All in my sight
中央に円柱型の建物があり、中にはカフェや土産物店があって。くるりと巻きついた階段、広々とした通路を挟んだ左右にある神殿のような出入り口に、少しだけ異国情緒を感じてしまう。
とはいえ、日没と同時にここは照明を落とされてしまうので、開館している時間のように楽しめるのは今のうちだ。
もったいないと思いつつ博物館を楽しむより先に近くのトイレに駆け込んだレオナルドたちは、それぞれ個室でサムハインの仮装に着替え――スティーブンは服を脱ぐだけなのだが――をする。
念のためにアンティーク調のLEDランタンを出して明かりをつけ、ドアのフックにぶら下げて着替えをする。
昨日も着たが、どうしてこんなに着替えが面倒くさい衣装を選んだのかと思いながら、レオナルドは再び狼に扮した。
その時、ふ、と照明が落ちて暗くなった。どうやら日没には間に合ったらしい。
「どういうことだ!?」
隣のトイレからそんな声が聞こえ、驚いたのはレオナルドだ。
慌ててトイレを飛び出し、スティーブンに声をかけようとして、絶句した。
大英博物館のトイレに、全裸の変質者、現る。
新聞の三面記事に載りそうな見出しが脳裏に浮かんだのは仕方がない。なにせ本当に目の前に全裸の男、もといスティーブンが立っているのだ。
「デカっ」
どこのナニをはさておき、何度も見ているはずの同居人の全裸姿に動揺したのは確かで。
スマートな立ち姿だったらそれも嫌だが、両足を広げアリクイが威嚇している姿に近いポーズで暗闇に立っている全裸男は結構怖い。いや、どんな場所でも暗闇に全裸男は御免被りたい。
「れ、レオ、君には僕がどう見える?」
「え、えと……全裸の変質者」
つい口が滑ってしまい怒られると思ったが、両腕を上げたスティーブンは全身で歓喜を表している。こんな姿、店に来るスティーブン狙いの女性たちには絶対に見せられないだろう。
それはさておき。
「もう日没のはずですよね? え、なんで狼になってないんです?」
「分からん。だが呪いが発動していないのは確かだ。ああ、こんな日が再び来るなんて……」
両手で顔を覆って感極まっているのはいいが、トイレの床に膝をつきそうだったのでそこは止めた。
とりあえず着替えてから話をしようということになり、レオナルドは一旦トイレの外で待つことにする。なお、荷物はちゃんと許可を得ているのでトイレをロッカー代わりにした。
「いったい何が起こってるんだか……」
レオナルドの眼ならスティーブンの呪いにどんな変化が起きているのか、見ることはたやすい。だがあの喜び具合を見ていると、許可なくそれをやって彼をがっかりさせるような結果にはしたくない。
しかし本当に何が起きているのか。さっぱり分からないと左右に何度も首を傾げ、暗闇に眠った博物館の中をランタンで照らす。
展示物はレオナルドがいる場所からさらに中に入らなくては見られないが、土産物店に並ぶレプリカなどを見ているとワクワクしてきてしまう。
悠久の時の中で紡がれた人々の息遣いが、ここには多く所蔵されている。それらを目の当たりにして心が動かない者などはたしているのか。
「やあ、お待たせ」
そして振り返った途端、別の意味で心が動いた。
「うわ、スティーブンさん、カッコいい!」
思わず出た声に、「そうか?」とはにかむのは白を基調にした藍色と金の飾緒やフロッグ・ボタンで飾ったクラシカルな軍服に身を包み、左側の肩章と青いマントと白い手袋が優雅さを醸し出している。
手にはレオナルドと同じくランタンを持ち、頭には、作り物だが狼の耳が。
「魔女め、試作品作りに付き合えとか言ってたくせに、予知をしてたのか?」
苦笑するスティーブンだが、夜でも人の姿に戻れたことが嬉しいのか、怒っている様子はない。
話を聞くとレオナルドの衣装をグリニッジの魔女であるシャーロットに頼んだ際、スティーブンは試作の衣装を作りたいからと寸法を測られたらしい。
「出来た衣装を押し付けられてさ、グリニッジ以外の場所に行く時は、絶対に持っていけと念を押されたんだ」
「さすが魔女さんですね。じゃあ、シャーロットさんはここでスティーブンさんが人に戻るって知ってたんです?」
「どうだろうなぁ。なんにせよ、これで今夜は王子様のペットから騎士に昇格かな」
楽しそうにウィンクをしたスティーブン。
そこでようやくレオナルドは自分の仮装のコンセプトを知る。王子なんて柄じゃないのに、とぼやくが、騎士より王様が似合いそうなスティーブンは嬉しそうに笑っているので口を噤むしかなかった。
「呪いのことはまだ分からんが、ひとまず3人の賢者に会いに行こう」
さっきまで疑心暗鬼でさほどやる気がなかったくせに、今ではレオナルドよりこの状況を楽しんでいるように見える。
しかしそれも無理はない。彼は1年以上、人の姿で夜を満喫したことがなかったのだから。
「ほら、王子をエスコートさせてくれよ」
「騎士がエスコートするならお姫様でしょ?」
差し出された左手に手を重ねたのは、なんとなくその場の雰囲気に流されてしまったから。
けれど今夜は日常とは違う世界だ。
なによりスティーブンが楽しそうなのだから、拒むのは失礼な気がした。
「今宵の僕は、レオナルド王子の騎士だからね」
さらっと言う台詞が似合いすぎて、皮肉のひとつも返してやりたいのに上手い言葉が出てこない。
不覚にもときめいてしまったということはないと自分に言い聞かせるが、だとすればこの胸のざわつく感じは何なのだろうか。
「そ、それより早く3人の賢者の正体を教えてくださいよ!」
「仰せのままに」
スティーブンに手を引かれて歩いた先は、グレートコートの正面から見て左側。古代エジプト関連の展示品があるとのことだが、中に入った瞬間、空気が一変した。
暗がりの中に浮かぶのは、青白い光を纏った半透明の人々。しかも皆、倫敦では見かけることがないだろう古代エジプト人の装束を身に纏っている。それだけではなく空想上の生き物でしかないはずのスフィンクスのような半人半獣の生物や模様がついた青い猫など、グリニッジで見たどの幽霊たちとも異なった姿に、ふたりは揃って目を丸くした。
「なんすかこれ……」
「俺に聞くなよ。とにかく、こっちだ」
迂闊に近づいて何かあってはいけないと、彼らを遠巻きにしながらスティーブンが案内した先にあったのは、レオナルドもよく知る巨大な石板。ロゼッタストーン。
1799年にエジプトのロゼッタで発見されたこの石板は、神聖文字ヒエログリフ、民衆文字デモティック、古代ギリシャ語で同じ内容が刻まれている。この石板の発見によりヒエログリフを始めとする古代エジプト語翻訳の道が開かれ、同時に歴史を知ることが出来るようになった。
大英博物館では目玉のひとつであり、日夜多くの人々が詰めかけるここも、今夜はふたりだけ。
周りの幽霊たちがお構いなしなのをいいことに、読めない石板をレオナルドはじっくりと眺めた。
「どこに3人の賢者が?」
「この3種類の文字のことを示しているんだろうと考えたんだよ。時の眠る、すなわち歴史的な品が納められた宮殿風の建物。その中にある3が示す知識、もしくはそれに等しい人物の遺品ってね。その時に何となく、ロゼッタストーンが浮かんだんだ」
「すっげー。さすがスティーブンさん!」
「当たっているかどうかは分からないし、この後どうすればいいのかさっぱりだがね」
レオナルドの手を持ったまま、肩を竦めてみせるスティーブン。
今夜の奇跡が正解という証ではないかと思うのだけれど、スティーブンは時に大胆だが慎重な性格だ。きっと何かしらの解答がみつからない限りは納得しないのだろう。
「あのおじいさんがいたら分かりやすいんですけどね」
「呼んだかな?」
唐突に聞こえた第三者の声に、ふたり揃って勢いよく振り返る。
そこにはアレックスの店で出会った時と同じ、魔法使いの服装をした老人が立っていた。
「良くここが分かったね。すごいすごい」
「褒められているようには聞こえないんだが?」
色々と上手くいっていないが、自分では上手くいっていると思っている子供をとりあえず褒める大人を思わせる、微妙に感情のこもっていない声に、スティーブンは冷ややかな目を向ける。
さりげなくレオナルドを後ろにして庇うスティーブン。
静かな緊張感に、レオナルドは息を呑んだ。
「まぁまぁ、そう警戒しないで。ほら、ここなら君の呪いも解けているだろう?」
「それは確かに。だが、どうしてだ」
「ここはね、君たちも知ってのとおり、世界中からありとあらゆるものが収集されている。いやはや、本当に良く集めたものだよ」
老人はその場で歳を感じさせない軽快な動きでくるりと一回転する。彼の姿に気づいたのか、スフィンクスのような動物が近づいてきて彼の身体に頬擦りをした。
どうやらアレックスだけでなく、彼は色々なところに知り合いがいるらしい。
「というわけで、あれもこれもとむやみやたらと集めた結果、中には困ったものも来てしまった」
「呪いの類か?」
「そのとおり。しかもありとあらゆる世界中の呪いだ。ひとつひとつ解呪していては手が負えん。そこでこの建物全体にな、呪いを封じる呪いをかけたのさ。いやはや、大事業だったそうだよ。おお、これは公表していないので、内緒」
茶目っ気たっぷりに唇に指を当て、ウィンクする老人。
しかしこれで、スティーブンが人のままでいられる理由が分かった。
「それじゃあ、スティーブンさんの呪いもここでは発動しないんですね?」
「本当か? なら、呪いは解けていないってことじゃないか」
わずかな希望が砕かれたスティーブンは天を仰いで嘆く。希望が湧いた途端にくじかれたのだから仕方がないが、呪いがぜ絶対ではないと分かっただけでも十分に違いない。
そう前向きに気持ちを切り換えたのか、長い溜息を吐きながら再び顔を前に向けたスティーブンに、老人はにっこりと笑う。
「ここには色々なものたちがいるから、今夜はいろんな話を聞けるよ?」
「そうだ、ここにいる人たちって、幽霊とはちょっと違うような気がするんですけど」
スティーブンの呪いは一旦脇に置いて、レオナルドは先程から感じていた疑問を口にすると、老人は付いてきなさいと踵を返して歩き出した。
古代エジプト人とすれ違い、ライオンがゆったりとした動きで歩いていく。
その様子を横目に歩きつつ、老人は話を始めた。
「この国ではあまりなじみがないけどね、東洋の島国では長い年月を経たものには魂が宿るといわれているんだ。付喪神といったかなぁ」
「付喪神、ねぇ。妖精か精霊の類?」
「さて、どっちなんだろう。僕たちはピンとこないかもしれないけど、神様らしいよ?」
一神教が主流な国で生まれ育ってきた身としては、確かに長い年月を経て物が神になるというのはどうも理解しがたい。
しかし人類は古代より数多くの神と接してきたのだし、なにより異なる世界のことを自分の常識に当てはめようということがすでに間違っているに違いない。
この場合、何を信じるか、ではなくどう受け入れるか、という考え方が必要なのだろう。彼らはいる。ただそれを受け入れるだけでいいのだと、レオナルドは理解した。
「もしかしなくても、ここにいるのって幽霊じゃなくて、そのツクモガミってやつです?」
「そんな感じ。サムハインの夜だけは、なぜか動けちゃうらしい。いやいや、世界というのは驚きだ」
はっはっは、と笑う老人に、レオナルドはまだ腑に落ちないものを感じていた。
大英博物館にも幽霊が出入りできない呪いはかかっているはずだ。だとしたらこの老人は付喪神ということになる。しかし物に宿っているのなら、グリニッジまでふらふらと出歩くことが出来るものなのだろうか。
「ご老人はどちらに部類するんです?」
スティーブンも同じことを疑問に思ったのだろう。
尋ねると、老人はふふっ、と笑った。
「僕? 君たちがいう幽霊だね。ただここには僕の物もあるから、それを媒体にして遊びに来るんだ。ま、そんな野暮なことは言いっこなしだよ」
全裸の美女から目を逸らしたレオナルドをマントの中に隠すように肩を抱き寄せたスティーブンは、老人の態度に肩を竦める。これ以上は何を聞いても答えないだろうと察したのだろう。
数々の歴史的な価値がある展示物が動き回る中、3人は2階へと上がる階段までたどり着いた。
「さて、僕はここまでだ。まだまだたくさんのところに挨拶に行かなくちゃ」
突然別れを告げる老人。立ち止まり踵を返すと、ふわりと飛び上がる。
ふたりが見上げる高さまで行ったところで、どうしてかスティーブンの顔の近くへ戻ってきて耳元に口を寄せた。
「あんまりにもじれったい感じだったからね。頑張るんだよ」
レオナルドは上手く聞き取れなかったが、老人の言葉を聞いてスティーブンはあからさまな反応をする。
勢いよく背筋が伸びて硬直したのだ。
「な、な、な、なぜそれを!?」
「ん? 僕は占い師でもあったからね。人の……この場合は犬くんのかな? 顔を見ると仕草とかで分かっちゃうんだよ。ま、余計なおせっかいかもしれないけど、チャンスを活かして」
双眸を見開き顎が外れそうなほど大きく口を開いたスティーブンを後目に、老人はにっこり笑って手を振りながら姿を消した。
とはいえ、日没と同時にここは照明を落とされてしまうので、開館している時間のように楽しめるのは今のうちだ。
もったいないと思いつつ博物館を楽しむより先に近くのトイレに駆け込んだレオナルドたちは、それぞれ個室でサムハインの仮装に着替え――スティーブンは服を脱ぐだけなのだが――をする。
念のためにアンティーク調のLEDランタンを出して明かりをつけ、ドアのフックにぶら下げて着替えをする。
昨日も着たが、どうしてこんなに着替えが面倒くさい衣装を選んだのかと思いながら、レオナルドは再び狼に扮した。
その時、ふ、と照明が落ちて暗くなった。どうやら日没には間に合ったらしい。
「どういうことだ!?」
隣のトイレからそんな声が聞こえ、驚いたのはレオナルドだ。
慌ててトイレを飛び出し、スティーブンに声をかけようとして、絶句した。
大英博物館のトイレに、全裸の変質者、現る。
新聞の三面記事に載りそうな見出しが脳裏に浮かんだのは仕方がない。なにせ本当に目の前に全裸の男、もといスティーブンが立っているのだ。
「デカっ」
どこのナニをはさておき、何度も見ているはずの同居人の全裸姿に動揺したのは確かで。
スマートな立ち姿だったらそれも嫌だが、両足を広げアリクイが威嚇している姿に近いポーズで暗闇に立っている全裸男は結構怖い。いや、どんな場所でも暗闇に全裸男は御免被りたい。
「れ、レオ、君には僕がどう見える?」
「え、えと……全裸の変質者」
つい口が滑ってしまい怒られると思ったが、両腕を上げたスティーブンは全身で歓喜を表している。こんな姿、店に来るスティーブン狙いの女性たちには絶対に見せられないだろう。
それはさておき。
「もう日没のはずですよね? え、なんで狼になってないんです?」
「分からん。だが呪いが発動していないのは確かだ。ああ、こんな日が再び来るなんて……」
両手で顔を覆って感極まっているのはいいが、トイレの床に膝をつきそうだったのでそこは止めた。
とりあえず着替えてから話をしようということになり、レオナルドは一旦トイレの外で待つことにする。なお、荷物はちゃんと許可を得ているのでトイレをロッカー代わりにした。
「いったい何が起こってるんだか……」
レオナルドの眼ならスティーブンの呪いにどんな変化が起きているのか、見ることはたやすい。だがあの喜び具合を見ていると、許可なくそれをやって彼をがっかりさせるような結果にはしたくない。
しかし本当に何が起きているのか。さっぱり分からないと左右に何度も首を傾げ、暗闇に眠った博物館の中をランタンで照らす。
展示物はレオナルドがいる場所からさらに中に入らなくては見られないが、土産物店に並ぶレプリカなどを見ているとワクワクしてきてしまう。
悠久の時の中で紡がれた人々の息遣いが、ここには多く所蔵されている。それらを目の当たりにして心が動かない者などはたしているのか。
「やあ、お待たせ」
そして振り返った途端、別の意味で心が動いた。
「うわ、スティーブンさん、カッコいい!」
思わず出た声に、「そうか?」とはにかむのは白を基調にした藍色と金の飾緒やフロッグ・ボタンで飾ったクラシカルな軍服に身を包み、左側の肩章と青いマントと白い手袋が優雅さを醸し出している。
手にはレオナルドと同じくランタンを持ち、頭には、作り物だが狼の耳が。
「魔女め、試作品作りに付き合えとか言ってたくせに、予知をしてたのか?」
苦笑するスティーブンだが、夜でも人の姿に戻れたことが嬉しいのか、怒っている様子はない。
話を聞くとレオナルドの衣装をグリニッジの魔女であるシャーロットに頼んだ際、スティーブンは試作の衣装を作りたいからと寸法を測られたらしい。
「出来た衣装を押し付けられてさ、グリニッジ以外の場所に行く時は、絶対に持っていけと念を押されたんだ」
「さすが魔女さんですね。じゃあ、シャーロットさんはここでスティーブンさんが人に戻るって知ってたんです?」
「どうだろうなぁ。なんにせよ、これで今夜は王子様のペットから騎士に昇格かな」
楽しそうにウィンクをしたスティーブン。
そこでようやくレオナルドは自分の仮装のコンセプトを知る。王子なんて柄じゃないのに、とぼやくが、騎士より王様が似合いそうなスティーブンは嬉しそうに笑っているので口を噤むしかなかった。
「呪いのことはまだ分からんが、ひとまず3人の賢者に会いに行こう」
さっきまで疑心暗鬼でさほどやる気がなかったくせに、今ではレオナルドよりこの状況を楽しんでいるように見える。
しかしそれも無理はない。彼は1年以上、人の姿で夜を満喫したことがなかったのだから。
「ほら、王子をエスコートさせてくれよ」
「騎士がエスコートするならお姫様でしょ?」
差し出された左手に手を重ねたのは、なんとなくその場の雰囲気に流されてしまったから。
けれど今夜は日常とは違う世界だ。
なによりスティーブンが楽しそうなのだから、拒むのは失礼な気がした。
「今宵の僕は、レオナルド王子の騎士だからね」
さらっと言う台詞が似合いすぎて、皮肉のひとつも返してやりたいのに上手い言葉が出てこない。
不覚にもときめいてしまったということはないと自分に言い聞かせるが、だとすればこの胸のざわつく感じは何なのだろうか。
「そ、それより早く3人の賢者の正体を教えてくださいよ!」
「仰せのままに」
スティーブンに手を引かれて歩いた先は、グレートコートの正面から見て左側。古代エジプト関連の展示品があるとのことだが、中に入った瞬間、空気が一変した。
暗がりの中に浮かぶのは、青白い光を纏った半透明の人々。しかも皆、倫敦では見かけることがないだろう古代エジプト人の装束を身に纏っている。それだけではなく空想上の生き物でしかないはずのスフィンクスのような半人半獣の生物や模様がついた青い猫など、グリニッジで見たどの幽霊たちとも異なった姿に、ふたりは揃って目を丸くした。
「なんすかこれ……」
「俺に聞くなよ。とにかく、こっちだ」
迂闊に近づいて何かあってはいけないと、彼らを遠巻きにしながらスティーブンが案内した先にあったのは、レオナルドもよく知る巨大な石板。ロゼッタストーン。
1799年にエジプトのロゼッタで発見されたこの石板は、神聖文字ヒエログリフ、民衆文字デモティック、古代ギリシャ語で同じ内容が刻まれている。この石板の発見によりヒエログリフを始めとする古代エジプト語翻訳の道が開かれ、同時に歴史を知ることが出来るようになった。
大英博物館では目玉のひとつであり、日夜多くの人々が詰めかけるここも、今夜はふたりだけ。
周りの幽霊たちがお構いなしなのをいいことに、読めない石板をレオナルドはじっくりと眺めた。
「どこに3人の賢者が?」
「この3種類の文字のことを示しているんだろうと考えたんだよ。時の眠る、すなわち歴史的な品が納められた宮殿風の建物。その中にある3が示す知識、もしくはそれに等しい人物の遺品ってね。その時に何となく、ロゼッタストーンが浮かんだんだ」
「すっげー。さすがスティーブンさん!」
「当たっているかどうかは分からないし、この後どうすればいいのかさっぱりだがね」
レオナルドの手を持ったまま、肩を竦めてみせるスティーブン。
今夜の奇跡が正解という証ではないかと思うのだけれど、スティーブンは時に大胆だが慎重な性格だ。きっと何かしらの解答がみつからない限りは納得しないのだろう。
「あのおじいさんがいたら分かりやすいんですけどね」
「呼んだかな?」
唐突に聞こえた第三者の声に、ふたり揃って勢いよく振り返る。
そこにはアレックスの店で出会った時と同じ、魔法使いの服装をした老人が立っていた。
「良くここが分かったね。すごいすごい」
「褒められているようには聞こえないんだが?」
色々と上手くいっていないが、自分では上手くいっていると思っている子供をとりあえず褒める大人を思わせる、微妙に感情のこもっていない声に、スティーブンは冷ややかな目を向ける。
さりげなくレオナルドを後ろにして庇うスティーブン。
静かな緊張感に、レオナルドは息を呑んだ。
「まぁまぁ、そう警戒しないで。ほら、ここなら君の呪いも解けているだろう?」
「それは確かに。だが、どうしてだ」
「ここはね、君たちも知ってのとおり、世界中からありとあらゆるものが収集されている。いやはや、本当に良く集めたものだよ」
老人はその場で歳を感じさせない軽快な動きでくるりと一回転する。彼の姿に気づいたのか、スフィンクスのような動物が近づいてきて彼の身体に頬擦りをした。
どうやらアレックスだけでなく、彼は色々なところに知り合いがいるらしい。
「というわけで、あれもこれもとむやみやたらと集めた結果、中には困ったものも来てしまった」
「呪いの類か?」
「そのとおり。しかもありとあらゆる世界中の呪いだ。ひとつひとつ解呪していては手が負えん。そこでこの建物全体にな、呪いを封じる呪いをかけたのさ。いやはや、大事業だったそうだよ。おお、これは公表していないので、内緒」
茶目っ気たっぷりに唇に指を当て、ウィンクする老人。
しかしこれで、スティーブンが人のままでいられる理由が分かった。
「それじゃあ、スティーブンさんの呪いもここでは発動しないんですね?」
「本当か? なら、呪いは解けていないってことじゃないか」
わずかな希望が砕かれたスティーブンは天を仰いで嘆く。希望が湧いた途端にくじかれたのだから仕方がないが、呪いがぜ絶対ではないと分かっただけでも十分に違いない。
そう前向きに気持ちを切り換えたのか、長い溜息を吐きながら再び顔を前に向けたスティーブンに、老人はにっこりと笑う。
「ここには色々なものたちがいるから、今夜はいろんな話を聞けるよ?」
「そうだ、ここにいる人たちって、幽霊とはちょっと違うような気がするんですけど」
スティーブンの呪いは一旦脇に置いて、レオナルドは先程から感じていた疑問を口にすると、老人は付いてきなさいと踵を返して歩き出した。
古代エジプト人とすれ違い、ライオンがゆったりとした動きで歩いていく。
その様子を横目に歩きつつ、老人は話を始めた。
「この国ではあまりなじみがないけどね、東洋の島国では長い年月を経たものには魂が宿るといわれているんだ。付喪神といったかなぁ」
「付喪神、ねぇ。妖精か精霊の類?」
「さて、どっちなんだろう。僕たちはピンとこないかもしれないけど、神様らしいよ?」
一神教が主流な国で生まれ育ってきた身としては、確かに長い年月を経て物が神になるというのはどうも理解しがたい。
しかし人類は古代より数多くの神と接してきたのだし、なにより異なる世界のことを自分の常識に当てはめようということがすでに間違っているに違いない。
この場合、何を信じるか、ではなくどう受け入れるか、という考え方が必要なのだろう。彼らはいる。ただそれを受け入れるだけでいいのだと、レオナルドは理解した。
「もしかしなくても、ここにいるのって幽霊じゃなくて、そのツクモガミってやつです?」
「そんな感じ。サムハインの夜だけは、なぜか動けちゃうらしい。いやいや、世界というのは驚きだ」
はっはっは、と笑う老人に、レオナルドはまだ腑に落ちないものを感じていた。
大英博物館にも幽霊が出入りできない呪いはかかっているはずだ。だとしたらこの老人は付喪神ということになる。しかし物に宿っているのなら、グリニッジまでふらふらと出歩くことが出来るものなのだろうか。
「ご老人はどちらに部類するんです?」
スティーブンも同じことを疑問に思ったのだろう。
尋ねると、老人はふふっ、と笑った。
「僕? 君たちがいう幽霊だね。ただここには僕の物もあるから、それを媒体にして遊びに来るんだ。ま、そんな野暮なことは言いっこなしだよ」
全裸の美女から目を逸らしたレオナルドをマントの中に隠すように肩を抱き寄せたスティーブンは、老人の態度に肩を竦める。これ以上は何を聞いても答えないだろうと察したのだろう。
数々の歴史的な価値がある展示物が動き回る中、3人は2階へと上がる階段までたどり着いた。
「さて、僕はここまでだ。まだまだたくさんのところに挨拶に行かなくちゃ」
突然別れを告げる老人。立ち止まり踵を返すと、ふわりと飛び上がる。
ふたりが見上げる高さまで行ったところで、どうしてかスティーブンの顔の近くへ戻ってきて耳元に口を寄せた。
「あんまりにもじれったい感じだったからね。頑張るんだよ」
レオナルドは上手く聞き取れなかったが、老人の言葉を聞いてスティーブンはあからさまな反応をする。
勢いよく背筋が伸びて硬直したのだ。
「な、な、な、なぜそれを!?」
「ん? 僕は占い師でもあったからね。人の……この場合は犬くんのかな? 顔を見ると仕草とかで分かっちゃうんだよ。ま、余計なおせっかいかもしれないけど、チャンスを活かして」
双眸を見開き顎が外れそうなほど大きく口を開いたスティーブンを後目に、老人はにっこり笑って手を振りながら姿を消した。