Invisible medium
アレックスから連絡が来たのは、この日の夜遅く。
まだ仕事中らしく、スマホの向こうではパブが賑わう声が雑音となってアレックスの声をかき消そうとしていた。
3階のリビングでソニックと共にくつろいでいたレオナルドは、スマホをスピーカーにしてそっとテーブルの上に置く。
もちろんこれは、少し離れた場所でニュース番組を見ているスティーブンにも聞こえるようにだ。
『アドキンズさんが仕事を辞めた理由は、表向きは転職するからってことだったらしい』
「表向き?」
気になる言葉にレオナルドが呟くと、タブレットから目を離したスティーブンがレオナルドに近づいてくる。
今は狼姿なので言葉を発してもアレックスには聞こえないが、目配せをしてきた彼にレオナルドは小さく頷く。
『今にして思えばそうかもって程度だけど、体調不良で休んだり不眠症に悩まされていたから、辞める前から悩んでたんじゃないかってさ』
「そうだったんですか……。きっかけになった仕事は分かりました?」
『残念ながら、部署は同じだけれどそこまで親しいわけではないし、引っ越し先を相談されたのは送別会で飲んだ時の流れだったそうだ』
つまり、幽霊騒動について相談があったのも、そういった流れの延長だったのだろう。
これでアレックスの知人は、有益な情報は持っていないことが分かった。
可能性は考えていたことなので落胆することはないが、こうなるとやはりデニス本人から聞くしかないだろう。
スティーブンに目配せすると、彼は頷く。
「明日になったらお守りの効果を聞くふりをして、探りを入れるしかないな」
「分かりました」
『あ、スティーブンさんもいるんだ』
スティーブンの声は聞こえなくても、レオナルドの声は聞こえてしまったのだろう。
呑気なアレックスの声にふたり揃って思わずスマホから身体を離してしまった。
「え、えと、部屋に戻っちゃいました」
『ふたりで住んでるって本当なんだな。じゃあ、またふたりで食いに来てくれよ。おやすみ』
「ありがとうございました。おやすみなさい」
万が一にでもスティーブンに話しかけられたらどうしようかと思って咄嗟に嘘をついたが、アレックスが仕事中ということもあるだろうがあっさりと引いてくれて助かった。
仕事はまもなく終わりだろうが、昼間から夜遅くまで働くアレックスに感心しつつスマホの通話を切って座っていたソファにもたれかかる。
ソファに自分の毛が残るのを嫌がってスティーブンは座らないが、レオナルドの足元に腰を下ろした。
「なかなか上手くいかないもんですね」
「そいうもんさ。調査ってのは時間をかけて地道に行うしかない。さて、僕らも寝よう」
「はーい。おやすみなさい、スティーブンさん」
おやすみ。そう言い残して狼は踵を返すと、リビングから見える自分の部屋の扉を押して頭から入っていった。
今ならそんなことをしなくても開けてあげられるのに、とレオナルドは思うのだけれど、スティーブンはいつだって頼ってくれない。
それが一緒に住んでいるのに少し寂しいと思うのは、助け合うことが普通だった家庭で育ったからだろうか。
眠くなってきたのかソファの上でふらつくソニックを掬うようにして手の上に載せると、空いている手でスマホを手にし、ポケットに突っ込んだ。
今夜はもう何もできない。
早く解決してあげたいのに出来ないもどかしさを胸に抱きつつ、つけっぱなしのテレビを消して、レオナルドは2階へ下りていく。
ようやく慣れてきた自分の部屋。
ソニックを小さなベッドに寝かせ、レオナルドも温かい布団に潜り込んで部屋の電気を消した。
するとまだ起きられると思っていたのに、大きなあくびが自然と出て、身体が睡眠を欲しているのだと知らせてくる。
仕方なくスマホのアラームをセットして枕元に置き、瞼を閉じて大きく深呼吸をする。
明日は何か糸口が掴めるといい。
けれど店を開ける予定だとクラウスに話してあるから、デニスの家に行けるとしたら夜になるだろう。
スティーブンは狼姿でついてきてくれるだろうか。
いや、彼には彼の仕事がある。本来この仕事はレオナルドがひとりで行うべき仕事だ。
彼に頼るわけにはいかない。
瞼を閉じると考えなくていい不安がシャボン玉のように浮かんでは弾け、レオナルドの心にかかっていく。
いつもならばすぐに寝られるのに、と幾度となく寝返りを打ってはまだ訪れるか分からない不安を消そうとして――いつのまにか、眠りに落ちていた。
――暗闇の中で浮上する意識は、まだ闇の中にあって。
感覚は確かにここにあるのだが、重い身体は目覚めることを拒んでいる。
うっすらと瞳を開くが、カーテンの隙間から差し込んでくるものはなく。まだ夜なのだろうと思うけれど、なにせ倫敦の夜明けはずいぶんと遅い。
今の季節だと、8時頃になってようやく日が昇るのだ。
スティーブンも人の姿でいられる時間の短さに、何度か愚痴を零していた。
どうせ朝方に目が覚めたのなら、たまには早起きをして先に朝食を作っておくのもいいかもしれない。
二度寝をしたいのはやまやまだけれど、今日はデニスからいつ連絡が入ってもおかしくないのでそれがいい。
そう思って一度時刻を確認するため、枕元にあるスマホへ手を伸ばそうとしたのだが――異変に気づいた。
腕が、いや、身体が動かないのだ。
まるで石膏で固められてしまったのかと思うほど、身体がレオナルドの意思に反してピクリとも動かない。
パジャマの布の感触もわずかな布団の重みも感じるのに、どうしても動くことが出来ないのだ。
これが金縛りか、と思った時、瞼だけは開くことが出来ていることに気づく。
金縛りというのはすでに原因が解明しているとどこかで読んだことがある。確か頭は目覚めているのに身体は目覚めていないという、レム睡眠中の異常によるものだったはずだ。
詳しいメカニズムはすぐに思い出すことは出来ないし必要はないが、変な息苦しさがある。そう、腹の上に何かが載っているような感覚だ。
デニスが経験した状況と、似ていると思う。
ならば彼の不眠も幽霊が原因ではないのか。だとしたらあの老婆はいったいなんなのか。
動かないが原因が分かっているので呑気にそんなことを考えていたのだが、不意に耳元で声が聞こえた気がした。
そう、声だ。
低い、ぼそぼそと話す声は何を言っているのか上手く聞き取れない。
こういう現象も金縛りではお約束だったと思うが、実際に体験してみると怖すぎる。
どうすればこの状況から抜け出せるのか。唯一動かせる眼球を左右に、上下に。
人としての可動範囲ギリギリまで動かして身体の覚醒を促そうとしたその時、あることに気づいた。
腹の上に乗っている黒い影の向こう、知っている姿が見えたのだ。
それは昼間に見たデニスの背後にいた老婆に違いない。彼女はあの時のように憎悪に満ちた目で睨みつけるのではなく、どこか疲れた様子でレオナルドを見つめている。
改めて見る老婆は線が細く前髪まできっちりと上げて後ろでまとめているせいか、少し神経質そうな気が強そうな雰囲気があって。けれどその目に、怒りはない。
なぜここに。
考えられることとしては、レオナルドに憑りついたことによって縁が出来てしまったせいか。
彼女らに人のような道も扉も関係ない、一度繋がった縁が道となり、時としてこうしてまったくの赤の他人であったはずの者へ訪れる。
だが求めるものは多種多様だ。
救いを求めるものもいれば、単に憑くもの、そして害をなすもの。
はたして老婆がどれかは分からない。
レオナルドに言えるのは、他人に乗られているという本能的な恐怖はどうしようもないということだ。
ふと、ベッドの向こうで目が合った。
異様な気配に起きたらしいソニックが、いつのまにか自分のベッドからカーテンレールの上に移動してこちらを見ていたのだ。
やはりこれは、身体の異常ではない。
確信したレオナルドは、思い切り深呼吸する。
苦しいなりの深呼吸だからさして吸い込めなかったが、少しは落ち着くことが出来た。
そして声が出ないので、心の中でこう言う。
「アドキンズさんは、絶対に助けますから!」
苦しめている本人にこんなことを言ってどうするのだろうと思うが、この時は本当にこう言うのが正しいと感じた。
どう思われたのか分からないが、老婆の姿はいつしか消え、黒い影も消えていく。
同時に身体が動くことに気づいたレオナルドは、咄嗟にスマホを掴んでベッドから転がり落ちるように抜け出し、這う這うの体で部屋を飛び出した。
明かりのついていない家の中は当然のことながら静まり返り、セントラルヒーティングで暖かいはずなのに身体が震えた。
まだ抜けきらない恐怖に上手く動かない足をもたつかせながら、いつのまにか肩にしがみついているソニックと共に3階を目指す。
そして迷うことなくスティーブンの寝室のドアを叩いた。
「スティーブンさーん! 起きて、起きてぇぇぇぇ!」
必死の呼びかけに応え――安眠を妨害されたスティーブンは、ほどなくしてレオナルドが叩いた位置より下にある専用の扉からのっそりと黒い顔を覗かせた。
身体を出してその場に座ると、半開きになった眠さと睡眠を妨害された怒りに満ちた黒々とした瞳がレオナルドを無言で見上げるスティーブン。
いつもなら正体が分かっていても狼に睨まれては怯んでしまうところだが、そんな余裕はレオナルドにはない。
「滅茶苦茶怖かったぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「お、おい、レオ!?」
勢いよくしゃがみこんで狼に抱きつき、彼の耳元で感情の赴くままに叫ぶ。
突然のことにスティーブンが引くが、逃がすかと言わんばかりに必死にしがみついた。
「めっちゃ怖かったんすよ! 超怖かった!」
「お、落ち着け。いったいなにがあったのか、僕に分かるように説明してくれ。後、離れなさい」
「うう……スティーブンさんが冷たい……」
「耳元でデカい声を出されちゃ敵わん」
それでも人に話を聞いてもらっているからか、レオナルドも幾分か落ち着きを取り戻してきて。
渋々ながら温かい毛皮から手を離し、その場に座り込んで胡坐をかいた。
スティーブンに目が覚めてからこれまでのことを話すと、彼は狼なのになぜかよく分かる渋い表情でかすかな唸り声を上げる。
「……大丈夫なんだろうな?」
何に対しての大丈夫なのか、おそらくそれはレオナルドの身を案じてのことなのだろう。
心配してもらえることを素直に嬉しいと思うと同時に、明確な答えを告げられない申し訳なさがある。だからレオナルドは言葉を選びながら、ゆっくりとスティーブンに話していった。
「初めてのことなんで、正直にいってよく分かんねぇです。でも、アドキンズさんを助けますって言ったら消えたのは確かです。もしかしたら、スティーブンさんが言ってたの、当たりかもしれません」
「僕が? 何か言ったか?」
「守護霊じゃないかって」
確たる根拠はまだないが、可能性はある。
彼女はデニスの血縁か所縁のある人物で、彼を護るためにずっと睨みを利かせ、レオナルドに何かを伝えようとしたのだ。
「だが、君が言うには彼らは見えないんだろう?」
「見えないってだけでいます。それに誰かを護るために傍にいるのは珍しいことじゃありません。ただ、滅茶苦茶おっかない顔してましたし、色々あったって聞くと、見極めが難しいんですよ」
「そりゃそうだ。じゃあ、改めて調べるってことになるのか」
「ですねぇ。明日の連絡待ちになりますけど、進展はあったかなって思います」
そう言うと、スティーブンは「分かった」と言って立ち上がり踵を返す。
どうするのかと思ったら自分の部屋の扉に頭を突っ込んでいて。それが何を示しているのか気づいたレオナルドは、咄嗟にスティーブンの下半身にしがみついた。
「待って待って待って! 待ってくださいー! おごっ」
存外力の強い狼に引きずられ、扉に顔面を強打した。
離れた狼は部屋の中へと入り、残されたレオナルドはしたたかに打ち付けた頬をさすって涙目になる。相棒が慰めてくれると期待したが、いつのまにか姿を消していた。
いったいどこに消えたのか。
「薄情だ……薄情すぎる……」
「誰が薄情だって?」
あなたです。と言いたいところだが、再び顔を出した狼とその足元にいるソニックの機嫌を損ねるわけにはいかない。
何も言っていませんと首を横に振ってアピールしつつ、ちゃっかり1匹だけ安全圏に逃げ込もうとしたソニックを睨んでおくことは忘れない。
するとソニックは睨まれているのに気づいて、再び姿を消した。
どうせスティーブンの部屋にいるのだろう。
ずるいな、と素直に思った。
「そのですねぇ、出来れば今夜は部屋に戻りたくないので、スティーブンさんのお部屋にいさせてもらいたいなー、なんて思っちゃったりする次第なんですよ」
「ソファで寝れば?」
ほら、とレオナルドの背後にある、座り心地は最高なソファを顎で示される。
言いたいことは分かる。もし逆の立場だったらレオナルドは絶対に同じことをしていただろう。なにせ狼と一緒に寝ると、本当にベッドが狭苦しいのは経験済みなのだから。
だが、今日はそれでもひとりは嫌だ。
「スティーブンさんには、僕のベッドを貸した恩をここで返していただきたい!」
「狭くていいんなら、いいよ」
「え、あ、はい?」
絶対にもっと嫌がられごねられると思ったから、スティーブンのあっさりとした承諾に拍子抜けして変な声が出てしまう。