Invisible Picture
大丈夫じゃないのは日が暮れたら狼になってしまうスティーブンの方だと思うのだけれど、それ以前にチェインに内部を調査してもらったらいいのではないのだろうか。
「彼女は明日から別件が入ってるんだよ」
「忙しいんですねぇ」
少しだけ皮肉を含んだ物言いでちらりとスティーブンを見るが、自分の首に巻かれているものとよく似たマフラーの色が先に目に飛び込んできたので、すぐに目を逸らした。
「そうだな。人狼局には頼りっぱなしだから、頭が上がらん。君にもな」
予想外の言葉に勢いよく振り返れば、スティーブンはレオナルドを追い越して歩いて行ってしまう。
ぽかんと開いた口がすぐには閉まらなくて、けれど次第に閉じることが出来た口はどうしたって口角が上がって。
レオナルドは駆け出した。
「ねえねえ、スティーブンさん。夜のために美味いもん食いに行きましょうよ!」
「君の美味いもんは肉かラーメンだろ? 近場で美味いところがあるのか?」
「う、まだみつけてませんけど……」
「だったら僕が作ってやるよ。久しぶりにガッツリ食えるものを作りたい気分なんだ」
やったー! と飛び跳ねるレオナルドは、スティーブンに朝っぱらから騒ぐなと窘められて。
けれど嬉しいものは仕方がない。
子犬のようにはしゃいでマフラーを尻尾のように揺らし、レオナルドはスティーブンを追い越していった。
お昼に食べたスティーブン特製ジャパニーズカツカレーはとても美味しかった。
市販のルーにスパイスを始めとするアレンジを加え、とてもコクがありながらしつこくなく、食欲を刺激するスパイシーなカレー。
家ではあまり食べないふっくらした白米にそれがかけられ、さらにその上に乗せられているのは黄金色に輝く衣に包まれたカツ。
残念ながらレオナルドが憧れている日本風のトンカツではなく、英国で親しまれているチキンカツだったが、健康を気遣うスティーブンの手前、その気持ちはぐっと飲み込んだ。
それに、美味しかったから問題ない。
余ったカレーは冷ました後に冷蔵庫に入れられた。明日、残ったカレーでスティーブンが何かを作るらしい。
何かは教えてくれなかったが、それだけでやる気が出るのだから我ながら単純だと思う。
けれど、その気持ちは夜になると萎んでいって。
レオナルドは、闇の中に鎮座する屋敷を見上げて息を呑んだ。
気まぐれなライオンが呼び込む強い風が吹き、壁に纏わりつく蔓の葉が揺れる。すると月に照らされて出来た葉の影が窓に映り、何者かがおいで、おいでと緩慢な動きで手招きするように見えた。
何度も幽霊を見ているが、こういった錯覚が想像力をかきたて、恐怖を助長する。だからいつまでたってもチープなホラー映画に緊張するのだ。
いや、恐怖を感じる理由はそれだけではないだろう。なにせこれから、たったひとりでこの屋敷に不法侵入しなくてはならないのだから。
「僕もいるけど?」
隣で狼がぼやくが、自称狼犬の彼はレオナルドのように人にみつかった場合でも責任を追及されることはない。せいぜい捕まえようと追いかけまわされる程度だ。それに、飼い主は自分だ。
「スティーブンさんはいざとなったら尻尾を巻いて逃げられるからいいですけどね。狼だけに」
「はははは、面白い冗談だなぁ、レオナルド。僕の目には君の尻にないはずの垂れ下がった尻尾が見えるけど?」
不毛な言い争いは沈黙で終わらせて。
このままでは埒が明かないと、周囲を見回して人の気配がないことを確認する。
皮肉に皮肉で返したのに無視されたスティーブンがふん、と鼻を鳴らして門扉の前に立つ。鉄の柵で出来ているために錆が浮いた門扉をゆっくりと押すと、意外にも音もなく門扉は内側へ開いた。
人ひとり分が通れるだけ開いて、まずはスティーブンを中へ。続いてレオナルドが入ると門扉を閉める。
それから事前に聞いていたとおりに門扉の脇を探すと、草の中に南京錠がみつかった。
こちらも錆びていることから、元々門扉に付けられていたものだろう。
先行したチェインが外しておいてくれたことはスティーブンから聞いていたので、それを手に取って門扉の穴に差し込んで鍵をかけた。
なお、再び開ける時は早急に作られた鍵が今着ているマウンテンパーカーのポケットに入っているので、問題ない。
「この鍵って住人の人が付けたものなんです?」
「おそらくね。だが内部が錆びていなかったことを考えると、使われていた可能性もあるだろう」
スティーブンが先頭に立って広い玄関ではなく裏側へと回っていく。
錠前が使われていたと彼は言ったが、木々が生い茂り雑草が無造作に生えて荒れている庭を見ていると、本当に人が出入りしていたのかと疑いたくなるのは、英国人の庭好きを知っているからか。
来たことがあるとは聞いていないが、スティーブンは迷うことなく歩いていく。狼になると夜目も利くようになるのは知っているけれど、それ以外にも事前に情報を仕入れているのかもしれない。
秘密結社ライブラが調査するべき物件だとしたら、幽霊より生きている人間を警戒しなくてはならないのだと改めて思う。
生きている人間は、時に悪霊より恐ろしいのだから。
慎重に足を進めていくと、裏口の前に立つチェインをみつけた。
荒れた屋敷の前にぽつんと1人立つ彼女は、スーツ姿でなければ誰が見てもこの世のものと思われないだろう。
だがこちらをみつけ振り返った瞬間に狼姿のスティーブンへ慌ててお辞儀をする姿は、どこにでもいる可愛らしい女性だ。
もっとも、壁をすり抜けたりする女性はどこでもいるわけではないのだけれど。
「鍵は開けてあります。今のところ、誰も来た気配はありません」
「『ありがとう、チェイン。明日は早いのに悪かったね。とても助かったよ』だそうです」
狼になったスティーブンの言葉はレオナルドにしか聞こえない。だから代わりにチェインに伝えると、彼女は大きな瞳を瞬かせた後、慌ててお辞儀をするとその場から姿を消した。
「……何か変なことを言ったかな?」
「……スティーブンさんって、変なところでに鈍いっすよね」
「何が?」
「別に」
呑気に会話をしてしまうが、実のところ時間がない。
近所の住人に異変を感づかれる前にと話を打ち切ると、レオナルドは慎重に裏口のドアを開いてスティーブンと共に中へ入った。
入ってすぐキッチンがあり、人気はない。念のために裏口のドアは鍵をかけ直しておく。
見渡してみると今と比べれば古いが、キッチンの設備は近代的でリフォームした様子がうかがえた。
レオナルドが動くより早くキッチンの中を歩いて回るスティーブンは、時折床に顔を近づけたかと思うと今度は顔を上げて。
なんだか警察犬のような動きをしているな、と率直に思ったが、ハンドラーが自分では釣り合わないだろう。
「複数の人間が出入りしている痕跡があるな」
見ろ、と促されしゃがみこんで床を見る。うっすらと誇りが積もった床だが、よく見るとその埃の積もり方が均一ではないことが色合いの違いで分かった。
「歩いた跡?」
「おそらくは。薄くなっているが匂いの残滓もある。複数の人間がこの屋敷を出入りしていたようだ」
「すっげー。スティーブンさん、どんどん狼っぽくなってきてますね」
「それ、嬉しくないから」
耳を横にペタンと下げて、溜め息を吐くスティーブン。
「どんどんこっちの身体に慣れちまってるんだよなぁ。あー、やだやだ、早く元の身体に戻りたいぜ……」
「急に飲んだくれて愚痴ってるおっさん感出さんでください。それより、人が出入りしてるなら長居しない方が良くないです?」
我ながら辛辣かつ容赦ない物言いだとは思うが、事は急を要する事態になりかねないと分かったのだ。
振り返って恨めしそうにこちらを見てくる狼を無視して先を促すと、重い腰を上げてくれた。
「何者が出入りをしているかはまだ分からん。そうだな、幽霊の目撃情報が頻繁にあった2階から探ってみるか」
「了解。階段を探さなくっちゃですね」
「ここを出て左、奥に怪談がある。そこを上がるといいだろう」
屋敷の見取り図を頭に入れてきたというスティーブンが、先に歩いて木製のドアの前に立つ。暗いのではっきりとした色までは見ていないが、6枚パネルのドアはよく見るタイプだ。
ドアノブは現代と変わらないので、もしかしたらリフォームで付け替えたのかもしれない。
それはさておき、下から覗き込んでくる狼の視線が痛い。
「……君、分かっててじらしてる?」
「そんなことないっすよ。ただ、この家って結構大事にされてたんじゃないかなって思いまして」
キッチンの中は物が少ないが整理されているし、誇りが積もっていても家具は形からして古くから大切にされているように思う。
どんな事情で住人がこの家を離れたのかは分からないが、少しだけ切なく感じた。
いや、下手な同情は色々なものを呼び寄せてしまう。
ここで感傷的になってはいけないと、レオナルドは首を左右に振ってその気持ちを今は消すことにした。
ドアノブに手をかけ、慎重に開いていく。隙間からするりとスティーブンが出ていき、先に様子をうかがってくれた。
「誰もいないよ。しかし君の言うとおり、この家は大切にされてきたかもしれないな」
後に続いて廊下に出ると、窓がないので完全な闇だ。
けれど埃が積もっていることはさておき、絵画がいくつも飾られていて壁紙が破れている様子はない。キッチンに続き、この廊下も痛んでいるところは見受けられなかった。
古い家を大切にするのは英国ではよくあることだが、住んでいる人が雑な場合とてごく普通にある。
だからこそ、この家の整った状態はどうしても廃屋とは言い切れなかった。
「調べた時に、持ち主さんのこととか出なかったんです?」
階段に向かって歩きつつそう尋ねると、スティーブンからはくしゃみで返事が返ってきた。
どうやら床の匂いを嗅いだ時に、埃が鼻に入ったようだ。
「ああ、クソっ。……壮年の男が1人で暮らしていたが、半年前くらいに行方不明。どこかへ行った記録はなく、警察は屋敷内での孤独死を考えて、別居している息子を伴って調査。だがみつからず、行方不明者として登録されたままだ」
「え、それじゃあ……」
キャッシュレスが主流になってきている英国で、カードなどを利用した記録すら残っていないとなるともはやこの世にいない可能性を考える必要も出てくる。
もしかしたら屋敷にいるのは持ち主ではないか、と思ったが、ここでレオナルドの頭にある疑問が頭を過ぎった。
ちょうど階段にたどり着いたので、スティーブンと並んで上がりつつ話を続ける。
「キッチンにあった匂いとか足跡は、その息子さんのものじゃないんです?」
シンプルな木の階段はしっかりとしていて、軋む様子はない。やはりちゃんと手入れされているのだろうということがうかがえる分、息子が出入りしていると考えるのが自然ではないのだろうか。
「残念ながら、その可能性は低い。家主と息子はずいぶん前に親子の縁を切っていてな、息子はチンピラ同然の生活をしている。父親の行方不明を知って、この屋敷の相続と売却をすぐに出来ないかと親の心配より先に警察に話したそうだ」
「うわ、ザップさんとは違う意味でどうしようもない人っすね」
「持ち主の弟――息子にとっては叔父だな、その人が待ったをかけたんだが、以降息子がこの屋敷に近づいた様子はない。なぜか海外に逃亡しちまったんだよ」
一気にきな臭くなった。
顔を顰め階段を上がる足が鈍くなったが、秘密結社ライブラが調査する屋敷だ。
レオナルドが受けるような幽霊との交渉とは比べ物にならないほど、危険を孕んでいるのは承知の上。
唾を飲み込んで、少し上の段で待っているスティーブンに追いつく。
一度だけ踊り場に出て曲がり、上に上がる。
苦もなく上がることが出来た2階は、一階の廊下とよく似ていた。
左右に並んだ部屋のドア、そのうち一番手前の表通りに面した部屋が例の幽霊らしき人影が見えたところらしい。
スティーブンが言うには、この辺りに人も複数の人の残滓が残っているという。
「君はオーラとか見えたりしない?」
「理由はよく分かんねぇですけど、オーラって長くその場にいないと、わりとすぐに消えちゃうんですよ。だからかな、ここに人がいたっていうオーラは見えません」
「つまり、長居するような人物たちではないということか」
狼の顔なのに、スティーブンが神妙な面持ちをしていることはなんとなく分かる。
彼もまた、この屋敷の異常さを肌で感じているのだ。
ドアを開けるように指示され、レオナルドはおもむろに頷き、ドアノブに手をかける。そしてゆっくりと、ドアノブを回し内側に押した。
先にスティーブンが入り、次にレオナルドが。
カーテンのかかっていない窓から差し込む月明かりに照らされた美女に、息を呑んだ。
「彼女は明日から別件が入ってるんだよ」
「忙しいんですねぇ」
少しだけ皮肉を含んだ物言いでちらりとスティーブンを見るが、自分の首に巻かれているものとよく似たマフラーの色が先に目に飛び込んできたので、すぐに目を逸らした。
「そうだな。人狼局には頼りっぱなしだから、頭が上がらん。君にもな」
予想外の言葉に勢いよく振り返れば、スティーブンはレオナルドを追い越して歩いて行ってしまう。
ぽかんと開いた口がすぐには閉まらなくて、けれど次第に閉じることが出来た口はどうしたって口角が上がって。
レオナルドは駆け出した。
「ねえねえ、スティーブンさん。夜のために美味いもん食いに行きましょうよ!」
「君の美味いもんは肉かラーメンだろ? 近場で美味いところがあるのか?」
「う、まだみつけてませんけど……」
「だったら僕が作ってやるよ。久しぶりにガッツリ食えるものを作りたい気分なんだ」
やったー! と飛び跳ねるレオナルドは、スティーブンに朝っぱらから騒ぐなと窘められて。
けれど嬉しいものは仕方がない。
子犬のようにはしゃいでマフラーを尻尾のように揺らし、レオナルドはスティーブンを追い越していった。
お昼に食べたスティーブン特製ジャパニーズカツカレーはとても美味しかった。
市販のルーにスパイスを始めとするアレンジを加え、とてもコクがありながらしつこくなく、食欲を刺激するスパイシーなカレー。
家ではあまり食べないふっくらした白米にそれがかけられ、さらにその上に乗せられているのは黄金色に輝く衣に包まれたカツ。
残念ながらレオナルドが憧れている日本風のトンカツではなく、英国で親しまれているチキンカツだったが、健康を気遣うスティーブンの手前、その気持ちはぐっと飲み込んだ。
それに、美味しかったから問題ない。
余ったカレーは冷ました後に冷蔵庫に入れられた。明日、残ったカレーでスティーブンが何かを作るらしい。
何かは教えてくれなかったが、それだけでやる気が出るのだから我ながら単純だと思う。
けれど、その気持ちは夜になると萎んでいって。
レオナルドは、闇の中に鎮座する屋敷を見上げて息を呑んだ。
気まぐれなライオンが呼び込む強い風が吹き、壁に纏わりつく蔓の葉が揺れる。すると月に照らされて出来た葉の影が窓に映り、何者かがおいで、おいでと緩慢な動きで手招きするように見えた。
何度も幽霊を見ているが、こういった錯覚が想像力をかきたて、恐怖を助長する。だからいつまでたってもチープなホラー映画に緊張するのだ。
いや、恐怖を感じる理由はそれだけではないだろう。なにせこれから、たったひとりでこの屋敷に不法侵入しなくてはならないのだから。
「僕もいるけど?」
隣で狼がぼやくが、自称狼犬の彼はレオナルドのように人にみつかった場合でも責任を追及されることはない。せいぜい捕まえようと追いかけまわされる程度だ。それに、飼い主は自分だ。
「スティーブンさんはいざとなったら尻尾を巻いて逃げられるからいいですけどね。狼だけに」
「はははは、面白い冗談だなぁ、レオナルド。僕の目には君の尻にないはずの垂れ下がった尻尾が見えるけど?」
不毛な言い争いは沈黙で終わらせて。
このままでは埒が明かないと、周囲を見回して人の気配がないことを確認する。
皮肉に皮肉で返したのに無視されたスティーブンがふん、と鼻を鳴らして門扉の前に立つ。鉄の柵で出来ているために錆が浮いた門扉をゆっくりと押すと、意外にも音もなく門扉は内側へ開いた。
人ひとり分が通れるだけ開いて、まずはスティーブンを中へ。続いてレオナルドが入ると門扉を閉める。
それから事前に聞いていたとおりに門扉の脇を探すと、草の中に南京錠がみつかった。
こちらも錆びていることから、元々門扉に付けられていたものだろう。
先行したチェインが外しておいてくれたことはスティーブンから聞いていたので、それを手に取って門扉の穴に差し込んで鍵をかけた。
なお、再び開ける時は早急に作られた鍵が今着ているマウンテンパーカーのポケットに入っているので、問題ない。
「この鍵って住人の人が付けたものなんです?」
「おそらくね。だが内部が錆びていなかったことを考えると、使われていた可能性もあるだろう」
スティーブンが先頭に立って広い玄関ではなく裏側へと回っていく。
錠前が使われていたと彼は言ったが、木々が生い茂り雑草が無造作に生えて荒れている庭を見ていると、本当に人が出入りしていたのかと疑いたくなるのは、英国人の庭好きを知っているからか。
来たことがあるとは聞いていないが、スティーブンは迷うことなく歩いていく。狼になると夜目も利くようになるのは知っているけれど、それ以外にも事前に情報を仕入れているのかもしれない。
秘密結社ライブラが調査するべき物件だとしたら、幽霊より生きている人間を警戒しなくてはならないのだと改めて思う。
生きている人間は、時に悪霊より恐ろしいのだから。
慎重に足を進めていくと、裏口の前に立つチェインをみつけた。
荒れた屋敷の前にぽつんと1人立つ彼女は、スーツ姿でなければ誰が見てもこの世のものと思われないだろう。
だがこちらをみつけ振り返った瞬間に狼姿のスティーブンへ慌ててお辞儀をする姿は、どこにでもいる可愛らしい女性だ。
もっとも、壁をすり抜けたりする女性はどこでもいるわけではないのだけれど。
「鍵は開けてあります。今のところ、誰も来た気配はありません」
「『ありがとう、チェイン。明日は早いのに悪かったね。とても助かったよ』だそうです」
狼になったスティーブンの言葉はレオナルドにしか聞こえない。だから代わりにチェインに伝えると、彼女は大きな瞳を瞬かせた後、慌ててお辞儀をするとその場から姿を消した。
「……何か変なことを言ったかな?」
「……スティーブンさんって、変なところでに鈍いっすよね」
「何が?」
「別に」
呑気に会話をしてしまうが、実のところ時間がない。
近所の住人に異変を感づかれる前にと話を打ち切ると、レオナルドは慎重に裏口のドアを開いてスティーブンと共に中へ入った。
入ってすぐキッチンがあり、人気はない。念のために裏口のドアは鍵をかけ直しておく。
見渡してみると今と比べれば古いが、キッチンの設備は近代的でリフォームした様子がうかがえた。
レオナルドが動くより早くキッチンの中を歩いて回るスティーブンは、時折床に顔を近づけたかと思うと今度は顔を上げて。
なんだか警察犬のような動きをしているな、と率直に思ったが、ハンドラーが自分では釣り合わないだろう。
「複数の人間が出入りしている痕跡があるな」
見ろ、と促されしゃがみこんで床を見る。うっすらと誇りが積もった床だが、よく見るとその埃の積もり方が均一ではないことが色合いの違いで分かった。
「歩いた跡?」
「おそらくは。薄くなっているが匂いの残滓もある。複数の人間がこの屋敷を出入りしていたようだ」
「すっげー。スティーブンさん、どんどん狼っぽくなってきてますね」
「それ、嬉しくないから」
耳を横にペタンと下げて、溜め息を吐くスティーブン。
「どんどんこっちの身体に慣れちまってるんだよなぁ。あー、やだやだ、早く元の身体に戻りたいぜ……」
「急に飲んだくれて愚痴ってるおっさん感出さんでください。それより、人が出入りしてるなら長居しない方が良くないです?」
我ながら辛辣かつ容赦ない物言いだとは思うが、事は急を要する事態になりかねないと分かったのだ。
振り返って恨めしそうにこちらを見てくる狼を無視して先を促すと、重い腰を上げてくれた。
「何者が出入りをしているかはまだ分からん。そうだな、幽霊の目撃情報が頻繁にあった2階から探ってみるか」
「了解。階段を探さなくっちゃですね」
「ここを出て左、奥に怪談がある。そこを上がるといいだろう」
屋敷の見取り図を頭に入れてきたというスティーブンが、先に歩いて木製のドアの前に立つ。暗いのではっきりとした色までは見ていないが、6枚パネルのドアはよく見るタイプだ。
ドアノブは現代と変わらないので、もしかしたらリフォームで付け替えたのかもしれない。
それはさておき、下から覗き込んでくる狼の視線が痛い。
「……君、分かっててじらしてる?」
「そんなことないっすよ。ただ、この家って結構大事にされてたんじゃないかなって思いまして」
キッチンの中は物が少ないが整理されているし、誇りが積もっていても家具は形からして古くから大切にされているように思う。
どんな事情で住人がこの家を離れたのかは分からないが、少しだけ切なく感じた。
いや、下手な同情は色々なものを呼び寄せてしまう。
ここで感傷的になってはいけないと、レオナルドは首を左右に振ってその気持ちを今は消すことにした。
ドアノブに手をかけ、慎重に開いていく。隙間からするりとスティーブンが出ていき、先に様子をうかがってくれた。
「誰もいないよ。しかし君の言うとおり、この家は大切にされてきたかもしれないな」
後に続いて廊下に出ると、窓がないので完全な闇だ。
けれど埃が積もっていることはさておき、絵画がいくつも飾られていて壁紙が破れている様子はない。キッチンに続き、この廊下も痛んでいるところは見受けられなかった。
古い家を大切にするのは英国ではよくあることだが、住んでいる人が雑な場合とてごく普通にある。
だからこそ、この家の整った状態はどうしても廃屋とは言い切れなかった。
「調べた時に、持ち主さんのこととか出なかったんです?」
階段に向かって歩きつつそう尋ねると、スティーブンからはくしゃみで返事が返ってきた。
どうやら床の匂いを嗅いだ時に、埃が鼻に入ったようだ。
「ああ、クソっ。……壮年の男が1人で暮らしていたが、半年前くらいに行方不明。どこかへ行った記録はなく、警察は屋敷内での孤独死を考えて、別居している息子を伴って調査。だがみつからず、行方不明者として登録されたままだ」
「え、それじゃあ……」
キャッシュレスが主流になってきている英国で、カードなどを利用した記録すら残っていないとなるともはやこの世にいない可能性を考える必要も出てくる。
もしかしたら屋敷にいるのは持ち主ではないか、と思ったが、ここでレオナルドの頭にある疑問が頭を過ぎった。
ちょうど階段にたどり着いたので、スティーブンと並んで上がりつつ話を続ける。
「キッチンにあった匂いとか足跡は、その息子さんのものじゃないんです?」
シンプルな木の階段はしっかりとしていて、軋む様子はない。やはりちゃんと手入れされているのだろうということがうかがえる分、息子が出入りしていると考えるのが自然ではないのだろうか。
「残念ながら、その可能性は低い。家主と息子はずいぶん前に親子の縁を切っていてな、息子はチンピラ同然の生活をしている。父親の行方不明を知って、この屋敷の相続と売却をすぐに出来ないかと親の心配より先に警察に話したそうだ」
「うわ、ザップさんとは違う意味でどうしようもない人っすね」
「持ち主の弟――息子にとっては叔父だな、その人が待ったをかけたんだが、以降息子がこの屋敷に近づいた様子はない。なぜか海外に逃亡しちまったんだよ」
一気にきな臭くなった。
顔を顰め階段を上がる足が鈍くなったが、秘密結社ライブラが調査する屋敷だ。
レオナルドが受けるような幽霊との交渉とは比べ物にならないほど、危険を孕んでいるのは承知の上。
唾を飲み込んで、少し上の段で待っているスティーブンに追いつく。
一度だけ踊り場に出て曲がり、上に上がる。
苦もなく上がることが出来た2階は、一階の廊下とよく似ていた。
左右に並んだ部屋のドア、そのうち一番手前の表通りに面した部屋が例の幽霊らしき人影が見えたところらしい。
スティーブンが言うには、この辺りに人も複数の人の残滓が残っているという。
「君はオーラとか見えたりしない?」
「理由はよく分かんねぇですけど、オーラって長くその場にいないと、わりとすぐに消えちゃうんですよ。だからかな、ここに人がいたっていうオーラは見えません」
「つまり、長居するような人物たちではないということか」
狼の顔なのに、スティーブンが神妙な面持ちをしていることはなんとなく分かる。
彼もまた、この屋敷の異常さを肌で感じているのだ。
ドアを開けるように指示され、レオナルドはおもむろに頷き、ドアノブに手をかける。そしてゆっくりと、ドアノブを回し内側に押した。
先にスティーブンが入り、次にレオナルドが。
カーテンのかかっていない窓から差し込む月明かりに照らされた美女に、息を呑んだ。