Invisible Flowers
酒なら成人の不審者の可能性を考えて知り合いの警官を呼ぶべきかと考えたが、どうもその様子はうかがえない。
失礼、と笑ってしまったことを謝り、レオナルドは聞いたことをすべて手帳に書き込んでいった。
「今日のお帰りは?」
「早く帰りたかったけど、仕事が立て込んで。7時を過ぎていたと思う」
「つまり、もう入り込んでいる可能性があるわけですね。だとすれば動き出すのはメリアさんが休んだ後……その時間までこちらにいてもいいですか?」
「もちろん。とにかく正体を暴いてください」
了解しました。とにんまり笑ったレオナルドに、メリアは不安を口にしないようにか紅茶を飲み干した。
――深夜1時。
普段はこの時間には眠っているというメリアと共に、明かりを消した家の中でレオナルドは息を潜めてその時を待っていた。
そうしている間もレオナルドは暗闇の中で辺りを見渡すが、見えない何かが動き回っている気配も残滓もない。
彼らはほとんどの人がその目で捉えることは出来ないが、通った後は人の足跡のように痕跡を残していく。それは光というよりふわふわと辺りを漂う埃のようなものというイメージが近いだろう。
今回はメリアについてきたとしてもそういったものがない。となればやはり正体はレオナルドの専門外となる可能性が高そうだ。
せめて犯人の姿を捉えられたら、警察になり他の専門家なりに頼めるのだが。
そう思いながら待った深夜2時。
あくびを堪えきれないメリアに休んでもらうように言おうかと思ったその時だった。
キッチンの方で何かが音を立てている。本当にかすかで、もし今夜もメリアが寝室で休んでいたとしたら絶対に気づかないだろう小さな音だ。
みつけた。
口の中で呟いたレオナルドはメリアにこの場で待機するように伝え、足音を立てないように念のために少しだけ開けておいたキッチンのドアをそっと手で押して開く。
近づいたことによって音は大きくなり、何者かがいる方角がはっきりと分かる。
そして音がやんだ瞬間――レオナルドは素早く明かりのスイッチを押した。
「猿!?」
素っ頓狂な声に驚いて顔をこちらに向けたのは、確かに猿。
それもやたらと顔が大きく身体の小さな白い猿が、大きな目を見開いてテーブルの上で、バナナを手にしたまま硬直している。
「え、猿? どうして猿が?」
レオナルドの声に駆け寄ってきたメリアも驚きを隠せず猿を連呼して。
しかし英国に野生の猿は生息していない。だとすればこの猿はペットとして飼われていたものが逃げ出したのか。
いったいどうやって入ってきたのかは分からないが、保護するのが最適だろう。
相手をこれ以上刺激しないようににじり寄っていく。ただでさえ素早い猿を素手で捕まえることは出来ないだろうが、少しでも警戒心を解いて油断をさせなくてはいけない。
猿の方も同じらしく、しっかりとバナナを掴んだままこちらから目を離さない。
だが、野生の勘には勝てなかった。
「消えた!?」
メリアが声を上げる直前、確かに猿の姿がバナナごと消えたように見えたが、レオナルドは違う。
姿が消えて見えるほど素早く動いた猿の動きを目で追い、速やかに身体を翻した。
「こら、待て猿ー!」
レオナルドたちの頭上を飛び越えていった猿はリビングへ、そして玄関へと向かう。あの小さな身体では扉を開くことは出来ないだろうと思ったのに、こちらの想像を上回る賢さと器用さで鍵を開けるとあっさりと外へ出てしまった。
「猿を追いかけます! ハウンドさんはしっかり戸締りをして休んでください!」
「え、ど、どういうこと!?」
「たとえ捕まえられなくても、ちゃんと追いかけてここは怖いとこなんだぞって教えないと。たぶん一晩中追いかけることになると思うんで、気にしないで寝てください。それじゃ!」
必要なことだけをまくし立てて飛び出していったレオナルドを、残されたメリアは唖然として見送った。
色々気になることはあったけれど、明日も仕事だから追いかけることは出来なくて。仕方なく休むことにしたメリアは、この日以降おかしな気配にさいなまれることはなくなったという――。
夜の街に飛び出したレオナルドは、猿の残した残滓を追って走り出す。
幽霊が残す物とは違う、生きているものが等しく持っていると言われる魂の輝き、いわゆるオーラが去った後もわずかな時間だがその場に残る。それを追跡していけば、絶対に逃すことはない。
しかしあの猿の素早さを考えると、レオナルドが全速力で走っても追いつく前にオーラが消えてしまう可能性が高い。
「なんとか先回り出来たらいいんだけど……ん?」
夜道を走っていると、黒い何かとすれ違った気がした。
思わず立ち止まって振り返れば、闇が形を持ったという言葉がよく似合うほどしなやかなに夜から抜け出してきた黒い犬が街灯の下に立った。
「お前、なんでここに?」
猿のことは気がかりだが、偶然にしては出来すぎているようにも感じる犬との再会にレオナルドの足は自然と前に出る。
そして駆け寄っても逃げることなく見上げてきた犬の紅玉のような瞳に吸い込まれるように、その場に屈んだ。
「何か言いたいことがあるのか? といってもお前はしゃべれないしなぁ。あのな、俺は今、いたずらばっかりしてる猿を追いかけてるんだ。見失っちまうかもしれねぇから、もう行くな。また店に来てくれよ」
なんとなく、本当になんとなくだが、この犬は自分に助けを求めて現れたわけではないと思い、レオナルドはそう言葉をかけて立ち上がった。
そもそも犬に人の言葉が分かるのかどうか、という疑問はずっと頭の片隅にあるのだけれど、状況を伝える方法がこれしかないので仕方がない。
立ち上がり、じゃあな、と声をかけて踵を返す。
猿のオーラは先ほどより確実に薄まっているが、まだ追えないわけじゃない。それでも急がなくては、距離は開く一方だ。
再び夜の走り出したレオナルドは不意に前に出た犬に驚きを隠せなかったが、人を遮ることなく走る犬に足を止める必要はないことに気づく。
「お前、ついてくるのか?」
黒い犬の大きな身体が、速度を緩めてレオナルドと並走しているのだ。
まるで一緒に行くとでも言いたげに、一度だけレオナルドの顔を見て追い越していく。
しかしそれはレオナルドの思い違いではなく、人と犬の走る速度の違いのせい。そう気づいたのは、追い越してはスピードを緩めてレオナルドが追いつくのを待っている気遣いからだ。
犬に気を遣ってもらうのはなんとなく情けないが、スピードはなくてもスタミナはある。
少しずつ少しずつ濃くなっていくオーラの残滓に、猿に近づいているのだと確信した。
「近そうだな」
おそらくだが、猿は追ってこないと思って逃げるのをやめたのだろう。となればこの辺りに潜んでいる可能性が高い。
一度立ち止まって周囲を見渡すと、まだ時代を重ねていないコンクリートの壁に派手なストリートアートが書かれていたり、ゴミが散乱している。
夜の暗闇の中をひたすら走っていて、今いる場所がどんなところか気づかなかったが、どうやらいつの間にか治安のあまりよくない地区に入り込んでしまったらしい。
大きめの通りは通らずに細い路地ばかり通ったのが幸いしたのかろくに人は見かけなかったが、夜の倫敦で治安の悪いところに長居する必要はない。
なんとか早くここを抜け出さなくてはと周囲に目を光らせ――今までで一番はっきりと見えるオーラを見つけた。
猿は建物の非常階段でのんきにバナナを食べているようだ。
鉄製の階段を深夜に上がって、猿だけではなく住人に気づかれると面倒なことになりかねない。慎重に、そして音を立てずに上がっていかなくてはならないだろう。
どうする、と言いたげに傍によって見上げてきた犬に、手のひらを見せて待てと促す。
「僕が捕まえられなかったら、下で猿の動きを止めてくれ。噛んだりしてケガさせたら駄目だぞ」
分かったのか頷いた犬は、レオナルドから離れて階段の下で待機をする。
これで準備は整った。
最後の追い込みだと深呼吸をしたレオナルドは、傍にあったコンテナに乗り、そこから梯子を下ろされていない非常階段に手を伸ばす。
防犯のためとはいえ2階からは梯子を下ろさないと降りられない仕組みになっているから、こういう時に上るのは大変だ。
一生懸命腕を伸ばし、手を伸ばして冷たい手すりを掴む。
背伸びをしたせいで身体を持ち上げる腕に力があまり入らないが、それでも両腕に力を込め、思い切りコンテナを蹴り上げて足が届かない高さでぶら下がることには成功した。
後は手すりを離さないようにしながら上へ上へと這い上がって、足場に靴裏を付けたところでようやく息を吐ける。
手すりを乗り越え、足場に降り立つ。
猿はバナナを食べることに夢中で油断しているのか、まだこちらに気づいた様子はない。
ならばと慎重に足音を立てないように階段を上がっていく。
一歩一歩慎重に、猿のいる最上階へ向かって。
まだ夜は寒さを感じる倫敦なのに、身体中がじわりと汗で濡れていく気がする。時間を気にしていなかったが、もう夜明けもそんなに遠くはないだろう。
猿もこちらも体力がは限界だ。
このチャンスを逃せば、捕まえることは諦めなくてはいけないし、追いかけっこもおしまいだろう。
メリアの家に近づかないようになれば依頼は完遂だが、またほかの家に同じことをするようなことがあってもいけないから、猿のためにもなるべく人の怖さを教えて近づかないようにしておきたかった。
出来れば、野生ではなかっただろう猿を保護をして幸せに生きられる道筋見つけたい。
深呼吸をして、階段に伏せてそっと最上階の踊り場にいる猿の様子をうかがう。
幸いにもこちらに背を向けて気づいていない。
息を呑み、慎重に時間をかけて足に力を入れる。
チャンスは一度。猿を傷つけることなく捕縛すること。
頭の中で理想の形をシミュレートしたレオナルドが飛び出そうとしたその時だった。
ぬらりと何かが壁から出て猿の前へ――レオナルドはとっさに飛び出していた。
「危ない!」
声に驚いた猿は勢いよく顔を上げ、同時に気配もなく現れたものに驚いたのだろう。勢いよくその場から飛び去り、よりにもよって隣の建物の開いたままになっていた窓に飛び込んでしまった。
割れたままの窓ガラスを見ると廃墟なのかも知れないが、それにしたって面倒なことになったのは変わりない。
舌打ちをして階段を降りようとしたが、壁から出てきたぼんやりと白く浮いているそれがレオナルドの前へ回り込んできた。
「夜中にお騒がせしました。あの猿を追いかけていただけなので、こちらの家に迷惑はかけません」
じっとレオナルドを見つめた白い影はやがて昔のメイド服姿の女の姿となり、再び壁の中に消えていく。
おそらく昔、この建物で住んでいたのか、メイドの仕事をしていたのだろう。亡くなっても家を守ろうとしている彼女にこれ以上迷惑をかけないよう、レオナルドは急いで、けれど静かに非常階段を降りて行った。
「次はそっちの建物の中、か」
上がるも大変だったが降りるのもさらに一苦労してなんとかコンテナから降りたレオナルドは、一部始終を見ていた犬に「見てたんなら助けろよ」と、無理だと分かっていながら八つ当たりをして。
しかしそんなレオナルドのぼやきを無視した犬は、早く来いと言わんばかりに隣の建物にあるドアの前に立った。
失礼、と笑ってしまったことを謝り、レオナルドは聞いたことをすべて手帳に書き込んでいった。
「今日のお帰りは?」
「早く帰りたかったけど、仕事が立て込んで。7時を過ぎていたと思う」
「つまり、もう入り込んでいる可能性があるわけですね。だとすれば動き出すのはメリアさんが休んだ後……その時間までこちらにいてもいいですか?」
「もちろん。とにかく正体を暴いてください」
了解しました。とにんまり笑ったレオナルドに、メリアは不安を口にしないようにか紅茶を飲み干した。
――深夜1時。
普段はこの時間には眠っているというメリアと共に、明かりを消した家の中でレオナルドは息を潜めてその時を待っていた。
そうしている間もレオナルドは暗闇の中で辺りを見渡すが、見えない何かが動き回っている気配も残滓もない。
彼らはほとんどの人がその目で捉えることは出来ないが、通った後は人の足跡のように痕跡を残していく。それは光というよりふわふわと辺りを漂う埃のようなものというイメージが近いだろう。
今回はメリアについてきたとしてもそういったものがない。となればやはり正体はレオナルドの専門外となる可能性が高そうだ。
せめて犯人の姿を捉えられたら、警察になり他の専門家なりに頼めるのだが。
そう思いながら待った深夜2時。
あくびを堪えきれないメリアに休んでもらうように言おうかと思ったその時だった。
キッチンの方で何かが音を立てている。本当にかすかで、もし今夜もメリアが寝室で休んでいたとしたら絶対に気づかないだろう小さな音だ。
みつけた。
口の中で呟いたレオナルドはメリアにこの場で待機するように伝え、足音を立てないように念のために少しだけ開けておいたキッチンのドアをそっと手で押して開く。
近づいたことによって音は大きくなり、何者かがいる方角がはっきりと分かる。
そして音がやんだ瞬間――レオナルドは素早く明かりのスイッチを押した。
「猿!?」
素っ頓狂な声に驚いて顔をこちらに向けたのは、確かに猿。
それもやたらと顔が大きく身体の小さな白い猿が、大きな目を見開いてテーブルの上で、バナナを手にしたまま硬直している。
「え、猿? どうして猿が?」
レオナルドの声に駆け寄ってきたメリアも驚きを隠せず猿を連呼して。
しかし英国に野生の猿は生息していない。だとすればこの猿はペットとして飼われていたものが逃げ出したのか。
いったいどうやって入ってきたのかは分からないが、保護するのが最適だろう。
相手をこれ以上刺激しないようににじり寄っていく。ただでさえ素早い猿を素手で捕まえることは出来ないだろうが、少しでも警戒心を解いて油断をさせなくてはいけない。
猿の方も同じらしく、しっかりとバナナを掴んだままこちらから目を離さない。
だが、野生の勘には勝てなかった。
「消えた!?」
メリアが声を上げる直前、確かに猿の姿がバナナごと消えたように見えたが、レオナルドは違う。
姿が消えて見えるほど素早く動いた猿の動きを目で追い、速やかに身体を翻した。
「こら、待て猿ー!」
レオナルドたちの頭上を飛び越えていった猿はリビングへ、そして玄関へと向かう。あの小さな身体では扉を開くことは出来ないだろうと思ったのに、こちらの想像を上回る賢さと器用さで鍵を開けるとあっさりと外へ出てしまった。
「猿を追いかけます! ハウンドさんはしっかり戸締りをして休んでください!」
「え、ど、どういうこと!?」
「たとえ捕まえられなくても、ちゃんと追いかけてここは怖いとこなんだぞって教えないと。たぶん一晩中追いかけることになると思うんで、気にしないで寝てください。それじゃ!」
必要なことだけをまくし立てて飛び出していったレオナルドを、残されたメリアは唖然として見送った。
色々気になることはあったけれど、明日も仕事だから追いかけることは出来なくて。仕方なく休むことにしたメリアは、この日以降おかしな気配にさいなまれることはなくなったという――。
夜の街に飛び出したレオナルドは、猿の残した残滓を追って走り出す。
幽霊が残す物とは違う、生きているものが等しく持っていると言われる魂の輝き、いわゆるオーラが去った後もわずかな時間だがその場に残る。それを追跡していけば、絶対に逃すことはない。
しかしあの猿の素早さを考えると、レオナルドが全速力で走っても追いつく前にオーラが消えてしまう可能性が高い。
「なんとか先回り出来たらいいんだけど……ん?」
夜道を走っていると、黒い何かとすれ違った気がした。
思わず立ち止まって振り返れば、闇が形を持ったという言葉がよく似合うほどしなやかなに夜から抜け出してきた黒い犬が街灯の下に立った。
「お前、なんでここに?」
猿のことは気がかりだが、偶然にしては出来すぎているようにも感じる犬との再会にレオナルドの足は自然と前に出る。
そして駆け寄っても逃げることなく見上げてきた犬の紅玉のような瞳に吸い込まれるように、その場に屈んだ。
「何か言いたいことがあるのか? といってもお前はしゃべれないしなぁ。あのな、俺は今、いたずらばっかりしてる猿を追いかけてるんだ。見失っちまうかもしれねぇから、もう行くな。また店に来てくれよ」
なんとなく、本当になんとなくだが、この犬は自分に助けを求めて現れたわけではないと思い、レオナルドはそう言葉をかけて立ち上がった。
そもそも犬に人の言葉が分かるのかどうか、という疑問はずっと頭の片隅にあるのだけれど、状況を伝える方法がこれしかないので仕方がない。
立ち上がり、じゃあな、と声をかけて踵を返す。
猿のオーラは先ほどより確実に薄まっているが、まだ追えないわけじゃない。それでも急がなくては、距離は開く一方だ。
再び夜の走り出したレオナルドは不意に前に出た犬に驚きを隠せなかったが、人を遮ることなく走る犬に足を止める必要はないことに気づく。
「お前、ついてくるのか?」
黒い犬の大きな身体が、速度を緩めてレオナルドと並走しているのだ。
まるで一緒に行くとでも言いたげに、一度だけレオナルドの顔を見て追い越していく。
しかしそれはレオナルドの思い違いではなく、人と犬の走る速度の違いのせい。そう気づいたのは、追い越してはスピードを緩めてレオナルドが追いつくのを待っている気遣いからだ。
犬に気を遣ってもらうのはなんとなく情けないが、スピードはなくてもスタミナはある。
少しずつ少しずつ濃くなっていくオーラの残滓に、猿に近づいているのだと確信した。
「近そうだな」
おそらくだが、猿は追ってこないと思って逃げるのをやめたのだろう。となればこの辺りに潜んでいる可能性が高い。
一度立ち止まって周囲を見渡すと、まだ時代を重ねていないコンクリートの壁に派手なストリートアートが書かれていたり、ゴミが散乱している。
夜の暗闇の中をひたすら走っていて、今いる場所がどんなところか気づかなかったが、どうやらいつの間にか治安のあまりよくない地区に入り込んでしまったらしい。
大きめの通りは通らずに細い路地ばかり通ったのが幸いしたのかろくに人は見かけなかったが、夜の倫敦で治安の悪いところに長居する必要はない。
なんとか早くここを抜け出さなくてはと周囲に目を光らせ――今までで一番はっきりと見えるオーラを見つけた。
猿は建物の非常階段でのんきにバナナを食べているようだ。
鉄製の階段を深夜に上がって、猿だけではなく住人に気づかれると面倒なことになりかねない。慎重に、そして音を立てずに上がっていかなくてはならないだろう。
どうする、と言いたげに傍によって見上げてきた犬に、手のひらを見せて待てと促す。
「僕が捕まえられなかったら、下で猿の動きを止めてくれ。噛んだりしてケガさせたら駄目だぞ」
分かったのか頷いた犬は、レオナルドから離れて階段の下で待機をする。
これで準備は整った。
最後の追い込みだと深呼吸をしたレオナルドは、傍にあったコンテナに乗り、そこから梯子を下ろされていない非常階段に手を伸ばす。
防犯のためとはいえ2階からは梯子を下ろさないと降りられない仕組みになっているから、こういう時に上るのは大変だ。
一生懸命腕を伸ばし、手を伸ばして冷たい手すりを掴む。
背伸びをしたせいで身体を持ち上げる腕に力があまり入らないが、それでも両腕に力を込め、思い切りコンテナを蹴り上げて足が届かない高さでぶら下がることには成功した。
後は手すりを離さないようにしながら上へ上へと這い上がって、足場に靴裏を付けたところでようやく息を吐ける。
手すりを乗り越え、足場に降り立つ。
猿はバナナを食べることに夢中で油断しているのか、まだこちらに気づいた様子はない。
ならばと慎重に足音を立てないように階段を上がっていく。
一歩一歩慎重に、猿のいる最上階へ向かって。
まだ夜は寒さを感じる倫敦なのに、身体中がじわりと汗で濡れていく気がする。時間を気にしていなかったが、もう夜明けもそんなに遠くはないだろう。
猿もこちらも体力がは限界だ。
このチャンスを逃せば、捕まえることは諦めなくてはいけないし、追いかけっこもおしまいだろう。
メリアの家に近づかないようになれば依頼は完遂だが、またほかの家に同じことをするようなことがあってもいけないから、猿のためにもなるべく人の怖さを教えて近づかないようにしておきたかった。
出来れば、野生ではなかっただろう猿を保護をして幸せに生きられる道筋見つけたい。
深呼吸をして、階段に伏せてそっと最上階の踊り場にいる猿の様子をうかがう。
幸いにもこちらに背を向けて気づいていない。
息を呑み、慎重に時間をかけて足に力を入れる。
チャンスは一度。猿を傷つけることなく捕縛すること。
頭の中で理想の形をシミュレートしたレオナルドが飛び出そうとしたその時だった。
ぬらりと何かが壁から出て猿の前へ――レオナルドはとっさに飛び出していた。
「危ない!」
声に驚いた猿は勢いよく顔を上げ、同時に気配もなく現れたものに驚いたのだろう。勢いよくその場から飛び去り、よりにもよって隣の建物の開いたままになっていた窓に飛び込んでしまった。
割れたままの窓ガラスを見ると廃墟なのかも知れないが、それにしたって面倒なことになったのは変わりない。
舌打ちをして階段を降りようとしたが、壁から出てきたぼんやりと白く浮いているそれがレオナルドの前へ回り込んできた。
「夜中にお騒がせしました。あの猿を追いかけていただけなので、こちらの家に迷惑はかけません」
じっとレオナルドを見つめた白い影はやがて昔のメイド服姿の女の姿となり、再び壁の中に消えていく。
おそらく昔、この建物で住んでいたのか、メイドの仕事をしていたのだろう。亡くなっても家を守ろうとしている彼女にこれ以上迷惑をかけないよう、レオナルドは急いで、けれど静かに非常階段を降りて行った。
「次はそっちの建物の中、か」
上がるも大変だったが降りるのもさらに一苦労してなんとかコンテナから降りたレオナルドは、一部始終を見ていた犬に「見てたんなら助けろよ」と、無理だと分かっていながら八つ当たりをして。
しかしそんなレオナルドのぼやきを無視した犬は、早く来いと言わんばかりに隣の建物にあるドアの前に立った。