Invisible medium


「しかしウォッチ君がスティーブンさんと知り合いで、しかも助手だなんてね。世の中狭いもんだ」
「あはは……。あ、僕はレオって呼んでください」
「OK。じゃあ、俺はアレックスで。さて、話があるんだよな?」

 褐色のコーヒーが揺れる白いカップが置かれたところで、レオナルドは小さく頷いた。

「アドキンズさんのことでちょっと」
「いいけど、俺は1階の住人ってことだけで、他には良く知らないんだ。せいぜい偶然玄関で出くわしたら挨拶をするくらいだなぁ」

 肩を竦めたアレックス。
 同じ建物に住んでいたとしても付き合いがないことは、以前に聞いていたことと変わりない。
 デニスとアレックスを結ぶ共通の知人のことも聞いてみたが、その人物は今年に入ってから海外に行ってしまったそうだ。

「アドキンズさんは夜中に棚から物が落ちたりするそうですが、そういう音を聞いたことは?」
「こういう仕事だから帰りは遅いし、割と夜中まで起きてると思うんだけど、ないなぁ」
「アドキンズ氏はいつ頃引っ越してきた?」

 隣から発せられた思いがけない質問に、レオナルドは勢いよく振り向く。
 誰からもデニスが現在の家に引っ越してきた時の話は出ていない。だというのに、スティーブンの口調はアレックスが知っていると確信しているように聞こえた。

「それなら、3ヶ月……いや、もうすぐ4ヶ月になるかな。俺は今の家に住んで長いんだけど、しばらく引っ越してきたことに気づかないくらい静かなもんだったな」
「え、スティーブンさん、なんでデニスさんが引っ越してきたことを知ってるんです!?」
「別に難しいことじゃない。生活感が全く感じられないリビングに、ろくに使われている形跡のないキッチン、ゴミ箱がジャンクフードの空箱とペットボトルで埋まっていたことなどから、余程家に帰っていないか引っ越したばかりかと当てをつけただけだよ」

 レオナルドは部屋の様子から自分たちが来るから片づけたのだと思っていたが、スティーブンは違っていた。
 改めて考えれば客にコートを脱ぐよう勧めないことやお茶を出さないなどスティーブンが気にしていたことを併せて考えると、デニスは割と無頓着な性格だと考えた方がいいのかもしれない。だとしたら、部屋に物が散らかっていた方が不思議じゃない。
 そこから彼があの家に引っ越してきてからまだ日が浅いのではないかと考えたのだろう。
 しかし引っ越してきてから3ヶ月以上が経っていては、住み始めたばかりとは言えない。となると仕事が忙しくて生活がままならなかったか、必要最低限のことしかしていないか。
 ただ、それらは今回のことには何ら関係ないように思えた。

「前の家に憑りついてたと思ったから、引っ越してきたとかです?」
「それならずいぶんと長いこと夜中に叩き起こされていたことになるな、よく耐えたもんだ。逆に今の家に引っ越したら憑かれ、怖くてろくに帰ることが出来ていないのかもしれんぞ」
「あそこにそんな怖いのがいるなんて話、今まで聞いたことがないんだけど」

 おかしいな、とカウンターに肘をついたアレックスがぼやく。
 長いこと住んでいるということは、これまでにいた1階の住人のことも知っているのだろう。だがデニスと同じような話が出てきていないとなると、やはり家ではなくデニス自身に憑りついている可能性が高くなる。
 フライドポテトを口に運びながら、空いている手でポケットの中の手帳を取り出す。そして今聞いた話をメモしていくのだが、ふと引っかかることが出てきた。

「アレックスさん、僕を紹介したアドキンズさんと共通の知り合いの人って、アドキンズさんと同じ仕事とかしたりしてた人なんです?」

 アドキンズはあの時に言葉を濁したが、確かに今回の件は仕事が関係しているような口ぶりだった。
 原因を究明するには、その仕事を調べる必要があるのは間違いない。

「同僚だとは言ってたな。ただ、アドキンズさんは仕事を辞めたって聞いてる。その時に安くていい家がないか聞かれて、うちの1階が空いてることを話したと言っていたな」
「仕事を辞めた理由は?」
「そこまでは。今の時間は時差があるから無理だけど、聞いておくよ」

 連絡をするのがはばかられるほど遠くへ行ってしまったアレックスの知人。どんな人かは分からないが、距離的なことも含めて今回のことは本当に仲介でしかないのだろう。
 そちらはアレックスにお願いするとして、これから調べられそうなことを手帳に書こうとしたが――レオナルドの手が止まった。

「これ以上、何をすればいいんだろ」

 無意識に零した独り言は、大きな壁に当たったことを意味していて。
 なにせこれまでだっていくつもの交渉を成功させてきたレオナルドだが、今回は少しばかり状況が違う。
 多くは建物に住みついていたことが主だし、依頼人は自分の問題を解決したいがために、皆が協力的な態度だった。
 しかし今回は明確に原因となりうる部分を依頼人が隠してしまっている上に、レオナルドは霊に憑りつかれる失態を犯している。
 だからこうしてアレックスに情報を求めに来たのだが、デニスとの共通の知人と直接話が出来ないとなると、ここからどうしていいのか分からない。
 走り書きをした、まだほとんどが白いメモと同様に頭の中が真っ白になって思考を停止してしまう。

「……依頼人の周辺をこれ以上洗うのは難しいだろう。ならば日を改めて再度依頼人と話をすればいい。その時は当然、それなりの準備をしてな」

 不意に聞こえた声に顔を上げて隣を見れば、頬杖をついてレオナルドの皿からポテトをつまんだスティーブンがいた。

「今日は下見だったんだ。それに収穫がなかったわけじゃない。そうだろう?」
「原因が分からないことを一度で解決なんて、出来るわけがないさ」

 自分よりも年上の、きっと人生経験もたくさんある大人2人に励まされてレオナルドはふにゃりと笑う。
 きっとこれからもこういったことがたくさんあるだろう。それでも大丈夫だと支えてくれる人がいると、本当に心強い。
 だから1人で怯えているデニスのために頑張らなくてはと、気持ちを新たにすることが出来た。

「ありがとうございます。アドキンズさんからの連絡を待って、次に向けた対策を考えることにします」

 冷めかけたコーヒーを口に含むと、ほろ苦さと酸味の後に心地よいかすかな甘さが残る。
 話し声の絶えないパブで飲むコーヒーは、立ち尽くしそうになって焦っていた気持ちをほぐしてくれた。
 ほとんど白いページは閉じて、手帳とペンをポケットにしまう。
 残ったポテトフライも冷めてしまったが、さっきまでよりとても美味しい気がした。

「そういえば、今日はあの黒くてデカい犬はいないんだな」

 だからこの不意打ちに思わずコーヒーを噴き出しそうになったのは許してほしい。
 ぐっと堪えて恐る恐る隣のスティーブンと前にいるアレックスを順に見る。
 スティーブンは平然としているし、アレックスもまさか目の前の三十路がそのデカい犬だとは思わないだろう。ここで自分がぼろを出すわけにはいかない。

「え、えと、目立つんで、今日は家で留守番してるんですよ……ははは……」
「確かにあのデカさは目立つよな。名前はなんていうの?」

 隣の人と同じ名前です。なんて言えるわけがない。
 かといってうかつに変な名前をつければ後からスティーブンにチクチクと嫌味を言われるに違いない。
 この場を乗り切りかつスティーブンが納得してくれる名前を速やかに考えなくてはならないなんて、最高に難易度が高すぎる。
 そんなことを1秒の間に考えていたレオナルドを後目に、スティーブンが口を開いた。

「アランだ。まだ若い犬なんでね、やんちゃをしないように昼間は家で遊ばせてるんだよ」

 まだ若い。やんちゃ。
 盛大に戸惑いの眼差しをスティーブンに向けるが、すべて無視された。

「へぇ。あれだけデカいと色々大変じゃない?」
「それはまぁね。暖かくなって毛が抜ける時なんて特に大変だが、利口で飼いやすい犬だよ」

 どうやら狼スティーブンの設定は、まだまだ知らないものが数多くあるらしい。
 だが、上下関係でレオナルドが最下位という設定だけはどうにかしてほしかった。
 ソニックより下って、どういうことだ。
5/11ページ