Invisible Flowers

 どれくらい目を回してくれているか分からず、仲間がいる可能性も考慮して全力で走ったレオナルドはなんとか自分の店までたどり着くことが出来た。
 すっかり汗だくになった身体を休めたくて歩道に座り込むと、胸を大きく膨らませて思い切り朝の空気を吸い込む。
 昼間は乾燥してしまう空気も、この時間はまだ水気を含んでいて気持ちがいい。
 しばらくは立てそうにないなと苦笑していると、ずっと腕の中にいた猿がレオナルドの膝の上に乗った。

「もう大丈夫だけど、あんまりいたずらすんなよ。なんなら、俺んちに来るか? 猿くらいなら食わせてやれるし」

 話が分かったのか、猿は嬉しそうに飛び跳ねてレオナルドの頭の上に乗る。
 ペットを飼っていいかオーナーに聞いたことはないが、きっとあの人なら大丈夫だろう。
 そう思いながら胡坐をかいて少し前かがみになったレオナルドは、目の前に歩いてきた黒い犬の赤い瞳にふにゃりと笑った。

「ありがとな。お前のお陰で助かったよ」

 手を伸ばすと、犬は逃げることなく首の辺りの毛を撫でさせてくれて。
 やはり野良とは思えない美しく肌触りのいい毛並みに、ついついやめ時を失ってしまいそうだ。

「お前も野良のまんまは大変だし、うちに来るか? あー、その前にちゃんとクラウスさんに聞かないとか」

 開店前に花を持ってきてくれるオーナーことクラウスなら、きっと犬と猿両方を飼ってもいいと無条件で言ってくれそうだけれど。
 紹介するのが楽しみだな、と無意識に犬に抱きつこうと足を浮かせ身体をさらに前に倒したその時だった。
 タイミング悪く犬の方がレオナルドの言葉に反応するように顔を前に突き出してきたので、うっかりその濡れた鼻に口がついてしまった。
 そう、キスしてしまったのだ。
 別に犬の鼻にキスしたくらいでどうこう思うことはない。しかしこの時ばかりは違った。

「…………へ?」

 キスした鼻が、人のそれにしか見えない。
 顔を引けば、さっきまでのカッコよさと可愛さを併せ持つ黒い毛に覆われた犬ではなく、知らない男の傷のある顔。さらにその先に延びるのは、四つん這いになった全裸の男の刺青が入った引き締まった身体。
 早朝の路上に、変質者現る。

「へ……変態……?」

 言われて気づいたのか急速に青ざめ引き攣っていく男の顔を、レオナルドは一生忘れることはないだろうと思った。


 これが、のちにスティーブン・A・スターフェイズという名だと知る男との、最低にして最悪な出会い。
 そして、運命を変える出会いだということを、この時のレオナルドはまだ知らない――。

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