Invisible Picture
断られるのも承知の上だと言わんばかりの彼は、にんまりと笑って身体を前に出してこう言った。
「ラインヘルツの坊ちゃんに話してもいいんだぜ?」
これにスティーブンが反応しないわけがない。
唇の端をひくつかせ、声を詰まらせた。
秘密結社ライブラ副官は、冷徹冷血漢鬼畜ワーカホリック等々酷い言われようでも自分のやり方を曲げようとはしないが、リーダーであるクラウスの前ではそのやり方もなりを潜めてしまう。
そしてクラウスは情に厚く、とてつもなく紳士だ。そんな彼がこの話を聞いたら、何があっても取り返すと意気込むに決まっているのは、ライブラにほとんど関わっていないレオナルドでもたやすく想像できてしまう。
選択肢はないということだ。
「謝礼なら、相応の仕事を1回タダにしてやるよ」
「相応って、かなり安いやつだろ」
「そりゃまぁ、相応だからな」
ヒューの仕事の相場がどれくらいなのか分からないが、スティーブンの渋い顔を見ていると、割が合わないといった感じか。
「仕方がない、今回だけだぞ」
溜め息と共にそう零すスティーブンに、ヒューは「悪いな」と言う。だがその声は当然の答えだと言わんばかりに聞こえたのは、彼の喰えない笑みのせいだろうか。
――その日の夜。
倫敦中心地にほぼ近い高級ナイトクラブでは、とある商談が行われていた。
プライベートが守られる個室は豪華な調度品に飾られ、高級そうなドレスやスーツに身を包んだセレブたちが優雅に談笑しながらシャンパングラスを傾けている。
だが、今回の主役は彼らではない。
わざわざ家具を動かして作ったのだろうスペースには3つのイーゼルが置かれ、そこにこの部屋のためにしつらえたかのように豪奢な額に収められた絵画が鎮座している。
どれも美しい、素晴らしい、と褒め称えられてるその絵は、傍に立つ画商の話ではミレーの未発見の絵画と紹介されていた。
ドアをノックする音がして、2人のウエイターが新しいシャンパンとつまみを載せた配膳ワゴンを運んでくる。
彼らを気にすることなく、あの絵が欲しいわ、などと紳士におねだりする淑女が白々しい。
あれこそ、ジミーが描かされた贋作、そして愛する人を楽しませるために描いた逸品。どれだけ高いものを見てきたか知らないが、ここにいる彼らは見る目はない。
いや、それだけジミーの腕が確かなのかもしれないが、やはり見る目のないレオナルドには、その違いはまったく分からなかった。
シャンパンが入ったシャンパンクーラー、1皿でレオナルドの食費何日分からないつまみを、音を立てないように手慣れた手つきで置くのは、昼間の繋ぎ姿が嘘のように身なりを正したヒュー。髭も整えているし髪もきちんとまとめていると、こんなにもカッコよくなるのかと正直驚きだ。
それに比べ、サイズは違えど同じウエイター姿の自分があまりに貧相で、レオナルドは泣きそうになる。
たった半日で高級ナイトクラブへの潜入を計画したのはスティーブンだ。
元々このナイトクラブはスティーブンもよく通っていたとかで、内部のことに精通していたのは幸いだった。しかしながら夜間は狼になるために、スティーブン自身は入ることが出来ない。
そこでレオナルドとヒューがウエイターとして入り込み、ジミー自身の絵だけを取り戻す。この後に警察通報するので、時間との戦いだ。
ヒューが全てテーブルに置いた瞬間が、合図だ。
壁に顔を向けたレオナルドがぎゅっと目を閉じる。それをヒューを除いたここにいる全員の視界に転送すると、停電が起きたように見えるだろう。
どうした、停電か、と騒めく画商と客をすり抜けてヒューが目当ての絵をイーゼルから配膳ワゴンに載せると、布をかけて隠した。
後は速やかに立ち去るだけ。
時間にして5分もかからなかった作戦はこうして終わった。
「……んですけど、僕たち無茶苦茶容疑者になりません?」
店を出た後に指定されていた場所に行けば、スティーブンとギルベルトが乗るワゴン車が止まっていて。
中に入って事の次第を話したわけだが、レオナルドの素朴な疑問にスティーブンは大丈夫だと答えた。
「店の防犯カメラはギルベルトさんがいじってくれたし、ここまでのルートも君たちを記録するようなものはないことは事前に調査済みだ。それに、贋作を盗まれたと騒ぐことなんて出来ないだろ」
高級な会員制ナイトクラブの一室で贋作を売ろうとしたら、その贋作のひとつが盗まれました。
なんてさすがに警察に通報出来るわけがないが、本物と信じているだろう客は連絡しようと躍起になるかもしれない。そうして場がややこしくなったところで店側も参戦してさらにややこしくなることだろう。
もっとも、その前にヒューが店内に突撃できる内容で警察に通報してしまったのだが。
「うわー、ややこしさに拍車をかけてるー」
「鉄は熱いうちに打てってな。それにしても、坊主の力はなかなかのもんだったな。ライブラを辞めて、俺と組まねぇか?」
「『うちのに粉をかけるのはやめてほしいね』だそうなんで、お断りします」
レオナルドの傍にいるスティーブンがふんっ、と鼻を鳴らすのを見て、ヒューは外に聞こえてしまうのではないかと思うほど盛大に笑う。
あまりの大声にスティーブンが耳をペタリと下げたのを見て、ヒューはさらに笑った。
「ははははっ! よーっし、パブで飲もうぜ」
「お前はその前に、絵をケンブル氏に返してこい」
意気揚々としているヒューのテンションにレオナルドとスティーブンが困惑しているのを後目に、車は静かに走り出す。
こうしてグリニッジの新たな幽霊屋敷騒動は、おそらく幕を閉じたのだった。
「ラインヘルツの坊ちゃんに話してもいいんだぜ?」
これにスティーブンが反応しないわけがない。
唇の端をひくつかせ、声を詰まらせた。
秘密結社ライブラ副官は、冷徹冷血漢鬼畜ワーカホリック等々酷い言われようでも自分のやり方を曲げようとはしないが、リーダーであるクラウスの前ではそのやり方もなりを潜めてしまう。
そしてクラウスは情に厚く、とてつもなく紳士だ。そんな彼がこの話を聞いたら、何があっても取り返すと意気込むに決まっているのは、ライブラにほとんど関わっていないレオナルドでもたやすく想像できてしまう。
選択肢はないということだ。
「謝礼なら、相応の仕事を1回タダにしてやるよ」
「相応って、かなり安いやつだろ」
「そりゃまぁ、相応だからな」
ヒューの仕事の相場がどれくらいなのか分からないが、スティーブンの渋い顔を見ていると、割が合わないといった感じか。
「仕方がない、今回だけだぞ」
溜め息と共にそう零すスティーブンに、ヒューは「悪いな」と言う。だがその声は当然の答えだと言わんばかりに聞こえたのは、彼の喰えない笑みのせいだろうか。
――その日の夜。
倫敦中心地にほぼ近い高級ナイトクラブでは、とある商談が行われていた。
プライベートが守られる個室は豪華な調度品に飾られ、高級そうなドレスやスーツに身を包んだセレブたちが優雅に談笑しながらシャンパングラスを傾けている。
だが、今回の主役は彼らではない。
わざわざ家具を動かして作ったのだろうスペースには3つのイーゼルが置かれ、そこにこの部屋のためにしつらえたかのように豪奢な額に収められた絵画が鎮座している。
どれも美しい、素晴らしい、と褒め称えられてるその絵は、傍に立つ画商の話ではミレーの未発見の絵画と紹介されていた。
ドアをノックする音がして、2人のウエイターが新しいシャンパンとつまみを載せた配膳ワゴンを運んでくる。
彼らを気にすることなく、あの絵が欲しいわ、などと紳士におねだりする淑女が白々しい。
あれこそ、ジミーが描かされた贋作、そして愛する人を楽しませるために描いた逸品。どれだけ高いものを見てきたか知らないが、ここにいる彼らは見る目はない。
いや、それだけジミーの腕が確かなのかもしれないが、やはり見る目のないレオナルドには、その違いはまったく分からなかった。
シャンパンが入ったシャンパンクーラー、1皿でレオナルドの食費何日分からないつまみを、音を立てないように手慣れた手つきで置くのは、昼間の繋ぎ姿が嘘のように身なりを正したヒュー。髭も整えているし髪もきちんとまとめていると、こんなにもカッコよくなるのかと正直驚きだ。
それに比べ、サイズは違えど同じウエイター姿の自分があまりに貧相で、レオナルドは泣きそうになる。
たった半日で高級ナイトクラブへの潜入を計画したのはスティーブンだ。
元々このナイトクラブはスティーブンもよく通っていたとかで、内部のことに精通していたのは幸いだった。しかしながら夜間は狼になるために、スティーブン自身は入ることが出来ない。
そこでレオナルドとヒューがウエイターとして入り込み、ジミー自身の絵だけを取り戻す。この後に警察通報するので、時間との戦いだ。
ヒューが全てテーブルに置いた瞬間が、合図だ。
壁に顔を向けたレオナルドがぎゅっと目を閉じる。それをヒューを除いたここにいる全員の視界に転送すると、停電が起きたように見えるだろう。
どうした、停電か、と騒めく画商と客をすり抜けてヒューが目当ての絵をイーゼルから配膳ワゴンに載せると、布をかけて隠した。
後は速やかに立ち去るだけ。
時間にして5分もかからなかった作戦はこうして終わった。
「……んですけど、僕たち無茶苦茶容疑者になりません?」
店を出た後に指定されていた場所に行けば、スティーブンとギルベルトが乗るワゴン車が止まっていて。
中に入って事の次第を話したわけだが、レオナルドの素朴な疑問にスティーブンは大丈夫だと答えた。
「店の防犯カメラはギルベルトさんがいじってくれたし、ここまでのルートも君たちを記録するようなものはないことは事前に調査済みだ。それに、贋作を盗まれたと騒ぐことなんて出来ないだろ」
高級な会員制ナイトクラブの一室で贋作を売ろうとしたら、その贋作のひとつが盗まれました。
なんてさすがに警察に通報出来るわけがないが、本物と信じているだろう客は連絡しようと躍起になるかもしれない。そうして場がややこしくなったところで店側も参戦してさらにややこしくなることだろう。
もっとも、その前にヒューが店内に突撃できる内容で警察に通報してしまったのだが。
「うわー、ややこしさに拍車をかけてるー」
「鉄は熱いうちに打てってな。それにしても、坊主の力はなかなかのもんだったな。ライブラを辞めて、俺と組まねぇか?」
「『うちのに粉をかけるのはやめてほしいね』だそうなんで、お断りします」
レオナルドの傍にいるスティーブンがふんっ、と鼻を鳴らすのを見て、ヒューは外に聞こえてしまうのではないかと思うほど盛大に笑う。
あまりの大声にスティーブンが耳をペタリと下げたのを見て、ヒューはさらに笑った。
「ははははっ! よーっし、パブで飲もうぜ」
「お前はその前に、絵をケンブル氏に返してこい」
意気揚々としているヒューのテンションにレオナルドとスティーブンが困惑しているのを後目に、車は静かに走り出す。
こうしてグリニッジの新たな幽霊屋敷騒動は、おそらく幕を閉じたのだった。