Invisible Flowers

 どこにでもありそうなあちこちに錆の浮いたドア。丸いドアノブの真ん中にある鍵穴はよく見かける一番簡単な鍵のタイプのようで、試しに回してみるとノブはレオナルドの手と一緒に動いた。
 先ほどの窓の様子から廃墟という可能性はあるが、ドアが開いているのは不用心すぎるだろう。
 可能性として、廃墟というのは見せかけだけで中に人がいる場合もある。さてどうするかと迷っていると、真夜中にもかかわらず人の声がレオナルドの耳に飛び込んできた。

「地元の連中か? みつかりたくないなぁ」

 声からしてまだ若そうだが、年齢はさておき真夜中にふらついているような人間に遭遇するのは、どんな人物であれ厄介だ。
 警察だとこんなところで何をしているんだと尋問され、ゴロツキなら憂さ晴らしに喧嘩を吹っ掛けられたりカツアゲにあったりするかもしれない。
 まだ噂でしか聞いたことがないが、貞操の危機だって起こりうる。
 なんにせよ、このまま立っていたら面倒なことに変わりはない。だからといってこの場を離れれば、あの猿の行方が分からなくなってしまうだろう。
 仕方がない、と音を極力立てないように気を付けながらドアを開くと、レオナルドより先に犬が中に入っていく。
 こうなったら本気で躊躇している暇はない。
 レオナルドも身体を滑らせるようにして中に入り、そっとドアを閉めた。

「なんでお前まで入っちゃうのかなぁ」

 1匹なら余裕で逃げられただろうに、とことん付き合ってくれるらしい黒い犬に小声でそう言うと、犬はレオナルドを一瞥して床に鼻を近づける。
 もしかしたら人の鼻では分からない食べ物の匂いを嗅ぎつけたのか。明かりのない真の暗闇のような建物の中でも、犬は夜目が利くのだろう。
 そしてレオナルド自身もまた、明かりを必要としなかった。

「倉庫……とかだったのかな?」

 間仕切りの壁がなく、がらんとした建物の中は埃が積もっているだけで何もない。昔は工場かはたまた倉庫か。位置的に裏口から入ったのは確かだし、もしかしたら昔は店舗だった可能性もあるかもしれない。
 薄汚れた壁やむき出しのコンクリートの床の色もよく見れば分かるかだろうが、今は必要のないこと。
 なんにせよ、今は何もない空っぽの建物には違いないのだ。
 ひとまず見える範囲に猿がいないことを確認したレオナルドは、2階に上がる階段に注視した。
 猿が飛び込んだ階はこの上。すでに窓から再び外に出てしまった可能性もあるが、確認して今後のことを考えるためにも行く必要がある。
 見えてはいてもここはレオナルドにとってアウェーな場であり、万が一のことがあれば不利にしかならない。
 唾を飲み込み、階段に足をかける。
 するとまたあの犬がレオナルドの足元をするりと通り抜けて先に階段を上がっていった。

「あ、おい!」

 うっかり出してしまった声の大きさに慌てて口を手で塞ぐ。
 そして周囲の気配に変化がないことに安堵し、念のために首にぶら下げたゴーグルを装着した。
 階段の途中で待っている犬に追いつき、ひとりと1匹で2階へ。
 そこもまた1階と同じようにがらんとしているが、こちらは間仕切りがしてあるようだ。ただ、ドアはないので本当に仕切ってあるだけの簡素な部屋。
 しかしここで1階よりも余裕が出てきたのだろう。異変に気づいた。

「……足跡、だな」

 埃が積もった床に複数の足跡があるのだ。
 新しいか古いかはこの建物の埃の積もる頻度が分からないので何とも言えないが、確かにうっすらとある足跡は大きく、おそらく大人の男のもの。
 猿らしい足跡はないが、あの身の軽さだ。床に足をつけたって、移動中ならたいして跡を残さないかもしれない。

「まだ上もあるしな」

 そう、猿が飛び移っていった窓は2階より上だった。人が出入りしているのが分かった以上、早めにここを出た方が懸命なのは分かっている。
 悩むのは一瞬だ。髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜ、レオナルドは犬を伴って上へ上がる階段を探す。
 一番奥の部屋から上がる階段をみつけたが、こちらにも足跡があるのを一緒にみつけてしまって。
 舌打ちをして埃の積もった手すりに手を置き、すぐに気を取り直して手を離した。

「お前はここにいろよ。……って、おい」

 聞くとは思っていなかったけれど、先に階段を上がっていく犬に肩を落として溜息を吐く。
 利口すぎて本当に犬なのかと思ってしまうが、犬の放つオーラは異界のものではないのは確かで。しかしただの犬とは思えない不思議な色をしている。
 白と青、そしてうっすらと黄色が混じっていて、滲むような赤が見え隠れしているのだ。
 とても複雑なオーラは、レオナルドが知る限りでは人に近い。
 人のそれは動物に比べれば複雑怪奇な人の人生が、色に表れてしまうのだ以前に知り合いから聞いたことがある。
 だとしたら、あの犬も人並みに大変な人生を送っているのだろうか。

「野良犬も大変なのかなぁ」

 1匹で都会を生きていくことの辛さはレオナルドには到底想像出来ない。しかしこうした縁が出来てしまったのだから、何かしてやれることがないか考えてみたいと思う。
 とはいえ、今は猿だ。
 犬の後を追って3階へと上がる。
 慎重に階段から顔を覗かせて3階を見渡すと、こちらは下と違って板張りになっていた。埃は積もっているが、足跡はない。階段についていた跡をちゃんと見ていなかったから気づかなかったが、おそらく足跡の主は階段を途中で引き返している。
 ではなぜそうしたのか――答えは見上げた瞬間に分かった。
 顔を引きつらせたレオナルドのゴーグル越しの眼は、天井付近で蠢いている黒い黒い影を捉えていた。
 一応人の形に近いと言えないでもないが、時折歪んでは縮み、原型を留めようとしながらも力を入れすぎて失敗に終わっている靄の塊ようなそれは、すでに形容しがたい何かとしか言えない。
 ただぼんやりとそこに存在しているだけなのに、喉を締め付けられるような呼吸の苦しさと湧き上がる嫌悪感から噴き上がる鳥肌。これが良くないものだと本能的に察するのには十分な拒絶反応だ。
 先に上がった犬も、見えないまでも感じるところがあるのだろう。
 ぶわりと膨れるように全身の毛を立て、頭を低くして唸っている。
 相手に明確な意識がないにしても、長居するのは良くない。早くここから逃げ出すべきだ。
 急いで周囲を見渡し、猿を探す。すると部屋の奥、ちょうどレオナルドとは反対の場所に大量の蜘蛛の巣に絡まって怯えている猿を見つけることが出来た。
 窓から飛び込んだ瞬間にこの黒い靄に遭遇し、驚いて埃だらけの蜘蛛の巣に引っかかったというところか。
 見えているかは分からないが、犬同様に何かを察しているのだろう。
 それならば逃げられる可能性は低い。問題は、猿を保護するためには部屋を奥まで突っ切らなくてはならないことか。
 出来ることなら回れ右をして帰りたい。しかし猿を助けると決めたレオナルドには、いまさら見捨てるなんて選択肢は存在しなかった。
 深呼吸をして、ルートを選択する。
 幸い黒い靄は部屋の中心からほとんど動いていない。後は猿さえ動かなければなんとかなるだろう。
 猿を回収して、再びこの階段に戻って犬と一緒に一気に階段を降りていくところまでイメージする。
 すべての動きをシミュレートし終えたレオナルドは、残った階段を一気に駆け上がって躍り出た。
 がむしゃらに走りだすと待っていたかのように犬も走り出し、同時に猿の許へと向かう。
 黒い靄は動く気配がないが、やはり近づくだけで言葉に出来ない嫌悪感に苛まれる。
 それでも一心不乱に足を動かし手を伸ばした先、突然のことに驚いた猿はレオナルドを犬を交互に見てしまったがために動きが遅れた。

「よっしゃぁぁぁぁぁぁ!」

 猿の身体をを両手で包むようにして捕まえると、後は振り向くことなく一気に階段まで走って駆け下りていく。
 しかし犬が追いかけてくるのを祈りながら無我夢中で1階まで降りたレオナルドは――新たな脅威に晒された。

「あ? なんだテメェは」
「知らねぇツラだな」

 さっきまでは真っ暗だった倉庫の中に、薄明りがついている。
 持ち込んだのだろう懐中電灯とランタンに照らされているのは、いかにもガラが悪いことをアピールするような尖った格好の男が3人。パンク系のバンドをやっているんですか、なんてボケた言葉を発しようものなら確実に殴られるだろうピリピリした空気と、ひとりの男が持つ小さなビニール袋に入った白い粉にレオナルドの緊張は一気に高まった。
 おそらく彼らは外で聞いた声の持ち主であり、違法薬物の売人だ。

「ガキがこんなところで何してやがる」
「え、えと……ペットの猿が迷い込みまして、それで」

 震える足に落ち着けと心の中で叱咤するが、背中を流れる汗と緊張にこわばる筋肉の違和感に苛まれる。
 それでも腕の中に入れた猿を庇うように、わずかに身体を横にひねることが出来た。

「へぇ……猿、ねぇ」
「は、はい。ご迷惑をおかけしました」

 声が震えているが、遅れて階段を降りてきた黒い犬が寄り添ってくれているからか、呼吸をすることは出来る。
 穏便に逃げられるとは思わないけれど、それでも交渉する余地があるならそれに越したことはない。
 男たちに注意しつつ、暗い中でゴーグルをしているのをいいことにレオナルドは周囲に他に出入り口がないか探る。
 残念ながら近くにある出入り口は男たちの背後、レオナルドが入ってきたドアひとつだ。
 上にはあの黒い靄がいるし、そもそも2階以上から飛び降りるなんて得策ではない。
 なにより、自分ひとりで逃げるわけにはいかないのだ。

「しかしまぁ、ここを見られちまって逃がすのはなぁ」
「犬はどうでもいいとして、金はなさそうだが若いんだし、臓器は売れそうじゃねぇ?」
「車を呼ぶか」

 こちらのことなんてお構いなしに続けられる会話。
 レオナルドひとりでは抵抗されても大したことはないと思われているのだろう。
 1人の男がスマホを取り出すと、スマホの明かりに全員の意識が向く――その時だった。
 それまでレオナルドの隣にいた犬が駆け出し、スマホを持った男に飛び掛かっていったのだ。

「ぐぁ! 離せ! 離しやがれ!」

 勢いよく飛びつかれた男を押し倒した犬は、「ガウッ」と短く吠える。
 逃げろと言っているように聞こえた声に弾かれるようにレオナルドは駆け出し、動揺する男たちの脇をすり抜けてドアに飛びつく。

「来い!」

 ドアを勢いよく開くと同時に犬を呼ぶと、引きはがそうとした他の男たちの手をすり抜けて犬が駆けてくる。
 そうして転がるように先に外に出たレオナルドに続いて犬も出てきたが、開きっぱなしのドアからは男たちも出てきた。
 予想通りの展開だが、だからといってここで捕まるわけにはいかない。
 捕まえろ! と口々に言っては追いかけてくる男たちの足音と怒鳴り声がまもなく夜が明けるだろう街に木霊する。

「お前だけでも逃げろ!」

 律儀に歩調を合わせてついてくる犬はなぜか走るのをやめた。
 ついて来なくなった犬にレオナルドが遅れて立ち止まり振り返れば、まるでレオナルドを守るのだと言わんばかりに堂々と立っていて。
 後少しで角を曲がれば通りに出て、運が良ければ人を捕まえて助けを求めることもできるかもしれない。
 どうするかなんて、考えるまでもない。踵を返したレオナルドは、瞼を開いた。
 ゴーグルの中で開いた瞼のさらに奥、人ならざる青く輝く義眼が姿を現す。

「とっとと寝ちまえ!」

 レオナルドの眼球の前に現れた術式がそのまま男たちの目に転写され、その眼球の動きを支配する。
 脳から発せられる信号を無視して上下左右不規則に、そしてありえない速さで動き回る己の視界に三半規管が混乱した男たちは、呆気なくその場に倒れていった。

「逃げるぞ!」

 その様子を呆然と見つめている犬に声をかけ、レオナルドは再び走り出す。
 倫敦の空は、白み始めていた。
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