Invisible Stage


 世界はなんでも起こると、聞いたことがある。
 事実は小説より奇なり。なんていうが、出来ればそのような事態には遭遇したくないものだ。
 たった今、遭遇しているけれど。
 早朝の英国は倫敦の路上で、ほんの数秒前まで目の前にいた黒い大型犬が全裸で四つん這いになるなんて誰が考えるだろうか。
 ドラマやマンガだったら確実に静止画がアングルを変えながら何度も映し出されたに違いないくらい、ありえない事態だ。

「……変態?」

 だからこう言ってしまったとしてもレオナルドはまったく悪くない。なにせこちらは一晩中走り回って疲れているし、とても眠くて思考回路も上手く働いていないのだから全然悪くない。
 四つん這いになった全裸の、やけに顔がいい男に上目遣いで睨まれるとさすがに怯むけれど。

「なんだって?」

 声までいい。

「ですから、えと……路上に全裸で四つん這いになるのがお好きな変態……なんです?」
「お前、僕の声が聞こえているのか!?」

 立ち上がった男はあっという間にレオナルドの背を追い越し、その視界の高さに気づいたのか、勢いよく下を向いて絶句した。
 その理由は、なんとなく厚い胸板を見たレオナルドも分かる。

「な……! おい! 早く店に入れろ!」

 思い切り両肩を掴み必死の形相で訴えてくるのはいいが、このままでは万が一人が通りかかったら巻き添えをくらってしまう。
 客商売なのだから変な噂が立ったら困ると、変態の心配より店の心配をしたレオナルドは速やかに手を上げて降参の意を示した。

「あなたが公然わいせつ罪で訴えられても、僕は気にしないんで!」
「俺が気にするんだよ!」

 それはそうだ。
 とはいえ困ったことがある。

「それに、店のシャッターは内側からしか開かないんですぅ!」
「だったら裏から入れろよ」
「あ、はい」

 機嫌が悪いんだと明確に分かるほど据わったほの暗い目と低い声が、顔の傷と相まってさらに怖い。
 思わず頷いてしまったところでようやく肩から手を離してくれたが、離れたことで本来隠すべきものがレオナルドにもバッチリと見えてしまうわけで。
 レオナルドはそそくさとマウンテンパーカーを脱ぐと、全裸男にそっと差し出した。

「ひとまずこれで隠してください」
「すまんね。洗濯して返す」

 なかなかお目にかかれないほどのいい男が、黒いマウンテンパーカーで股間を隠す姿はなかなかに滑稽で。
 しかしひとまずは歩けそうなので、レオナルドは先に歩いて周囲に人がいないことを確認し、一旦店を離れていく。
 脇道を曲がって石造りの壁にあるシャッターとその脇の扉へ。
 この時間はまだ誰も開かないだろうことは日常の中で知っているが、それでも音を立てないように慎重に鍵を開けた。
 急いでマウンテンパーカー男を中に入れてからレオナルドも滑り込み、扉を閉める。ここまで来ればもう大丈夫だと思うが、店まではまだ3軒分の距離がある。
 唇に指を当てて声を出さないよう、後ろは丸見えの男へ指示をして、足音を立てないように慎重に歩いていく。
 頭の上の猿も何かしないか心配だったが、こちらは逃げている間が嘘のようにおとなしい。お陰で何事もなく店の裏口にたどり着くことが出来た。
 ここまで来て、本当にこの男を中に入れていいのかと頭の中の自分が躊躇っている。
 確かに中に入れてしまったら何かあってもレオナルドにはなすすべがないだろう。しかし後2時間もすれば、オーナーのクラウスが今日販売するための花を運んできてくれるはず。
 彼ならば、と思うが、それはあまりにも他力本願だ。

「どうした、少年」
「いえ、なんでもないっす」

 何かあったとしても、極力自分でなんとかしよう。
 そう腹を括って、シャッターの脇にある小さなドアを開いた。
 暗いバックヤードになだれ込むようにしてふたりで入り、ドアに鍵をかける。
 ようやくこれで安心が確保できたと思ったのか、不審者に違いない男の溜息が頭上から聞こえた。

「まったく、ひやひやしたよ」
「それはこっちのセリフっすよ。1階は寒いんで、とりあえず2階に上がってください」

 出た時と変わらずおとなしく花を眠らせているフラワーキーパーのモーター音を聞きながら、2階へ上がる。
 男は裸足だから靴音はレオナルドだけだが、自分ひとりではないことが落ち着かない。
 頭の上の猿も外ではない別の空間に来たからか、レオナルドの肩に乗って辺りを見渡していた。
 カーテンがかかっているということもあるが、まだ時間的に日差しが差し込まない薄暗い部屋の明かりをつける。
 出た時と変わりないこの部屋も、人がふたりになると狭さを感じて。
 さてどうしようかと思っていたら、男は勝手気ままに部屋の中を歩き出した。

「服を借りたいが……君のサイズは無理だよな。ベッドのシーツを借りていい? それとシャワーを浴びたいんだけど、タオルはどこだ?」
「えと……だ、出します」

 勝手にはぎとったシーツを身体に包み、そのままベッドに腰掛けた男の指示で慌ててスチール製の小さな棚からバスタオルを取り出して渡す。

「すまんね。それとクラウスに連絡をしたいんだが、スマホを借りてもいいか?」
「クラウスさんのこと、知ってるんですか!?」

 マウンテンパーカー男からシーツ男にクラスチェンジした男から出た思いがけない名前。
 思い返してみれば犬の鼻にキスするきっかけになったのも、確かオーナーの名前を出した時だ。もっとも、その後の展開のお陰でいまいち信用しきれないけれど。

「元々この店に来たのは、クラウスの匂いをたどってきたからなんだ。あぁ、そういえば自己紹介もしていなかったな。僕はスティーブン・A・スターフェイズ。訳あって犬の姿になる呪いをかけられちまってたんだ。君のおかげで助かったよ」
「はぁ……呪いねぇ……」

 幽霊に妖精、魔法だってある英国だが、実際に見ることは現代社会では随分と稀になってしまっている。
 レオナルドとて幽霊は見えるとしても妖精や魔法というのは滅多にお目にかからない。本人から堂々と実は呪いにかかっていて、愛のない鼻先へのキスで解けました。なんて言われても、すんなり受け止めるのは難しい。
 あまりの胡散臭さに曖昧な返事をしつつ、レオナルドはスマホを本当に貸すべきか迷った。

「信じられないのは無理もない。今の世の中じゃ、呪いも身近じゃなくなったもんな」
「身近になられても困りますけど」
「昔はそうだったんだよ。そんなことより、スマホを借りるのが駄目なら、君からクラウスに連絡してくれないか」

 人の考えを読んでいるかのような、今も人のベッドに腰掛けてくつろぐスティーブンと名乗った男のすました顔に、レオナルドは意を決してスマホを取り出して電話をかける。
 2回のコールの後に聞こえた落ち着きのある声が聞こえてきた。

『おはよう、レオナルド君』
「おはようございます、クラウスさん。早朝にすみません。実はクラウスさんのお知り合いだっていう方がいるんですけど……」

 いったい何と伝えたらいいのか分からず、スティーブンに目を向けると、彼はこちらにスマホを渡すように手を出してくる。
 確かにそうするのが一番いいだろう。
 仕方なく渡すと、彼はレオナルドにも聞こえるようにスピーカーにしてくれた。

「やぁ、クラウス。久しぶりだな」
『そ、その声は、まさか……!』
「そのまさかだよ。へまをして呪いをかけられちまってな、犬になってたんだ。偶然だが、ここにいる少年が呪いを解いてくれた。お陰でこうして君と話をしている」

 本当にオーナーと知り合いだったことに驚くのは、話を聞かされても疑いが晴れなかったからだ。
 その疑いが少しずつ消えていくことで、レオナルドはようやく自宅にいるのに解けなかった緊張を解くことが出来た。

「詳しい話は後にするとして、君に頼みがある。ずっと犬の姿だったんでな、実は服がない。早朝にすまないが、彼の店に服を持ってきてくれないか?」
『心得た。至急準備をしよう。レオナルド君に本日は店を閉めるように言ってくれないか』
「だそうだ、少年」
「わ、分かりました。臨時休業にします」
『突然のことで申し訳ない。スティーブンのことを頼む』

 クラウスが店を休みにすると言ったのは、市場での仕入れを休むから。それほどまでに目の前にいるシーツを体に巻き付けただけの格好でくつろいでいる男を優先するというのは、相当のことだろう。
 だから異議を唱えることなく素直に受け止めて承諾する。

『ではスティーブン、後ほど』

 電話が切れ、再びふたりと1匹になった部屋。
 スティーブンはベッドから立ち上がるとスマホをレオナルドに返してくれた。

「それじゃあ、僕はシャワーを浴びてくるから」

 まるで我が家のようにバスタオルを手に迷うことなくシャワールームへ入っていくスティーブン。
 その姿が消えたところで、レオナルドは一気に押し寄せてくる疲労感と睡魔に勝てずにベッドに倒れこんだ。
 肩に載っていた猿は、レオナルドに潰される前に逃げて先にベッドに降りたので問題ない。
 硬いベッドでも毎日長い時間身を預けているのだ。長い長い吐息を吐けば、自然と瞼が重くなる。
 さらに薄い壁とドアのせいで聞こえる水音が子守歌となって、レオナルドは抗うことなく眠りの淵へと落ちていった。


 現代の倫敦において、幽霊も呪いも珍しいものには違いない。
 いや、幽霊の噂は後を絶たないし、ゴーストツアーだって盛況だ。たまには幽霊付きの物件が高値で売り出されることもあり、幽霊が出る場所はそこかしこにある。ホテルに出るならばその部屋は話題となるし、パブならけして会うことの出来なかっただろう人生の先輩と語らいたいとなる。
 珍しいのは、人に迷惑をかける幽霊の方だ。
 互いに存在を認知することはあっても、世界が違うからと彼らは気にせず自分たちがしたいことをする。それが人にとって迷惑となりうることはあるが、せいぜい夜中に小さな音を立てる程度がほとんどだし、この国の人はたいして気にしない。
 だから一応幽霊との交渉人、なんていう少し語るには気恥ずかしい職を生業としているレオナルドも、それだけで食べていけるわけではない。
 毎日を花屋の雇われ店主として過ごすのがごく当たり前で、交渉人仕事は滅多になくて。
 これではどちらが本職か分からないが、レオナルドは今の穏やかな生活が気に入っていた。

「ありがとうございましたー!」

 可憐な花束を売り、明るい声をかける。
 誰でも花を買った時ははにかんだり嬉しそうな顔をしたり。
 暗い顔をする人はひとりもいないことが、レオナルドの気持ちを和ませてくれる。
 それに、と、軽い体を生かしてバケツの淵に座った猿の愛らしさが客を引き寄せてくれるお陰で、ここのところとても売上がいい。

「ソニック、後1時間くらいで店を閉めるからな」

 ソニックと名をつけた、愛らしいが実のところ結構したたかでたくましい出来たばかりの相棒は、仕事が終わると聞いてレオナルドの肩の上に飛び移った。
 元々人の少ない時間だが、その流れが完全に途切れると、レオナルドはソニックと出会ったあの夜のことを思い出してしまう。
 徹夜をして走り回ったり、犬だったはずが突然全裸の男になったりと混乱したりと色々ありすぎて疲れ果て、眠ってしまったのは思い返しても不用心すぎると反省している。
 目を覚ました時にはスティーブンの姿はなく、クラウスから『ありがとう。今日はゆっくり休み給え』というメッセージが書かれたメモと、失ったマウンテンパーカーとシーツ、そしてバスタオルの代わりに身体にかけられたグレーの上質なジャケットだけが残されていて。
 全てが夢なら良かったが、残されたジャケットと肩の上のソニックのお陰で、紛れもなく現実だということを認めるしかない。
 それでもあのジャケットは夢であってほしかった。
 なぜなら、いつか受け取りに来るというメッセージのような気がしたからだ。
 つまり、もう会いたくないと思ったのに。

「やぁ、あれから元気だった?」

 胡散臭いと思われても仕方がないくらい無駄に明るい声にレオナルドの顔が引きつる。
 先にソニックが振り返り、レオナルドも渋々と振り返れば、肩から下げた無地の白い紙袋が似合わないグレーのスーツ姿の元全裸男が白昼堂々とレオナルドの前に現れた。

「ど、どうも……」
「客商売なのに元気がないぞ、少年」
「いやだって……えと、スターフェイズさん」
「スティーブンでいいよ。借りていた衣類を返しに来たんだ。代わりに、君に貸したスーツを返してもらえるかい?」

 スティーブンから無造作に押し付けられた紙袋をとっさに受け取ったのはいいが、中を確認する暇はないような気がした。
 少し待っててほしいとだけ告げて、急いで店の奥へ引っ込む。
 こんなことがあろうかと、借りたジャケットは店のレジの脇に掛けておいて正解だった。
 紙袋を開くと驚いたことにそのひとつひとつがきちんと畳まれた状態でビニール袋の中に入れられていて。紛れもなくクリーニング店を使ったのだろうその仕上がりに、ただハンガーに掛けただけのジャケットが少し申し訳ない。
 とはいえこれからクリーニングに出しますとは言えないから、紙袋から無造作に自分の衣類を出して側の折りたたみ椅子の上に置き、代わりにジャケットを四苦八苦しながら畳んで代わりに紙袋に収めた。
 全然奇麗に畳めていないし、重力に勝てないジャケットは底へと身を縮めていく。
 これが自分に出来る最善なのだと言い聞かせて持っていくと、スティーブンはスラックスのポケットに手を入れて花束を眺めていた。
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