Invisible Picture

 背中に強い力がかかったのを感じた瞬間、レオナルドの身体は前のめりになる。バランスを崩し手を前に出すが、あるのは階段。
 身体を支えることは出来ず、そのまま転がり落ちてしまった。

「レオ!」

 転がり落ちた階段へ駆け寄って、名を呼ぶスティーブン。
 一番下でレオナルドが倒れた状態ながら「大丈夫」と力の入っていない声で言うと、彼は安堵した様子で息を吐く。
 だが、その背後に立つヒューの姿に戦慄が走った。

「スティーブンさん、後ろ!」

 肩越しに振り返ったスティーブンとヒューは何かを話している。そして、スティーブンは階段を自らの足で下りてきた。

「まったく、油断しやがって」

 呆れた様子ではあるが、身体を起こしたレオナルドに怪我がないことを確かめると、安堵したのか息を吐く。
 だが安心したのも束の間。
 頭上の蓋は勢いよく閉じられてしまった。

「……ガルブレイスさんに、裏切られた……?」

 いい人と言えるほど親しくなったわけではないが、スティーブンの知り合いということで油断していただけに、少しばかりショックを受けているのは確かで。
 自分の至らなさを痛感してがっくりと項垂れると、頬にスティーブンが頭突きをしてきた。

「痛いです……」
「そもそも味方じゃなかっただろ。それより、今は目の前の御仁だ」
「御仁?」

 スティーブンに促されて身体を起こし、ゆらめく灯りがこちらに近づいてくるのを待つ。
 次第に見えたその姿は、いったいどれだけここにいるのだろう。深くひげを生やした1人の老人。伸びた髪を後ろでひとくくりにし、服はくたびれているが破れているようなことはない。

「なんだね、君は。奴らの仲間か」

 あからさまに警戒を宿したこわばった声音。
 どこからどう説明していいものかと悩んでいると、足元にいるスティーブンが助け舟を出してくれた。

「驚いたな。レオ、彼がこの屋敷の主、ジミー・ケンブル氏だ」

 半年間行方不明になっていた人がこうして目の前に現れた時、どんな言葉を最初に発したらいいのか分からず、レオナルドはしどろもどろになってしまう。
 そこへ再び、スティーブンが助け舟を出してくれた。

「しっかりしろ、レオ」

 叱咤され、レオナルドはようやく息が出来たような気がする。
 周囲をレンガで囲まれた壁がジミーの持つランタンの光を反射する中、湿り気のある薄い臭いがした。

「あの、僕たちはあなたを探しに来たんです。いや、探すように導かれたって言った方がいいのかなぁ。あの、2階の部屋に置いてある絵とそっくりな花嫁さんが、ここの上にある部屋を教えてくれたんです。それで居合わせた人に突き落とされちゃいまして……」
「花嫁……ああ、あの絵か……ならば、セリーナが、私を……」

 ランタンを持っていない手を胸に当て、ジミーは天を仰ぐ。
 やはり彼とあの花嫁――セリーナは関係があったのだ。

「信じてもらえるんですか?」
「私と同じように閉じ込められた君を疑う気はない。ほら、立ち話もなんだ、おいで」

 花嫁のことを出したのがよかったのか、警戒心をほとんど消したジミーは踵を返して奥へと歩き出す。
 ついていく途中で教えてくれたのは、この地下は昔は食べ物などの貯蔵庫に使われていたらしい。埃がなくカビなども生えていないのは、半年かけてジミーが退屈しのぎに掃除をしたからだという。
 レオナルドが両手を広げたほどの幅がある通路を5mほど歩いて角を曲がると、そこには鋼鉄の壁と扉があった。
 屋敷とここまでの通路からは思いもよらなかった、近代的なものが突然現れたのだ。

「こいつは核シェルターじゃないか?」
「核シェルター?」

 この状況を面白がっているかのように弾んだスティーブンの声が聞こえたので、思わずいつもの調子で返してしまう。
 それを聞いていたジミーが、ドアを開きながら振り返った。

「そうだ。こいつは冷戦時代に作られた核シェルターでな、水道と電気は通っている。食料も週に一度運ばれてくるので問題はない。ただ、酷く退屈だ」

 中に入るとジミーが灯りをつけ、レオナルドは「うわぁ」と感嘆の声を上げてしまった。
 左側にある鉄製の棚には食料や飲料水などの段ボールが積まれ、反対側には無骨ではあるが3つのパイプ椅子と折りたたみ式のテーブルが1つ。
 奥に簡易キッチンと寝室、バスルームがあるのだという。

「まあ、座ってくれ。茶を淹れよう」

 勧められてパイプ椅子に腰掛けると、スティーブンが寄り添うように隣に腰を下ろす。

「犬にやれるミルクはないんだが、水でいいかな?」
「お構いなく」

 まるでごく普通の家にいるように振る舞うジミーに少々戸惑いつつそう答えると、足元の狼は「コーヒーがいい」と言う。
 さすがに犬だと思われている狼にコーヒーを飲ませたいと言うわけにはいかないが、それよりもやたらと落ち着いているスティーブンには違和感を覚えた。

「なんでそんなに落ち着いてるんです?」
「ケンブル氏がみつかったということは、新たな情報を得られるということだろう? なに、脱出する方法はいくらでもあるんだ、今は情報収集を優先しようじゃないか」

 スティーブンはそう言うが、出入り口がひとつしかない以上は上でヒューが見張っている可能性がある。
 顔を出した瞬間にまた突き落とされても困るし、今はおとなしくするかなさそうだ。
 こっそりとジミーを見ると、彼は簡易キッチンで湯を沸かし、スティーブンのために皿に水を入れる。半年間ここに閉じこもっていたという割には足腰もしっかりしているし、赤の他人がいるというのに落ち着いている。
 彼の言動ひとつひとつが不思議だ。
 やがてまずはと皿を持ってきてスティーブンの前に置き、次に自分とレオナルドのために淹れた紅茶をマグカップを持ってきてテーブルに置いた。
 ジミーは向かい合う椅子に腰かけ、紅茶をひと口含んで息を吐く。

「……さて、どこから聞こうか」

 マグカップを持ち、テーブルからわずかに浮かせたところで聞こえた声にレオナルドは背筋を伸ばした。
 対するジミーは長く伸びた髭の下、にんまりと唇で弧を描く。

「そう構えんでいい。ああ、自己紹介は可能かね? 私はジミー・ケンブル。引退した画家にしてこの家の主だが、今はその家に囚われた身だな」
「えっと、僕はレオナルド・ウォッチです。グリニッジで花屋と幽霊との交渉を請け負ってます。こっちはス……アランです」

 うっかりスティーブンと言おうとしたら、足に身体を当てられた。
 すかさず訂正したのでそれ以上怒られることはなかったが、ジミーはスティーブンに興味を持ったらしく椅子に座ったまま上半身を前に倒して覗き込んでいる。

「ほお、改めてみると立派な犬だ。狼のように見えるが、犬種は?」
「狼犬です。狼の血が濃く出てるって聞いてます」
「狼は上下関係がはっきりしていると聞くが、この犬は君に従順だ。上手く躾けたものだね」

 これにはさすがに苦笑いするしかない。
 スティーブンが拗ねないといいが、ひとまず否定しないで話を進める。

「僕の良き相棒です。ところで、ケンブルさんはどうして閉じ込められたんです?」
「バカ息子が私を売ったのだ。いや、あれにそんな度量があったかは分からない」

 息子のことを話し始めたジミーの背中が丸くなる。
 寂しさと悲しさが入り混じった声には、息子への怒りは感じられなかった。

「突然柄の悪い男たちが屋敷に押しかけてきてな、私にこう言った。息子に聞いた。贋作を描け、と。銃を突き付けられ同時に息子を半ば人質にとられた状態の私に拒否することは出来なかった。ここを寝床にさせられやむなく数枚を描き上げると、奴らは贋作を持っていき、私を閉じ込めた」
「なんすかそれ、酷すぎる!」
「身体が弱く外にあまり出られない妻は美術館に行くことが出来なかったのでね、私が模写をして屋敷に飾った。それを息子が贋作作家だと話したようだ。間違ってはいないが、あくまで個人で楽しむためだった」
「どんな贋作を描いたんです?」

 スティーブンに尋ねてほしいと頼まれてジミーに伝えると、彼は溜め息を吐く。
 そこにあるのは後悔だけのようだ。

「ミレーだ。彼の未発見の作品という体で私に描かせたよ」

 ミレー。英国の画家であり、彼の描いたハムレットの一幕はとても有名だとスティーブンが教えてくれた。
 ジミーによると男たちはわざわざミレーが生きていた時代のキャンバスや顔料を用意して、描かせたという。
 おそらくこれが初めてではなく、贋作を売買するプロたちの仕業だろうとは、スティーブンの言葉だ。

「でも、そんなものが世に出回ったら、すぐに分かるんじゃないです?」
「本物かどうかの証明など、いくらでも偽造できる。後は金持ちに売りつけてしまえば、偽りを疑われてもプライドゆえに検査されるまで時間がかかる。その間にとんずらすればいいんだよ。絵で犯罪の片棒を担がされるなんて、画家の名折れだ」
「そんな……。それなら、一刻も早くここを出て警察に知らせないと!」

 椅子から腰を浮かせたレオナルドだが、ジミーの「どうやって?」という問いかけに自然と腰が沈む。
 スティーブンをちらりと見れば、彼は欠伸をしてこう言った。

「なんのためのスマホだ」

 あっ、と声を出してズボンのポケットをまさぐれば、すぐに固いものに手が当たる。
 しかし取り出したもののスマホに電波は届いておらず、しおしおと項垂れてしまった。

「私は携帯を取り上げられてしまっているが……電波なら、さっき通ってきた通路は微弱だが入るはずだ」
「マジっすか! じゃあ、僕は助けを呼びます。ケンブルさん、いいですか?」

 息子が人質同然になっているかもしれないゆえに逃げ出せない可能性を考えて尋ねるが、ジミーは頷いたのでスティーブンと共にシェルターの外に出る。
 ドアを閉めたところでスマホを見ると、確かに微弱ながら電波は届いているようだ。
 これならばと警察に電話をかけようとしたところで、スティーブンの待ったが入った。

「警察が飛び込んで来たら、君はどうするんだ? 不法侵入で捕まっちまうのがオチだし、僕は保護施設で朝を迎えるのは御免だぞ」
「あー、それはそうっすね。じゃあ、クラウスさん?」
「妥当だろう。誰かに聞かれると困ることになりかねないから、長文になるだろうしメールで。僕が言うとおりに打ってくれ」

 言われるままに文章を入力し、送信する。
 数分も経たないうちに返事が受信され、しばらくはその場で待っていてほしいとのことだ。
 こうなったら後は待つしかなく、レオナルドとスティーブンはシェルターの中に戻る。
 いつの間に準備したのかテーブルにはビスケットとジャムの瓶が置かれ、ジミーはキッチンで再び湯を沸かしているようだ。

「ケンブルさん、連絡出来ました。もうすぐここを出られると思います」
「そいつは助かった。さあ、腹ごしらえをしよう。それと君たちに頼みがある」

 振り返ったジミーはいそいそとやってきて、近くの棚からスケッチブックと鉛筆を取り出す。
 それだけで何を頼まれるのか大方察しはつくというものだ。
 なにせ本物の狼が間近にいるというのは本当に珍しい。

「君たちを描かせてほしい」
「どうぞどうぞ……え、僕も!?」

 スティーブンだけかと思って快諾したのだが、まさか自分も含まれているとは夢にも思わなかった。
 驚くレオナルドにジミーは頷き、ひとまずビスケットと冷めてしまったために淹れなおしてくれた紅茶を勧めてくる。
 時間があるのは確かなので素直にもらうことにして、椅子に座った。

「僕なんてモデル向きじゃないと思いますよ?」
「君は美男美女でなくては絵のモデルになれないと?」
「だって有名な絵ってほとんどそうじゃないです?」
「確かにそうだが、美醜で絵を語ることは出来ない。絵とは見るものによって変わるものだ。私の妻もそう考えていた」
「セリーナさん……でしたっけ」
「うむ。歳は離れているが、よく出来た女房だった。別れた1人目との間に生まれたバカ息子は反抗期をこじらせてな、それに比べて彼女との間に出来た娘と孫はとてもいい子なんだ。この家もそろそろ娘たちに譲ろうと思っていた矢先に、これだ」

 力なく笑うジミーになんと答えたらいいのか分からず、代わりにビスケットを1枚摘まんで口に運ぶ。

「ここに食料を運んでくれた男が言うには、間もなく出られるとのことだったが、君のお陰で早まった。まぁ、待っていたところで命があったかどうか分からんかったしな」
「その男の人って、どんな人です?」
「大柄で背の高い、無精ひげを生やした男だな」

 脳裏に浮かんだのはヒューの姿。
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