Invisible Picture
3月はライオンのように訪れて、子羊のように去っていく。
ようやく春の兆しが見えた3月の気候はとても変わりやすい。
晴れたかと思えば嵐になり、暖かくなったと喜べば急に寒くなる。
荒々しくやってくるライオンを例えにした古くからある英国のことわざどおり、今年の春は気まぐれだ。
先程まで見えていた青空が分厚い雲に覆われていく様子を軒下から見上げていたレオナルドは、店先に出してある花を奥に入れるべきかどうか迷う。
フラワーショップ・レオーネ店主、レオナルド・ウォッチ。
英国は倫敦、グリニッジの片隅に店舗兼住宅を構えた彼は、ここのところずっと穏やかな日々を過ごしていた。
毎日のように花屋の仕事をして、休みの日は気になったところへ遊びに行く。ただそれだけの充実した日々。
いつまでもこんな日が続くとは思っていなかったし、少々退屈に感じていたのも事実だ。
だが、それがこんな形で破られるとは誰が想像しただろう。
「レーオ。口を開いて上を向いてると、バカっぽいぞ」
店の奥から聞こえてきた声に、レオナルドはパクン、と勢いよく口を閉じる。
背中しか見えていないはずなのに、どうして口を開いていたのが分かったのか。
振り返れば、当たっていたと言わんばかりに、ニヤリと笑ったスティーブンが出てきた。
「天気が悪くなりそうなんです」
「ああ、ライオンの気まぐれには困ったものだな」
さして困った素振りもない彼は、白いシャツに黒いスラックス、紺色のエプロン。そして手には可愛らしいチューリップがたくさん入った長い筒状のバケツ。
可愛いピンク色のチューリップはさすがに似合わないな、と密かに思うが口には出さなかった。
それより問題は、格好と行動に関してだ。
「……マジで手伝いは間に合ってますよ?」
「それは昨晩に何度も聞いたよ。けど、クラウスが許可したんだぜ?」
この店のオーナーであるクラウスの名を出されると、口を噤むしかない。
昨晩、スティーブンが唐突に明日から店の手伝いに入ると言ってきて。
奥行きのない小さな店ではレオナルドひとりで十分だと分かっているはずなのに、スティーブンはなんだかんだと理屈を述べてはレオナルドを丸め込んでいった。
要約すると、本業が暇になったから手伝いたい。だそうだ。
クラウスも、同じように丸め込まれたに違いない。
しかしバケツを表に出し、すれ違う人に挨拶をするスティーブンは実に楽しそうで。その姿を見ていると、これまで以上に断りにくくなる。
だが、ここは本当に狭いのだ。
人ひとりが店の中へ入るための通路のほかは、花やレジカウンターで店はいっぱい。どうしても花がバケツの外にはみ出していくのでその分スペースを取り、最近では歩道に少しはみ出ている。これでは雨が降ったら花にかかってしまうということで、少し前に収納出来る紺色のシェードが付けられた。
それはさておき、だ。
通路に立てるのはひとりだけ、ふたりいたら確実にスペースがないという事実を無視している自称手伝いを、どうしたらいいものか。
「暇なら呪いを解く方法を探すとかしたらどうです?」
冬は日の出が遅く日の入りが早いためほとんどを狼姿ですごさなくてはいけなかったスティーブンも、春になって来るにつれて、少しずつ人でいる時間が長くなってきた。
それを非常に嬉しく思っているようだが、根本的な原因は未だに解決する兆しがない。
チューリップの角度を入念に調整して満足げに見ていたスティーブンは、レオナルドの言葉に思うところがあったのだろう。
わずかだが眉間にしわを寄せた。
「何もやっていないわけじゃないさ。ただ、高度な呪いを解くには専門家に頼るしかない。そして未だ、成果は上がっていない」
「待つしかないってことですか?」
「そういうこと。自力でなんとかしようなんて力技は、通用しない世界なんだよ」
だとしても、スティーブンは落ち着きすぎているのではないだろうか。
隣に立った彼を見上げ、それは違うなと思い直す。
表面上は慣れたように装っているが、人の身であれば出来ることも狼ではままならない。そのたびにレオナルドを呼びに来る時の彼は不服そうな、それでいて気落ちしたような声を出す。
「何回聞いても、厄介な呪いにかかりましたよねぇ」
「それを言うな。……と、いらっしゃいませ」
店に近づいてきた客に声をかけ、スティーブンは言葉巧みに花を売る。
レオナルドが立っているだけの時より今日は売上がいいのが、分かっていても受け入れられそうにない。
「レオ、会計を頼むよ!」
そしてなにより、スティーブンのとびきり楽しそうな様子を見ていると、言葉では言い表せない変なむず痒さに近いものを感じてたまらない。
いつもとは違う居心地の悪さを感じつつ、それでも閉店するまでこの時間は続いていく。
明日も明後日も続くとしたら、どうしよう。
レオナルドはへらりと笑って、レジを打った。
しかし、人というのはどうあがいても置かれた環境に慣れてしまうものだ。
午前中はあれだけ早く終わらないかな、と考えていたというのに、昼食にスティーブンが作ってくれたBLTサンドを頬張れば、その美味しさに自然と悩みが吹き飛んでしまう。
なにより食べている間はスティーブンが店に立ってくれるので、ゆっくりと食べることが出来たのはとてもありがたかった。
「スティーブンさん、昼だけ手伝ってくれるなら大歓迎っす」
「調子がいいなぁ。まぁ、許可が出て良かったよ」
「僕の許可なんて必要なかったくせに」
「そうでもないさ。やはり店長の許可はもらっておかないと心許ない」
「はいはい、そういうことにしておきます」
花と花の間の通路には納まらないから、ふたりで通路を一歩出たところに立って。
なんとなしに落ち着いたので、そこが定位置となった。
幸い雨は降らず、気まぐれなライオンは雲を連れてどこかへ行った。この調子なら、夕方まで客足が途絶えることはないだろう。
ミモザの花が風に揺れているのがふと目に留まった。
売れ残ったら買わせてもらって、キッチンかリビングに飾ってもいいかもしれない。
そう思ってスティーブンに相談すべく顔を上げたのだが――なぜか彼は遠くを睨みつけていた。
いったい視線の先に何が。
見れば、見覚えのある男がこちらへ歩いてくるところだった。
「ウォッチさーん」
目が合った瞬間に満面の笑みで手を振るのは、デニス・アドキンズ。
冬に受けた降霊会絡みの依頼で知り合った彼は、それが縁で時折こうやって店にやってくるようになった。
相変わらずの猫背だが、不眠症が治ってからはやつれた様子はなく、逆に少し太ってきたように思う。とはいえ健康なのは悪いことではないし、依頼人が元気ならそれでいい。
「こんにちは、アドキンズさん。今日はどんなお花がいいです?」
いつもやってきては花を買ってくれるデニスは、いい常連客だ。
店の前に立った彼ににっこりと笑って今日仕入れた花を勧めるが、なぜか今日は及び腰というか怯えている感じがある。
その原因は、すぐに分かったが。
「スティーブンさーん、お客さんを睨まないでくださいよぉ」
「元々こういう顔ですよ、マ・ス・ター」
いつまで従者設定を引きずるのか。
それはさておき、今は商売だ。
「えっと……無視しちゃって構わないんで」
「そ、そう? えっと、そっちのチューリップをもらおうかなぁ」
恐る恐るといった感じでデニスがピンクのチューリップを指さすと、レオナルドが動く前にスティーブンが流れるような動きでチューリップの束を手に取った。
3本でひとまとめにされているそれをバケツから上げ、なぜか圧力を感じる笑みを浮かべてデニスの前に立つ。
スティーブンが持つ可愛いチューリップがなぜかこん棒に見えたのは、レオナルドの気のせいだろうか。
「こちらでよろしいですか?」
「は、はいぃ……」
怯えるデニスに金額を伝えたかと思えば、彼が震える手で取り出したカードを強引に分捕っている。
やり方がどう見ても悪徳業者かそちら側の人間なのだが、とばっちりを食らうのは御免なのでそっと見守ることにした。
そしてそのカードを、こちらを見ることなく渡してくる。
「……カード、お預かりしまーす」
蛇に睨まれた蛙になっているデニスに一応そう声をかけて、レオナルドはそそくさと店の中へと入っていく。
本来ならカードの支払いはカードリーダーを持ってきてその場で会計を済ませるのだが、スティーブンの有無を言わせない圧力には叶わなかった。
急いで会計を済ませ、カードとレシートを持って戻ると、手にチューリップを持って震えているデニスが救いを求めるようにこちらを見た。
「あー、なんといいますか……これに懲りずにまた来てくださいね?」
デニスはぱっと表情を輝かせ、反対にスティーブンは舌打ちをする。
客にそんなことをしない、とカードを返しつつ見上げて視線で訴えては見るものの、スティーブンはそっぽを向いてしまった。
理由は分からないが、大人げない。
「あ、ありがとう、ウォッチさん! そ、そうだ、も、もしよかったら俺のことはデニスって呼んでください! いつまでもアドキンズじゃ、なんだか他人行儀みたいだし!」
「いいんです? じゃあ、僕のこともレオで」
別に名前を呼ばれるのは嫌ではないのでそう言ってみるのだが、相変わらずスティーブンの圧力をひしひしと感じる。
花を買い終えたのにデニスが立ち去る気配もないし、さてどうしたものかと思っていると、デニスから話題がふられた。
「そういえば、最近グリニッジに新しい幽霊屋敷が誕生したって話、知ってます?」
「幽霊屋敷?」
職業柄、というわけではないが、つい反応してしまう。
これで気をよくしたのかデニスはチューリップを腕に抱き、なぜか自分のことのように胸を張って話をしようとしたが――間に割って入ってきたスティーブンに話を遮られた。
「お客様、ここは歩道ですので、立ち話は通行の邪魔となります。どうか、お引き取りを」
「え、あ、はい……そ、それじゃあ、レオさん、また」
スティーブンがどんな顔をしたかは背中を向けられたレオナルドには見えなかったが、あっさりと引き下がったデニスの青白い顔に、余程怖かったのだろうと思う。
歩き出し、何度も振り返っては手を振るデニスを見送り、見えなくなったところで腰に手を当てた。
そして、店主として自称手伝いを見上げる。
「ちょっとスティーブンさん、お客さんには愛想よくしてくださいよ」
「十分に愛想よくしてたつもりだが? それより君はもっと客を選ぶべきじゃないか?」
「なんで? デニスさん、いい人じゃないですか」
「いい人ねぇ。やっぱり君は人を見る目がない」
わざとらしいくらいに盛大な溜め息を吐かれ、むっとする。
ただでさえ身長差があるのでそういう態度をとられると偉そうに見えるし、人を小馬鹿にしているような感じもある。
瞬時に湧いてきた怒りに考えるより早く口を開きそうになるが、それを寸でのところで止めてくれたのは、背後から聞こえた明るい声だった。
「はぁい、レオっち。大きな壁が立ってると、お店の邪魔にならない?」
振り返れば、ラフなパンツスタイルにサングラスをかけたK・Kが歩いてきている。
ちなみに大きな壁は、当然のことながらスティーブンのことだ。
「K・K、壁はひどくない?」
「あら、本当のことでしょ。というか、どうしてあなたが店に立ってるわけ? 遠くからでもレオっちが恫喝されてるようにしか見えなかったわよ?」
容赦ないK・Kの辛辣な言葉に、レオナルドはつい噴き出してしまう。
お陰でスティーブンへのわだかまりが消えたが、逆にスティーブンは噴き出したレオナルドを不服そうに見下ろして。
「レーオ?」
「さ、サーセン。でも、K・Kさん上手いなぁって」
「それ謝ってないよな?」
今度はスティーブンが腰に手を当てて、少し前屈みになる。
けれど頼もしい味方を得たレオナルドはもう負ける気がしなかった。
「はいはい、その辺にしておかないと、通行人の邪魔よ」
「まったく……そうだ、K・K。時間があるならコーヒーでもどう?」
「あなたが淹れるの?」
K・Kの声が、美しく彩られた唇と共に歪む。
仲が悪い、もといK・Kに一方的に嫌われているスティーブンだが、彼の淹れるコーヒーはとても美味しい。
ここはフォローを入れるべきかと口を開くと、軽く顎に手を添えたK・Kが「いいわよ」と返した。
少し予想外な展開だ。
キョトンとしてしまったレオナルドに少し店を離れると言って、スティーブンはK・Kと共に店の奥へと入っていく。
ここで飲むのかと思ったから、まさか家に入れるとは思わなかった。
「……なんか深刻な話?」
出来れば居心地が悪くなるような話はしないでほしい。
再び薄い雲に覆われ始めた空を眺めながら、独身男と人妻の修羅場を想像するのだけれど、あの2人に限ってそれはないな、と思い直した。
何はともあれひとりになって、ようやく普段どおりの仕事が出来そうだ。