Invisible Flowers
帰宅時間のピークが過ぎたころ、レオナルドは店を閉めた。
真っ先に黒板を店の奥に入れ、イーゼルを片づける。次に花が入ったバケツを店の一番奥にあるドアから、裏のバックヤードに手当たり次第入れていく。
速やかにフラワーキーパーと呼ばれる冷蔵庫のように温度調整ができる保管ケースに入れたかったが、ひとりだけなので目を離した隙に売り上げがレジごと消える、なんていう大惨事を免れるためにもこうするしかない。
歩道にはみ出ていた分を入れ終えたところでシャッターを下ろそうとしたら、通りがかった若いスーツ姿のビジネスマンに声をかけられた。彼女の家に花を持っていきたいが、まだ大丈夫かと尋ねられ、それならばと唯一売れ残ってしまった花束を急いで裏から持ってくる。
ピンク系のアルストロメリアとガーベラ、それに白いスターチスでまとめた小ぶりな花束は、さりげないプレゼントにぴったりだと思う。
予想通り嬉しそうにその花束を買ってくれたビジネスマンを見送り、今度こそ今日の営業は終了。
シャッターを閉めた後、レジの売り上げを計算して帳簿に書き込み、現金と共にバックヤードにある金庫に入れればようやくひと段落だ。
今どき紙の帳簿に書き込むのはアナログだな、と思うけれど、レジがネットで繋がっているためにデータは自体はオーナーのところへすでに行っている。だからレオナルドが行っているのは、ちゃんと売上が正しいか確認しているにすぎないのだ。
息を吐いたレオナルドは次に売れ残った花が入っているバケツの水の様子を見ては、フラワーキーパーに入れていく。
花に関してはほとんど素人なので、こうしてしまっておいて明日の朝にやってくるオーナーがきちんと確認して手入れをしてくれることになっている。
つまり名ばかりの店主は花を販売することしか出来ないわけで。
それでも、この仕事は好きだ。
「今日は結構売れたなぁ。あの犬がお客さんを呼んでくれたとか」
日本にそういうことが出来る猫がいるという話を聞いたことがあるし、そのたぐいなのかもしれない。
だとしたら毎日でも来てくれればいいのに、と思いながらバックヤードの隅にある鉄製の階段を上がっていく。
カンカン、と甲高い音を響かせながら2階に上がり、手探りでスイッチを入れる。
近代的な照明ではなくぼんやりと灯る白熱電灯に照らされたのは、素っ気ないだけでなく薄汚れた白い壁に、簡素なキッチン。それに後から入れたのだろうクリーム色の壁の向こうは小さなシャワールーム。
置いてある家具はスチール製の棚に小さな丸テーブルとひとり分の椅子、そしてパイプベッド。それらが狭いスペースにすべて押し込められているこの場こそ、レオナルドの城だ。
元々は花屋になる前の店の事務所だったらしく、そこへ住み込みで働くために必要最低限のものを入れたに過ぎない。
それでも家賃の高い倫敦で中心地まで20分の距離に住めるのだから、申し分ないと思っている。なによりありがたいのは、オーナーの厚意で格安の家賃と水道光熱費は無料ということだろう。
最初は家賃まで無料になる予定だったが、さすがに申し訳ないから払わせてほしいと何度もお願いしてわずかだが支払っているものの、それ以上は水道光熱費も頑として受け取ってくれなかった。
お陰で当初の予定より貯蓄が出来ているし、仕送りも滞りなく行えている。
足の悪い妹の治療費にしてほしくて送っているのだが、無事を知らせる頼りの代わりでもあるのだ。
だから止める家族を振り切って倫敦に出てきた身として、少しでも心配をかけなくて済むようになったことは本当に助かっているし、オーナーには感謝してもしきれない。
その分、少しでも仕事で返そうとレオナルドは思っている。
これから行う仕事も、そのひとつだ。
小さな冷蔵庫から休みの日に買い置きしておいた牛乳と食パン、ハムを取り出し、パンにハムを挟んだだけの簡単なサンドイッチを作って口に放り込む。それをコップに注ぐことなく容器からそのまま数口飲めば、今晩の夕食はおしまいだ。
残っている牛乳を冷蔵庫に戻し、エプロンを外して椅子にかける。
狭い室内をうろうろしながらそれらを立ったまま行ったところで、レオナルドはベッドの近くにあるスチール製の棚に設置したフックにかけられているゴーグルを取って首にかけた。
後はスマホと鍵、それに財布をポケットに入れたところで黒いマウンテンパーカーを着れば準備万端。
「やっぱり黒一色ってどうにも胡散臭いよなぁ」
マウンテンパーカーのファスナーを上げつつ、レオナルドはぼやく。
目立たない方がいい仕事なのでこの服にしたのだが、上から下まで真っ黒、見えるのは糸目の顔と青いレンズが特徴的なゴーグルというのは自分でもどんな印象をもたれるか分からない。
今までだって何度も困惑した顔で見られたことがあるのを思い出し、レオナルドは服を買うための貯金をすべきか考えながら、部屋の明かりを消して階段を降りて行った。
グゥン、グゥン、と鈍い音を規則正しく立てるフラワーキーパーのモーター音を聞きながら、店に背を向けてもうひとつのシャッターへと足を向ける。
小さめのシャッターは商品を搬入するために使われるためにあり、その隣にあるドアを開け、レオナルドは外へ出た。
支度をしている間にすっかり暗くなった、所々ひび割れたコンクリートに覆われたここは、店のある通りに並ぶ建物ののための私道だ。とはいえ小型トラックなら入ることが出来る広さがあるし、出入り口は石造りの壁とシャッター、それに住人だけが持っている鍵で入れる扉で守られている。
なんでも昔はここに宿があったらしく、馬車や馬を入れるために作られたらしい。古いものを大切に使う英国だからこそ残ったこの道は、今も住人たちに重宝されている。
ドアを出てすぐの片隅に置いてあるスクーターをちらりと見たが、普段から世話になっている相棒に休んでほしい、もとい燃料は節約したい。
今日は歩いていける距離だし、大丈夫だろうと店のドアの鍵をかける。
そしてようやく、レオナルドは暗くなった街へと歩き出した。
私道の出入り口であるドアから外に出て、こちらも鍵をかける。そして店がある通りへ出たところで、不意に立ち止まった。
店の前にあの黒い犬がいるのだ。
人とは比べ物にならない鋭い感覚で気づいたのか、犬がレオナルドの方へ振り返る。
しかし犬はレオナルドの姿を確認すると、音もなく踵を返して走り去ってしまった。
やはり不思議な犬だ。けれど怖いという気持ちはなく、いつか仲良くなれたら、なんて思ってしまう。
「餌を用意しとくかなぁ」
まずは餌付けから。というのは安直かもしれないが、野良だから食べるものに困っているかもしれないし、上手く懐いてくれれば保護することだって出来るだろう。
そうした後のことはまた考えなくてはいけないけれど、酷い目にあっていないか心配するよりはよっぽどましだ。
今度見かけたら挑戦しよう。
偶然と相手の気分に任せた心もとない誓いを立てて、レオナルドはスマホを取り出した。
見えない花の届け先は、レオナルドの家からは少し離れた閑静な住宅街。
少し離れると治安が悪くなると言われている町のギリギリの境界線だ。
街灯が少なくなり、影と闇の境目が見えなくなった時間は住み慣れた町でもとても不気味で、身体全体で何かを感じてしまう。
こんな時はのんびりしないでそそくさと家に帰るのが一番だ。
若い女性なら、なおさら。
性別で人を判断してはならない。対等に扱われるべきだ。そう言われても、ずっと妹を守ってきたレオナルドにとってはどれだけ自分より強かったとしても女性は守るべき存在だと思っている。
そこに下心も男の見栄も矜持もない。
妹を守る兄として育ったレオナルドにとっては、ごく自然と身についた考え方なのだから。
「えっと、この家かな」
電話で聞いた住所の場所は、3階建てのアパートメント。その3階へ赴きチャイムを鳴らすと、数分間があった後にゆっくりとドアが内側に開いた。
わずかに開いたドアから顔を覗かせたのは、赤茶色の髪を下した女性。薄化粧を施し少し目じりが下がったおっとりとした優しさを感じる丸みのある顔には、複雑な感情が不安になって表れている。
その不安がなんなのか、レオナルドはすぐに察した。
「はじめまして、レオナルド・ウォッチと申します。『見えない花』をお届けに上がりました」
「本当に、あなたが……?」
思ったとおりだと苦笑したくなるのをぐっとこらえ、レオナルドは頷く。
年齢よりかなり幼く見える容姿のせいで、初対面の人を戸惑わせてしまうのはよくあることなのだ。そしてこれから行うことも、この容姿のせいで少し大変になってくる。
「こんな見た目なんで驚かれたかもしれませんけど、仕事はちゃんとしますから」
思っていることを指摘されたからか、女性は不意に肩を叩かれて驚いたようにわずかに身体を揺らす。
そしてしばし迷った後、ゆっくりと扉を開いた。
Tシャツにジーンズというラフないでたちの彼女に促されて中に入ると、女性の部屋らしくなんとなくいい香りがする。
たとえるなら涼やかで落ち着きと品のある優しい甘さ。と思っていたら、入ってすぐ脇に置かれたチェストに飾られたカモミールの香りだと気づいた。
この花は今日のレオナルドの店では扱っていなかったから、他の店のものだ。
なかなか質がいいな、と思えるのはそれだけ花屋に馴染んだからだろうか。
そんなことを考えながら、女性に通されたのはリビングルーム。物価も家賃も高い倫敦にしてはそこそこ広さのある家だ。
進められて応接セットのソファに腰掛けると、女性はわざわざ紅茶を淹れてくれて。
まだ警戒心はあるだろうに、それでも受け入れてくれたことでようやく話を進めることが出来そうだ。
向かいのソファに女性が腰掛け、本題に入る。
「改めまして、今回はご依頼をありがとうございました」
「……メリア・ハウンドです。妹からあなたの話を聞いたんですが、本当に幽霊を退治してくれるんですか?」
メリアと名乗った女性に、レオナルドはやんわりと頷いた。
「退治っていうか、困っている人のところから離れてもらうように交渉するんですけどね。どうしてもって時はそっち系の専門家を紹介することにしてます。ですからハウンドさんが僕では不安だと思われたら、今からでもキャンセルは可能です」
そう、レオナルドのもうひとつの顔は、幽霊との交渉人。
元々その場にいた幽霊も、時と共に忘れられ、見知らぬ人間が勝手に入り込んでくることも多々ある。そんな時に起こる騒動を穏便に済ませるために、レオナルドは幽霊と交渉をして別の場所に行ってもらったり共存してもらったりするのだ。
英国にはゴーストハンターにエクソシスト、降霊術師など幽霊と接する職業はごく普通にあるが、レオナルドのように直に幽霊と話をするのは極めて稀なこと。
ゆえに信じないものも少なくなく、疑いの目を向けられることも日常茶飯事。もっとも、らしくない外見が一番の理由なのだけれど。
しかしそれでも続ける理由が、レオナルドにはあるのだ。
「いえ、お願いします。もう一刻も早くこの不安から解放されたいんです」
まだ彼女の身に起こっていることは聞いていないが、よほどのことなのだろう。
「分かりました。えと、前金になっちゃいますけど、いいです?」
金額は一律で50ポンド。
メリアの口から思わず「安っ」という呟きが零れたのを聞かないふりをしたが、もしかしたらレオナルドのことを知るまで色々調べては専門業者の代金の高さに挫折しかけていたのかもしれない。
深夜が主だから人件費がかさむので、高いのは仕方がないのだ。
「ありがとうございます。領収書を書いちゃいますね」
この仕事の時にしか着ないからと、マウンテンパーカーのポケットに突っ込みっぱなしだった領収書にペンを取り出して金額とサインを入れ、現金と交換してメリアに渡す。
それから今度は赤い手帳を取り出して開いた。
「それでは、仕事に取り掛かります。まず、あなたの身に起こっていることを教えてください」
「ひと月くらい前のことです。それまでは何事もなかったのに、夜に帰宅すると何かがいたような気配を感じるようになりました。最初は気のせいだと思っていたんですが、その気配がある日は、いつの間にかキッチンから食べ物が消えていることに気づいたんです」
「それ、幽霊じゃないような?」
物を動かすポルターガイスト現象などは有名だが、食べ物を食べてしまう幽霊は聞いたことがない。
素直に尋ねると、メリアは深い溜息を吐いた。
「私もそう思って不審者が入り込んでいるのかもしれないと警察に相談したんです。でも、そんな形跡はどこにもないって。最後には幽霊の仕業だって言って帰るし! あぁ、ごめんなさい。でも本当なの。けど、こんなことをどこに頼んだらいいのか分からなくて。そうしたら妹が友達からあなたのことを聞いたって」
信頼できる筋からの口コミなら大丈夫だろうと思ったのだろう。
真面目に仕事をしていてよかったと思いつつ、話を続ける。
「つまり、人の仕業とは思えない何かがいる、ということっすね。分かっている限りでいいので、気配を感じる時間から異変に気づくまでの時間を教えてください。それと良く消える食べ物も」
メリアが異変を感じている時間は、帰宅する夜7時から翌朝の6時まで。不思議なことに物音ひとつしないので、気持ちはよくないが眠れないわけではないことだけが幸いだと彼女は言う。
盗まれるのは主にパンや果物。時にはジュースの缶が開いているという話を聞いて、レオナルドはつい笑ってしまった。