Invisible Picture
「……絵?」
入った瞬間に目に飛び込んできた美女は実際にそこにいるのだと錯覚してしまったが、よくよく見てみるとその美女は大きなキャンパスに描かれた人物画。
たおやかに微笑む彼女は花嫁なのだろう。美しいウエディングドレスに身を包み白一色のブーケを持った姿は、こちらがドキリとしてしまうほど美しく、そしてとても幸せそうだ。
「もしかしなくても、この絵が幽霊の正体?」
「窓に背を向けているのに? だとしたら、勝手に動く絵画だな」
冷静なスティーブンの言葉に、それもそうかと真っ直ぐに伸びかかった背から力を抜く。
気を取り直して部屋の中を見るが、花嫁の絵を除いて部屋にあるのは絵のかかっていないイーゼルが複数あるだけだ。
「このイーゼルは気になるな」
スティーブンの低い声が耳に届き、彼に駆け寄る。
しかし独り言だったらしく、近づいたレオナルドを気にすることなく歩いていく。
考え事をしているのか、それとも部屋に残っている何者かの匂いを嗅いでいるのかは分からない。後者を指摘したら拗ねられそうなので、そっと様子を見守ることにした、のだが。
窓辺に、ふわりとなびく白い影が見えた。
それは次第に輪郭がはっきりとし――レオナルドは再び息を呑んだ。
半透明な白をまとった彼女は絵画のように微笑まず、愁いを帯びた悲しそうな顔でレオナルドを見つめている。
亜麻色の髪をきっちりと結いあげてマリアベールに隠し、ドレスも現代と違って肌の露出はなく飾りの少ない清楚な感じのものだ。
いや、今は美人だからといって見惚れている場合ではない。
「え、えと、こ、こんばんは……」
本当にいるかどうか半信半疑だったので、この展開は少々予想外だった。
それはレオナルドの声に気づいて振り返ったスティーブンも同じだったようだ。
頭を低くしていつでも飛び掛かれる姿勢をとったスティーブンは、耳を立て鋭い眼差しで花嫁を見ている。
牙をむき出しにして唸りを上げそうな様子に、レオナルドがすかさず手を横に上げて制した。
「大丈夫です、スティーブンさん」
何が大丈夫なのか、自分でも分かっていない。
しかしこれまでの経験から来る直感なのか、彼女のことは恐れる必要はないと感じていた。
彼女か目を離すことなく、慎重にスティーブンが近づいてくる。
牙を向けることはやめたが、それでもいつでも飛び掛かることが出来る体勢は崩していない。
「これでこの家が幽霊屋敷だって証明されちゃいましたね」
「そこの絵と関係が?」
「多分? あ、絵に憑りついてるか、絵の怪異ってことですか」
確かにスティーブンの考察はあながち間違いではない。
世の中には作者の様々な思いが込められて作られた物に魂が宿ることがままある。もしくは生前に大切にしていた物に、亡くなってからも執着して憑りついてしまうこともだ。
この場合は屋敷に憑りついているわけではないので、残念ながら国の認定を受けることはない。
いや、残念に思っていいかは家主次第なのだけれど。
「何かを訴えているような感じがないし、さてどうしましょうか……あれ?」
ぼんやりとその場に漂っているかのようだった花嫁が、不意に動き出した。
ドレスの裾を翻し、レオナルドたちへと向かってくる。
咄嗟に身構えるが、彼女はレオナルドの脇をすり抜けて部屋の外へと出ていった。もちろん、ドアは開かれていない。
「絵に憑りついてるんじゃない?」
絵と関係があるのなら、媒体となっている絵からさほど離れないだろうというと思っていたのがあっけなく覆された。
「追いかけてみるか」
スティーブンの提案にしたがって、レオナルドたちも部屋を出る。
花嫁はすぐにみつかったが、その後姿は遠ざかっていく。どうやら先程上がってきた階段を降りていくらしい。どこかに導こうとしていると思うのは、その動きがゆるやかで、時折後ろを振り返っているからだ。
まだ屋敷に誰もいないと決めつけるには尚早なため、スティーブンが前に立って慎重に歩を進めていく。
予想どおり、花嫁は階段を下り始めた。
足音ひとつない彼女の後ろを、足音を立てないように慎重に下りていく。
そして1階にたどり着くと、キッチンの向かいにあるドアの中へと消えていった。
「……ここは?」
「確か物置に使われているような小部屋だったな。レオ、開ける時は慎重に。僕が先に入る」
頷いて、ドアノブに手をかける。
これまで以上に慎重に、時間をかけてドアを開くと、スティーブンがするりと中へ入っていった。
間もなく「入っていいぞ」と呼ばれてレオナルドも中に入る。小部屋と言われていたが、部屋の広さはレオナルドの部屋とさほど変わらない。そう思うと小部屋と言われたことに納得いかないものを感じるが、今は考えないことにした。
花嫁の姿はなく、家具がなくガランとしている。ただ1つだけ、床に置かれた木箱が異彩を放っていて。
レオナルドの腰の高さほどある正方形の木箱。蓋は釘で封がされており、何が入っているのかをすぐに判断することは出来ない。
だが、木箱よりも重要なことにスティーブンが気づいた。
「レオ、木箱の下を見ろ」
言われて下を向き、気づく。
箱の下、床に切れ込みが入っているのだ。使われている木材の色合いも違っているし、箱の左右を見ると錆びた取っ手と蝶番がみつかる。
つまりこの箱の下にあるのは、貯蔵庫か地下室の蓋。
屈んで、スティーブンと顔を見合わせる。
花嫁がこの部屋で消えたこと、気になるものはこの木箱と蓋しかないこと。
「このどちらかを教えようとしたってことっすかね」
「そう考えるのが打倒だと思うよ。ただ、今の僕らではどちらもうかつに手を出すことは出来ない」
木箱がどれだけ重いかは分からないが、大きさと木箱だけの重さを考えるとレオナルドひとりでは手に余る。
ここは助けを呼んでからではないと、何も出来ないだろう。
花嫁には申し訳ないが、今夜はこれで撤退し、体制を整えて再び来るしかない。
そう、思ったのに。
跳ねるようにして突如踵を返したスティーブンが、ドアに向かって唸りを上げる。
すみやかにレオナルドも振り返るが、腰を落としたまま木箱を背にしてドアを見つめた。
人が、いる。
ドアの向こうに人数は1人。オーラの形からおそらく成人男性。
小さな窓がひとつしかないこの部屋では逃げ場がなく、いざとなれば体当たりをして逃げるしかないだろう。
タイミングはスティーブンに任せ、レオナルドは時を待つ。
1秒が1分に感じるほど時間が緩やかに流れ、緊張に頬を汗が伝う。
やがて、ドアが開いた。
「ヒュー・ガルブレイス!」
「え、スティーブンさんの知り合いなの!?」
隣の狼が上げた声に、レオナルドは思わず彼に振り返って大きな声を出してしまった。
「スティーブン?」
低い男の声に我に返る。
開かれたドアを見れば、眩しい光に目を背けるしかない。
すぐに神々の義眼を調整し再びドアをみれば、懐中電灯を頭の横に持って立っている精悍な顔立ちの男が瞳を瞬かせてこちらを見下ろしていた。
濃紺の繋ぎを着ているが、肩幅の広さや捲られた袖から伸びる筋肉質な腕から相当鍛えているように見える。無精髭に気怠そうな垂れ目、ぼさぼさに伸ばしたほとんど黒に近いこげ茶色の髪をひとつにまとめたこの男は、腰に手を当てると前屈みになってレオナルドとスティーブンを交互に見た。
「俺を知ってるわんこに知り合いはいないが、俺を知ってるスティーブンにはひとりだけ心当たりがあるなぁ」
後ろ手でドアを締めたヒューと呼ばれた男は、その場にしゃがみこんだ。そのために懐中電灯は頭から下ろされ、窓から入る薄明りだけが頼りとなった。
これならば神々の義眼によって闇も見通せるこちらが有利になったと思いそうになる。だが、ヒューにはレオナルドでさえ分かるほど隙がなく、うかつに動くことは出来ないと本能が悟った。
「スティーブン・A・スターフェイズ。はは、そうかそうか、ここんとこ夜に出てこないし呪いをかけられたって噂があったが、わんこになっちまってたのか。犬になっても太々しさは変わらねぇなぁ」
「レオ、こいつに構うな」
唸るスティーブン、不敵な笑みを浮かべるヒュー。
敵か味方か分からないこの男と未だに警戒を解かないスティーブンに、レオナルドもいざという時を覚悟する。
「お前さんは、スターフェイズの相棒ってところか?」
「え、まぁ、そんなとこ……あっ」
あっさりと肯定してしまったことに言ってから気づいたが、もう遅い。
隣のスティーブンに睨まれ、もう隠し立ては出来ないと肩を落とした。
「まったく君は……。こいつはヒュー・ガルブレイス。敵にも味方にもなる、隠し屋だ」
「隠し屋?」
「なんだ、スターフェイズと話をしてるのか? それなら、詳しいことはスターフェイズに聞いてくれ。で、お前らはどうしてここに? 人様の家に勝手に入るなって教わらなかったか?」
不意に入った本題に、レオナルドは喉を詰まらせる。
はたしてどう答えることが正解なのか、ちらりと横目でスティーブンを見るが、ヒューの目が離れることはない。
ここは自分がどうにかしなくてはいけないのだろうと、背中を流れる嫌な汗を感じつつ、口を開いた。
「……僕は、幽霊との交渉を生業にしてます、レオナルド・ウォッチです。実はこの家に幽霊が出るって噂がありまして、調べに来ました」
「許可なく?」
「その前に、ガルブレイスさんは誰に許可をもらって中へ?」
「質問に質問で返すのは感心しないが、まぁいい。俺は家主からな、この家に不法侵入してる奴がいねぇか、見回りを頼まれてるんだ」
嘘だ。
家主は行方不明となっているはず。
そこを追及するべきか迷っていると、スティーブンが身体を寄せてきた。
「こいつは嘘が上手い。なにせ隠し屋だからな」
隠し屋というものがどういうものなのか、レオナルドはまだ知らない。
しかし文字通り受け取るとしたら、真実を上手く隠してしまうということか。そんなことが出来るのか半信半疑だが、スティーブンが警戒しているのだ。一筋縄ではいかないことだけは確かだろう。
「僕がお会いした幽霊は、花嫁姿の女性でした。てっきり行方の分からないご主人を探しているんだと思ったんですけど……」
ヒューの目がわずかに見開いた。
「どこにいらっしゃるか、ご存じですか?」
依頼人の個人情報を伝えることは出来ない。
そう言われてしまえばそれまでだろう。だがなんとなく、ヒューにはレオナルドの話を避けられない何かがあるような気がした。
なぜなら彼の視線が一瞬だけ下を、おそらくレオナルドたちの後ろにある木箱の下を見たからだ。
「スターフェイズに聞く。お前らは何が目的でここへ来た」
「『幽霊騒動の原因を探るため。他意はない』だそうです」
狼になったスティーブンの言葉を伝えると、ヒューは肩の力を抜いてその場に座り込んだ。
表面上はこれまでの警戒が和らいだように見えるが、はたして見た目どおりに受け取ってよいものか。
「ま、花屋の坊主が一緒なら、そういうことだろうとは思ったがよ」
「え、僕のこと知ってたんですか!?」
「俺もグリニッジに住んでるからな。新しい店が出来たら、だいたい情報は入ってくる」
「お前も『OLDBOTTLE』の常連だったな」
「はあ!? なにその世間の狭さ!」
実はすれ違っていたことだってあったかもしれないほど似通っている生活圏に、レオナルドは思わず声を上げる。
穏やかな街だと思っていたのに、秘密結社や魔女によく分からないが隠し屋。なんだかグリニッジの裏側を垣間見てしまった気がする。
「世の中なんざそんなもんだ。さて、本題に入るか。俺は依頼を受けて、家主の身の安全を確保するためにここへ来ている」
「家主さん、ここにいるんです?」
「ああ、そこだ」
ヒューが指で示したのは、レオナルドの股間。いや、その下。
「……まさか、地下?」
飛び跳ねるようにして身体を翻し、レオナルドは背後にあった蓋を見下ろす。この下に家主がいるとなれば、あの花嫁の訴えていた意味が分かった。
無事かどうか、視ることは出来る。
だが、万が一を考えると躊躇われた。
「そこの木箱が重くてな、俺ひとりでは骨が折れる。お陰でまだ確認していないんだが、2人ならなんとかなるだろう」
膝に手を当てて立ち上がったヒュー。
首を左右に動かし、レオナルドの返事を聞くことなく木箱の横に立つ。
流れでレオナルドも反対側に回ると、木箱のわずかなでっぱりに手をかける。
そして2人同時に持ち上げると、思った以上に重い木箱に、レオナルドは「ぐうっ」と妙な声を出してしまう。
逆にヒューは重いと言っていたくせに、顔色ひとつ変えることなくレオナルドより高い位置まで軽々と上げて。すぐにバランスが悪いと気づいて下げてくれたが、もしかしなくてもこの人は1人で木箱を動かすことが出来たのではないのだろうか。
しかし持ち上げただけでなく移動となると、腕だけでなく腰や足にも負担となる。疑問を考えている暇もなくヒューの指示に従って蓋から木箱を動かすと、部外者が入ってこないようにとドアの前に置いた。
「はぁ、はぁ、重かった……」
「力がねぇなぁ、もっと筋肉つけろよ」
労わるようにスティーブンが傍に来てくれたが、ヒューの言葉に頷いたのをレオナルドは見逃さない。
むっとして睨みつけると、すぐに尻尾を向けて蓋の方へと歩いていった。
「鍵の類はない。木箱が重しになっていたようだな」
「そこに家主さんがいるんです?」
「開けてみてくれ」
ヒューに促され、レオナルドは蓋の前に屈む。取っ手を両手で掴んで上げると、木箱よりは軽い、けれど片手では存外重かった厚い木の板が抵抗する錆びた蝶番のせいでゆっくりと動いた。
ある程度上がったところで裏側を押せば、蓋はあっけなく前へ倒れていく。昔はある程度開いたら支えるものもあったのだろうが、今はそれらしいものが見受けられなかったのでこれでよしとした。
問題は、出てきた木製の階段の先だろう。
「灯りがついて……うわっ!」
ほのかな灯りに気づいて覗き込んだその時だった。