Invisible medium
ふん、と鼻で笑ったスティーブンは再び部屋の中へ。
立ち上がったレオナルドは、戸惑いを胸にゆっくりとドアノブに手をかけてドアを開く。
引っ越し後に初めて入ったスティーブンの部屋は、とても奇麗だ。部屋の真ん中にダブルベッドが置かれ、少々乱れているシーツは彼がここで眠っていたことを示すもの。
他には間接照明としての背の高いスタンドライトがひとつ置かれているだけ。とてもシンプルで、とても生活感が薄くて。
この部屋は寝室として使っているだけと聞いていたが、本当にそのとおりという感じだ。
「狼の姿で寝るっていうのはな、人でいうところのうつ伏せか、身体を丸めた状態になる。だがそれで朝になって人に戻ると、なかなかどうして寝心地が悪い」
ベッドの上に飛び乗り、器用に中へ潜り込んでいくスティーブン。
自分はどうしたらいいのかと戸惑っていると、彼は背中をレオナルドへ向けて身体を横たえた。
足を伸ばした状態だとこれがまた狼というのは大きくて。ダブルベッドでちょうどよく見えるが、これが人の姿だったらと想像すると噴き出しそうになるのでぐっと堪えた。
しかし前足と後ろ足を同じように伸ばしたかと思えば、後ろ足はうんと尻尾の方へ伸ばして。
なるほど、これならば人に戻ってもシュールじゃないなと納得する。
「こういうわけだ。君のベッドよりは広いと思うが、狭くても文句を言うなよ」
「言いませんってば!」
スティーブンの隣へ潜り込むと、予想通り硬すぎず柔らかすぎないマットレスと軽い布団に、安眠が約束されていると確信する。
息を吐いて枕に頭を委ねると、どこにいたのかソニックが隣にやってきた。
「朝になったら……スティーブンさんが人に戻る前に自分の部屋に戻るんで」
「分かった。目覚ましは?」
「スマホはちゃんと持ってきました」
「OK。おやすみ」
「おやすみなさい」
自然となくなった会話は、眠りへと向かう合図。
レオナルドもスティーブンに背を向けて瞼を閉じた。
少し離れているけれど、背中に誰かのぬくもりを感じると不思議と落ち着く。
もう怖い思いをしませんように――祈りながら、眠りについた。
夜明け前にベッドを抜け出して、けれど暗い自分の部屋に戻る気にはなれなくて。
とはいえ起きた時間にはクラウスがとっくの昔に花を店に運び終えていたので、そんなに早い時間というわけではない。たまには朝の挨拶をと思ったのだが、そうするためにレオナルドはもっと早起きをしなくてはならないようだ。
仕方なくキッチンでコーヒーを飲みながらぼんやりとすごしていると、少しずつ空が明るくなってきた。
ほどなくして人の姿に戻ったスティーブンが下りてくる。もちろん、ちゃんと服を着て、だ。
「おはよう、レオ」
「おはようございます、スティーブンさん」
欠伸をしながらレオナルドにコーヒーが飲みたいと言い残して、洗面所へ彼は向かう。
言われたとおりにコーヒーを淹れるためにお湯を沸かして待っていると、すっきりした顔でスティーブンがやってきた。
「起きるのが早かったようだが、ちゃんと寝れたか?」
「お陰様で。スティーブンさんは大丈夫でした?」
「まぁね。さて、飯にするか」
朝食を作るのはスティーブンの役目。
ソニックと一緒に待ちわびていると、コーヒーを飲みながら手際よく朝食が作られていく。
冷蔵庫の中を覗いてメニューを決めて、スティーブンの動きに無駄などひとつもない。
だから手伝いたいと言い出す瞬間が来ないまま、今日もテーブルに美味しそうな料理が並ぶ。
いつもと同じなのはグリーンサラダとコーヒー。この2つがないと朝が始まらない。それがスティーブンの口癖だ。
メインは冷蔵庫と相談なのだが、今日の見慣れない料理に、ソニックと一緒にまじまじと見つめてしまった。
「滅茶苦茶美味そうっすけど、これはなんて料理なんです?」
レオナルドの前に置かれたのは、一見トーストだが、ただのトーストではない。
トーストの上にハムとチーズ、ホワイトソースが重ねられ、さらに目玉焼きまで乗っているのだ。しかもトーストは英国では薄いのが定番なのに対して、こちらは口を大きく開かないとかぶりつけないほど分厚い。
ちなみに向かいの席に置かれたスティーブンのものは、トーストは薄めで目玉焼きはないが、他はレオナルドと同じ。ソニックはスティーブンと同じだが乗っているのはスクランブルエッグで、すでに4等分に切られている。
同じように見えて同じではないのだ。
「レオはクロックマダム。僕はクロックムッシュで、ソニックは僕のオリジナル、クロックアンファン」
「クロックムッシュって、名前は聞いたことがありますけど、違いは?」
「乗っているものの違いかな。クロックムッシュは手づかみで手早く食べられるように、マダムは目玉焼きが乗っているからカトラリーを使って上品に。アンファンはソニックが食べやすいようにと考えたんだが、マダムとムッシュがいるならアンファンだなって思ってね。アンファンはフランス語で子供だ」
スラスラと出てくる蘊蓄に感心しつつも、早く食べたくて仕方がない。そんな気持ちを台無しにするような1本の電話に、可能性は考えていたとしても嘆きたくなるのは仕方がないことで。
しかしぐっと堪えてテーブルに置いてあったスマホを手に取った。
「はい、ウォッチです。おはようございます、アドキンズさん」
電話をかけてきたのはデニス。
聞けば昨夜は何事もなく眠れたらしい。それはそうだろう。なにせ老婆はこちらに来ていたのだから。
それはさておき、渡したお守りには異変があった。
なんでも中は見ていないが袋の中の物が粉々になっている感触があり、袋自体も煤けたように汚れているそうだ。
「それはお守りがデニスさんを守ってくれたからです。ですが、もう効果はないでしょう」
これは誤算だ。
シャーロットの話ではそこそこ強力だということだったし、一晩で壊れるようなものではない。だとすればデニスに迷惑をかけているものは、レオナルドが思うより強いということだ。
だが、これが功をなした。
『何でも話すから、何とかしてください、お願いします!』
レオナルドには、この事態を打破する力があると信じたようだ。
協力が得られるのならもっと色々なことが分かるし、解決策がみつかるかもしれない。
老婆のことなど聞きたいことはある。今日は店があるので会う時間を夜に設定すると、じっとこちらを見る視線に気づいた。見れば、こちらを見ながら自分を指さすスティーブン。
どうやら自分も行くと言っているようだ。
だが夜間では彼は狼になっている。いいのか目で訴えると、彼は頷いた。
「ではその時間に。ええ、失礼します」
通話を切ってテーブルに置き、レオナルドは息を吐く。
クロックマダムを食べ損ねるようなことがなくて良かったと安堵するのは依頼人に申し訳ないが、腹が減ってはなんとやらだ。
「店が終わってからって、大丈夫なのか?」
「おかしなことが起こってるのは夜だけですし、今日はちゃんと準備をしていきますよ」
「当然だ。もうあんなことは御免だからな」
手に取ったクロックムッシュに大きく口を開いてかぶりついたスティーブンは、口の端についたホワイトソースを指の腹で拭ってから、レオナルドに見られていることに気づいて顔を逸らした。
約束の時間は、午後8時。
長身の三十路ではなく大きな黒い犬を連れてきたことにデニスは戸惑っていたが、彼は仕事の上では欠かせない相棒なのだと話すと、納得はしないまでも家の中には入れてもらえた。
昨日と同じようにソファを勧められた。違うのは座るのはひとりで、傍には狼のスティーブンがデニスを威嚇するように床に座っていることか。
そうした状態で恐る恐るデニスがテーブルに置いたお守りを見た時には、さすがにレオナルドも息を吞んだ。
状況は聞いていたが、実際に見るとその様変わりした姿には戸惑いを隠せない。
白かった袋はすすがこびりついた暖炉の中に放り込まれたかのように黒ずみ、手にした時の感触は粉々に砕けた陶器を思わせる。
念のためにシャーロットに聞いた話では、一晩でそうなってしまうとは、やはり相当なことだそうだ。
「昨夜は何も」
「ああ、久しぶりにぐっすり寝られた。けど、起きたらお守りがこのざまだろ? 今夜からまた不安でさ……」
たとえ1日だけでもよく眠れたせいか、今日のデニスは舌がよく回る。これなら色々なことが聞き出せそうだが、相変わらずくぐもったしゃべり方をするので時折聞き取りづらい。
そこは根性と耳のいいスティーブンの力を借りて何とかしようと決め、どうやって本題に持っていこうかと言葉を選んでいく。
「お気持ちは分かります。ですが僕も今日は本腰を入れて取り組みますので、どうかご協力ください。それと――あなたの傍に寄り添っているおばあさんが、昨晩僕のところへ来ました」
「ば、ばあさん……?」
デニスの顔色が変わった。
さ、と血の気が引いていくところを見ると、やはり心当たりがあるのか。
だが彼の後ろの老婆は彼を睨みつけることはなく、レオナルドを見つめて小さく頷いている。自分のことを伝えてほしい。そう言っているように思えた。
「ええ、おばあさんです。ちょっときつそうにも見える背筋のまっすぐ伸びた細身のおばあさん、心当たりはありませんか?」
「ばあちゃんだ……それ、ばあちゃんだ! でもどうしてばあちゃんが俺に悪さするんだよ!」
取り乱しソファから腰を浮かせたデニスをなんとか宥めて再び座らせる。
回りくどくして疑われるのもどうかと思って率直に言ったのだが、今度は取り乱されて話にならなかったらそれはそれで大変だ。
しかし天を仰いで深い溜息を吐いたデニスは、目元に涙を浮かべてレオナルドにこう言った。
「ばあちゃん、怒ってんのかな。だよなぁ……ばあちゃんは孫に厳しくてさ、何かやらかしちゃよく叱られたんだ。でもホントは俺たちのことを考えてくれてて、でもそれに気づいたのが亡くなってからで……ばあちゃん……」
本格的に泣き出したデニスは、かなりのおばあちゃん子のようで。
そうなんです? と目を向けて問えば、腕を組んだ老婆が孫から顔を逸らしている。けれどその横顔は、まんざらでもないようだ。
孫と祖母の心温まるやり取りはさておき、これでは話が進まない。どうしたらいいのかとスティーブンの頭を見ると、視線に気づいたらしい彼は首を横に振った。
これは落ち着くまで待つしかないらしい――が、10分で結構短気な狼がしびれを切らした。
鳴くとワン、というよりガウ、に近いんだな、と普段は人の声でしか聞いたことのないレオナルドの感想はさておき、狼の一声に驚いたデニスはソファから転がり落ちるくらい驚いたが、涙が引っ込んだのでレオナルド的には助かったのでよしとする。
「大丈夫です?」
「は、はは、はい……」
冷静なレオナルドに見下ろされて羞恥心が芽を出したのだろう。そそくさとソファに戻って座りなおしたデニスは、ほのかに頬を赤くしながら袖で涙をぬぐって俯く。
呆れた様子でそんな孫を見下ろしている老婆を見るに、もしかしたらこの人はいわゆるツンデレだったのかもしれない。
それはさておき、だ。
「おばあさんがお亡くなりになったのはいつ頃ですか?」
「半年前です」
「その頃はおかしなことは?」
「なにも。あー、その、ばあちゃんに逢いたくて……」
デニスは口を噤んだ。そして、老婆が孫を睨みつける。
どうやらここからが核心のようだ。
「昨日、仕事のことをおっしゃろうとして、止めてましたよね。もしかして、その仕事がなにか関係しているんですか?」
「うっ……、ここだけの話にしてもらえます?」
「もちろん! 依頼人の仕事を守るのは当然のことですから」
少しかぶせ気味に言ってしまったのでデニスに引かれたが、こちらだって大変な目に遭っているのだ。速やかに解決をしてちゃんと花屋の仕事をしたいし、なにより安眠妨害をされたくない。
私情はさておきレオナルドの意気込みは理解してくれたのか、デニスはおもむろに口を開き、事のすべてを話し出した。
「もう1回、ばあちゃんと話をしたかったんだ」
それは、彼の免罪符か。
前置きとして言われた言葉を頭の片隅に置いたと、レオナルドは小さく頷いて応える。
「ばあちゃんがいなくなって初めて、ばあちゃんが言いたかったことに気づいてさ。色々と謝りたかったし、感謝も伝えたかった。それを仕事で知り合った人に話したんだ。そうしたら、自分が行ってる降霊会に招待するって……」
「行ったんですか!?」
降霊会。つまり霊を呼んで交流を図るわけだが、その歴史はとても古い。
人々は昔からこちら側とあちら側を何らかの方法で結びつけようと考え、人ならざる者たちからの英知を求めた。
ここ英国でも幾度となく流行ったが、その多くは詐欺行為だ。蓋を開けてみればなんらかの手品まがいなトリックで、音を鳴らし家具を動かした。そして人々は騙されていたにも関わらず、そんなことが出来るはずがないと笑って終わりにする。
そう、あちら側に逝き、サムハイン祭の3日間しかこちら側に戻ることがなくなった者たちは、どんなに優れた霊媒師とて呼び出すことは出来ない。彼らだけでなくレオナルドとて、こちらに存在しない者を見ることなど到底不可能なのだ。
立ち上がったレオナルドは、戸惑いを胸にゆっくりとドアノブに手をかけてドアを開く。
引っ越し後に初めて入ったスティーブンの部屋は、とても奇麗だ。部屋の真ん中にダブルベッドが置かれ、少々乱れているシーツは彼がここで眠っていたことを示すもの。
他には間接照明としての背の高いスタンドライトがひとつ置かれているだけ。とてもシンプルで、とても生活感が薄くて。
この部屋は寝室として使っているだけと聞いていたが、本当にそのとおりという感じだ。
「狼の姿で寝るっていうのはな、人でいうところのうつ伏せか、身体を丸めた状態になる。だがそれで朝になって人に戻ると、なかなかどうして寝心地が悪い」
ベッドの上に飛び乗り、器用に中へ潜り込んでいくスティーブン。
自分はどうしたらいいのかと戸惑っていると、彼は背中をレオナルドへ向けて身体を横たえた。
足を伸ばした状態だとこれがまた狼というのは大きくて。ダブルベッドでちょうどよく見えるが、これが人の姿だったらと想像すると噴き出しそうになるのでぐっと堪えた。
しかし前足と後ろ足を同じように伸ばしたかと思えば、後ろ足はうんと尻尾の方へ伸ばして。
なるほど、これならば人に戻ってもシュールじゃないなと納得する。
「こういうわけだ。君のベッドよりは広いと思うが、狭くても文句を言うなよ」
「言いませんってば!」
スティーブンの隣へ潜り込むと、予想通り硬すぎず柔らかすぎないマットレスと軽い布団に、安眠が約束されていると確信する。
息を吐いて枕に頭を委ねると、どこにいたのかソニックが隣にやってきた。
「朝になったら……スティーブンさんが人に戻る前に自分の部屋に戻るんで」
「分かった。目覚ましは?」
「スマホはちゃんと持ってきました」
「OK。おやすみ」
「おやすみなさい」
自然となくなった会話は、眠りへと向かう合図。
レオナルドもスティーブンに背を向けて瞼を閉じた。
少し離れているけれど、背中に誰かのぬくもりを感じると不思議と落ち着く。
もう怖い思いをしませんように――祈りながら、眠りについた。
夜明け前にベッドを抜け出して、けれど暗い自分の部屋に戻る気にはなれなくて。
とはいえ起きた時間にはクラウスがとっくの昔に花を店に運び終えていたので、そんなに早い時間というわけではない。たまには朝の挨拶をと思ったのだが、そうするためにレオナルドはもっと早起きをしなくてはならないようだ。
仕方なくキッチンでコーヒーを飲みながらぼんやりとすごしていると、少しずつ空が明るくなってきた。
ほどなくして人の姿に戻ったスティーブンが下りてくる。もちろん、ちゃんと服を着て、だ。
「おはよう、レオ」
「おはようございます、スティーブンさん」
欠伸をしながらレオナルドにコーヒーが飲みたいと言い残して、洗面所へ彼は向かう。
言われたとおりにコーヒーを淹れるためにお湯を沸かして待っていると、すっきりした顔でスティーブンがやってきた。
「起きるのが早かったようだが、ちゃんと寝れたか?」
「お陰様で。スティーブンさんは大丈夫でした?」
「まぁね。さて、飯にするか」
朝食を作るのはスティーブンの役目。
ソニックと一緒に待ちわびていると、コーヒーを飲みながら手際よく朝食が作られていく。
冷蔵庫の中を覗いてメニューを決めて、スティーブンの動きに無駄などひとつもない。
だから手伝いたいと言い出す瞬間が来ないまま、今日もテーブルに美味しそうな料理が並ぶ。
いつもと同じなのはグリーンサラダとコーヒー。この2つがないと朝が始まらない。それがスティーブンの口癖だ。
メインは冷蔵庫と相談なのだが、今日の見慣れない料理に、ソニックと一緒にまじまじと見つめてしまった。
「滅茶苦茶美味そうっすけど、これはなんて料理なんです?」
レオナルドの前に置かれたのは、一見トーストだが、ただのトーストではない。
トーストの上にハムとチーズ、ホワイトソースが重ねられ、さらに目玉焼きまで乗っているのだ。しかもトーストは英国では薄いのが定番なのに対して、こちらは口を大きく開かないとかぶりつけないほど分厚い。
ちなみに向かいの席に置かれたスティーブンのものは、トーストは薄めで目玉焼きはないが、他はレオナルドと同じ。ソニックはスティーブンと同じだが乗っているのはスクランブルエッグで、すでに4等分に切られている。
同じように見えて同じではないのだ。
「レオはクロックマダム。僕はクロックムッシュで、ソニックは僕のオリジナル、クロックアンファン」
「クロックムッシュって、名前は聞いたことがありますけど、違いは?」
「乗っているものの違いかな。クロックムッシュは手づかみで手早く食べられるように、マダムは目玉焼きが乗っているからカトラリーを使って上品に。アンファンはソニックが食べやすいようにと考えたんだが、マダムとムッシュがいるならアンファンだなって思ってね。アンファンはフランス語で子供だ」
スラスラと出てくる蘊蓄に感心しつつも、早く食べたくて仕方がない。そんな気持ちを台無しにするような1本の電話に、可能性は考えていたとしても嘆きたくなるのは仕方がないことで。
しかしぐっと堪えてテーブルに置いてあったスマホを手に取った。
「はい、ウォッチです。おはようございます、アドキンズさん」
電話をかけてきたのはデニス。
聞けば昨夜は何事もなく眠れたらしい。それはそうだろう。なにせ老婆はこちらに来ていたのだから。
それはさておき、渡したお守りには異変があった。
なんでも中は見ていないが袋の中の物が粉々になっている感触があり、袋自体も煤けたように汚れているそうだ。
「それはお守りがデニスさんを守ってくれたからです。ですが、もう効果はないでしょう」
これは誤算だ。
シャーロットの話ではそこそこ強力だということだったし、一晩で壊れるようなものではない。だとすればデニスに迷惑をかけているものは、レオナルドが思うより強いということだ。
だが、これが功をなした。
『何でも話すから、何とかしてください、お願いします!』
レオナルドには、この事態を打破する力があると信じたようだ。
協力が得られるのならもっと色々なことが分かるし、解決策がみつかるかもしれない。
老婆のことなど聞きたいことはある。今日は店があるので会う時間を夜に設定すると、じっとこちらを見る視線に気づいた。見れば、こちらを見ながら自分を指さすスティーブン。
どうやら自分も行くと言っているようだ。
だが夜間では彼は狼になっている。いいのか目で訴えると、彼は頷いた。
「ではその時間に。ええ、失礼します」
通話を切ってテーブルに置き、レオナルドは息を吐く。
クロックマダムを食べ損ねるようなことがなくて良かったと安堵するのは依頼人に申し訳ないが、腹が減ってはなんとやらだ。
「店が終わってからって、大丈夫なのか?」
「おかしなことが起こってるのは夜だけですし、今日はちゃんと準備をしていきますよ」
「当然だ。もうあんなことは御免だからな」
手に取ったクロックムッシュに大きく口を開いてかぶりついたスティーブンは、口の端についたホワイトソースを指の腹で拭ってから、レオナルドに見られていることに気づいて顔を逸らした。
約束の時間は、午後8時。
長身の三十路ではなく大きな黒い犬を連れてきたことにデニスは戸惑っていたが、彼は仕事の上では欠かせない相棒なのだと話すと、納得はしないまでも家の中には入れてもらえた。
昨日と同じようにソファを勧められた。違うのは座るのはひとりで、傍には狼のスティーブンがデニスを威嚇するように床に座っていることか。
そうした状態で恐る恐るデニスがテーブルに置いたお守りを見た時には、さすがにレオナルドも息を吞んだ。
状況は聞いていたが、実際に見るとその様変わりした姿には戸惑いを隠せない。
白かった袋はすすがこびりついた暖炉の中に放り込まれたかのように黒ずみ、手にした時の感触は粉々に砕けた陶器を思わせる。
念のためにシャーロットに聞いた話では、一晩でそうなってしまうとは、やはり相当なことだそうだ。
「昨夜は何も」
「ああ、久しぶりにぐっすり寝られた。けど、起きたらお守りがこのざまだろ? 今夜からまた不安でさ……」
たとえ1日だけでもよく眠れたせいか、今日のデニスは舌がよく回る。これなら色々なことが聞き出せそうだが、相変わらずくぐもったしゃべり方をするので時折聞き取りづらい。
そこは根性と耳のいいスティーブンの力を借りて何とかしようと決め、どうやって本題に持っていこうかと言葉を選んでいく。
「お気持ちは分かります。ですが僕も今日は本腰を入れて取り組みますので、どうかご協力ください。それと――あなたの傍に寄り添っているおばあさんが、昨晩僕のところへ来ました」
「ば、ばあさん……?」
デニスの顔色が変わった。
さ、と血の気が引いていくところを見ると、やはり心当たりがあるのか。
だが彼の後ろの老婆は彼を睨みつけることはなく、レオナルドを見つめて小さく頷いている。自分のことを伝えてほしい。そう言っているように思えた。
「ええ、おばあさんです。ちょっときつそうにも見える背筋のまっすぐ伸びた細身のおばあさん、心当たりはありませんか?」
「ばあちゃんだ……それ、ばあちゃんだ! でもどうしてばあちゃんが俺に悪さするんだよ!」
取り乱しソファから腰を浮かせたデニスをなんとか宥めて再び座らせる。
回りくどくして疑われるのもどうかと思って率直に言ったのだが、今度は取り乱されて話にならなかったらそれはそれで大変だ。
しかし天を仰いで深い溜息を吐いたデニスは、目元に涙を浮かべてレオナルドにこう言った。
「ばあちゃん、怒ってんのかな。だよなぁ……ばあちゃんは孫に厳しくてさ、何かやらかしちゃよく叱られたんだ。でもホントは俺たちのことを考えてくれてて、でもそれに気づいたのが亡くなってからで……ばあちゃん……」
本格的に泣き出したデニスは、かなりのおばあちゃん子のようで。
そうなんです? と目を向けて問えば、腕を組んだ老婆が孫から顔を逸らしている。けれどその横顔は、まんざらでもないようだ。
孫と祖母の心温まるやり取りはさておき、これでは話が進まない。どうしたらいいのかとスティーブンの頭を見ると、視線に気づいたらしい彼は首を横に振った。
これは落ち着くまで待つしかないらしい――が、10分で結構短気な狼がしびれを切らした。
鳴くとワン、というよりガウ、に近いんだな、と普段は人の声でしか聞いたことのないレオナルドの感想はさておき、狼の一声に驚いたデニスはソファから転がり落ちるくらい驚いたが、涙が引っ込んだのでレオナルド的には助かったのでよしとする。
「大丈夫です?」
「は、はは、はい……」
冷静なレオナルドに見下ろされて羞恥心が芽を出したのだろう。そそくさとソファに戻って座りなおしたデニスは、ほのかに頬を赤くしながら袖で涙をぬぐって俯く。
呆れた様子でそんな孫を見下ろしている老婆を見るに、もしかしたらこの人はいわゆるツンデレだったのかもしれない。
それはさておき、だ。
「おばあさんがお亡くなりになったのはいつ頃ですか?」
「半年前です」
「その頃はおかしなことは?」
「なにも。あー、その、ばあちゃんに逢いたくて……」
デニスは口を噤んだ。そして、老婆が孫を睨みつける。
どうやらここからが核心のようだ。
「昨日、仕事のことをおっしゃろうとして、止めてましたよね。もしかして、その仕事がなにか関係しているんですか?」
「うっ……、ここだけの話にしてもらえます?」
「もちろん! 依頼人の仕事を守るのは当然のことですから」
少しかぶせ気味に言ってしまったのでデニスに引かれたが、こちらだって大変な目に遭っているのだ。速やかに解決をしてちゃんと花屋の仕事をしたいし、なにより安眠妨害をされたくない。
私情はさておきレオナルドの意気込みは理解してくれたのか、デニスはおもむろに口を開き、事のすべてを話し出した。
「もう1回、ばあちゃんと話をしたかったんだ」
それは、彼の免罪符か。
前置きとして言われた言葉を頭の片隅に置いたと、レオナルドは小さく頷いて応える。
「ばあちゃんがいなくなって初めて、ばあちゃんが言いたかったことに気づいてさ。色々と謝りたかったし、感謝も伝えたかった。それを仕事で知り合った人に話したんだ。そうしたら、自分が行ってる降霊会に招待するって……」
「行ったんですか!?」
降霊会。つまり霊を呼んで交流を図るわけだが、その歴史はとても古い。
人々は昔からこちら側とあちら側を何らかの方法で結びつけようと考え、人ならざる者たちからの英知を求めた。
ここ英国でも幾度となく流行ったが、その多くは詐欺行為だ。蓋を開けてみればなんらかの手品まがいなトリックで、音を鳴らし家具を動かした。そして人々は騙されていたにも関わらず、そんなことが出来るはずがないと笑って終わりにする。
そう、あちら側に逝き、サムハイン祭の3日間しかこちら側に戻ることがなくなった者たちは、どんなに優れた霊媒師とて呼び出すことは出来ない。彼らだけでなくレオナルドとて、こちらに存在しない者を見ることなど到底不可能なのだ。