Invisible Picture
自室のベッドでぐっすり眠った朝は、とても清々しい。いや、とても布団から出られない。
それでもレオナルドがベッドから抜け出すことが出来たのは、閉じたドアの本の隙間からこっそりと入ってくる良い香りのお陰だろう。
腕を上げてうんと身体を伸ばし、目をこすりながらドアを開く。
まだ寝ぼけ眼のソニックも肩に乗ってきたので、揃ってドアをくぐり身体を左に向ければ、朝の陽ざしが降り注ぐキッチンが見えた。
そして、キッチンに立つエプロン姿のスティーブンも。
白いシャツと黒いスラックスということは、今日も店に立つつもりなのだろう。
「おはようございます、スティーブンさん!」
「おはよう、レオ。顔を洗っておいで」
はーい、と素直に返事をして、洗面所へ。
勢いよく顔にかけた水はまだ冷たいけれど、スッキリして気持ちよかった。
ぱたぱたとスリッパを鳴らしてキッチンに戻ると、すでにテーブルには朝食の準備が整っている。
今日はスクランブルエッグとベーコンを載せたイングリッシュマフィンのオープンサンド。
とろりとしたスクランブルエッグの鮮やかな黄色と、カリカリに焼いたベーコンの香ばしい脂の香りが食欲をそそる。
早速席について食べようとしたのだが、視界が灰色と黒に覆われた。
「新聞?」
「まぁ黙って読めよ」
言われるままに指定されたページを開き――レオナルドは「あっ」と声を上げた。
高級ナイトクラブで贋作を売ろうとした画商が逮捕。ならびにこの画商の背後にいる贋作ブローカーを警察が追っていることが書かれていた。
その下、小さな記事だが、行方不明だったジミー・ケンブル氏が屋敷内に軟禁されていたのを、幽霊騒動を元に調査した職員が偶然発見。詳しい調査はこれからだが、ケンブル氏の健康状態に問題はないとあった。
全てはこれからというが、おそらく警察はすでに動いており、時間の問題なのだろう。
これでジミーの身の安全が保証されるし、贋作作りの元締めが捕まれば、息子もこの国に帰ってこられるに違いない。
ヒューの思惑どおりというのはどうにも釈然としない部分があるのは、見事に彼の手のひらの上で踊らされていたからだろうか。
しかしながら、ヒュー・ガルブレイスという男は最後までよく分からなかった。また会うことがあるのならば、今度は仕事抜きで話をしてみたいものだと思う。
「幽霊騒動は落ち着きますかね」
「そっちは専門外だから、なんとも。奥さんが満足したら出なくなるんじゃない?」
レオナルドが畳んだ新聞を受け取りテーブルの端に置いたスティーブンは、エプロンを外して自分が座る椅子の背もたれにかけた。
窓から差し込む朝の光に照らされた白いシャツ姿に、どうしてか胸がざわつく。
見慣れている光景なのに、何かが違う。
冬の寒々しい光から、気まぐれではあるけれど柔らかなぬくもりを含む春の光へと変わったせいだろうか。
「レオ?」
「……なんかムカつく」
ぽつりと零した途端、スティーブンと目が合った。
それで自分のことを言っているのだと気づいたのだろう。
わざとらしくにんまりと笑ったスティーブンに、レオナルドは愛想笑いを浮かべてごまかそうとした、が。
「どうして朝からムカつかれなくちゃならないんだ? 朝飯没収するか?」
「ごめんなさい! 嘘です! それだけはご勘弁を!」
オープンサンドが載った皿に手を伸ばしてきたスティーブンに慌てて謝罪をして許しを請えば、彼は皿を手に取ることなく自分の席に腰掛けた。
なんとか朝食は守られたことに安堵すると、背もたれに身を預ける。
「なんていうか、スティーブンさんはズルい」
「ムカつく次はズルいと来た。その心は?」
「だって白いシャツを着てるだけなのに、カッコいいなぁって思えるんですもん」
「お、朝から光栄だね」
白いシャツだけじゃない、スティーブンはなんだってそつなく着こなす。
全裸や狼になってもカッコいいのだし、やはり素材が違うと何になってもその良さは隠せないのだろうか。
すべてが平均以下の自分では、逆立ちしたところで勝てない。
スティーブンだけではない。クラウスたちライブラの男たち、アレックスやヒューにだって勝てやしないだろう。
なんとなく考えては自己嫌悪に陥りそうになるが、まだまだこれからだと自分に言い聞かせた。
「レオにカッコいいって言われると嬉しいね」
「狼の時はもっとカッコいいですけど」
だからせめてもの抵抗でこんなことを言うのだけれど、これがきっかけでずっと疑問に思っていたことを思い出した。
「ねえねえ、スティーブンさん。実はずっと不思議に思ってたことがあるんですけど」
「ん? 僕のスリーサイズ?」
「んなわけねぇでしょ。ケンブルさんの家にあった奥さんの絵が置いてあった部屋のことなんですけど。あの部屋、どうして奥さんの絵だけ残されてたんですかね」
そう、埃だらけの部屋にあった何も立てかけられていないイーゼルたちの中、なぜかあの絵だけが残されていたのが少々不思議だった。
当初は贋作ブローカーが贋作を持ち去った後だと考えたが、それにしても1枚だけ残すのは納得できない。
絵画に詳しい物ならば、画家ジミー・ケンブルの力作であるあの美しい花嫁の絵を、そのままにするものなのだろうか。
「まだ確認していないが、あの部屋まで続いた靴跡はヒューと息子の物だったんだろうさ。2人はブローカーより早く模写を隠したが、完全なオリジナルである花嫁は残したんだ。何もないのもまた、不自然過ぎるからな。いや、逆に不自然だったよな」
「じゃあ、贋作は別の場所で描かれたんです? それと取られちゃった模写も別のところに?」
「前にも話したが、屋敷の隣に小さなアトリエがあり、ケンブル氏はほとんどをそのアトリエで過ごしていたそうだ。贋作もそこで描いたんじゃないかな。あのオフィーリアは奥さんがモデルだったそうだから、手元に置いていたのかもね」
「ずっと奥さんのことを想ってたんですね……」
なぜ花嫁は遠くに置き、死したオフィーリアは手元に置いたのか、その理由はジミーにしか分からない。
しかしそこに切ない想いがあるのは、恋愛経験の乏しいレオナルドにも分かった。好奇心で深入りしてはいけないことも。
いい加減に食べないと開店時間に遅れるので、気持ちを切り替えてレオナルドはオープンサンドを手に取る。
手づかみは行儀が悪いと言われたが、これが美味しい食べ方なのだから仕方がない。
「それと息子が屋敷の売却を急かそうとしたのは、父親を助けるためだった、らしい」
「なんでそうなるんです?」
「屋敷に軟禁されているのは分かっていたからな。騒げばブローカー連中が手を引くと思ったそうだ。しかしそうは上手くいかず、噂の隠し屋を探すのに時間がかかった。加えてヒューはあれで慎重派だからな、息子にとって半年は長かっただろうさ」
仲が悪かったという話だが、反抗期の延長だったのではないのだろうか。
大きく口を開けてかぶりついたオープンサンドは、ふわりと優しいスクランブルエッグと胡椒をピリッと効かせたベーコンの脂が程よく絡んで寝起きの舌を起こしてくれる。
「ま、親子の仲は親子でどうにかすればいい」
さっきは行儀が悪いといったくせに、スティーブンもオープンサンドを手づかみにして口に運ぶ。
存外大きく開く口で齧り付けば、美味いな、と自画自賛して。
「また家族みんなで暮らせたらいいですよね」
脳裏に浮かぶのは、遠い故郷で暮らす大切な家族。
いつかまた、と思うレオナルドの手は自然と下がった。
「共に暮らすだけが家族じゃないさ。自分の人生に家族が必要ならばそうすればいいが、不必要なこともある」
けれど、話を聞くスティーブンは素っ気ない。
あっという間にひとつ目のオープンサンドを平らげた彼は、マグカップを手に取る。
ほろ苦いブラックコーヒーを飲む姿を少しだけ寂しいと思ったのは、自分と異なる考えを聞いてしまったからか、脇に置いた新聞に落とされた眼差しがどこか寂しそうに見えたからか。
家族だけでなくその過去もろくに知らない自分には、かける言葉も差し伸べる手もない。
途切れた会話を繋ぎなおす手だても分からず、黙って食事をするしかなかった。
気まずい雰囲気に、先程までは美味しかったはずのオープンサンドが味気なくなる。
「……家族はさておき、レオと暮らすのは悪くないと思ってる。呪いが解けても、このままでいたい」
不意に聞こえた声に弾かれるように顔を上げてしまった。
いつからこちらを向いていたのか、目尻を下げてはにかむスティーブンと目が合う。
それがかえって恥ずかしさを助長して、なんだか胸の辺りがむず痒くなって仕方がない。
「レオは?」
耳に響く、甘いささやき。
朝っぱらからなんて声を出すんだと心の中で慌てふためきつつ、なぜかニヤニヤしているソニックの視線を無視して深呼吸をする。
「ぼ、僕も、スティーブンさんがいてくれたらって思います。狼のまんまなら!」
「え……?」
スティーブンの目が丸くなるのを見るより早く、そして顔が赤くなる前に下を向いて、残った料理を急いで平らげる。
そしてスティーブンとは色違いだがお揃いのマグカップを手にして勢いよくコーヒーを飲み干せば、速やかに椅子から立ち上がった。
「ごちそうさまでした! 先に店に行ってますね!」
食器を手早くシンクに移し、早足でキッチンを後にする。そして速やかに1階へと下りていった。
まだ暗い店内の明かりをつけ、レジにある椅子にかけたエプロンを手に取る。
深呼吸をして気持ちを落ち着けると、レオナルドは誰も見ていないことを確認してから「へへっ」と笑った。
嬉しくて、くすぐったくて。
けれどこの気持ちに、まだ名前はない。
数ヶ月後、引退を撤回したジミー・ケンブル最高傑作として2枚の絵画が発表された。
1枚は自身と亡き妻、そして子供たちと孫を。家族の肖像画だ。
そしてもう1枚のタイトルは、「狼の恋情」。
庭の木陰で眠る少年に寄り添い、愛おしそうに見つめる狼を描いた作品。
英国では絶滅してしまった狼の見事な描写と柔らかな眼差しに、これまであった狼に対するイメージが覆されたと絶賛されることになる。
一般公開は大盛況だったが、その中にひとりの男がその場で頭を抱え、傍にいた少年が小首を傾げた場面があったとか。
なお、モデルは発表されなかった。
end