First Footing


「スティーブンさん、出てってください」
 まもなく新年を向かえる頃、カーペットの上で寝そべり大きな欠伸の真っ最中だった三十路狼は、立派な犬歯が見える口を開いたまま硬直した。
 ついさっきまでこのリビングで談笑をしながら来年にしたいことを話していたはずなのに、今ではソファに座った相棒が見下ろす視線を酷く冷たく感じる。
「ど、どういうことだ、レオ。俺が何かしたか?」
 動揺して立ち上がったスティーブンは無意識に尻尾を下げて、いつでも寝られるようにとパジャマ姿のレオナルドを見上げた。
 上目遣いでちょっと耳を下げれば、図体のでかい狼だって可愛い。そしてレオナルドがこれに弱いことを知っているから絆されてくれればいいと思ったのだが、返ってきた答えはスティーブンを悩ませた。
「ファーストフットって知ってますよね?」
「スコットランドや北イングランドの風習だろ? 新年最初に家にやってきた人物が、その年の幸運をもたらすってやつ」
「そうです。そしてもっとも幸運をもたらすというのが、長身で黒髪の男の人」
 ちなみに地域によって違うのだが、金髪や赤毛、明るい髪、女性は駄目だとか。
「明日、家に来る約束をしているのは……?」
「クラウスだ!」
 ようやくレオナルドの言わんとしていたことに気づいたスティーブンは、耳をピンと立てて思わず彼の座るソファへ飛び乗った。
 狭いからいつも嫌だと言われるが、狼になると密着することで妙に安心するので下りる気はない。
「あいつが明日最初の客だった場合を、君は懸念していたんだな。すまん、気づかなかったよ」
「信じてるかどうかって言われたら微妙なところなんですけど、色々と験を担いでおきたいなぁ、と。それに、クラウスさんが知ったらきっとショックを受けちゃいますから」
 厄介ごとに巻き込まれやすいレオナルドだ。来年は平穏無事に過ごせるようにと祈るのは当然のことだろう。それにクラウスを思う優しい気持ちがとても彼らしい。
 昔からの風習を信じていることが照れくさいのか、ふにゃりと笑った彼の頬にそっと頭をすりよせる。出来れば癖毛をくしゃくしゃに撫でまわしたいところだが、残念なことにそれは夜明けまでお預けだ。
「もー、スティーブンさん、重いっすよ」
 文句は言うがくすくすと笑うレオナルドが、スティーブンの重みに耐えかねてソファに倒れこむ。
 自然とスティーブンが上にまたがり押し倒すような感じになってしまったのだが――どちらからともなく見つめあい、黙り込んでしまった。
 そこに流れる雰囲気に流されるように、スティーブンはゆっくりと鼻先を近づけ――
『ハッピーニューイヤー!』
 ――つけっぱなしになっていたテレビから聞こえた女性アナウンサーの甲高い声と花火の爆発音に驚き、後わずかでレオナルドと触れ合う寸前で、硬直してしまった。
「……年が明けちまったな」
「……ですねぇ。って、このままじゃクラウスさんが来ちゃいますよ!? スティーブンさんがさっさと外に出ないから! どうするんですか!?」
「どうするって言われたって、僕はまだ狼の姿なんだぞ!? それに夜明けまで外にいたら寒いし全裸じゃないか!」
 年明け早々真冬の倫敦に全裸の男が現れたところを想像したのだろう。
 ソファに寝そべったレオナルドはぷっと噴き出したせいで、完全に先程までの雰囲気はなくなってしまった。
「もういいじゃないか。どうせ僕らは波乱万丈な1年が似合ってるんだよ」
 ソファを降りてレオナルドの前に座る。そして身体を起した彼の膝の上に顎を乗せると、そっと温かい手が頬に触れる。
「ぷ、ふふっ、拗ねないでくださいよ。それなら、今日はクラウスさんが来る前にちょっと買い物に行きましょう。ファーストフットなら、4つのものを持ってなくちゃいけませんしね。それで僕は先に家に入るんで、スティーブンさんはちょっと遅れて帰ってきてください」
 先程の仕返しだと言わんばかりに、頬を撫でてくるレオナルドの手は優しい。
 ファーストフットなら、手土産は地域によって違うが銀貨とショートブレッド、石炭。そしてウイスキーを手土産に持ってくるのだ。
 彼の意見には賛成なのだが、素直に分かったと返すのは少しだけ悔しくて、もう少しの間だけ撫でてほしいからそっと目を閉じる。
 こんな自分だから素直に気持ちを伝えられないと分かっているが、簡単には変えられない。それはこの狼の姿になる呪いのせいだろう。
 願わくば、今年こそ呪いが解るように。
 そしてレオナルドと共に過ごすことが出来るようにと祈りながら、彼の手に甘えた。


 翌朝、のんびりと朝食を楽しみすぎたふたりは、やってきたクラウスを慌てて外食に誘うことでなんとか難を免れたのだが、これがいけなかった。ファーストフットのことをすっかり忘れてしまったのだ。
 さらに翌日、新年最初の営業日にクラウスが商品の花を仕入れてきたため――ふたりの目論見は脆くも崩れ去り、波乱万丈の1年が始まりを向かえる。
 なお、クラウスにファーストフットのことは秘密にしてある。
1/1ページ