Invisible medium


 しかして冬というのはいいものだ。
 中がどんなにみすぼらしい格好でも、アウターさえそれなりのものを着ていれば、そこそこ見栄えは良くなって見える。
 あくまでそこそこ、だが。
 真冬の倫敦で過ごすために勇気を振り絞って買った紺色のボアモッズコートを着たレオナルドは、そう心の中で自分に何度も言い聞かせながら、グリニッジの街を歩いていく。
 なぜ言い聞かせなくてはならないのか。その原因は全て自分の隣を歩く男にあった。

「だからな、君は服のセンスを磨くべきだ。何度も言うがそのモッズコートはいただけない。ただでさえ立ち上がったウォンバットのような体系をしているのに、身体に合わないサイズを着ていたら締まりのないアザラシになるって分からないのか?」

 上等な黒いチェスターフィールドコートを軽々と着こなして革靴を鳴らすスティーブンの呆れを盛大に含んだ容赦ない指摘が、チクチクと針のようにレオナルドを刺してくる。
 家を出る時に新しく買ったこのコートをスティーブンに見せた時は、彼の瞳はから光が消えた。
 呆れと憐れみと形容しがたい色々なものが混ざりすぎて色を失ったような眼差しで見下ろされた時には、ファッションに疎いレオナルドだって嫌でも察するというもので。
 しかし買った時は本当に良いと思ったし、体型を隠すのにちょうどいいと思った。
 なのにスティーブンから出てきた言葉は、レオナルドが期待した効果を全て批判するものばかりという事実に、いい加減堪忍袋の緒が切れた。

「だー! もう! そりゃスティーブンさんみたいに何着たって似合いそうな人には分かんねぇでしょうけど、こちとらちんちくりんなもんで、参考に出来るサイトも雑誌もねぇんですわ! ていうかウォンバットは立たねぇし!」
「なら、僕に聞けばいいじゃないか」

 人通りがあることもはばからず声を荒げてみれば、返ってきたのは予想外の答えで。
 思わずぽかんと口を開いて立ち止まれば、スティーブンも一歩遅れて立ち止まった。

「せっかく一緒に住んでるんだぜ。悩むことがあるなら相談してくれたっていいじゃないか」
「へ、あ、あ……でも、スティーブンさんは昼間は仕事で忙しいし、夜はあれだし」
「あれっていうな。会話は出来るんだから、遠慮する必要はないよ」

 確かに狼の姿でも会話に不都合はない。
 けれどなんとなくプライベートな空間に立ち入らないようにしてしまっているのは、レオナルドがまだスティーブン・A・スターフェイズという男に対してどこか警戒しているからか、まだ一度も実感していない上司と部下の垣根を越えられないでいるからか。
 なんにせよ、少なくともスティーブンが、レオナルドに対してプライベートを許してくれるという事実を突然突き付けたのか確かだ。

「は、はぁ、そうですか」
「仕事が終わったら、君に似合う服を教えてやるよ」

 再び前を向こうとする瞬間、スティーブンが笑った。
 優しさを含んだはにかむ笑顔。
 ほんの一瞬の出来事だったが、これまでと違う笑顔がどうしてかくすぐったい。
 どうにも照れてしまいそうなのを誤魔化したいのだが、フードの中の相棒は温かければなんでもいいと言わんばかりに沈黙を保っていて相手をしてくれそうもなかった。
 そんななんとなく気まずい気分で通りから地図を確認して住宅地へと入っていく。
 連続住宅といわれる長い長い建物は、皆同じように赤いレンガで外壁を仕立てられていてどれも同じように見えてしまう。
 けれど派手さはなく歴史を感じさせる穏やかなたたずまいは、冬の青空に良く似合っている気がした。
 たどりついたのは、2階建てのテラスドハウス。いわゆる縦割りの集合住宅だが、一部はフロアごとに貸すアパートメント式になっていて、アレックスはそこの2階部分を借りているらしい。
 ということは、依頼人は1階に住んでいるというわけで。
 赤茶色のドアの脇にあるドアベルを鳴らすと、インターホンからくぐもったような男の声が聞こえてきた。マイクの調子が悪いのかそういう特徴の声なのか、上手く聞き取れない。
 アレックスの紹介で来た花屋だと伝えると、プツリと切れてしまった。
 そして数分後、おもむろに玄関ドアが開く。
 出てきたのは頬がやつれて顔色の良くない1人の男。年は20代後半になるかどうかくらいに見えるが、ひょろりとした猫背なので本来の年齢より老けて見えてもおかしくない。こげ茶色の髪もパサパサで、重そうな瞼に目が細くなっている。
 はたして彼に何があったのか、それは背中にいるレオナルドにしか見えない老婆の鋭いまなざしが物語っているような気がした。

「テイラーさんの紹介で、『見えない花』をお届けに参りました。レオナルド・ウォッチです」
「デニス・アドキンズだ。本当に君が? いや、後ろの人?」

 レオナルドの外見ではさすがに納得出来なかったのだろう。不信感に揺れる瞳が縋るように後ろにいるスティーブンに向けられる。

「僕はスティーブン・A・スターフェイズ」

 自分のことは名前以外には何も告げず、スティーブンはレオナルドの前に出ると戸惑うデニスと半ば強引に握手を交わす。
 長身の男に見下ろされてデニスは困惑しているようだが、お陰でレオナルドだけではスムーズに進まなかったかもしれない話が上手くいきそうだ。

「ど、どうも……。それじゃあ、中に入ってください」

 すっかりスティーブンに圧されたらしいデニスに少しだけ同情しつつ、促されて中へ入る。
 短い共用の廊下に階段。アレックスは仕事に出ているので、2階は無人のはずだ。
 脇にある扉の先がデニスの部屋。1人暮らしに適した簡素な間取りは2DKで、入るとすぐにあるリビングはソファとローテーブル、それにテレビがあるくらいで飾り気がない。
 もしかしたら来訪者に備えて片づけたのかもしれないと思うのは、隅に置かれたゴミ箱に宅配ピザの箱などが押し込められるように捨ててあったからだ。
 少し肌寒いリビングでソファに座るように勧められ、スティーブンと並んで腰掛ける。
 ふたり――というよりスティーブンと並んでだと少し窮屈だが、そこは顔に出さないようにして向かいのソファにデニスが腰掛けるのを待った。

「本当に幽霊をどうにかしてもらえるんですか?」

 腰掛けるなり躊躇いがちに、それもスティーブンへデニスは問いかける。
 この誤解は解いた方がいいのか悪いのか、どうにも判断がつかなくてスティーブンを見ると、彼はこちらを見ることなく口を開いた。
 どうやらレオナルドの代わりに話をしてくれるらしい。

「お客様の求める『どうにか』によります。我々は俗にいう退治・除霊を目的とはしておりません。あくまで本来あるべき場所へ向かうよう促す、または害をなさないように交渉するのみです」
「交渉って……」

 デニスの困惑はいつものことだ。
 幽霊を見られる者は数多くいても、幽霊と直接交渉など到底不可能に近い。それは彼らが生前のように振る舞っていても、その存在のあり方は人と大きく異なっているからだ。
 なんとか意思疎通を図ろうとしても、なんらかの隔たりがあるのか大方はほぼ一方通行。
 レオナルドに言わせれば、それは彼らの存在をいかに認識しているかの違いが大きい。透明な硝子を挟んで話していたとしても、その硝子の厚みによって姿が歪み声が遮られれば、お互い明確に認識することは難しい。
 神々の義眼はその硝子を極力薄くしてしまう。だからレオナルドには幽霊の姿と声をはっきりと捉えることが出来るのだ。

「驚かれるのは無理もない。ですが、事実です。ご納得されないとおっしゃるのであれば、別の専門家ご紹介することも可能です」

 普段は見たことがないくらい朗らかな笑顔でそうスティーブンが畳みかける。
 全部レオナルドがいつも依頼人に話していることではあるけれど、どうしてこの人はこうもスラスラと人の代わりに話しているのだろう。

「いや、とても優秀な人だとは聞いてるんで、お願いします。もう限界なんですよ」

 丸めた背中をさらに丸めてデニスが溜息を吐く。
 背後の老婆がいったい何をやらかしているのかはまだ分からないが、健康を害して困っているのならば早々に解決した方がいいに決まっている。

「分かりました。マスター」
「え、あ、僕!?」

 突然スティーブンがマスターなどと呼ぶものだから、レオナルドは驚いて素っ頓狂な声を上げてしまう。

「僕が従うのは君だけだ。そうだろ、マスター」

 どうやらスティーブンは主従関係の設定をでっち上げたらしい。
 設定の詳細はここでは聞かないが、そういうことは先に言っておいてもらわないと、心臓が飛び出しそうになるからやめてほしいものだ。
 はーっと息を吐いて、混乱しているデニスへ顔を向ける。
 残念ながら混乱しているのはこちらも同じだ。

「えーっとですね、僕たちの関係は気にしないでください。この人、新人なもんで。それでは、代金は前金、現金で50ポンドです。追加料金は発生しません。よろしいですか?」

 デニスの口から「安っ」と零れるのもいつものことだ。
 財布を持ってくると奥の部屋に消えたのを見送りつつ、レオナルドはコートのポケットから領収書とペンを出して必要なことを書き込んでいく。

「そういえば僕ら、コートすら脱いでいないな。茶も出ない」

 客人を招いたのに、コートを脱がせずお茶も出さない。これはどうだと呑気にスティーブンは指摘するが、世の中には人を自宅に招いたことがないから接し方が分からない人だっているだろうし、そもそも信頼できるかどうか分からない謎の花屋なんて歓迎されていないだろう。
 別に期待していたことではないのでスティーブンの呟きは無視していると、デニスが戻ってきて10ポンド札3枚と20ポンド札1枚をテーブルに置いた。

「ありがとうございます、こちらは領収書です。それでは、お話をうかがってもよろしいですか?」

 ソファに座りなおし領収書を小さく畳んでポケットに入れ、デニスは視線を左右にゆるりと向ける。
 どこから話したらいいのか分からない。そんな印象だったので、沈黙が去るのをじっと待つことにした。
 やがて、口元を手で押さえながら、あの少しくぐもった独特の話し方をする。

「きっかけなんてのは分からない。クリスマス前だったかな……最初は、家の中でピシッピシッって音がしたんだ。その時は大した音じゃなかったし、すぐにやんだから気にならなかった」

 いわゆるラップ音というものか。とはいえその正体はほとんどが家鳴り、つまり建物が温度差による膨張と収縮を繰り返すことによって発生する音だ。
 なので必要に怖がることはないはずだが、デニスの話はそれだけでは納まらなかった。

「寝ていると棚から勝手に物が落ちてくる、身体の上に何かが乗って苦しく、目を覚ますと顔の黒い女が腹に乗ってた。しかも毎晩のように! お陰で寝不足だ……」

 よくある怪談話といえばそれまでなのだが、実際に経験している人物から聞くとリアリティが増すというもので。
 それらの怪現象を引き起こしているのは、おそらくデニスの背後にいる老婆なのだろうと予想をつけることは出来るが、なんとなく腑に落ちないところもあった。

「その人はあなたに何かを訴えたいと思っている可能性はあります。なにか心当たりはありませんか?」
「知らなっ……あぁ、そうだ、仕事で……いや、なんでもない」

 仕事、という単語に老婆が反応しないかさりげなく目を向けるが、残念ながら老婆に反応はない。ただただひたすらにデニスを睨みつけるその顔から噴き出す憎悪は、並大抵のことをしては湧き上がる事のないことをしでかした証と考えるのが妥当だろう。
 さらに何かあるとしても、出会って数十分も経たない相手のプライベートに踏み込むのは難しい。

「物事にはきっかけがあります。偶然嫌な感じのする場所に行った、建物と建物の隙間に何かを見た気がする。そんなとても些細なことでさえ、思いもよらないことに繋がるんです」

 急かすことなく思い出してほしいとゆっくり声を出して伝えると、デニスは丸めた背中をそのままに首を緩慢な動きで左右に振って考え込んでいる。
 どうやら先程零した仕事以外には思い当たる節がないらしい。
 そうなると後は背中の老婆と直接話をしなくてはならないのだが、何も準備をしていない状態で話をするには状態がよくなさすぎる。
 下手に介入して自分に何かあったらこの場で誰も対処出来るものはいないし、そんな迷惑をかけるようなことはしたくない。
 どうしようかとレオナルドが悩んでいるその時だった。
 それまでデニスを睨み続けていた老婆が、不意にこちらを見たのだ。
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