Invisible Picture
店の中に入り、外に立つレオナルドを身ながら花と花の間にある扉を開いてプライベートな玄関へ。店に入ってすぐ脇というのは店舗面積に支障をきたすと思うのだけれど、元々は馬小屋ということを考えれば仕方がない。
玄関に入ってすぐの階段を上がって2階へ。踊り場からすぐのキッチンは通路を兼ねているので扉はなく、スティーブンが入ってすぐにある2人用のテーブルへK・Kを招いた。
椅子を引いて彼女に座るよう促し、自身はエプロンをしたままキッチンに立つ。
すっかり使い慣れたようで迷うことなくケトルを出して水を入れると、コンロに置いて火をつけた。
K・Kが内見で案内を時は殺風景だったキッチンは、すっかり様変わりしている。
きちんと片付けられているが、様々な調理器具が並んでいるし、冷蔵庫にはありきたりなビッグベンのマグネットで買い出しするものが書かれたメモが貼ってある。
ふたりはここでちゃんと生活しているのだ。そう思うと、どうしてかスティーブンが憎たらしく思えてきた。
「持ち帰りでお願い」
だから素っ気なくこんなことを言うのに、冷蔵庫からコーヒー豆が入った瓶を取り出したスティーブンが肩を落とす様子はない。
「ゆっくり飲んでいけばいいのに」
木製のハンドミルにコーヒー豆を入れ、ハンドルをゆっくりと回される。
豆が挽かれていく小気味よい音に耳を傾けながら、K・Kはテーブルに頬杖をついた。
自分の位置から見えるスティーブンの横顔はとても穏やかで、纏う空気も柔らかく感じる。
仕事の時に見る、本当の感情を隠し続け不器用で胡散臭い男がスティーブン・A・スターフェイズだとずっと思っていた。
長い付き合いの中で出来上がったスティーブン像だったのに、思いがけないところで崩れていく。
「用事のついでに寄っただけなの」
ドリッパーにペーパーフィルターを装着するスティーブンは、コンロの火を止めた後にちらりとK・Kを見て、またドリッパーに目を移す。サーバーにドリッパーがつけられたところで、再び振り返った。
「紙カップがないから、持ち帰りは無理だよ」
「はいはい。手早くやってちょうだい」
「了解」
スティーブンがただコーヒーを飲ませるつもりだけで、プライベートな空間に入れたのではないことは分かっている。
しかしお湯を少しずつドリッパーの中に入れてはふわりと香るコーヒーの香りに唇を緩ませている様子を見ていると、単にこの生活を自慢したかったのではないか。
キッチンが香ばしく心地よいコーヒーの香りに満たされていき、それでもいいかと思えてきてしまうのは、この家を斡旋してよかったと確信できたからかもしれない。
「ミルクと砂糖は?」
「いらない。ねぇ、レオっちとの生活はどう?」
「お陰様で、良好だよ。もっとも、僕としてはずっとこの姿のままだったらさらに良好だったんだけど」
日が暮れると狼の姿に変化する呪い。
それが縁でレオナルドとこうしてひとつ屋根の下で暮らしているのだが、まんざらでもない様子の声を聞くと、呪いを受け入れてしまったようにも聞こえる。
なぜか、と考えてみるが、穏やかに空間を包み込むコーヒーの香りのせいで上手い答えがでなかった。
「お待たせ」
振り返ったスティーブンの手には、磁器のマグカップがひとつだけ。
来客用なのだろう、英国民なら誰でも知っているブランドのしゃれた逸品は優美な曲線を描き、決して華美になることのない上品かつ慎まやかな花に彩られている。
スティーブンに似合わない、と真っ先に思うが、今日は鼻腔をくすぐる心地よい香りに免じて言わないことにした。
「そろそろ本題に入ってくれる?」
ゆっくりと落ち着くには、時間が足りない。
だから落ち着かせないでほしいと促せば、スティーブンはエプロンを着けたまま向かいの席に腰を下ろした。
「K・Kにはちゃんと話しておこうかなって思って」
「レオっちのこと?」
「察しが良くて助かるよ」
レオナルドがいる店先ではなく、わざわざプライベートな場所に招いただけでおおよその察しはついていた。
ライブラの任務のことも頭になかったわけではないが、コーヒーを淹れている時の顔を見ている時にそれはないな、と選択肢から消している。
マグカップの優美な曲線を描いた持ち手に、指を絡めた。
「察しってねぇ。それで、レオっちにはいえないことをあなたはやってるわけ?」
「言えないわけじゃないんだが……降霊会騒ぎのことは覚えてる?」
「レオっちが受けた依頼でしょ? 例の組織の下っ端たちは捕まったし、あれから鳴りを潜めてるって聞いたけれど」
「警察含め探したんだけど、見事に隠れちゃってね。おとなしくしているならって泳がせることにしてたんだけど……」
「動き出したのね」
持ち上げたマグカップの縁を唇に当て、ひと口飲み込む。
柔らかな酸味とほのかな甘みを感じる苦さが舌の上を転がり、喉へと落ちていく。
スティーブンはもっと濃くて苦いものを好むと思っていたので、予想外な飲みやすさに少々驚いた。
「……好み、変わった?」
「レオが濃すぎると飲めないって言うから、ブレンドしてみたんだよ。どう?」
「美味しい、わ」
話を遮ったことを嫌がるどころか、ささやかな味の感想にスティーブンは嬉しそうに目を細めて。
長年の付き合いがあるにもかかわらず、まったく知らない表情に面食らうが、時間があまりないことを思い出して話を戻すことにした。
「で、レオっちがどう関わってくるの?」
「今のところは何も。ただ、レオはアドキンズ氏の依頼を受けた。もしくは降霊会に参加したことで顔が知られた可能性がある。奴らに活発な動きを見せる気配はないが、用心をしておくに越したことはない。クラウスに相談をした結果、僕が彼の傍にいることになったんだ」
「それが店の手伝いってわけ? 確かに傍にいるのが一番いいんでしょうけど、そこまでしなくてはいけない厄介な相手なの?」
もちろんK・Kとてレオナルドの身の安全を守ることは大切なことだと心得ているが、スティーブンは夜間は狼の姿になって役に立たないとはいえ、秘密結社ライブラ副官だ。
世界の均衡を守るために日夜暗躍しなくてはならないほど、世界は脆い。それなのにひとりの青年のために時間を割いていいのか、納得のいく理由を聞きたかった。
いや、そういう考えであったはずのスティーブンにそこまでさせるのはなぜか、自然と興味が湧いてきたというのが正解だろう。
「アドキンズ氏がレオの周りをうろついている。彼が無害だという確証は得ているが、どうにも脇が甘い御仁でね。組織と一度は繋がっているのだし、再び利用されないとは限らない。なら、逆に泳がせて様子を見ようと考えたんだ」
「威嚇してたくせに?」
ふん、と鼻で笑ってそう言うと、スティーブンは目を丸くして身体を後ろに下げた。
見られていたと気づかなかったとなれば、この男は本気で彼を威嚇していたに違いない。もちろん、レオナルドを守るために。
いったいその感情がどういうものかは分からないし、今は聞く気もない。
けれど意表を突けたのはなかなかに面白かったので、気持ちよくコーヒーを一気に飲み干すことが出来た。
「レオっちを困らせるようなことをしないでよ」
ごちそうさま、と言って椅子から立ち上がると、スティーブンも倣って立ち上がる。
さりげなくちらりと見た顔はどこか居心地が悪そうで、悪戯をした後の子供たちを思い出してしまった。もっとも子供たちのように可愛くはないけれど。
くすりと笑い、階段を下りていく。
外からは「ありがとうございました!」という明るいレオナルドの声が聞こえてきていた。
確かにこの声を悲しませるようなことはしたくない。
花の香りに包まれた店から通りに出ると、空はまだ機嫌がいい。
客を見送ったレオナルドが振り返って、ふにゃりと気の緩んだ笑顔を見せてくれた。
「スティーブンさんのコーヒー、どうでした?」
「悔しいけど、美味しかったわ。私はそろそろ行くけど、レオっちは頑張ってね。壁が邪魔になったらいつでも言ってちょうだい」
「K・Kー、壁は酷くない?」
背後、ほぼ店の中から聞こえてきた声を無視して、レオナルドに別れの挨拶をしたK・Kは行くべき方角へと歩き出した。
1ブロック歩いたところで、さりげなく肩越しに振り返る。
淡いピンクや黄色の柔らかい春の色に彩られた店の前で、スティーブンとレオナルドが笑っている。
まだ肌寒い、けれど冬から春へと変わりつつある、ライオンが残した穏やかな風が気持ちいい。
なんだか気持ちまで春が本格的に来たかのようにふわふわする感じがして、K・Kは自然と鼻歌を歌いだし――思い出した。
踵を返し、フラワーショップ・レオーネの前に戻っていく。
そして開口一番、こう言った。
「レオっち、新しい幽霊屋敷の噂、知ってる!?」
スティーブンが、苦虫を嚙み潰したような顔をしたのが印象的だった。
「もうずーっとこの話題なんですよ!」
フラワーショップ・レオーネ定休日。
家の屋上にあるルーフガーデンを見に来たクラウスに、レオナルドは半ば愚痴るように今もっともグリニッジで話題になっている幽霊屋敷のことを話した。
なにせ会う人皆、幽霊屋敷の話をするのだ。
店に来る客はもちろんのこと、パブ『OLDBOTTLE』に行けばアレックスだけではなくその場にいる客たちが皆話しているし、買い物に行っても知り合いに会っても出てくる話題は幽霊屋敷。
幽霊が普通にいるのが当たり前の国とはいえ、ここまで盛り上がることなどありはしない。
いくらなんでも騒ぎすぎではないかと、ルーフガーデンにある花壇の枯れた雑草を抜きながらレオナルドは溜息を吐いた。
「それは仕方がないことかもしれない」
少し離れたところで背の低い木々の剪定をしているクラウスの声に、レオナルドは手を止めて顔を上げる。
クラウスと同じ背の高さの木は、コニファーという常緑低木らしい。
針葉樹の小さく広がらない葉を丁寧に剪定しつつ、彼は話を続けた。
「レオナルド君も知ってのとおり、この国は幽霊の存在が広く知れ渡っている。歴史的観点からも国がその存在を公認するほどだ。特に建造物に関しては綿密な審査を経て国に登録がなされており、倫敦に関しては全てが網羅されているといっても過言ではない。ゆえに新たな幽霊屋敷の出現は、とても稀有な事例なのだ」
「つまりは、皆さんが話題に出しても仕方がないくらい、珍しいってことですか」
「うむ。私もスティーブンから話を聞いて調べてみたのだが、件の屋敷にはふた月ほど前までそのような噂はまったくなかった」
「見るからに出そうな雰囲気、ではあったそうだけど」
背後から聞こえた声に振り返れば、右手に保温の出来るポットを、右手にピクニックに持っていくような大きなバスケットを持ったスティーブンが下から上がってきていた。
今日は休日の庭いじりなので、フード付きの黒いプルオーバーにジーンズというラフな格好だ。
「スティーブンさん、いつの間に調べることにしてたんです?」
「気になるものは調べないと気が済まない性分なんでね。まともな幽霊屋敷ならともかく、実際は犯罪組織の隠れ家だったりするかもしれんだろう?」
なるほど、と素直に頷いてしまうのは、ここにいるのが秘密結社ライブラのリーダーと副官だからか。
レオナルドは草を抜くためにはめていた軍手を外し、庭の隅にある道具入れから折りたたみ式のテーブルと椅子を引っ張り出してくる。
せっかくのルーフガーデンだから、お茶を飲めるようにしたいとある日スティーブンが買ってきたものだ。
椅子が3脚あるのは絶対にクラウスが来ることを想定してのものだろうと思っていたが、予想が当たる日がようやくやってきた。
まだ肌寒い3月の半ばだが、今日は風がない分だけ穏やかだ。
庭のほぼ中央にそれらを広げていると、クラウスが率先して手伝ってくれた。
「建物の所有者と連絡がつかないため、現時点では公的な内部の調査は行われていない」
「ずいぶん長いこと使われていないって話だったな。不審者の情報はないが、不法滞在者の線も捨てきれん」
「それだと幽霊より困っちゃいますね」
「まだ想像の域だ。レオ、下からブランケットを持ってきてよ」
ポットがテーブルに置かれ、次にバスケットが。中からティーセットを次々と取り出すスティーブンから指示を受け、レオナルドは一旦階下へと降りていく。