Invisible Picture

 これこそが生きているものが持つオーラの色。
 今見えているのは青と黄色、そして黒が見え隠れしている。このオーラをヒューのものだと確信出来るのは、会った時に見ているからだ。

「大丈夫です、濃く見えているから追えます」
「よし、行くぞ」

 夜が明けてスティーブンが人に戻るまでを考えると、時間はない。
 ふたりは走りしだした。
 狼であるスティーブンの足にレオナルドが追いつくのは難しいと思っていたが、スティーブンは匂いを嗅ぐためか、時折止まっては振り返る。
 お陰で離れることはないけれど、立ち止まるたびに息を整えなくてはならないほど走り続けるのは大変だ。
 こんなことなら普段からもっと運動をしておけばよかったと思いつつ肩で息をし、顎を伝う汗をぬぐって周囲を見渡す。
 ヒューのオーラは歩道を歩いた跡のように残っているが、何かがおかしい。
 そう思ってスティーブンに声をかけると、彼も同じことを思ったようだった。

「やはりレオも思ったか」
「なんだかこう、はっきりと残りすぎてません?」

 オーラも匂いも時間が経てば、あるいは速やかに移動すればその場に留まりにくい。だというのにヒューの痕跡はとても鮮明で、まるで追いかけて来いといわんばかりなのだ。

「……罠、と考えていいんでしょうか」
「いや、僕らが匂いやオーラを追えることをアイツは知らないはずだ。だが、あいつは隠し屋。自分の痕跡すら消してしまえるような奴なのに、なぜ」
「やっぱり罠じゃないです?」

 答えは返ってこなかった。
 見知っている相手のはずなのに、ようとしれない得体のなさがスティーブンの考えを妨げているのだろう。
 しかしこういう時は動くに限る。
 溜息を吐いた狼が再び走り出し、レオナルドも重くなってきた足を叱咤して再び走り出す。
 北へ、西へ、北へ。
 ふと、レオナルドは見慣れた景色が出てきたことに気づいた。
 深夜に訳も分からず走らさせて気づくのが遅れたが、ここはアレックスのパブへと続く細い路地。
 先を行くスティーブンも気づいたらしく速度を落とすと、レオナルドが追いついたところで何とも言えない顔をした。
 本当にこの狼は表情豊かだ。

「スティーブンさん……」
「……あいつ、店が開いてる時間だったら絶対に飲んでただろ」

 長い時間いたのだろう、パブ『OLDBOTTLE』の前にとても濃くオーラが残っている。
 すでに閉店している時間なので明かりがないが、もしもまだ開いていたらガラス窓の向こうで飲んでいる姿があるところが容易に想像出来てしまった。
 走ってきたからだけではない徒労感に溜め息を零し、けれどまだ続くオーラの筋に目を向ける。
 どうする、と聞くまでもない。
 半ばやけっぱちになってレオナルドは走り出した。
 のだが。

「何でここに来るかな!?」

 次のポイントが自分たちの家の前だなんて、誰が思う。
 しっかりシャッターを閉じたフラワーショップ・レオーネの前で、レオナルドは崩れ落ちるように膝をついた。
 いっそのこと諦めて、このまま家に入りたい。ベッドに入って惰眠を貪りたい。
 そんな気持ちを糸目にこめてスティーブンに向ければ、彼も思うところはあったのだろう。
 再び溜息を吐いて、死んだ魚のような目を顔が近くなったレオナルドに向けてきた。

「あの野郎、今度会ったら必ず蹴り飛ばす」
「ぜひそうしてください」

 だが、ここで諦めてはいけないということも分かっている。
 膝に手を置いて立ち上がったレオナルドは、冷たい空気を肺の隅々まで行き渡らせるべく大きく深呼吸した。
 夜明けまではまだ時間がある。
 ならばと、レオナルドは足を踏み出した。

「オーラはまだ続いてます。濃さからいって、そんなに遠くへは行っていないはずです」

 まもなく追いつく。
 期待に背を押されて走り出したレオナルドに、スティーブンも追いかけてくる。
 グリニッジの駅へ向かい、そこから西へと続く。都心ともなれば週末は24時間運行される地下鉄も、まだ眠っていて。
 いや、グリニッジへ向かう線は途中から地上を走っているので、これを地下鉄と呼べるかどうか。
 市民の足である線路は、今もテムズ川の支流の上を昔と変わらない石橋の上を走っている。その脇にある細い鉄橋は、通行人のためのもので。
 そして今は、繋ぎ姿の男と対峙するための場所となっていた。

「や、やっとみつけました、よ!」
「息が上がってるなぁ、坊主。それにしてもよくみつけたもんだ」

 わざとらしいくらいに痕跡を残したのはそちらだというのに、ヒューは何が面白いのか笑いながら拍手をしている。
 その態度が腹立たしいが、なぜヒューがここに自分たちを誘い込んだのか、理由が明確に分かるまではうかつに動くことは出来ない。
 狼姿では話すことの出来ないスティーブンに頼ることは出来ない以上、レオナルドがその理由を引き出すしかなかった。

「どうしてこんなことをしたんですか」
「なに、ちょっとばかしスターフェイズの新しい相棒を試したかっただけだ」
「試した? 試して、どうするんです」

 ヒューは不敵な笑みを浮かべたまま、まるでこちらの出方をうかがっているようにも思える。
 その証拠に彼は5mは離れたまま、1歩もこちらに近づこうとはしていなかった。

「レオ、ちょっといいか」

 呼ばれて耳を傾けると、スティーブンはレオナルドにヒューへ伝える言葉を話した。
 それは思いがけない提案で、レオナルド自身、驚きを隠せない。
 だがスティーブンがそう言うならばと、頷いて再びヒューへ目を向けた。

「スティーブンさんから、提案があります」

 伝えるとヒューは目を丸くしたが、やがて近所迷惑になりかけないほど大笑いをして、踵を返す。
 そして肩越しに振り返った。

「なかなか楽しい鬼ごっこだったぜ」

 ニヤリと笑ったヒューが、闇の中へ消えていく。
 その後ろ姿はまるで物語に出てくる魔法使いのように、どこか油断が出来ないものだった。


 翌日、パブ『OLDBOTTLE』
 開店とほぼ同時にやってきたレオナルドは、複雑な面持ちで座り心地のいいソファに腰を下ろした。
 隣には人の姿に戻ったスティーブン、テーブルにはフィッシュ&チップスのチップスを堪能するソニック。そして向かいの席に、朝っぱらからビールを飲み干すヒュー。

「かーっ! 午前中から飲む酒はやっぱり美味いねぇ! アレックスー、もう1杯頼むわー」
「注文するなら金払え」

 カウンターにいるアレックスの冷静な一言に、仕方ないとヒューは立ち上がってカウンターへ向かう。
 出会って早々緊迫した雰囲気になるのかと思いきや、これがまた笑えないくらいに空気が和んでしまっているので拍子抜けだ。
 それにしても、とレオナルドは隣の席でコーヒーを飲むスティーブンに話しかけた。

「なんで昨日の今日で、一緒に飯食ってんすか」

 言えなかった文句を投げつけるが、スティーブンに悪びれる様子はない。
 昨夜、スティーブンがレオナルドを使ってヒューに提案したこと。それは飲みに行かないか、というたったそれだけのこと。
 時間は伝えていたが、返事はしていなかったので本当に来るとは思わなかった。

「ん? 理由はちゃんと話しただろ?」
「それはそうですけど、なんか納得いきません」
「ま、これから話を聞けば分かる」

 スティーブンから聞いた理由。
 今回の件について、ヒューから直接話を聞きたい。ただそれだけだった。
 未だレオナルドはヒュー・ガルブレイスという男の素性をよく分かっていない。だから自身の仕事のことを他者に簡単に暴露するような男なのか、それともすでにスティーブンとの間で何か取引が行われているのか、考えることは出来ても明確な答えは出なかった。
 だからこうしてヒューと会うことに身構えていたというのに、ヒューは来るなりビールを飲み干し、スティーブンも呑気にコーヒーを飲んでいる。

「ケンブルさんのことも?」

 クラウスからは無事に保護されたと連絡は来たが、今朝のニュースに彼の名はなかった。
 公に出来ない何かがあるとしたら、それはなんなのか。

「じいさんの件は、解決するまで表に出さねぇのさ」

 1パウンドグラスを片手に戻ってきたヒューの声が不意に頭上から降ってきた。
 驚きに肩を震わせ勢いよく見上げるが、その頃にはヒューは向かいの席にどっかりと腰を下ろして再びビールを飲み始めている。

「やはり裏があったんだな」

 やはり、とスティーブンは言っているが、その言葉は単に自分の言葉が裏付けされただけだと言わんばかりに驚きなどの感情は含まれていない。
 ではその裏がなんなのか、まったく見当のつかないレオナルドは、ソニックと一緒になってポテトを食べて黙るしかなかった。

「まぁな。さて、ここからは仕事の話だ。坊主も加えて構わないのか?」
「乗りかかった舟というやつだ。仲間外れにする気なら、最初から連れてこないさ。それに、お前はそのために試したんだろ?」

 そうは言ってもこちらはただの花屋兼、少し目がいいだけの一般人だ。真昼間からパブで酒を飲みながら裏社会の相談事なんて、柄ではない。
 だが、スティーブンはレオナルドを同行させた。

「そうだな。さて、仕事の話だが……先に話しておこう。俺の雇い主は、じいさんの息子だ。今は念のために海外に逃がしてあるが、アイツは贋作作りの件には関わっちゃいない。そこんとこははっきりさせておく」
「うっかり口を滑らせ、親共々巻き込まれたのは正しかったのか」
「そんなとこだ。親父とは仲が悪かったが、疎遠になる程度だ。だがつるんだ連中がダメでな、親父の模写の腕を知って、贋作ブローカーに売り込まれた。そいつらはジミー・ケンブルに贋作を描かせ、頃合いをみて殺すつもりだったんだろうよ。だがそいつを知った息子が俺に依頼してきてな、ちょうどいいからじいさんを地下に匿った」
「へぇ、ブローカー組織に潜り込んでたのか」
「いや、都合よく地下に閉じ込めて餓死させるつもりだったみたいだから、そこをそのまま利用させてもらった。半年間、絵を描く以外は地下に幽閉されてたんだとよ。胸糞悪い話だよなぁ」
「自分たちの手は汚さないってことか」

 美中年2人の映画さながらの会話は非常に物騒で、非常に現実味がない。
 レオナルドは周囲に聞こえていやしないかと内心ひやひやしていたが、幸い賑やかな店内では2人の声も遠くまでは届かない。
 しかし、ヒューの話には疑問がある。

「あの……半年間閉じ込められてたなら、もっと早く助けられなかったんですか?」

 恐る恐る尋ねると、いつのまにかほとんど空になったグラスをテーブルに置いたヒューが、椅子の背もたれに持たれながら神妙な面持ちでレオナルドに目を向けた。

「こっちのも色々と段取りがあってな。じいさんには悪かったが、我慢してもらってたんだよ。で、そろそろ仕上げかと思ったら、お前らが屋敷を見てただろ。騒がれたらまずいと思って、時間稼ぎに閉じ込めさせてもらった。悪かったな」

 素直に謝るヒューに戸惑ってスティーブンを見るが、胸の前で腕を組みわずかに双眸を細めるだけ。
 おそらくまだ話の続きがあるのだろうと察したレオナルドも、改めてヒューと向き合うべく姿勢を正した。

「警察にはまだことを公にしないよう手を回してあるが、じいさんは無事に保護された。そこんとこは安心してくれ」
「ガルブレイスさん、警察に顔が効くんです?」
「ああ、レオにはまだ言ってなかったっけ。こいつは元SAS。今はSISなんかにも協力している」
「は? はぁ!?」

 SAS、英国陸軍特殊空挺部隊は潜入破壊工作を請け負う特殊部隊であり、各国の特殊部隊の手本とされている。また、SISは秘密情報部。英国の情報機関のひとつで、通称MI6は世界的に有名だろう。
 そんな小説や映画の世界では有名な名が揃って出たのが、目の前で飲んだくれている中年だなんて誰が思う。
 思わず素っ頓狂な声を上げると美中年2人が同時に口に指を当てて「しー」なんて言うものだから、今度はなんだか拍子抜けしてしまって。
 椅子から浮きそうになった腰を再び下ろしたところで、ヒューが咳払いをした。
 つまり、仕切り直しだ。

「ここからが本題だ。お前らも知ってのとおり、じいさんは贋作を描かされた。それだけならその贋作を追ってブローカー連中を捕まえれば、じいさん親子の身の安全が保障されて丸く収まるはずだった。けどな、不測の事態ってやつが起きちまった」

 いったいそれはなんだ、と身を乗り出したところで、ヒューがもう1杯と立とうとしたのでスティーブンとふたりで止めて。
 どうにも緊張感の欠けるヒューに、本当に特殊部隊やスパイと関係しているのかと疑いたくなる。

「ヒュー、酒は話してからにしてくれ」
「へいへい。簡単に言うとな、贋作の中に混じっちまったんだよ。じいさんの絵が」
「困るんですか?」

 ケンブルが描いた絵なら、贋作ではなく真作。確かに盗まれてはいけないが、だったらブローカーを捕まえて取り戻すのが早い話ではないのだろうか。
 どういうことなんだ、と小首を傾げると、隣から「そういうことか」と声が聞こえた。

「ケンブル氏は亡くなった妻のために名画の模写を描いていたな。それを盗まれたんだろ?」
「そういうことだ。そいつが警察の目に止まったら、じいさんが脅されて贋作を描いたと説明しても不利になる。あっちもプロだから現代のキャンバスに描かれたもんは持っていかなかったんだが、下っ端がそそっかしかったんだろうなぁ。うっかり1枚もってっちまったんだよ。ミレー、オフィーリアの別場面。完全にミレーの作風を模写したじいさんの創作だが、贋作に混じったとあっては言い訳が難しい」

 つまりこのまま贋作ブローカーを捕まえると、ジミーも冤罪で捕まってしまう可能性があるわけだ。

「息子からどうしてもそいつを取り返してほしいって言われてな。さてどうしたもんかと思っていたら、お前らが来た。取り返すのに協力してくれないか」
「それ、こっちにメリットがないんだけど」

 間髪入れずに返したスティーブンだが、ヒューに驚く様子はない。
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