Invisible medium
残っていた商品の中から可愛らしくまとまった花束とカスミソウの束を手にして外へ出ると、白い息が闇夜に溶けた。
すでに倫敦はクリスマスムード一色だが、ここのように閑静な住宅地では、そんな浮かれた気持ちはひっそりとなりをひそめる。
けれどこんな静寂も悪くないと思う。それは隣に立つ狼が堂々と歩いていられるからだろうか。
教えてもらった住所をスマホで検索して、地図を出す。
ルート検索するほど遠くはなく、むしろ近所と言えるほど近い。これならば迷わずに行けるだろうと思うくらいには、レオナルドもこのグリニッジという町に馴染み始めたようだ。
家々の明かりが見下ろす町を、狼と並んで歩く。
脇道に入り、表の通りから外れた路地へ。とはいえここは車が通れる広さだ。スマホの地図を確認すると、目的地はさらに奥の細い路地を示していて。
存外グリニッジの駅から近く、知る人ぞ知るという風情なのだろうか。
想像しながらさらに角を曲がっていくと、嫌でも目立つくらい赤い塗装を施した1軒のパブをすぐにみつけることが出来た。
軒先には『OLD BOTTLE』という店名とボトルシップが書かれた看板がぶら下がっている。
昔から河港都市と言われるだけあって船と縁があることが由来なのかもしれない。
見上げた看板にそんな思いを巡らせてしまうが、すぐに我に返ることが出来たのは足に触れた狼の毛皮のお陰だろう。
看板の下にはブラックボード。自分の店と同じだな、と思うと少し親近感が湧いた。
書いてあるのは今日入荷した地ビールやお薦めの料理。まだ夕食を食べていなかったのを思い出し、つい腹を押さえては狼に笑われた。
窓越しに見える店内は、パブでよく見かける重厚なカウンターに並ぶ金色のハンドポンプ、立ち飲みが多いのか、背の高いテーブルには椅子が備えられていない。
奥行きのあるらしい店舗の中までは見渡せないが、和やかに談笑する人たちを見ると雰囲気は悪くないようだ。
実のことをいうと少し緊張していたレオナルドは、この様子に胸を撫でおろしてドアに手をかけた。
「スティーブンさんは待ってます?」
「一度入ってみて、どう対応するかで考えるよ」
倫敦では犬が入ることの出来る飲食店は少なくない。
それならばと頷いてドアを開き中に入る。スティーブンが入るために開けたドアを手で押さえていると、カウンター越しに声をかけてくる男がいた。
「いらっしゃい。えーっと、君ひとり?」
伸ばした濃い茶色の髪を後ろで無造作に結い、少し長い前髪の隙間から深い碧眼を覗かせた長身の男は、スティーブンよりは若いか同じくらいだろうか。引き締まった均衡のとれた身体も相まってなかなかのイケメンだ。
そんな彼が何を言わんとしているのか、何度も同じ目に合っているレオナルドには察しがついている。
ジャンパーのポケットから普段は使い道のない免許証と取り出して彼に見せると、納得したのか小さく頷いてくれた。
「すまないね、お客さん。パブ『OLD BOTTLE』へようこそ。そっちのわんこもようこそ」
「あ、僕は客じゃなくて、頼まれた花束を持ってきたんです。えと、フラワーショップレオーネなんですけど……分かる人はいらっしゃいますか?」
「あぁ、頼んだのは俺だ。声からして若いな、と思ったんだよ。俺はこのパブの店主、アレックス・テイラー。よろしく」
「レオナルド・ウォッチです。ご注文の花束ですけど、こちらでよろしいでしょうか」
カウンター越しに差し出した花束を受け取ったアレックスは満足そうに頷く。
安堵して胸を撫で下ろしたレオナルドは、次にカスミソウの束を彼に手渡した。
「残り物で申し訳ないんですけど、こっちは僕からお誕生日のお客様へ」
「きっと喜ぶよ。代金を支払うからちょっと待ってて」
ビールを注文しにカウンターへ来た客の対応をすべく、アレックスが花束をそっとカウンターの上に置いて離れていく。
店の雰囲気もそうだが、アレックス自身もなかなかに好感がもてる人物のようだ。
同意を求めるように下を向けば、なぜかスティーブンはそっぽを向いて。
高いカウンターの上を今の彼では見ることが出来ないから、疎外感を感じているのかもしれないと、レオナルドは納得しておくことにした。
「昼間に飯を食いに来ましょうよ」
「そのうちな」
これは来る気がないな、と分かる社交辞令的な返事に苦笑していると、アレックスが戻ってきた。
狭いカウンターから距離が離れていないので、今の会話――他人にはレオナルドの独り言にしか聞こえないのだが――を聞かれてしまったかだろうとは思わず身構えるが、アレックスは気にすることなく先に電話で伝えておいた代金を支払ってくれた。
これで完全に今日の仕事は終了。
礼を言って店を出れば、後は家に帰ってくつろぐだけだ。
しかし、ここで思いもよらないことが起きた。
「君の店、見えない花を扱ってるんだって?」
それは、グリニッジへ来てから初めて聞いた言葉だ。
踵を返そうとした足が止まり、どことなくスティーブンに似た喰えない笑みを浮かべたアレックスを凝視する。
花束を贈る常連客に聞いたのだろうか。だとしても、これまでにグリニッジでは見えない花のことを聞かれたことはない。
はたして意味を知ったうえでアレックスが尋ねているのか、意図が分からず口を噤むと、沈黙を肯定と捉えたらしい彼の方が先に口を開いた。
「え、マジで? お客さんから不思議なことが書いてあるって聞いて検索したら都市伝説でヒットしたんだけど、本当なんだ!」
「と、都市伝説ぅ!?」
カウンターから乗り出すようにして、興奮気味に話すアレックスに面食らう。
なんでもネット上では見えない花を扱う花屋に依頼すると、幽霊絡みの事件を解決する探偵に繋げてくれると噂されているらしい。
具体的な店名や場所は掲示されていなかったのは幸いだが、よもやそんな噂話になっていようとは、想像していなかった。
「あー、まぁ、半分正解で、半分外れみたいな? 依頼は受けますけど、仕事をするのは探偵じゃなくって僕なんですよ」
ヒーローっぽい見た目でなければ知性もカリスマ性もない自分に、アレックスは驚くか呆れるか、それとも信じないか。
さてどれだろうな、とカウンターの中へ戻っていくアレックスにさしたる期待もしていなかったが、返ってきた言葉は少し予想外のものだった。
「見えない花の仕事を頼んでもいい?」
「あ、はい」
だからついうっかり間髪入れずに答えてしまったレオナルドを下からスティーブンが半ば呆れながら見上げ、家に帰ってからも小言のように散々言われても、何も言い返せなかった。
――翌年、1月の始め。
盛大に忙しいクリスマスから年末まで、レオナルドとスティーブンはそれぞれの仕事に追われた。
花屋も秘密結社も大盛況、というのは半分嬉しく半分複雑だ。
昼間は花屋が大忙し、夜はライブラの書類を持ち帰ったスティーブンの手伝いをして大忙し。
狼になると書類を持てないなんて、ふざけている。そんな当然のことにスティーブンがキレるくらいの忙しさだった。
お陰でイベントらしいイベントを味わうことなく迎えた新年だが、ここへ来てアレックスから正式に仕事の依頼が舞い込んできた。
というのも昨年にアレックスから受けたのは、正式な依頼ではない。
同じアパートメントに住む住人が、幽霊で困っているというのだ。
住人とは特に親しいわけではないそうだが、共通する知人から相談されていたらしい。
そこへ見えない花を扱う花屋の話と都市伝説、そしてレオナルドへとたどり着いたということだ。
一度知人を経由してその住人に伝え、正式な依頼となるか連絡すると言われて数週間。
ホリデーシーズンは実家に戻っていたらしい住人の依頼は、アレックスからの連絡で決定した。
「というわけで、明日は店をお休みして依頼人のところへ行ってきます」
ひとりと2匹の夕食でそう宣言すると、わざわざ椅子に座って皿に顔を突っ込んでいる狼のスティーブンが顔を上げた。
皿をなめるような真似は絶対にしない、けれど椅子に座りテーブルに置いた皿から食べるのはとても大変そうな狼は、まだまだ人としての矜持を捨てる気はないようだ。
今日のメニューは温野菜とシェパーズパイ。どちらもレオナルドが作ったものだが、スティーブンは文句をいうことなく食べてくれている。
スティーブンが夜は狼になってしまうために自然と夕食をレオナルドが作っているのだが、作った本人はあまり美味しい出来とは思っていない。逆に朝食はスティーブンが作っているが、こちらはお金を取られても文句が言えないほど美味しい。
同じ食材を使ってレシピを見て作っているのにこの差は何なのだろう。
自分ひとりの時は思わなかった悩みに、もっと美味しくしなければとまだ芯の固いニンジンを咀嚼しつつ思うのだった。
それはさておき。
「幽霊に悩まされているにしては、ずいぶんと呑気だったな」
「里帰り中も悩まされていたらしいっすけど、向こうで霊媒師さんに頼ったんですって」
「しかしその霊媒師が偽者だったか大した力がなかったのか、一向に解決しなかったわけだ。しかしだからといって名の知られていない花屋に縋るかね」
「おうおう、言ってくれるじゃねぇですか。倫敦で幽霊関係の職業なんてそれこそごまんといますけどねぇ、実際に解決できる人なんて、それこそごくわずかなんですよ!?」
「ふぅん。それで?」
話の趣旨が変わっていると言外に伝えてくるスティーブンに、レオナルドは冷水を浴びせられたような気持ちになってぐっと言葉を詰まらせる。
確かにこれでは何を言いたかったのか要領を得ないだろう。
専門家ではないことを馬鹿にされたような気がして苛立ってしまったことを反省しつつ、言葉を選んで口を開いた。
「……確かに僕程度に頼るくらいなら、専門家を探した方が確かだと思います。でもそういう人たちって見えない相手なのをいいことに詐欺まがいのことをしている人も多いですし、知らない人は見極めがとても難しいんです。だから噂でも頼ってもらえるのは嬉しいといいますか」
「そういうことを言いたいんじゃないよ。君の実力は確かなのは保証する。だがその依頼人はプロを雇うくらい困っているんだろう? そんな人物が、噂で聞いた程度の専門家を名乗っていない君を次に当てにするっていうのは、どうにも腑に落ちなくてね」
「一度失敗したら、次はもっといいところにって思ってもおかしくないってことっすか」
スティーブンの言うことはもっともだ。
頼んだ霊媒師がどれほどの実力だったにせよ、レオナルドは一介の花屋で格安の幽霊交渉人。
本当に都市伝説になっているかどうかはさておき実績をアピールしているわけでもないのだから、次の選択肢に上がること自体が不思議だ。
「ま、噂に尾びれがついて、倫敦屈指の探偵が来ると思われているのかもしれないね」
「うっ……ま、まぁその時はその時で。でも幽霊が相手の探偵っすか。見た目ならスティーブンさんの方がそれっぽいかも」
「なら、明日は君についていこうか」
狼の顔なのに、なんとなくスティーブンが楽しそうに笑っている気がする。
「昼間ですよ? スティーブンさん、仕事は大丈夫なんですか?」
「お陰様で、しばらくは時間にゆとりが持てそうなんだ」
どうやら裏社会も年末年始が多忙だった分、少しは暇になるらしい。
そんなものなのだろうかと知らない世界にフォークを咥えたまま小首を傾げたレオナルドは、さてどうしたものかと目の前の狼を見て悩むのだった。