Invisible Picture
3階のリビング、ソファの背もたれの上に、3枚のブランケットが畳まれた状態で重ねられていた。
赤と黄色と紺色のブランケットは、同じ柄で色違いのタータンチェック。もしかしたらこの日のためにスティーブンは用意していたのかもしれないと思うと、持ち上げた時の柔らかい感触と合わさってくすりと笑ってしまう。
そこへ外は寒いからか、ずっとソファで寝ていたソニックが目を覚まして飛び乗ってきた。
「寒いけど、外でティータイムだってさ。お前も来るか?」
寒さよりティータイムの菓子が勝ったのか、ブランケットの上でソニックがこくりと頷く。
ならばとそのまま再び屋上に上がっていくと、テーブルの上はすでに準備が整っていて。
スティーブンが作った美味しさでは定評のあるジャムタルト。
ジャムがたっぷり入った小さなタルトは、英国のティータイムの定番だ。
使われているジャムはスティーブンのお手製で、今日はリンゴとマーマレード、そしてイチゴ。
皿にたっぷりと積まれたそれに真っ先に飛びついたのは、間違いなくソニックで。
「クラウスさん、ブランケットをどうぞ」
冷たい椅子と冷えた空気に体温が奪われないようにと渡すと、彼は礼を言って椅子に腰かけ膝にかけた。
立派な体格のクラウスでは、レオナルドをすっぽりと包めるブランケットもなんだか小さく見えてしまう。だが、それがまた妙に可愛く見えてしまうのはどういうことか。
「どうしたのかね?」
こちらに気づいたクラウスにやんわりと尋ねられ、なんでもありませんと言ってそそくさと目を離す。
ごまかすようにスティーブンへブランケットを渡すと、彼は受け取りはしたものの椅子の背もたれにかけて、先にポットからカップへコーヒーを注いだ。
英国のティータイムならば紅茶が定番なのだが、クラウスは貴族の出身だからかこだわりが強いのか、紅茶に関しては物凄く厳しい。
執事ギルベルトが淹れたものしか飲まないと言われており、だからこそスティーブンは紅茶を避けてコーヒーにしたのだろう。
レオナルドもコーヒーをもらうと、椅子に腰かけてブランケットを膝にかけた。
「やっぱりここだと寒くないです?」
「機会がそう何度もあるわけじゃないからね。楽しめる時にやっとこうってやつだよ」
リーダーと副官が揃って休日を楽しむこと自体、そうそうあるわけではないということだ。
確かにそのとおりだが、やはり寒い外でティータイムをする理由としては微妙なところ。
「……まぁ、それはそうですけど。でも、庭でティータイムは悪くないと思います。寒いけど」
クラウスが手入れをしてくれたルーフガーデンを見渡すと、これもいいかと思えてしまった。
スティーブンとふたりだけでは手に負えなかった枯草だらけの庭が、今では見違えるほど美しくなっている。
まだ途中ではあるものの、庭木は剪定され、いくつかの花壇にはハーブが植えられた。他にも簡単な手入れで済む常緑低木や多年草が植えられ、今よりさらに暖かくなると色とりどりの花が咲くらしい。
「そうそう。僕らだけじゃここは荒れたままだっただろうさ」
「ですよねぇ。今年のハロウィンは飼い主さんも一緒に楽しんでもらえたらいいっすよね」
「飼い主とは、以前の家主のことかね?」
この家には、ずっと家族を待っていた猫の幽霊がいた。
急死した飼い主を待っているのかと思えば、実はずっと一緒に暮らしていた犬を待っていたというオチだったが、彼らは昨年のハロウィンにこの庭で再会し、あちらの世界へと旅立っていった。
おそらく今年のハロウィンもここへ帰ってくるのだろう。その時に美しく蘇った庭を見て、飼い主も連れてきてくれたらと思う。
「昨年のハロウィンでは見かけなかったんですけどね」
「気に入ってもらえると良いのだが」
「クラウスが手入れしたんだ。気に入るさ」
何の迷いも疑いもなく、はっきりと言い切ってスティーブンはコーヒーを飲む。
クラウスとレオナルドは、どう受け取ったらいいのかと沈黙を守った。
その時になってレオナルドは気づいた。
もしかしなくてもスティーブンは、クラウスにルーフガーデンの手入れをしてもらって浮かれているのではないだろうか、と。
可能性を否定できないのは、この人が本当にクラウスが大好きだからだ。
もちろん親友としての意味ではあるけれど、誰かとプライベートな場面で一緒にいて一番リラックスしているのは間違いなくクラウスと一緒の時だとレオナルドは確信している。
スティーブンのせいで会話が途切れたのをきっかけに、ジャムタルトを手に取って口に運ぶ。
甘いイチゴジャムのタルトはやはり絶品で、糸目をさらに細めつつサクサクしたタルトの触感と舌にとろりと絡むジャムを堪能した。
「……先程話をしていた幽霊屋敷のことなのだが」
不意にクラウスが口を開き、レオナルドは2つ目のタルトを取ろうとした手を止める。
真剣みを帯びたクラウスの声に、スティーブンの双眸がわずかに細くなった。
「気になる?」
「うむ。目撃情報の多くは典型的なものだった」
「夜、近くを歩いていると窓に人影が見えるってやつだったな。無人だということは近所なら誰でも知っていたから、幽霊ではないか、と」
「真に幽霊なのか、確証はない」
「……確かめるべきだと思っているのかい?」
神妙な面持ちで頷くクラウス。
スティーブンがこちらを見た。
「レオ、秘密結社ライブラからの依頼だ。見えない花を頼むよ」
「まだ幽霊がいるかどうか分からないのに?」
「ああ、それもそうか。なら、今回は秘密結社ライブラ構成員として任務を命じる。幽霊がいたら、追加で依頼をさせてもらおうかな」
わざとらしくウィンクをしたスティーブンに、レオナルドは少しだけ唇を尖らせる。
庭の手入れをしてティータイムを楽しむ休暇だったはずなのに、どうしてこうなった。
オーナー兼リーダーの許可を得ての、臨時休業。
店主としては、定休日以外は極力休みたくない。それはようやく出来始めた常連客を始めとする、フラワーショップ・レオーネに花を求めて来てくれる客をがっかりさせたくないからだ。
こういうことを考えるほど、レオナルドは今の店が気に入っている。もちろん前の店も大切だったが、あの頃はまだライブラの仕事の延長のようなものだと考えていた。
不慣れな仕事と馴染まない街。がむしゃらで、前しか見ていなかったのだと思う。
それが今では店の心配をして、無茶を言う上司兼同居人に口には出せない不満を抱いて。
「兼業って難しいんだなぁ」
なんとなく零したぼやきは、白い息と共に静かな住宅街へ消えた。
早朝のグリニッジ。観光地として名高いテムズ川の近くを除けば、ここは閑静な住宅街が多い。
この時間はまだ通勤や通学で出る人も少なく、未だ眠りについているような街はどこか異質ながら、同時にこの世にいるのが自分だけのような不思議な感覚と高揚感に包まれる。
もっとも、隣にスティーブンがいるのだけれど。
「ライブラと花屋と交渉人、3つも掛け持ちしてるからなぁ」
「減らすべきです?」
「それは困る」
さらりと言った彼はしっかりと黒いコートにほとんど白に近い淡いクリーム色のマフラーを巻いている。
このマフラーは昨年のクリスマスにクラウスがクリスマスプレゼントだと持ってきたものなのだが、奇しくも今レオナルドが巻いているマフラーと色が似ているので、微妙にペアルックのようで居心地が悪い。
だから家に出る前に気づいたレオナルドはマフラーを外していこうとしたのに、スティーブンにごねられ丸め込まれ、最終的にはお揃いで家を出る羽目になってしまった。
とはいえこちらはマウンテンパーカーにマフラー。
ほぼ揃いの物を身につけていたとしても、アンバランスなふたりには違いない。
「グリニッジ、とは聞いてましたけど、結構離れてるんですね」
フラワーショップ・レオーネから、という意味だが、実際のところほとんど隣の町と言ってもいい距離だ。
観光地から離れているからこそ今日まで残ったのかもしれない邸宅は、確かに屋敷というのにふさわしい大きさだった。
剪定がされていないのか、好き勝手に伸びた木々が生える広い庭に囲まれた2階建ての家はレオナルドたちの家が3つ並んだくらいだろうか。
元は白かったのだろう壁は薄汚れ無造作に伸びた蔦が絡み合って覆いつくしているし、規則正しく並んでいる窓のガラスは薄汚れて曇っている。
情報どおり何年も住んでいないのだろうということが明白な状態だ。
確かにこれでは幽霊が住んでいると思われてしまっても仕方がないだろう。
だが、本当にいるかどうかは、別問題だ。
「それで、いそう?」
高い塀越しで屋敷から距離は離れているが、レオナルドには関係ない。
神々の義眼を発動してこっそりと屋敷を見てみるものの、それらしいものは見えなかった。
「んー、なんにもいませんね。といってももう夜が明けてますし、見えなくなってるのかも」
じろじろと見て万が一人が通りかかったら、不審者扱いされかねない。
ざっと見回してすぐに目を逸らせば、スティーブンがさりげなく歩き出したので後をついていく。
長く続く塀の角を曲がり裏側へ行こうとするが、残念ながら裏側は背中合わせとなった家々があるので回り込むことは出来ない。
裏側も広い庭があるようだが、塀越しでよく見えない。ただ、こちらは高い木があまりないようだ。
「こちら側から入るのは目立ちそうだ」
周囲をも回してさらりとそんなことを言うスティーブンに、レオナルドは面食らう。
カフェに行こうとするノリで不法侵入する気らしい彼に、気づかれないよう小さく溜息を吐いた。
だが、それでスティーブンという男をやり過ごそうとしたのが甘かった。
不意に立ち止まったかと思えば、音もなく踵を返す。
お陰で真後ろを歩いていたレオナルドは気づくのに送れ、危うく正面衝突してしまいそうになる。
「ちょ、急に止まらんでくださ……」
視界がコートの黒に染まったが、ぶつかることだけはなんとか回避して。けれどこれは文句のひとつでも言わないとと見上げたのだが――見上げた先にある見下ろす真剣な顔に、声が朝の冷たい空気へ溶けていった。
「……今の君にはどうにもやる気を感じない。それはどうしてだ?」
胸がチクリと痛んだのは、図星だから。
上を見上げたまま口を開くが、真っ直ぐに見下ろすスティーブンの表情は自分を非難しているように見えて、つい俯いてしまう。
彼が言い訳を好まないことを、数か月の生活で知っている。
横暴で無茶振りするけれど、いつも仕事には真剣でレオナルドの話をちゃんと聞いてくれるひとだ。
だから、と顔を上げ思い切って口を開いた。
「僕はこの家を調べることに抵抗があります。だって幽霊とはいえ人のことを物珍しさだけで興味本位で騒ぐのって、彼らにしたらすげぇ迷惑な話だと思いません? ……いるかどうかは、まだ分かんねぇですけど」
「つまり君は、僕ら生者が死者の尊厳を踏みにじる行いをするべきではない、と」
「まぁ、そんなとこっす。なんていうか、娯楽? みたいに扱うのはどうかな、みたいな?」
「歯切れが悪いなぁ。いや、英国に住んでいて幽霊を娯楽にしないなんてことはないから、矛盾すると考えても仕方ない」
ゴーストツアーもお化け屋敷も、この国では人気の娯楽だ。
自分の中の上手くまとまらない言葉を冷静に受け止めたスティーブンは、顎に手を添えて考えつつ屋敷に目を向ける。
怒った様子はなく、逆にすっきりとした表情を浮かべる彼の唇の端はわずかに上がっていた。
「レオはこの屋敷にいるかもしれない幽霊をずっと気遣っていたんだな。だから幽霊屋敷の話題が出るたびにうんざりした顔をしてたのか」
「顔に出てました?」
客商売だというのに負の感情が表に出ていたとしたら、接客は失敗だ。
もしも客に不快な思いをさせていたらどうしようと眉を下げて肩を落とせば、スティーブンは「大丈夫だ」と笑ってくれて。
「客がいなくなった後にしかしてないよ。見てるのは僕とクラウスと、アレックスくらい?」
「なんていうか、人に迷惑かけてないんならしばらくはそっとしておくのが一番いいと思うんですよ。幽霊って、自我がある人もいればない人もいる。でもだいたいはそういう存在になってすぐって、自分がどうしてそうなってるのかはっきり分からないもんなんです」
早朝とはいえいつまでも立ち止まって長話をしていられないと、スティーブンと共に来た道を引き返す。
角を曲がる時に車とすれ違い、そろそろ本格的に街が目を覚ますのではないかと時間の経過をスマホで確認した。
「つまり、落ち着く時間がほしい、と」
「そんなとこっす。そこをむやみに騒ぐと、ごくたまに人に迷惑をかける悪い方向へ走っちゃうこともありますし。出来ればそういうことは避けて、穏やかにあちら側に行ってもらいたいんですよね」
「さすがは交渉のプロ」
「おだてても、なんにも出ませんよ」
ひとまず下見は終わったので帰路につくことにする。
歩幅の違いゆえに、さっきまで後ろにいたスティーブンが自然と隣に並び、どういうわけか髪をくしゃくしゃと撫でてきた。
「本音が聞けて良かったけど、出来ればもっと早く言ってほしかったな」
「サーセン。なんつーか、こういうモヤモヤしたのってなかなか口に出せなくて。けど、スティーブンさんが聞いてくれたからちゃんと話せたんです」
「そうか。よし、任務を変更しよう。幽霊は気にしないで、屋敷の調査だけを行う。チェインに外部の調査は行ってもらったが……鍵開けを頼むか。レオ、今夜は大丈夫?」
頭から手が離れたかと思えば、スティーブンはそんなことをすらすらと言い出して。
赤と黄色と紺色のブランケットは、同じ柄で色違いのタータンチェック。もしかしたらこの日のためにスティーブンは用意していたのかもしれないと思うと、持ち上げた時の柔らかい感触と合わさってくすりと笑ってしまう。
そこへ外は寒いからか、ずっとソファで寝ていたソニックが目を覚まして飛び乗ってきた。
「寒いけど、外でティータイムだってさ。お前も来るか?」
寒さよりティータイムの菓子が勝ったのか、ブランケットの上でソニックがこくりと頷く。
ならばとそのまま再び屋上に上がっていくと、テーブルの上はすでに準備が整っていて。
スティーブンが作った美味しさでは定評のあるジャムタルト。
ジャムがたっぷり入った小さなタルトは、英国のティータイムの定番だ。
使われているジャムはスティーブンのお手製で、今日はリンゴとマーマレード、そしてイチゴ。
皿にたっぷりと積まれたそれに真っ先に飛びついたのは、間違いなくソニックで。
「クラウスさん、ブランケットをどうぞ」
冷たい椅子と冷えた空気に体温が奪われないようにと渡すと、彼は礼を言って椅子に腰かけ膝にかけた。
立派な体格のクラウスでは、レオナルドをすっぽりと包めるブランケットもなんだか小さく見えてしまう。だが、それがまた妙に可愛く見えてしまうのはどういうことか。
「どうしたのかね?」
こちらに気づいたクラウスにやんわりと尋ねられ、なんでもありませんと言ってそそくさと目を離す。
ごまかすようにスティーブンへブランケットを渡すと、彼は受け取りはしたものの椅子の背もたれにかけて、先にポットからカップへコーヒーを注いだ。
英国のティータイムならば紅茶が定番なのだが、クラウスは貴族の出身だからかこだわりが強いのか、紅茶に関しては物凄く厳しい。
執事ギルベルトが淹れたものしか飲まないと言われており、だからこそスティーブンは紅茶を避けてコーヒーにしたのだろう。
レオナルドもコーヒーをもらうと、椅子に腰かけてブランケットを膝にかけた。
「やっぱりここだと寒くないです?」
「機会がそう何度もあるわけじゃないからね。楽しめる時にやっとこうってやつだよ」
リーダーと副官が揃って休日を楽しむこと自体、そうそうあるわけではないということだ。
確かにそのとおりだが、やはり寒い外でティータイムをする理由としては微妙なところ。
「……まぁ、それはそうですけど。でも、庭でティータイムは悪くないと思います。寒いけど」
クラウスが手入れをしてくれたルーフガーデンを見渡すと、これもいいかと思えてしまった。
スティーブンとふたりだけでは手に負えなかった枯草だらけの庭が、今では見違えるほど美しくなっている。
まだ途中ではあるものの、庭木は剪定され、いくつかの花壇にはハーブが植えられた。他にも簡単な手入れで済む常緑低木や多年草が植えられ、今よりさらに暖かくなると色とりどりの花が咲くらしい。
「そうそう。僕らだけじゃここは荒れたままだっただろうさ」
「ですよねぇ。今年のハロウィンは飼い主さんも一緒に楽しんでもらえたらいいっすよね」
「飼い主とは、以前の家主のことかね?」
この家には、ずっと家族を待っていた猫の幽霊がいた。
急死した飼い主を待っているのかと思えば、実はずっと一緒に暮らしていた犬を待っていたというオチだったが、彼らは昨年のハロウィンにこの庭で再会し、あちらの世界へと旅立っていった。
おそらく今年のハロウィンもここへ帰ってくるのだろう。その時に美しく蘇った庭を見て、飼い主も連れてきてくれたらと思う。
「昨年のハロウィンでは見かけなかったんですけどね」
「気に入ってもらえると良いのだが」
「クラウスが手入れしたんだ。気に入るさ」
何の迷いも疑いもなく、はっきりと言い切ってスティーブンはコーヒーを飲む。
クラウスとレオナルドは、どう受け取ったらいいのかと沈黙を守った。
その時になってレオナルドは気づいた。
もしかしなくてもスティーブンは、クラウスにルーフガーデンの手入れをしてもらって浮かれているのではないだろうか、と。
可能性を否定できないのは、この人が本当にクラウスが大好きだからだ。
もちろん親友としての意味ではあるけれど、誰かとプライベートな場面で一緒にいて一番リラックスしているのは間違いなくクラウスと一緒の時だとレオナルドは確信している。
スティーブンのせいで会話が途切れたのをきっかけに、ジャムタルトを手に取って口に運ぶ。
甘いイチゴジャムのタルトはやはり絶品で、糸目をさらに細めつつサクサクしたタルトの触感と舌にとろりと絡むジャムを堪能した。
「……先程話をしていた幽霊屋敷のことなのだが」
不意にクラウスが口を開き、レオナルドは2つ目のタルトを取ろうとした手を止める。
真剣みを帯びたクラウスの声に、スティーブンの双眸がわずかに細くなった。
「気になる?」
「うむ。目撃情報の多くは典型的なものだった」
「夜、近くを歩いていると窓に人影が見えるってやつだったな。無人だということは近所なら誰でも知っていたから、幽霊ではないか、と」
「真に幽霊なのか、確証はない」
「……確かめるべきだと思っているのかい?」
神妙な面持ちで頷くクラウス。
スティーブンがこちらを見た。
「レオ、秘密結社ライブラからの依頼だ。見えない花を頼むよ」
「まだ幽霊がいるかどうか分からないのに?」
「ああ、それもそうか。なら、今回は秘密結社ライブラ構成員として任務を命じる。幽霊がいたら、追加で依頼をさせてもらおうかな」
わざとらしくウィンクをしたスティーブンに、レオナルドは少しだけ唇を尖らせる。
庭の手入れをしてティータイムを楽しむ休暇だったはずなのに、どうしてこうなった。
オーナー兼リーダーの許可を得ての、臨時休業。
店主としては、定休日以外は極力休みたくない。それはようやく出来始めた常連客を始めとする、フラワーショップ・レオーネに花を求めて来てくれる客をがっかりさせたくないからだ。
こういうことを考えるほど、レオナルドは今の店が気に入っている。もちろん前の店も大切だったが、あの頃はまだライブラの仕事の延長のようなものだと考えていた。
不慣れな仕事と馴染まない街。がむしゃらで、前しか見ていなかったのだと思う。
それが今では店の心配をして、無茶を言う上司兼同居人に口には出せない不満を抱いて。
「兼業って難しいんだなぁ」
なんとなく零したぼやきは、白い息と共に静かな住宅街へ消えた。
早朝のグリニッジ。観光地として名高いテムズ川の近くを除けば、ここは閑静な住宅街が多い。
この時間はまだ通勤や通学で出る人も少なく、未だ眠りについているような街はどこか異質ながら、同時にこの世にいるのが自分だけのような不思議な感覚と高揚感に包まれる。
もっとも、隣にスティーブンがいるのだけれど。
「ライブラと花屋と交渉人、3つも掛け持ちしてるからなぁ」
「減らすべきです?」
「それは困る」
さらりと言った彼はしっかりと黒いコートにほとんど白に近い淡いクリーム色のマフラーを巻いている。
このマフラーは昨年のクリスマスにクラウスがクリスマスプレゼントだと持ってきたものなのだが、奇しくも今レオナルドが巻いているマフラーと色が似ているので、微妙にペアルックのようで居心地が悪い。
だから家に出る前に気づいたレオナルドはマフラーを外していこうとしたのに、スティーブンにごねられ丸め込まれ、最終的にはお揃いで家を出る羽目になってしまった。
とはいえこちらはマウンテンパーカーにマフラー。
ほぼ揃いの物を身につけていたとしても、アンバランスなふたりには違いない。
「グリニッジ、とは聞いてましたけど、結構離れてるんですね」
フラワーショップ・レオーネから、という意味だが、実際のところほとんど隣の町と言ってもいい距離だ。
観光地から離れているからこそ今日まで残ったのかもしれない邸宅は、確かに屋敷というのにふさわしい大きさだった。
剪定がされていないのか、好き勝手に伸びた木々が生える広い庭に囲まれた2階建ての家はレオナルドたちの家が3つ並んだくらいだろうか。
元は白かったのだろう壁は薄汚れ無造作に伸びた蔦が絡み合って覆いつくしているし、規則正しく並んでいる窓のガラスは薄汚れて曇っている。
情報どおり何年も住んでいないのだろうということが明白な状態だ。
確かにこれでは幽霊が住んでいると思われてしまっても仕方がないだろう。
だが、本当にいるかどうかは、別問題だ。
「それで、いそう?」
高い塀越しで屋敷から距離は離れているが、レオナルドには関係ない。
神々の義眼を発動してこっそりと屋敷を見てみるものの、それらしいものは見えなかった。
「んー、なんにもいませんね。といってももう夜が明けてますし、見えなくなってるのかも」
じろじろと見て万が一人が通りかかったら、不審者扱いされかねない。
ざっと見回してすぐに目を逸らせば、スティーブンがさりげなく歩き出したので後をついていく。
長く続く塀の角を曲がり裏側へ行こうとするが、残念ながら裏側は背中合わせとなった家々があるので回り込むことは出来ない。
裏側も広い庭があるようだが、塀越しでよく見えない。ただ、こちらは高い木があまりないようだ。
「こちら側から入るのは目立ちそうだ」
周囲をも回してさらりとそんなことを言うスティーブンに、レオナルドは面食らう。
カフェに行こうとするノリで不法侵入する気らしい彼に、気づかれないよう小さく溜息を吐いた。
だが、それでスティーブンという男をやり過ごそうとしたのが甘かった。
不意に立ち止まったかと思えば、音もなく踵を返す。
お陰で真後ろを歩いていたレオナルドは気づくのに送れ、危うく正面衝突してしまいそうになる。
「ちょ、急に止まらんでくださ……」
視界がコートの黒に染まったが、ぶつかることだけはなんとか回避して。けれどこれは文句のひとつでも言わないとと見上げたのだが――見上げた先にある見下ろす真剣な顔に、声が朝の冷たい空気へ溶けていった。
「……今の君にはどうにもやる気を感じない。それはどうしてだ?」
胸がチクリと痛んだのは、図星だから。
上を見上げたまま口を開くが、真っ直ぐに見下ろすスティーブンの表情は自分を非難しているように見えて、つい俯いてしまう。
彼が言い訳を好まないことを、数か月の生活で知っている。
横暴で無茶振りするけれど、いつも仕事には真剣でレオナルドの話をちゃんと聞いてくれるひとだ。
だから、と顔を上げ思い切って口を開いた。
「僕はこの家を調べることに抵抗があります。だって幽霊とはいえ人のことを物珍しさだけで興味本位で騒ぐのって、彼らにしたらすげぇ迷惑な話だと思いません? ……いるかどうかは、まだ分かんねぇですけど」
「つまり君は、僕ら生者が死者の尊厳を踏みにじる行いをするべきではない、と」
「まぁ、そんなとこっす。なんていうか、娯楽? みたいに扱うのはどうかな、みたいな?」
「歯切れが悪いなぁ。いや、英国に住んでいて幽霊を娯楽にしないなんてことはないから、矛盾すると考えても仕方ない」
ゴーストツアーもお化け屋敷も、この国では人気の娯楽だ。
自分の中の上手くまとまらない言葉を冷静に受け止めたスティーブンは、顎に手を添えて考えつつ屋敷に目を向ける。
怒った様子はなく、逆にすっきりとした表情を浮かべる彼の唇の端はわずかに上がっていた。
「レオはこの屋敷にいるかもしれない幽霊をずっと気遣っていたんだな。だから幽霊屋敷の話題が出るたびにうんざりした顔をしてたのか」
「顔に出てました?」
客商売だというのに負の感情が表に出ていたとしたら、接客は失敗だ。
もしも客に不快な思いをさせていたらどうしようと眉を下げて肩を落とせば、スティーブンは「大丈夫だ」と笑ってくれて。
「客がいなくなった後にしかしてないよ。見てるのは僕とクラウスと、アレックスくらい?」
「なんていうか、人に迷惑かけてないんならしばらくはそっとしておくのが一番いいと思うんですよ。幽霊って、自我がある人もいればない人もいる。でもだいたいはそういう存在になってすぐって、自分がどうしてそうなってるのかはっきり分からないもんなんです」
早朝とはいえいつまでも立ち止まって長話をしていられないと、スティーブンと共に来た道を引き返す。
角を曲がる時に車とすれ違い、そろそろ本格的に街が目を覚ますのではないかと時間の経過をスマホで確認した。
「つまり、落ち着く時間がほしい、と」
「そんなとこっす。そこをむやみに騒ぐと、ごくたまに人に迷惑をかける悪い方向へ走っちゃうこともありますし。出来ればそういうことは避けて、穏やかにあちら側に行ってもらいたいんですよね」
「さすがは交渉のプロ」
「おだてても、なんにも出ませんよ」
ひとまず下見は終わったので帰路につくことにする。
歩幅の違いゆえに、さっきまで後ろにいたスティーブンが自然と隣に並び、どういうわけか髪をくしゃくしゃと撫でてきた。
「本音が聞けて良かったけど、出来ればもっと早く言ってほしかったな」
「サーセン。なんつーか、こういうモヤモヤしたのってなかなか口に出せなくて。けど、スティーブンさんが聞いてくれたからちゃんと話せたんです」
「そうか。よし、任務を変更しよう。幽霊は気にしないで、屋敷の調査だけを行う。チェインに外部の調査は行ってもらったが……鍵開けを頼むか。レオ、今夜は大丈夫?」
頭から手が離れたかと思えば、スティーブンはそんなことをすらすらと言い出して。