Invisible medium

 憎悪に濁した瞳は迷うことなくレオナルドを射貫くと同時に、これまでに感じたことがないほど強烈な悪寒が全身を駆け巡る。
 目眩に似た感覚に身体が揺れてソファの背もたれにもたれかかるが、それ以上は指を動かすことすらままならない。

「レオ? どうした、レオ!」

 スティーブンが声をかけてくるが、やはり返事が出来ない。
 ただ触れることなく様子をうかがっているのは、慎重な彼らしい。

「な、なんだ? なにがどうなってるんだ!?」
「分からない、こんなことは初めてだ」

 腰を浮かせて戸惑うデニスをそのままでいるように手をかざして制するスティーブン。
 まさかこんなことになるなんて思ってもいなかったが、今は彼が同行してくれたことを感謝するしかない。
 ただ、無事に済んだらの話だが。

「『……う……あ……』」

 自分の意思に反して口が開き、酷くしゃがれた呻きに近い声が零れる。
 それが何を意味しているのか、考えるまでもない。
 今のレオナルドは憑りつかれているのだ。そう、あの老婆に。

「『……お……あ……え……ああ……』」

 何かを訴えようとしているようだが、その声は言葉にならない。
 生きている者の身体を乗っ取るということは無理やり生者と死者の壁をこじ開けようとするものだから、よほど強い力を持つものでなければ不可能に近いと聞いたことがある。
 だとすればこの老婆は相応の力を持っているが、それでも言葉を伝えるには足りないということか。
 やがて諦めたのか、身体から何かが抜ける感覚と同時に酷い脱力感に苛まれたレオナルドは、ぐったりとソファに身を預けて自分を見つめる4つの瞳に力の入らない笑みを浮かべてこう言うしかなかった。

「だ、大丈夫なんで、お気遣いなく……ははは」


 しかしそれで納得されるはずがない。
 デニスには憑りついている幽霊がレオナルドの身体を使って何かを訴えようとしたのは確かだが、なんの準備もしない状態でのことだったので、上手くいかなかったようだと素直に伝えた。
 それから申し訳ないが今日はこれまでにすることと、後ほど簡易的なお守りを届けることを約束して一旦デニスの家を後にした。
 仕切り直しがしたいことをデニスは渋ったのは言うまでもないが、なんの準備もなくてはこれ以上レオナルドに出来ることはなにもない。

「まったく、君というやつは」
「あれは不可抗力っていうか、なんの前触れもなかったんですよぉ」

 ひとまずは家に帰るために歩き出した途端に始まったスティーブンの説教だが、最初の一行でレオナルドは降参の意を示す。
 なにせ本当になんの前触れもなかったために、抵抗する暇さえなかったのだ。もちろん抵抗と言っても、あの場合に出来たのは迫ってくる老婆からひたすら逃げることくらいだったのだが。

「何が起こるか分からんのなら、それなりに準備をしてから来るものだろうが」
「うう、それを言われると何にも言えねぇんですけど、まさかあんなに強い幽霊だとは思わなかったんですもん」
「そんなに?」
「そんなに。一筋縄ではいかない可能性が出てきました」

 とはいえ一度受けてしまった依頼だ。
 スティーブンはキャンセルをすべきじゃないかと言うが、可能性がある以上は最後まで諦めたくない。
 そう、レオナルドはあるひとつの可能性を見出したのだ。

「デニスさんの背後にいた、無茶苦茶怒ってるおばあさんが僕に憑いたんです」
「それはいわゆる背後霊?」
「どうでしょう。そもそも僕、背後霊って見たことないんですよね。なんていうかそういう守護的な人? って、見守ってくれてはいますけど近くにいないっていうか……うまく言えないですけど、なんかあちこちにいる幽霊とはまた別物って感じなんですよ」

 レオナルドとてその辺りのことは見える範囲のものを自分なりに解釈するしかないので、スティーブンに伝わったとは思っていない。
 しかし彼はそうかと小さく頷くに留めた。

「なら、君が見た老婆はなぜアドキンズ氏を睨んでいた?」
「そこんとこは、これから調査するしかないっすね」

 調査という花屋に似つかわしくない言葉。今度は意味が分からないと言わんばかりに、スティーブンが首を傾げた。


 デニスにお守り――以前シャーロットに魔除けになると言われてもらった中身が不明な口をしっかりと紐で閉じた小袋――を渡し一晩様子を見て明日連絡をくれるように話した後、レオナルドはスティーブンと共にパブ『OLD BOTTLE』を訪れた。
 中に入ると昼間にもかかわらず、薄暗い店内は会話と酒を求めてやってきたらしい人々で賑わっていて。
 花を届けに来た時のゆったりと時間が流れているような感じとは少し違う、穏やかながらも外からは隔離されたわずかに熱を含んだ独特の空気が満ちている。
 忙しそうにカウンターで1人働いているアレックスに声をかけると、なにか気づいたのだろう。店の片隅にある空いているテーブルを指さして、そこで待っていてほしいと伝えてきた。

「だ、そうですけど」
「せっかくだ、少し早い昼飯にしよう」

 ここに来た日にレオナルドが言ったことを、スティーブンは覚えていてくれたようだ。あの時は絶対にその日は来ないと思っていたから、その分とても嬉しくて。
 頷いたレオナルドに、スティーブンは先に席に座っているように言う。
 まだ客が入ってくるので席を取られないようにするため、注文と場所取りの二手に分かれることにしたようだ。
 メニューを見て料理を選びたかったが、ここはスティーブンに任せようとレオナルドは先に指定された席に座る。
 長年使われているのか光沢のある飴色の木で出来た丸テーブルに、同じく木で出来た丸椅子。
 パブにはあまり来たことのないレオナルドだが、ここの雰囲気は画像で見るイメージのパブというより、ファンタジーや中世などの時代映画で見るような酒場のイメージが近いかもしれない。
 お陰で居心地は悪くないな、とテーブルの上に腕を置き、カウンターでアレックスと話をしているスティーブンの背中を眺める。
 アレックスが何度か頷き、スティーブンが踵を返してこちらに向かってきた。

「フィッシュアンドチップスとコーヒーを頼んできた」
「ありがとうございます! そういえばスティーブンさん、人の姿だとテイラーさんと初対面っすよね、なんか言われました?」
「ん? それがそうでもないんだな」

 頬杖をついて不敵な笑みを浮かべるスティーブン。
 いったいどういうことだと小首を傾げるが、スティーブンは答えようとしない。
 これは絶対に何か隠しているか企んでいるに違いないのだが、これまでにヒントになるようなことは気づけなかった。
 待つ間に会話はなく、周囲の音に耳を傾けて時間を潰す。
 やがて店を満たす複雑な、それでいて心が落ち着く香りの中にあっても分かる良い匂いに、腹の虫が鳴き出した。

「フィッシュアンドチップスとコーヒー、お待たせ。後30分もすれば落ち着くと思うから、それまで食って待ってて」

 カウンターから出てきたアレックスは手慣れた手つきでたくさんのポテトフライと大きな揚げたてのタラのフライが乗った皿をふたりの前にそれぞれ置いていく。カトラリーとコーヒーも置かれれば、狭いテーブルはいっぱいだ。

「悪いな、アレックス」
「俺が頼んだ仕事なんだ、当然さ」

 そして美味しそうなフィッシュアンドチップスに歓喜するより前に、スティーブンとアレックスがそんな軽い口調でやり取りをするのを見てしまっては、レオナルドはぽかんと口を開くしかない。
 まるで昔からの知り合いだったと言わんばかりだが、一体どういうことなのかと去っていくアレックスからスティーブンへ目を向ければ、彼は悪戯が成功した子供のようににんまりと笑ってフォークを手に取った。

「えと、スティーブンさんとテイラーさん、知り合い……なんすか?」

 狼の時にしか来ていないから、てっきり2人は今日が初対面だと思ったのに。

「まぁね。始めて来たのは、君が依頼を受けたすぐ後だったかなぁ。知り合いに聞いたら美味いパブだって教えられたから、興味本位で」
「ちょ、依頼を受けた時はそんな気全然なさそうだったのに!」
「実際にその時はまた来る気はなかったんだろ。まぁ文句を言わずに食えよ、ここのフィッシュアンドチップスは美味いぞ」
「ごまかした!」

 大人はズルいとも思いつつ、目の前にある誘惑には逆らえない。
 テーブルに置かれたお酢を少しだけタラのフライにかけて、フォークとナイフで切り分ける。
 衣のサクッと切り口からふわっと上がる白い湯気に、白身がナイフについてほろっと崩れるのを見ると、話は後からでもいいかと思えるから困ったものだ。
 添えられたタルタルソースをたっぷり載せて口に運べば、細かく刻んだピクルスの爽やかな酸味のあるソースと相まって油っぽさが緩和される。
 倫敦でフィッシュアンドチップスを食べられる店は星の数ほどあるが、ここは当たりだと素直に思う。
 そして同時に、こんなに美味しいのに黙っていたスティーブンに少しだけ怒りがこみあげてきた。

「なんで来てたの、内緒にしたんすか。言ってくれてもよかったのに」
「すまんすまん。依頼のことを君が簡単に受けたのを快く思っていなかったのは確かだし、小言も言った。その後にあそこは美味いぜ。なんて言えるわけないだろ」
「ぐっ……確かにそれはそうですけど」
「バラしたんだから、もう許してくれよ」

 ここは奢るから、とウィンク付きで言われて。
 ウィンクはともかくフィッシュアンドチップスは美味しいし、奢りならばと許してしまいそうになる自分はチョロいのだろうかと思いつつ、フライドチキンを追加注文することに成功した。
 そうこうしてレオナルドは美味しいパブの料理を堪能し、スティーブンはそんなレオナルドの皿に自分の皿に残ったフライドポテトを移す頃になると、いつのまにか雑音が減ったことに気づく。
 見れば周囲からずいぶんと人が減っていた。昼のピークを過ぎたのだろう。
 知らないうちに増したフライドポテトを食べていると、カウンター越しにアレックスが手招きしていることに気づく。
 まだ食べたいが話を先にしておいた方がいいと、後ろ髪を引かれつつ皿をそのままに席を立ちあがったのだが。

「持ってカウンターの席に行けよ」
「仕事っすよ?」
「残すよりはいいだろ」

 スティーブンが立ち上がる際にそう言ってくれたので、レオナルドは嬉々として皿を手にしカウンターの席へ向かう。
 出入り口に近いハンドポンプが並んだ場所よりは奥、中が見えない厨房に近い場所が客席になっていて、背の高いスツールが5つ並んでいる。
 レオナルドは一番手前に、スティーブンはその隣に腰掛けるとアレックスがコーヒーのお代わりを聞いてくれたので、淹れてもらうことにした。
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