にスティーブンは双眸を細める。つまり彼には仲間がいるということだろう。同種なのか、それとも違うのかはまだ分からない。だがヘルサレムズ・ロットでは彼のような個体はおらず、そこに犯罪組織が絡んでいる可能性も考えられる。
「君には仲間がいるんだ」
「はい! えと、よかったらすてぃーぶんさんもぼくのおしろにきませんか?」
「城?」
「だってぼく、おしろのあるじですから!」
前言撤回。さっぱり分からない。
困惑するスティーブンを置き去りにして、毛玉は「はやくたって」「いきますよ」と急かしてくる。
虎穴に入らずんばとはよく言うが、毛玉の城に何があるというのか。
しかしこの霧が晴れるまで当てもなく待っていては、埒が明かないだろう。彼の正体が分かれば状況を把握できるかもしれないし、行って損はないかとスティーブンは重い腰を上げた。
「分かったよ、毛玉君」
「けだまちがいます! ぼくはやじゅうなんですよ!」
両手を高く上げて、おそらく威嚇のポーズをしているのだろう毛玉だが、短足すぎてレッサーパンダの威嚇より圧がない。
それでよく野獣を名乗れるものだと思いつつ、無視して脇を通り過ぎていく。
彼が来た方角に歩いていけばいいのだろうと適当に考えて見たのだが、自称野獣の毛玉が追いかけてこないことに気づいて立ち止まった。
振り返れば、小さな足で一生懸命走ってくる毛玉が転んだところだった。
おそらくだが、彼は身体のバランスが悪いのだろう。ゆえに動くことが下手なようだ。よくそれで今日まで生きられたものだと感心しつつ彼の傍に戻って、見た目どおり軽い身体を持ち上げる。
「この方が早そうだ。霧の中が分かるなら、案内をしてくれ」
「ふぉぉぉ! すっげー、たっかーい!」
腕の中できゃっきゃとはしゃぐ毛玉の警戒心のなさに溜め息を吐きつつ、スティーブンは足を進める。白い霧は相変わらず晴れる様子がないが、毛玉の言うとおりに歩いていった。
なぜ道が分かるのかと問えば、匂いで分かるのだとか。スティーブンのこともそうして気づいたというのだから、やはり犬なのかもしれない。
毛玉の正体を想像しつつ歩いていけば、数分もしないうちに白い霧の中に滲む灰色をみつけることが出来た。
本当にたったの数分。毛玉と出会った場所から確実に見えそうなものなのに、どれだけ霧が深いのかとらしくないほど身震いした。
だが、まさしく城だ。
規模こそ小さいが、黄色味のある薄い灰色の石で出来た城は左右対称。玄関のある中央部分が抜きんでて高く、大きな窓の並びから3階建てと推測できる。
左右は2階建てで両端が円塔をくっつけたような感じになっており、中央と同じ高さ。おそらく屋上は見張り台なのだろう。中央と同じ大きな窓が印象的だが、この霧の中では風景に期待はできないに違いない。
「こんな城があったとはねぇ」
「だれもこないんです。だからうんがよくないと、たどりつけないのかもですね」
「呪術か何かの類で人除けを?」
「わかりません!」
人の腕に腰掛けて、自信満々に答える毛玉。
スティーブンの心の中に今すぐここで落としてやろうかという気持ちが芽生えるが、ふわふわとした毛玉が甘えるようにもたれかかってくるものだから、そのタイミングをすっかり逃してしまった。
毛玉の案内で正面に向かい、重厚な両開き扉の前に立つ。どっしりとした木製のドアだが、ちらりと見た毛玉にはたしてこの重そうなドアを開くことが出来るのか、甚だ疑問だ。
「ただいまー」
ドアに向かって毛玉が言うと、あろうことかぱちりと目が開く。そう、ドアに、目だ。
「おかえり! あれ? お客さんなの?」
「あぁ? 客だ? んな訳の分かんねぇもんを入れるんじゃねぇぞ」
片や穏やかな好青年風で、片や目つきがすでに普通じゃない。いや、それ以前にドアがしゃべるというのが前代未聞だ。なお、
目つきが悪い方はドアではなく、妙に赤いドアノブだ。
「お客さんなら入れてあげようよ。いいだろう?」
「はっ、まったくお前はお人好しだな。まぁいい、勝手に入りやがれ」
どうやら目つきが悪いドアノブは、口は悪いが好青年に甘いらしい。
なんだかどこかで見たことのある組み合わせだな、と思っていると、カチャリと内側から解錠される音が聞こえ、自動的にドアが開いた。
「いらっしゃーい。えっと……名前は?」
「スティーブンだ」
「スティーブンさん、いらっしゃい!」
驚いたことに内側にも顔があるドアは、人の名前を聞いて嬉しそうに挨拶をする。
この時、スティーブンはドアとは別の何かが引っかかった気がしてならなかった。だがこの何かは、これから始まる騒動にかき消されてしまう。
「ただいまー!」
毛玉の挨拶が、玄関ホールの中に響いていく。
ぱたりと背後でドアが閉じると途端に薄暗くなった玄関ホールは2階まで吹き抜けとなっており、、正面には大きな階段が。中2階の踊り場から左右に廊下が別れており、そこからさらに上がる階段があるようだ。
床は大理石が敷き詰められ、左右の壁は豪奢な彫刻が施された照明がとりつけられている。その下には左右に扉があり、脇のチェストには美しいガラスのランプ。そして銀の細工が施されたコートハンガーが、なぜか階段の中央に置かれていた。
「みなさーん、おきゃくさんです! あつまってくださーい!」
腕の中から毛玉が飛び出し、軽やかに床に着地して転んだ。
やはりバランスが悪いのかと、屈んで起こそうとしたのだが、スティーブンの手が毛玉に触れるより早く毛玉が浮き上がった。
まさか飛行能力があったのか。と思いつつ浮いていく毛玉を目で追えば、そこには銀製の猿っぽい装飾に顔が付いたコートハンガーが器用に毛玉を引っかけて持ち上げているところだった。
「ちょ、おろしてくださいよ!」
「おいおい、陰毛毛玉。テメェ、なに俺様の断りなしに人間なんざ連れてきやがっ、ぐぅっ!」
持ち上げた毛玉に睨みを利かせたコートハンガーの顔の部分に、アンティークなアイロンが叩きつけられた。
当たった角度から誰かが上から投げつけたと推測したスティーブンは、咄嗟に振り返ってアイロンを飛ばしたと思われる人物がいる方角を見たが、そこにあるのは明かり取りの窓だけだ。
「オイコラ犬女! テメェなにしやがる!」
「誰が犬だ、バーカ」
鉄製の身体は重いだろうに、音一つ立てることなく華麗に着地したアイロンは、コートハンガー曰く女性らしい。自力で飛んできたのかと、身体能力の高さに感心してしまった。
それはさておき、毛玉を振り回しながら怒鳴りあうコートハンガーと、犬らしさが見当たらないアイロンの罵りあい。これは夢だろうかと呆気にとられていると、硬いだろう身体を柔軟に弾ませてガラスのランプが下りてきた。
「あなたたち、そのくらいにしなさいよ。ほら、もう下ろしてあげなさい」
「姐さん、そうは言いますけどね、悪いのはこの鉄犬女っすよ!?」
「はいはい。……なに、この胡散臭そうな男」
声からこちらも女性らしい姐さんと呼ばれたランプは辛辣だ。
出会ったばかりだというのに容赦がないが、なんとなく、本当になんとなくなのだが言い返す気になれない。とりあえずその第一印象だけはどうにかしてほしいと愛想笑いを浮かべてみるが、冷ややかな眼差しで「ムカつく」と返された。
「何事かね」
そして、右側の開かれたままの扉から聞こえてきた落ち着いた声。
初めて聞く声だと思うが、妙に安心感がある声にそちらを見れば、椅子が歩いていた。
豪華な天鵞絨の張られた臙脂の椅子は、脚から枠まで繊細な彫り物が施されている。蔦をモチーフにしているようだが、相当な価値のあるアンティークに違いない。それにしても、背もたれに鋭い目とどうやってくっついているのか眼鏡、そして上に飛び出した犬歯のある口はかなりシュールだ。
「遅くなりました。……あなたはまた……早く下ろしてあげなさい」
そして彼の後ろから、背の高い真鍮の如雨露がひょっこりと顔を出す。
長い注ぎ口がついており、コートハンガーに向かっていった。
「コイツが訳分かんねぇ人間連れてきたんだから、仕方ねぇだろ」
「おきゃくさんですよー」
未だコートハンガーにひっかかったままの毛玉が呑気に言えば、皆が一斉にスティーブンに注目する。
この中で人であるのが自分だけというのは、かえって自分の存在に違和感を感じてしまう。だがここがどこだか分からない以上、極力冷静に、そして彼らと友好な関係を築いておいて損はない。
「僕はスティーブン。霧の中で迷ってしまっていたところを、そこの彼に連れてきてもらったんだ」
「あの霧では迷うのも無理はない。我々は君を歓迎しよう」
紳士な椅子がそう言えば、誰も反対することはないらしく皆が大人しい。
にこにことした毛玉はようやく下ろされると、スティーブンに向かって歩いてきた。
「すてぃーぶんさんは、このおしろのはじめてのおきゃくさんです!」
嬉しそうな毛玉を見ていると、聞きたいことはたくさんあるはずなのに言葉が詰まってしまう。
これまでに、こんなにも屈託なく素直に歓迎されたことがあっただろうか。思い出せないな、と密かに苦笑しつつ、とにかく今はこの場に馴染み、警戒されないことが必要だと気持ちを切り換えた。
「そいつはどうも。ここにいるのは、君たちで全部なのかい?」
「えっと……まだひとりいますよ。あ、きました!」
きょろきょろと辺りを見回した短足毛玉が、こちらにゆっくりと跳ねて来る美しい銀製の持ち手が着いたステッキに駆け寄っていく。
なぜか持ち手と支柱の繋ぎ目辺りに包帯が巻かれているが、器用に跳ねてくる姿を見ると、折れているわけではなさそうだ。
「大変お待たせいたしました。おや、お客様ですかな?」
「そうなんですよ! すてぃーぶんさんっていいます」
「これはこれは。ようこそ、私たちのお城に」
礼儀正しい老紳士を思わせるステッキの穏やかな物腰に、スティーブンは軽く会釈をして応えた。しかしその物腰とは裏腹に、このステッキには隙がない。
彼らはいったいどんな関係性なのだろうかと思いを巡らせていると、ステッキが毛玉にこう言った。
「お客様をお迎えしたのです、我々は快適に過ごしていただけるよう支度をいたしましょう。その間、城の中を案内されてはいかがでしょうか」
「いいですね! ぼく、すてぃーぶんさんをあんないしてきます!」
上手いこと毛玉を押し付けたな、と思ったが、先程の毛玉の話では彼がこの城の主らしい。
だが椅子の方がそれにふさわしく思うのは、彼の豪華な作りからだろうか。
なんとも腑に落ちないものがあるが、大階段に向かって走り出した毛玉が途中で止まって呼ぶので、そちらを優先することにした。
「すてぃーぶんさーん、はやくー」
それに、毛玉のはしゃぐ姿を見るのはまんざら悪いと思えない。
仕方ないな、と苦笑しながら彼の後を追う――のだが。
「分かっちゃいたが、遅いな」
「こちとらたいかくさってもんがあるんですよ! しかたないじゃないですか!」
そう、追いかけていたはずが、数秒で追い越してしまったのだ。
足元で毛玉は怒るが、こればかりはどうしようもない。
このままでは城のすべてを見終えた頃には夜が明けるだろう。ならば、とスティーブンは何も言わずに毛玉を両手で持ち上げた。
「まただっこされるくつじょく……」
「ここに来る時だって、してたじゃないか」
「それはそうですけど、じぶんのしろでされるとなんかやです」
「なら、僕を追い越すくらいすぐに成長するんだね」
腕の中でぐぐぐ、と変な声を出す毛玉。
しかし暴れないところを見ると、思うところはあるのだろう。溜め息を吐いた後、こっちですと大階段を上がった先、左側にある階段を示した。
上れば窓から光が差し込み、階段の先がよく見える。
まず入ってすぐ脇に、3階へと上がる階段があった。廊下は石造りの外面とは違い、白い壁に床はよく磨かれているがさほど長さはなく、部屋がいくつか並んでいるようだ。
それに外から見た時は真正面だったから気づかなかったが、窓の外には中庭を挟んで反対側にも建物がある。どうやら四角形の城のようで、聞けば廊下が最奥で曲がり、反対側に繋がっているそうだ。
城というには小さいと思っていたが、これならば納得だ。
順番に案内するという毛玉は、案内を始めた。
「えっと、こっちにはおきゃくさんにくつろいでもらうへやとか、きっちんとかがあります。それでむこうは、としょしつがあるんですよ」
「図書室? そいつは見てみたいな」
「いいですよ! びっくりしちゃいますから、かくごしてくださいよ!」
城の規模を考えると、図書室といってもさほど広くはないだろう。しかしこの異様な場所の情報を少しでも得ることが出来る可能性は否定できない。
ならば先に図書室を見に行こうと、意気揚々と毛玉が廊下の奥へと案内する。先に話していたとおり、直角になった角を曲がると渡り廊下があり、中央には1階へ下りる階段もあった。
渡り廊下を歩く途中、窓から中庭を見下ろす。
中央に噴水があるようだが水は出ておらず、霧に覆われているからか花壇に花はなかった。
寂れてしまっている庭は、物悲しい。
目を逸らし再び歩いていくと、似た作りではあるがこちらには真ん中にドアがひとつしかない。これまで見たドアとまったく同じで変わった様子はないが、鍵はかかっていないというので、内側へと開く。
見えたのは暗闇。しかしスティーブンが足を踏み入れた途端、ひとつ、またひとつと一番近い場所から順番に壁に取り付けられているランプが音もなく明かりを灯しだした。
「こいつはなかなか」
本を保護するためだろうカーテンは閉じられたままのそこは、1階まで吹き抜けになっていた。本棚が並んだ2階部分、壁棚にも本が詰め込まれ、階段で1階へ下りることが出来る。1階もまた本棚が並び、閲覧用にテーブルと椅子が用意されていた。それだけではなく子供用なのだろうか、部屋の隅に深緑色のカーペットに芥子色のクッションが置かれている。
「どうです、ここ、すごいでしょ」
毛玉の城ということは、ここは彼の趣味なのか。
どうにもこの丸い毛玉に不釣り合いな気がしたが、見た目で判断するには知らないことが多すぎる。
「僕も読ませてもらっても?」
「もちろんですよ! じゃあ、つぎにいきましょう!」
出来れば蔵書をざっとでも確認したいところだったが、毛玉にその気はないようだ。仕方なく1階のドアから出ると、2階の廊下と作りは同じ。
この後は再び渡り廊下を通って、右側1階の厨房や食堂、風呂など必要な設備を。2階の使用人、もとい仕様道具たちの部屋があるという説明を受けてあっさりと案内は終わったところで、1階の玄関ホールへ戻ってきた。
いや、終わりだと毛玉は言った。
だがまだ見ていない箇所があることを、スティーブンは忘れていない。
「3階は行かないのか?」
ここで毛玉の表情が変わった。
「ぼ、ぼくのへやがあるだけで、なにもないですよ! いくひつようなんてないですよ!」
短い両手をぱたぱたと振って必死になにもないとアピールしているが、焦っている様子は手に取るように分かる。
毛に覆われた糸目というのに、この自称野獣の表情は本当にコロコロとよく変わって、それでいてどうにも憎めないが、スティーブンは毛玉に心を許したわけではない。
「城主様の部屋というのは、とても興味があるけどなぁ」
「そそ、そんなこといっても、だめですからね!」
「本当に、ダメ?」
心から残念だ、と言わんばかりに眉を下げてがっかりした表情を見せると、毛玉は呆気なくそれまでの勢いを弱める。
もう一押しだろう。そう思ったところへ、思わぬ邪魔が入った。
「陰毛毛玉、こんなところにいやがったのか。飯の支度が出来たから、この俺様がわざわざ探してやったぞ」
「すてぃーぶんさん、ごはんですよ! いきましょう!」
ごまかされてしまったが、第三者が介入、しかも食事の準備をされてしまったとあっては、こちらの融通を利かせるのは難しいだろう。
それに道具が料理を作るとは思えない。だとすればやはりここには何者かが潜んでいる可能性があるに違いない。引っ張り出すにはいい機会だ。
「しょくどうはこっちですよー」
話が逸れたことで安心したのだろう。ふにゃふにゃと口元を緩めた毛玉が先程行ったばかりの食堂へ案内しようとするので、スティーブンは素直に従った。
食堂といっても城の規模に比べれば小さな部屋には、暖炉とチェスト、そしてふたり分の椅子が備え付けられたテーブル。
案内された時はなにもなかったテーブルの上には真っ白いテーブルクロスがかけられ、きちんと1人分のカトラリーが並べられている。美しく磨かれた銀食器に白い皿、曇りひとつないグラスに腕の中の主とこれまたあまりに不釣り合いで少し戸惑った。
しかし疑惑は確信に変わる。
この城の中にはこれらのことを行える人物がいるのだと。
「すてぃーぶんさんはこっちで、ぼくははんたいのいすにおろしてください」
「何もないぜ?」
毛玉が自分を下ろせと言ったのは、テーブルに何も置かれていない席。
「おきゃくさまをおもてなしです」
城主を差しおいて食事をするというのは警戒心を抱かなくてはならないが、今は従っておこうと素直に下ろした。
背の低い毛玉は椅子に座るとすっかりテーブルに隠れてしまう。これでは食べられないだろうと思っていたら、彼は椅子の上に立ち上がる。
どうやらこれが彼のスタイルらしい。お陰で飼い主の食事を狙っているペットのようにしか見えないが、拗ねられては困るのでこれは言わないでおく。
そして、スティーブンは向かいの席に腰掛けた。
「さて、どんな料理を味わせてもらえるのかな?」
「ふっふっふっ、おいしくってほっぺがおちちゃいますよ」
自分が作ったわけではないだろうに、やたらと自慢気な毛玉。
いったい何者が作るか知らないが、期待しないでおこう。そう思った矢先、ドアが開いた。
「大変お待たせいたしました」
金メッキ加工がされた美しく磨かれた縁取りと銀色のフレーム、よく磨かれた赤い木材を使用したサービスワゴンを押してきたのは老紳士なステッキ。その細い身体でどのようにしてバランスをとっているのか分からないが、とてもスムーズにスティーブンの横へとワゴンを付けた。
「本日の前菜、海老と野菜のテリーヌでございます」
確かにワゴンには美しく盛りつけられたテリーヌが載っている皿がある。しかし手のない身体でどうやって皿を動かすのかと思ったら、皿が速やかに、けれど料理を1ミリもずらすことなく自らテーブルに移動した。
あまりの速さに目を疑ったが、皿は自ら飛んでスティーブンの前に降り立ったのだ。なお、料理はまったく崩れていない。
「……な、なんだ、今のは」
「さらがはりきってるんです」
皿がはりきるとはどういうことか。しかしながら目の前でステッキが動いているし、コートハンガーやアイロンも勝手に動いてしゃべっていた。ならば皿が動くこともあるのだろう。だがそうなると、カトラリーも動くのだろうか。
毛玉の前に何も置かれていない、まだ食べることを了承されたわけではない状態では不躾だと分かっていながら、スティーブンは恐る恐るフォークを手に取る。
幸いカトラリーはまともらしく、微動だすることなくスティーブンの手の中に納まった。
「君は食べないのかい?」
「ぼくはすてぃーぶんさんをさがしにいくまえにたべちゃいました」
「それは残念。ぜひともディナーを共にしたかったな」
「じゃあ、あしたのあさごはんはいっしょにたべましょうね」
何がそんなに嬉しいのか、毛玉は糸目をさらに細めてふにゃっと笑う。
その顔を見ていると胸の奥が温かくなる気がしたし、どこか別の場所で見た気もするが、残念ながらワインボトルが自らやってきてグラスに赤ワインを注ぐ光景に戸惑い、思い出すには至らなかった。
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