Invisible Picture

 この場所を知っている様子だったことも考えると、十中八九そうだろう。
 悪い人ではないように見えたけれど、やはり何を考えているのか分からない人だ。

「僕たち、その人に突き落とされたんですよ」
「そうか、それは災難だった。だが、お陰で警察に連絡が出来たのだから、禍を転じてなんとやら、だ」

 レオナルドのスマホを取り上げなかったのは、ヒューがドジだからか、それともこの状況を期待していたからか。
 後者はさすがに都合がよすぎるが、ジミーの事態が好転したのは間違いない。
 敵か味方か、やはり分からない人だ。

「さて、描かせてもらっていいかね。アランがいるのだし、床に座ってもらえると助かる。寒いなら、奥から毛布を持ってこよう」
「いえ、大丈夫です」

 椅子から立つとジミーがイスとテーブルを壁際に寄せるのでそれを手伝い、レオナルドはスティーブンと共に床に座った。
 リクエストは横顔だったので、スティーブンと壁を見つめるようにする。

「君を見ていると、子供たちが家ではしゃいでいた頃を思い出す。セリーナはあまり動けなかったが、庭ではしゃぐ子供たちを窓越しに見ているのが好きだった。そのうちバカ息子が庭からこのシェルターに悪友を連れ込むようになって警察沙汰になり、出入り口を塞いだもんだ」
「え、庭から入れたんですか!?」

 それなら今でもそこは使えないのかと問うが、庭からの出入り口は徹底的に塞いでしまったそうだ。
 やはり待つしかないのかと、無意識にスティーブンの背中の毛を撫でる。
 気持ちいいらしく身体を倒してもたれかかってきた彼の温かさが、とても心地よかった。
 鉛筆が紙の上を走る音だけが、シェルターの中にこだまする。
 これまで本来の目的で使われることのなかっただろうシェルターだけれど、静寂が少し心地いいと思った。

「アランとはずっと一緒に?」
「まだ1年も経ってません」

 出会ってから今日まで本当に濃密な日々だから忘れそうになっていたが、スティーブンとは出会ってまもなく1年というところだ。それなのに一緒に暮らしてこうして身を寄せあって。
 居心地の良さに彼とは他人なのだということさえ薄れてしまいそうになる。

「ほぅ、ではまだ成犬になっていない?」
「ちゃんと大人ですよ。知り合いから譲り受けたんです」

 知り合いは、クラウスという設定だ。
 スティーブンが考えた“アラン”の設定はレオナルドも叩きこまれたものだが、巻き込まれたクラウスが知っているかどうかは知らない。おそらく事後承諾でもいいだろうと、スティーブンは考えているのだろう。
 隣ですました顔をしている狼をちらりと見て、レオナルドはモデルとしての務めを果たすべくまた視線を元に戻した。

「驚いたな。君たちを見ていると、とても心が通じ合っているように見える。そう、まるで長年連れ添っている相棒という感じだ」
「あ……アランは賢い犬ですから、そのせいかも」

 実際は人間なのでそう見えるだけなのだと思うのだけれど。

「そうかね? 私はそれだけではない気がする。ま、爺の戯言だがね」

 画家というのは優れた観察眼を有していることが多いとどこかで聞いた気がする。
 最後に笑うジミーにきょとんとしたレオナルドはスティーブンと顔を見合わせるが、悪いことではないので素直に受け止めておくことにした。
 とはいえ、スティーブンがレオナルドのことをマスターだの相棒だのと茶化すのとは違い、なんだか胸の奥がむずがゆい気がする。
 悪い意味ではなく、いい意味で。
 その後はほとんど会話はなく、淡々と時間が進んでいく。

 時間を気にしていなかったが、まもなく深夜に差し掛かる頃だろうか。
 次第に重くなっていく瞼と頭に、レオナルドは舟をこぎ始めた。

「レオ? ああ、寝ちまいそうだ」

 ジミーはスケッチに夢中になっている。もう何枚書いているか分からないが、彼にとって自分たちはそれだけ興味深い存在らしい。
 しかしながら彼の絵の完成を待っているほど、時間はない。

「ん……大丈夫ですよ、起きてます……」

 じっとしてばかりで退屈だから眠くなっただけだし、大きなあくびをして目をこすれば大丈夫だ。そう思ったのに頭はふらふらとする。
 すかさずスティーブンが立ち上がってレオナルドの背中を支えるようにもたれかけさせると、背中に感じたぬくもりにレオナルドが慌てて身体を起こした。

「ありがとうございます……」

 もう一度欠伸をしたその時だった。
 鉄のドアがノックされる音が思いのほか大きく、睡魔が慌てて逃げていく。
 スケッチブックに集中していたジミーもさすがにこの音には驚いて振り向き、レオナルドとスティーブンも速やかに身構えた。

「レオ、開けるんだ」
「ジミーさん、念のために奥へ」

 窓のない地下の密室では、誰が来たのかを中から確認することは出来ない。クラウスならいいが、ヒューやジミーに贋作を描かせた者たちが来ている可能性も捨てきれないのだ。
 スケッチブックを胸に抱えたジミーが、奥へと走っていく。
 姿が見えなくなったところで、レオナルドとスティーブンがドアに駆け寄った。

「重い扉だ、一旦隠れるようにして相手をうかがうぞ」
「うっす。いきますよ」

 ドアノブを手にし、レオナルドは慎重に回す。
 そして自分たちの身体を隠すように内側へと開くと、すぐさまレオナルドの眼には待望のオーラが問いこんできた。

「クラウスさん!」

 パッとドアの横から顔を出すと、まさかここから出てくると思わなかったのかクラウスは眼鏡の奥の瞳をきょとんとさせていて。
 待ち望んだ彼のそんな様子に気づくことなく、レオナルドは分厚い胸に飛び込んでいく。

「よかったー! 助かりましたー!」
「遅かったな、クラウス」

 出遅れたスティーブンがドアの影から出てくると、レオナルドの肩に手を置いたクラウスが頷く。

「準備に手間取ってしまったがために、遅れてすまなかった」
「急だったからな、構わんよ」
「手配は全て終わらせてある。君たちは速やかにここを離れるといい」

 スティーブンの言葉はクラウスに伝わっていないはずなのに、会話が成立している。

「……警察、かね?」

 2人を交互に見て本当は通じ合っているのではないのかと不思議に思っていると、奥からジミーが恐る恐る顔を出してきた。
 見た目が強面なのでクラウスを警戒しているようだが、大丈夫だと伝えると、彼はこちらに近づいてくる。
 それを見たクラウスがやんわりとレオナルドを離し、ジミーと向かい合って胸に手を当てた。

「私はクラウス・V・ラインヘルツと申します。ミスタ・ジミー・ケンブル、お会いできて光栄です。貴方の風景画には、幾度となく胸を打たれました」
「はは、このようなところでファンに会うとは思わなかった」
「速やかに貴方を外にお出ししたいのですが、まもなく警察がこちらに参ります。それまでこの場にて待機していただけないでしょうか」
「え、警察が来ちゃうんですか!?」

 スティーブンがクラウスにしか連絡をしなかったのは、もちろんレオナルドとスティーブンの身の安全を確保し、同時にジミーを助けるためだ。
 だからクラウスが自分たちがいる状態で警察を呼ぶとは思わなかった。
 しかしこの状況を予想していたのか、スティーブンが「落ち着け」と、すぐにレオナルドを宥める。

「我々が出る時間は確保してある。だがケンブル氏の名誉を、そして身の安全を確保するためには警察の協力が不可欠だ」

 ジミーは一般人であり、被害者だ。
 それに行方不明者として登録されている以上、どんな形でも表に出れば彼を探している警察に事情を聞かれることになるだろう。ならばこの状況をありのまま見てもらい、贋作作りに加担させられてしまった汚名を払拭してもらいたい。

「それもそうですね。ケンブルさん、もうちょっとの間だけ辛抱してもらえます?」
「構わんよ。久しぶりに人と長く話が出来て楽しかった。あぁ、君たちのことは警察に話さない方がいいかね?」
「はい。お心遣いいただき感謝いたします」

 クラウスが深々と頭を下げるので、レオナルドも慌てて頭を下げる。
 時間がないためにこれ以上はと踵を返し、ジミー1人を残してシェルターを出る途中、声がかかった。

「レオナルド君。君は自分がモデルには向いていないと言っていたが、そんなことはない。落ち着いたら、またモデルをやってはもらえないだろうか」

 振り返れば、穏やかに微笑むジミーがいる。
 驚いたが、嬉しかった。
 彼の申し分に「はい!」と答えると、レオナルドは先を行くスティーブンとクラウスの後を追って、1階へと続く階段を駆け上がっていく。

 小部屋へと上がると、念のためにとクラウスが木箱を軽々と抱えて地下へ続く階段の蓋の上に置いた。
 ひとりでは絶対に無理だと思っていた箱が、軽々と持ち上がるのを見た時の複雑な気持ちは、とても言葉では言い表せるものではない。
 密かに鍛えようかな、と思いつつスティーブンに促されて部屋を後にすると、廊下ではすでにライブラの処理班が屋敷の中で作業をしていた。
 レオナルドたちがこの場にいた痕跡を残さないようにするためだが、同時に贋作作りの犯人たちの痕跡まで消してしまいかねないのではないだろうか。
 そこはどうするのかと思ったが、クラウスは「大丈夫だ」と落ち着き払った声でレオナルドの疑問を払拭した。

「犯人の痕跡は残すさ。幸い君はこの屋敷の物をほとんど触っていないし、せいぜいドアノブの指紋や廊下の足跡くらいだろう」
「それならいいんですけど。そういえば、この家って埃とか溜まってましたけど、ケンブルさんが住んでたんじゃないんです?」

 実はずっと疑問に思っていたことだ。
 ジミーが住んでいるにしては家具がなかったし、なにより廊下に埃が溜まることもなかっただろう。
 そのことを尋ねつつキッチンの裏口から庭へ出ると、冷たい夜風に身震いがした。

「ああ、厳密に言うとケンブル氏は住んでいないよ。奥方が亡くなった後に、離れのアトリエで暮らしている」
「愛着がある家なのに?」
「愛着がありすぎたのかもな。独りでいるのが辛いこともある」

 表に出るべく庭を歩きながら、ふとレオナルドは屋敷を見上げた。
 2階の窓辺には、誰もいなかった。

「レオ、夜明けまであとどれくらいだ?」

 不意に尋ねられてスマホを見れば、まだ5時間ほどある。
 すでに深夜だと思っていたのだが、意外にも時間はさほど経っていなかったらしい。
 地下という外が何も見えない、変化のない場所では時間の感覚が狂ってしまうものなのだろう。ずっとあの場にいるジミーのように、もし自分が彼の立場だったらと思うと身震いがする。
 ふわりと、スティーブンがレオナルドの前に出た。

「行くのかね」
「ああ、このままヒュー・ガルブレイスを野放しにしておくつもりはないよ」
「行くってまさか、ガルブレイスさんを探すんですか?」
「そのつもり。奴は犯人グループの居場所を知っている可能性が高いからね」
「この場は私に任せ給え」
「助かるよ、クラウス」

 ぽかんと口を開いて立ち尽くすレオナルドを後目に、スティーブンとクラウスは並んで屋敷の門をくぐっていく。
 この広い倫敦のどこかにいるたった1人の男を、わずかな時間でみつけることが出来るのだろうか。
 しかし前を行く彼らにそんな迷いは微塵も感じられない。
 諦めるという言葉が、彼らにはないのだ。
 花屋でのんびりとしていたスティーブンが、急激に遠ざかっていくのを感じる。店先で笑っていた彼は、本当の彼ではない。
 言葉が伝わっていないはずなのに、なぜか話が通じているクラウスとスティーブンにチリチリとかすかな胸の痛みを覚えるのは、そのせいか。

「レオ、行くぞ」

 振り返ったスティーブンに呼ばれ、慌てて駆け出す。
 忘れていた。
 自分もまた、本当の自分ではないのだと。


 クラウスにジミーのことを任せ、レオナルドとスティーブンは深夜の街に出る。
 ただただ宵闇を照らす街灯、建物の隙間に見える濃い闇。
 昼間でもそこにいるはずの夜の住人たちの存在感が一層濃くなると、静まり返った街を時折走る車やすれ違う人には逆に少々緊張してしまう。
 明るい時間なら当然のことだというのに、不思議なものだ。
 だが、この時間は心地いい。

「スティーブンさん、当てはあるんですか?」

 屋敷を出て1ブロック程歩いたところで、一旦立ち止まって作戦会議をする。

「認めたくはないが、僕の鼻と君の眼が頼りってとこかな」

 つまり、嗅覚と視覚だけが頼りという当てのなさ。それでなんとかしようというのだから、先程までの頼もしい後ろ姿はいったいなんだったのか。
 腰に手を当てて、本当に大丈夫なのか疑わしいと水平にした目を向ければ、足元の狼は気づかないふりをして湿った鼻を夜の街に向ける。

「ヒューの匂いは残っている。まだ追えるさ」
「……スティーブンさん、マジで狼に馴染んじゃってきてますね」
「うるさい。使えるもんは使って何が悪い」

 そっぽを向いたスティーブンが、レオナルドを置いて歩き出す。
 くすりと笑ってレオナルドもその後を追う。
 脇を複数のパトカーがすり抜けていって緊張したが、幸いなことに見向きもされなかった。
 彼らの関心はあくまでジミーなのだろう。明日のニュースに取り上げられるかもしれない彼が何を語るのか、純粋に興味があった。
 そのためにも、ヒューをみつけなくては。

「レオ、君の眼ではどうだ?」

 ゴーグルを装着して瞼を開けば、神々の義眼を速やかに発動する。
 見えていた風景が一変し、闇が色鮮やかになった。ほとんどは人ならざる者たちの放つ不可思議な淡く薄い色だが、その中に鮮明な色が見えるようになる。
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