Invisible medium
黒い簡素なドレス姿で、頭には顔まですっぽり隠れるほど長く黒いレースのベールをかけている。
まるで生気のない、闇夜にぼんやりと浮かぶ姿は美しくも妖しく恐ろしい。
女は、こう言う。
「その子たちを、離さないで」
小さな声だが、冬の精霊が味方をしているのか冷たい風に乗って運ばれた声は男の耳を撫でていく。
身震いしたのも束の間、女は消えた。
闇に消えていくように動くこともなければ音もなく消えた女に、男は唖然とする。
幽霊の数なら全世界屈指と名高い倫敦にあっても、見えるものは少ないのだから仕方がない。もっとも、その正体を知ればさらに混乱するかもしれないが。
「な、なんだ今のは! アンタらが仕組んだのか!?」
それでもこの場を任されているだけのことはあるのだろう。
戸惑いはそのままに声を荒げて振り返った男に、ギルベルトとレオナルドは顔を見合わせた後、男へ同時に目を向けた。
「さて、なんのことでしょう」
「とぼけるな! 今そこに、女がいただろうが!」
「女……? いえ、何も見ておりません。ご覧になりましたか?」
ギルベルトに問いかけられ、レオナルドは首を横に振る。
何も見ていない、何も聞いていない。知った男の顔から血の気が引いていくのが薄明りの下でも分かった。
「ふむ……もしや、若い女性でしょうか?」
「あ、あぁ、そうだ。そいつらを離すなとかどうとか、言ってやがった」
「やはり。そのお方は、本日お会いするお嬢様です。若くしてお亡くなりになりましたが、ご兄弟をとても愛されておりました。特に末の弟君を目に入れても痛くないほど可愛がられておりまして……ええ、この方です」
話を聞いて亡き姉に胸を痛める弟を演じるべく、レオナルドは胸元に手を当てて俯く。
やはり少しベタすぎないかと、足元の狼へ俯いたついでに視線を投げかけるが、スティーブンは忠犬を演じているのかこちらを見ることはなかった。
「そ、そうか。分かった、入れ。その代わり、下手なことをしたら犬ごと追い出す」
「ありがとうございます。さあ、いってらっしゃいませ」
ギルベルトはここまでで、彼は次の仕事へ向かうのだ。
顔を上げたレオナルドは頷き、男が開いた扉からスティーブンと共にパブの中へと入っていく。
パブの中は外と同様に明かりはなく、長年使われていないのか散乱した家具に埃が積もっている。
「一番奥の階段を下りろ」
その言葉を残し、表にいる男は扉を閉めた。
「……ここまでは上手くいきましたね」
「まだしゃべるな。どこで聞かれているかも分からんからな」
注意をして小声で話すが、スティーブンに止められる。
確かにここはすでに敵地の中。うかつなことをしてはなにがあるか分からないということだ。
いくらスティーブンという頼もしい味方がいるとしても、今は狼。会話はすべてレオナルドが行わなくてはいけないし、作戦の成功もかかっている。
改めて気を引き締め、レオナルドはスティーブンと共に、薄暗い階段を降りていく。足元には照明があるが、天井からはなにもない。先がろくに見えないぽっかりと空いた闇は、人を不安にさせるには十分な演出だ。
だが、これらは事前にデニスに聞いていたし、神々の義眼を保有するレオナルドには効果がない。
どちらかというと狭い階段をわざわざスティーブンが並んで歩くものだから、いつか彼に足を引っかけて転んでしまうのではないかということの方が心配で仕方がなかった。
けれどその心配は、すぐに終わる。
次第にぼんやりとだが明るくなってきたことで、階段が終わりを告げていることが分かったのだ。
揺らめく明かりから、おそらくロウソクなどそれらしく演出が出来る照明を使っているのだろう。子供の頃ならばおどろおどろしい雰囲気に息を呑んだかもしれないが、残念ながら今は緊張の方が大きい。
一旦階段で立ち止まり、深呼吸をする。
「行けるな」
優しいが拒否することを許さない声に頷き、レオナルドは未知の領域へと足を踏み出した。
一歩、また一歩と降りるたびに明るくなっていく。
そして最後の一歩を降り立った先、目の前にある灰色の壁から目を逸らせば――世界が変わった。
コンクリートがむき出しの壁に燭台がいくつもつけられ、大きなロウソクの炎が揺らめいている。広さはレオナルドたちの家にあるリビングの一回り大きい程度か。建物の敷地面積を考えるとずいぶん狭いので、おそらくは奥にも部屋があるのだろう。演出的なものかもしれないが、黒く重たげな布が一番奥の壁一面にかけられているのはそのせいか。
床に黒いじゅうたんが敷き詰められ、その上には大きな円形のテーブル。黒く長いテーブルクロスがかけられており、中央にはアンティークなのだろうか細やかな装飾が施された燭台が。3本のロウソクに火が灯されている。
そして、テーブルを囲んで椅子に座っている5人の男女。
全員が一斉にレオナルドとスティーブンを見て、立ち上がった。
「ようこそ、ミスタ・スパイアーズ。我々はあなたを歓迎いたします」
一番の奥、おそらく主催者だろう男が両腕を広げて穏やかに微笑む。
年は若く、金の巻き毛に端正な顔立ち。身長こそ低めだが、質の良さそうな黒いスーツのお陰で上品な紳士に思える。しかしその瞳が笑っていないのは、ロウソクの光に揺れるほの暗さから明白だ。
「ですが……ミス・ケネットからお聞きしていた方とずいぶん違うような」
自分の素性を語る前に、痛いところを突いてくるのは警戒心の表れか。
しかしそれも承知の上だ。軽く息を吸い込んだレオナルドは、覚えた言葉をそのまま発した。
「それは兄です。僕はレナード・スパイアーズ、本日は忙しい兄に代わって参りました」
いや、実際には足元に狼の姿になった偽の兄がいるのだけれど。
スティーブンが考えた偽名をよどみなく言えたことに安堵しつつ周囲を見渡せば、男の隣、しっかりと着飾ってメイクをした30代くらいの女が眉間に皺を寄せてテーブルを睨んでいる。
なかなかの美人だが、もしかしたら彼女がジンジャー・ケネットか。
そう思っていると、下から「彼女がケネットだ」と解答があった。
「そうでしたか、本来ならば招待状を受け取った本人しか入ることは許されないのですが、今回は特例といたしましょう。改めまして、私はこの降霊会主催者、グレアム・F・パートランド。今宵あなたのために集まった者たちは、幾度となく降霊に成功した者たちです」
つまり、全員にパートランドの息がかかっているということだ。
だが、ケネットを除く3人は何も言わずに椅子に座りなおした。全員が若く、1人は女。態度は良い感じではないが、もしかしたらこうするように指示されているのかもしれない。
パートランドと向かい合う場所にある空いた椅子に座るよう勧められ、レオナルドはコートを脱ぐことなく腰掛ける。動かないスティーブンに参加者たちはようやくその存在に気づきて驚き騒めいたが、パートランドが制した。
「その犬は?」
「僕の大切な友達です。いないと、ダメなんです」
外の男が追い出さなかったことをどう思っているのか、わずかな間沈黙した後、パートランドは何も言わずに椅子に腰掛け、他の参加者たちも騒ぐのをやめる。
だが、視線はチラチラとスティーブンに向けられているところを隠しきれないでいる参加者に、パートランドが咳ばらいをして注目を自分に向けた。
「ミス・ケネット?」
「あ、はい、話は彼から聞いています。弟は犬にしか心を開かず、一緒でないと話をしてくれないと……」
次第に小さくなっていくケネットの声に反して、見下すように胡乱な眼差しで彼女を見るパートランド。
やはりここではパートランドがもっとも力があり、他の4人が従っている感じなのだろう。
質問して確認することは出来ないが、行儀よく座った状態でじっと待っているだけで情報が収集出来てしまうのだから、違法性のある会とはいえ、犯罪組織としては幼稚な気がする。
だがスティーブンの話では、ここは末端の末端。どんな組織かすら知らされていないが、レオナルドとしてはデニスの安眠と彼の祖母が穏やかにあちら側へと旅立つことが出来たらそれでいい。
「とても大変な思いをされているのですね。では、時間が惜しいので始めましょう。ミスタ・スパイアーズ、あなたがお話したい方はどなたでしょうか」
ようやく本題に入ってきた。
小さく頷き、レオナルドはおもむろに口を開く。
「姉を……僕と兄さまの大切な、姉さまを」
その言葉に、ケネットが一瞬だけ目を見開いたのが見えたのを見逃さない。
「兄から聞かれましたか?」
話を振られるとは思っていなかったのだろう。
ケネットの肩が震え、一度パートランドに目を向けた後、レオナルドへと顔を向けて口を開いた。
「え、ええ。でも、お兄さんは妹さんを亡くされたと」
「兄さまにとっては妹で間違いありません」
やんわりと微笑むレオナルドの言葉に安堵したのか、ケネットはぎこちないまでも微笑んで頷く。
スティーブンはケネットに接した時に、情報を吹き込んだといっていた。
ありもしないスパイアーズ家の家族関係に兄弟たちたちのエピソード、そして妹が亡くなった経緯。
つまり、ケネットはすでに持っているのだ。これから呼ばれることになっている、どこにも存在しない妹の情報を。
スティーブンの話では、これは詐欺な降霊会における常套手段のひとつだという。事前に知人などから相手の情報を収取し、それを言葉巧みに利用して相手の隙に入り込むのだ。
デニスもケネットに祖母のことを話した。だが彼の場合は祖母への愛情の深さゆえに、簡単に得た情報だけでは惑わされなかった。
そして今回は、ある意味ではパートランドたちにとってとても質の悪いものとなるだろう。
なにせ嘘をついているという点では、お互い様なのだから。
「さて、そろそろ闇の住人たちが我々のすることを興味深く見つめる時、そろそろお姉さんをお呼びしましょう」
いつのまにか懐中時計を手にしていたパートランドが、よく通る声でレオナルドとケネットの会話を遮る。
会話が続いてぼろが出るのを恐れたのか、それとも。
「ミスタ・スパイアーズ、お姉さんのお名前は?」
「チェルシー、チェルシー・スパイアーズです」
名を聞いたパートランドは恭しく頷き、全員にテーブルの上へ手を置くように指示した。
言われるままに両手を手の甲を上にして置く。
そして、目を閉じるように指示をしてきた。
「これよりチェルシー・スパイアーズさんの御霊をお呼びします。皆さん、何が起ころうとも心を穏やかに。彼らは争いを好まず、存在を否定するものを嫌います」
全員が一斉に目を閉じる。
が、こういう時に糸目というのは都合がいいもので。それに犬と認識されているスティーブンは目を閉じなくてもいいので、ここから先に起こることを全て見られるのは都合がいい。
やがてパートランドが呪文のようなものを唱え始めた。
聞き慣れない単語が多く、意味があるのかすら分からない。彼の手の内を知らなければ、これは霊を招くための呪文なのだろうと思い込んでしまうだろう。
不意にコツ、コツ、と音がした。
テーブルを叩くような音だが、誰もテーブルを叩くような真似はしていない。そもそも、テーブルクロスをかけらているにもかかわらず、奇麗に響く硬質な音がするだろうか。
「あぁ……お越しくださったのですね、弟さんがあなたに会いたがっていたのですよ」
部屋の中に変化があった。
足元の空気が急に冷えてきたのだ。といってもこれは、スティーブンが「冷房だな」と背後で種明かしをするものだから、レオナルドは笑いを堪えなくてはならなくなる。
曰く乾燥した冷たい風は、パートランドの背後から流れてきているらしい。
「皆さん、目を開けてください。そして彼女を迎え入れましょう」
はたしてここからどうするのかと思っていたら、スティーブンがレオナルドの傍へと寄ってきた。
これは始まりの合図。ほぼ同時に、壁に付けられた燭台のロウソクに灯っていた炎が、ふっ、とほぼ一斉に消える。
初めての――いや、予想しなかったことなのだろう。
パートランドとレオナルドを除いた全員が動揺を隠しきれずにオロオロと周囲を見渡して浮足立つ。
だが、ショーはここからだ。
「……姉さま、そこにいるの?」
レオナルドが声をかけたのは、パートランドの背後。
彼も実は動揺したのだろう。先程までの落ち着きが嘘のように勢いよく振り返り、ヒッ、と短い悲鳴を上げた。
そう、彼女がいたのだ。
黒いドレスを身にまとい、黒いベールを頭に被った彼女が。
誰もが顔を引き攣らせ、存在しないはずの女に動揺するあまり、こわばった身体が意思に反して動くことを否定する。
無理もない、これまでは詐欺的行為だった偽りの降霊会が、本物になったのだから。
「パートランドさん、姉さまはなにか話してくれませんか?」
「う、うん……は、話を聞いてみましょ、ひぃ!?」
テーブルの上のロウソクが、独りでに火を消した。
暗闇に、独特のロウの香りが辺りに漂う。
「……ねぇ、パートランドさん。姉さまは、なんと……?」
わざとらしくガタン、と音を立ててレオナルドが椅子から立ち上がる。
悲鳴が上がった。
部屋の中を歴史を感じさせる装束を身にまとった男女が浮遊し、パートランドたちをすり抜けていく。
さらに悲鳴が上がり、何人かはテーブルの下へと逃げ込んでは頭をぶつけあって、また悲鳴を上げて。
まるで生気のない、闇夜にぼんやりと浮かぶ姿は美しくも妖しく恐ろしい。
女は、こう言う。
「その子たちを、離さないで」
小さな声だが、冬の精霊が味方をしているのか冷たい風に乗って運ばれた声は男の耳を撫でていく。
身震いしたのも束の間、女は消えた。
闇に消えていくように動くこともなければ音もなく消えた女に、男は唖然とする。
幽霊の数なら全世界屈指と名高い倫敦にあっても、見えるものは少ないのだから仕方がない。もっとも、その正体を知ればさらに混乱するかもしれないが。
「な、なんだ今のは! アンタらが仕組んだのか!?」
それでもこの場を任されているだけのことはあるのだろう。
戸惑いはそのままに声を荒げて振り返った男に、ギルベルトとレオナルドは顔を見合わせた後、男へ同時に目を向けた。
「さて、なんのことでしょう」
「とぼけるな! 今そこに、女がいただろうが!」
「女……? いえ、何も見ておりません。ご覧になりましたか?」
ギルベルトに問いかけられ、レオナルドは首を横に振る。
何も見ていない、何も聞いていない。知った男の顔から血の気が引いていくのが薄明りの下でも分かった。
「ふむ……もしや、若い女性でしょうか?」
「あ、あぁ、そうだ。そいつらを離すなとかどうとか、言ってやがった」
「やはり。そのお方は、本日お会いするお嬢様です。若くしてお亡くなりになりましたが、ご兄弟をとても愛されておりました。特に末の弟君を目に入れても痛くないほど可愛がられておりまして……ええ、この方です」
話を聞いて亡き姉に胸を痛める弟を演じるべく、レオナルドは胸元に手を当てて俯く。
やはり少しベタすぎないかと、足元の狼へ俯いたついでに視線を投げかけるが、スティーブンは忠犬を演じているのかこちらを見ることはなかった。
「そ、そうか。分かった、入れ。その代わり、下手なことをしたら犬ごと追い出す」
「ありがとうございます。さあ、いってらっしゃいませ」
ギルベルトはここまでで、彼は次の仕事へ向かうのだ。
顔を上げたレオナルドは頷き、男が開いた扉からスティーブンと共にパブの中へと入っていく。
パブの中は外と同様に明かりはなく、長年使われていないのか散乱した家具に埃が積もっている。
「一番奥の階段を下りろ」
その言葉を残し、表にいる男は扉を閉めた。
「……ここまでは上手くいきましたね」
「まだしゃべるな。どこで聞かれているかも分からんからな」
注意をして小声で話すが、スティーブンに止められる。
確かにここはすでに敵地の中。うかつなことをしてはなにがあるか分からないということだ。
いくらスティーブンという頼もしい味方がいるとしても、今は狼。会話はすべてレオナルドが行わなくてはいけないし、作戦の成功もかかっている。
改めて気を引き締め、レオナルドはスティーブンと共に、薄暗い階段を降りていく。足元には照明があるが、天井からはなにもない。先がろくに見えないぽっかりと空いた闇は、人を不安にさせるには十分な演出だ。
だが、これらは事前にデニスに聞いていたし、神々の義眼を保有するレオナルドには効果がない。
どちらかというと狭い階段をわざわざスティーブンが並んで歩くものだから、いつか彼に足を引っかけて転んでしまうのではないかということの方が心配で仕方がなかった。
けれどその心配は、すぐに終わる。
次第にぼんやりとだが明るくなってきたことで、階段が終わりを告げていることが分かったのだ。
揺らめく明かりから、おそらくロウソクなどそれらしく演出が出来る照明を使っているのだろう。子供の頃ならばおどろおどろしい雰囲気に息を呑んだかもしれないが、残念ながら今は緊張の方が大きい。
一旦階段で立ち止まり、深呼吸をする。
「行けるな」
優しいが拒否することを許さない声に頷き、レオナルドは未知の領域へと足を踏み出した。
一歩、また一歩と降りるたびに明るくなっていく。
そして最後の一歩を降り立った先、目の前にある灰色の壁から目を逸らせば――世界が変わった。
コンクリートがむき出しの壁に燭台がいくつもつけられ、大きなロウソクの炎が揺らめいている。広さはレオナルドたちの家にあるリビングの一回り大きい程度か。建物の敷地面積を考えるとずいぶん狭いので、おそらくは奥にも部屋があるのだろう。演出的なものかもしれないが、黒く重たげな布が一番奥の壁一面にかけられているのはそのせいか。
床に黒いじゅうたんが敷き詰められ、その上には大きな円形のテーブル。黒く長いテーブルクロスがかけられており、中央にはアンティークなのだろうか細やかな装飾が施された燭台が。3本のロウソクに火が灯されている。
そして、テーブルを囲んで椅子に座っている5人の男女。
全員が一斉にレオナルドとスティーブンを見て、立ち上がった。
「ようこそ、ミスタ・スパイアーズ。我々はあなたを歓迎いたします」
一番の奥、おそらく主催者だろう男が両腕を広げて穏やかに微笑む。
年は若く、金の巻き毛に端正な顔立ち。身長こそ低めだが、質の良さそうな黒いスーツのお陰で上品な紳士に思える。しかしその瞳が笑っていないのは、ロウソクの光に揺れるほの暗さから明白だ。
「ですが……ミス・ケネットからお聞きしていた方とずいぶん違うような」
自分の素性を語る前に、痛いところを突いてくるのは警戒心の表れか。
しかしそれも承知の上だ。軽く息を吸い込んだレオナルドは、覚えた言葉をそのまま発した。
「それは兄です。僕はレナード・スパイアーズ、本日は忙しい兄に代わって参りました」
いや、実際には足元に狼の姿になった偽の兄がいるのだけれど。
スティーブンが考えた偽名をよどみなく言えたことに安堵しつつ周囲を見渡せば、男の隣、しっかりと着飾ってメイクをした30代くらいの女が眉間に皺を寄せてテーブルを睨んでいる。
なかなかの美人だが、もしかしたら彼女がジンジャー・ケネットか。
そう思っていると、下から「彼女がケネットだ」と解答があった。
「そうでしたか、本来ならば招待状を受け取った本人しか入ることは許されないのですが、今回は特例といたしましょう。改めまして、私はこの降霊会主催者、グレアム・F・パートランド。今宵あなたのために集まった者たちは、幾度となく降霊に成功した者たちです」
つまり、全員にパートランドの息がかかっているということだ。
だが、ケネットを除く3人は何も言わずに椅子に座りなおした。全員が若く、1人は女。態度は良い感じではないが、もしかしたらこうするように指示されているのかもしれない。
パートランドと向かい合う場所にある空いた椅子に座るよう勧められ、レオナルドはコートを脱ぐことなく腰掛ける。動かないスティーブンに参加者たちはようやくその存在に気づきて驚き騒めいたが、パートランドが制した。
「その犬は?」
「僕の大切な友達です。いないと、ダメなんです」
外の男が追い出さなかったことをどう思っているのか、わずかな間沈黙した後、パートランドは何も言わずに椅子に腰掛け、他の参加者たちも騒ぐのをやめる。
だが、視線はチラチラとスティーブンに向けられているところを隠しきれないでいる参加者に、パートランドが咳ばらいをして注目を自分に向けた。
「ミス・ケネット?」
「あ、はい、話は彼から聞いています。弟は犬にしか心を開かず、一緒でないと話をしてくれないと……」
次第に小さくなっていくケネットの声に反して、見下すように胡乱な眼差しで彼女を見るパートランド。
やはりここではパートランドがもっとも力があり、他の4人が従っている感じなのだろう。
質問して確認することは出来ないが、行儀よく座った状態でじっと待っているだけで情報が収集出来てしまうのだから、違法性のある会とはいえ、犯罪組織としては幼稚な気がする。
だがスティーブンの話では、ここは末端の末端。どんな組織かすら知らされていないが、レオナルドとしてはデニスの安眠と彼の祖母が穏やかにあちら側へと旅立つことが出来たらそれでいい。
「とても大変な思いをされているのですね。では、時間が惜しいので始めましょう。ミスタ・スパイアーズ、あなたがお話したい方はどなたでしょうか」
ようやく本題に入ってきた。
小さく頷き、レオナルドはおもむろに口を開く。
「姉を……僕と兄さまの大切な、姉さまを」
その言葉に、ケネットが一瞬だけ目を見開いたのが見えたのを見逃さない。
「兄から聞かれましたか?」
話を振られるとは思っていなかったのだろう。
ケネットの肩が震え、一度パートランドに目を向けた後、レオナルドへと顔を向けて口を開いた。
「え、ええ。でも、お兄さんは妹さんを亡くされたと」
「兄さまにとっては妹で間違いありません」
やんわりと微笑むレオナルドの言葉に安堵したのか、ケネットはぎこちないまでも微笑んで頷く。
スティーブンはケネットに接した時に、情報を吹き込んだといっていた。
ありもしないスパイアーズ家の家族関係に兄弟たちたちのエピソード、そして妹が亡くなった経緯。
つまり、ケネットはすでに持っているのだ。これから呼ばれることになっている、どこにも存在しない妹の情報を。
スティーブンの話では、これは詐欺な降霊会における常套手段のひとつだという。事前に知人などから相手の情報を収取し、それを言葉巧みに利用して相手の隙に入り込むのだ。
デニスもケネットに祖母のことを話した。だが彼の場合は祖母への愛情の深さゆえに、簡単に得た情報だけでは惑わされなかった。
そして今回は、ある意味ではパートランドたちにとってとても質の悪いものとなるだろう。
なにせ嘘をついているという点では、お互い様なのだから。
「さて、そろそろ闇の住人たちが我々のすることを興味深く見つめる時、そろそろお姉さんをお呼びしましょう」
いつのまにか懐中時計を手にしていたパートランドが、よく通る声でレオナルドとケネットの会話を遮る。
会話が続いてぼろが出るのを恐れたのか、それとも。
「ミスタ・スパイアーズ、お姉さんのお名前は?」
「チェルシー、チェルシー・スパイアーズです」
名を聞いたパートランドは恭しく頷き、全員にテーブルの上へ手を置くように指示した。
言われるままに両手を手の甲を上にして置く。
そして、目を閉じるように指示をしてきた。
「これよりチェルシー・スパイアーズさんの御霊をお呼びします。皆さん、何が起ころうとも心を穏やかに。彼らは争いを好まず、存在を否定するものを嫌います」
全員が一斉に目を閉じる。
が、こういう時に糸目というのは都合がいいもので。それに犬と認識されているスティーブンは目を閉じなくてもいいので、ここから先に起こることを全て見られるのは都合がいい。
やがてパートランドが呪文のようなものを唱え始めた。
聞き慣れない単語が多く、意味があるのかすら分からない。彼の手の内を知らなければ、これは霊を招くための呪文なのだろうと思い込んでしまうだろう。
不意にコツ、コツ、と音がした。
テーブルを叩くような音だが、誰もテーブルを叩くような真似はしていない。そもそも、テーブルクロスをかけらているにもかかわらず、奇麗に響く硬質な音がするだろうか。
「あぁ……お越しくださったのですね、弟さんがあなたに会いたがっていたのですよ」
部屋の中に変化があった。
足元の空気が急に冷えてきたのだ。といってもこれは、スティーブンが「冷房だな」と背後で種明かしをするものだから、レオナルドは笑いを堪えなくてはならなくなる。
曰く乾燥した冷たい風は、パートランドの背後から流れてきているらしい。
「皆さん、目を開けてください。そして彼女を迎え入れましょう」
はたしてここからどうするのかと思っていたら、スティーブンがレオナルドの傍へと寄ってきた。
これは始まりの合図。ほぼ同時に、壁に付けられた燭台のロウソクに灯っていた炎が、ふっ、とほぼ一斉に消える。
初めての――いや、予想しなかったことなのだろう。
パートランドとレオナルドを除いた全員が動揺を隠しきれずにオロオロと周囲を見渡して浮足立つ。
だが、ショーはここからだ。
「……姉さま、そこにいるの?」
レオナルドが声をかけたのは、パートランドの背後。
彼も実は動揺したのだろう。先程までの落ち着きが嘘のように勢いよく振り返り、ヒッ、と短い悲鳴を上げた。
そう、彼女がいたのだ。
黒いドレスを身にまとい、黒いベールを頭に被った彼女が。
誰もが顔を引き攣らせ、存在しないはずの女に動揺するあまり、こわばった身体が意思に反して動くことを否定する。
無理もない、これまでは詐欺的行為だった偽りの降霊会が、本物になったのだから。
「パートランドさん、姉さまはなにか話してくれませんか?」
「う、うん……は、話を聞いてみましょ、ひぃ!?」
テーブルの上のロウソクが、独りでに火を消した。
暗闇に、独特のロウの香りが辺りに漂う。
「……ねぇ、パートランドさん。姉さまは、なんと……?」
わざとらしくガタン、と音を立ててレオナルドが椅子から立ち上がる。
悲鳴が上がった。
部屋の中を歴史を感じさせる装束を身にまとった男女が浮遊し、パートランドたちをすり抜けていく。
さらに悲鳴が上がり、何人かはテーブルの下へと逃げ込んでは頭をぶつけあって、また悲鳴を上げて。