Invisible medium
巡り巡って返ってくるもの。
廻って廻ってやってくるもの。
どんな名前をつけるもの?
フラワーショップ・レオーネ。
倫敦はグリニッジの一角に新しく出来た小さな花屋は、クリスマスを間近に控えて浮足立った人たちの目をしばし止めていた。
けして広くはない店舗は道路と店内を分ける扉も壁もなく、それどころか歩道に少しはみ出すように切り花が入れられたバケツが置かれている。
数本を束にして茶色いワックスペーパーで包んで販売するのは倫敦ならどこでも見かける光景で。他には小さくも愛らしいブーケが背の低いバケツの中、まるでおめかししたレディたちがおしゃべりを楽しむかのように風に揺らいでいた。
少し音程の外れた鼻歌と共に零れる白い息。
倫敦の寒さに頬を赤らめながら、首に巻いた羊毛のマフラーのチクチクと首に当たる感触に、店主であるレオナルドはきつく巻きすぎたかと指を首とマフラーの間に入れて軽く隙間を作ってみる。
見上げた空はどんよりと曇っており、冷たい空気と相まって今にも雪が降りだしそうな気がした。
「こういう日は、早めに閉めた方がいいんだろうなぁ」
室外に出すことを考慮してオーナーが選んだ花たちはどれも寒さに強い品種ばかりだが、だからといって一緒にいるレオナルドが寒さに強いわけではない。
なんとなく店に立つ時の制服となってしまったうぶかぶかのプルオーバーにぶかぶかのズボン、そして紺色のエプロン。さらにその上に今日は赤いジャンパーとクリーム色のマフラー。これでもまだ寒いのは、住宅に挟まれた道路を吹きぬける冷たい風のせいだろう。
店の中にはちゃんと電気ヒーターがあるのだけれど、そこへ行くと背の低いレオナルドは花の奥に隠れてしまい、客からすれば店が無人に見えてしまう事態になりかねない。
それはどうにも売り逃しに繋がってしまいそうな気がするのでこうして頑張って立っているわけだが、12月半ばでこれでは、本格的な冬を迎えたらどうなるのか――考えただけで身震いしてきた。
幸いなことにこんな明るさの乏しい空の下だからか、鮮やかな花の色に惹かれてお客は頻繁にやってくる。
寒さにかじかんだ手でついお釣りを落としそうになったりすることはあったが、動いたりおしゃべりをしていたりするだけで、自然と寒さはやわらいだ気がした。
とはいえ、冬の倫敦の日暮れは早い。
実感させてくれるのは、徐々に早くなってきた同居人の帰りだ。
「スティーブンさん、おかえりなさい」
ちょうど客が引けたので、彼がこっそり玄関ドアを開こうとしたところにそう声をかけた。
声をかけられるとは思っていなかったのか、少し驚いて疲れたように表情を消した瞳がわずかに見開いてこちらを見つめる。
「……ただいま」
どこか居心地が悪そうな小声。
けれど仕事帰りのスティーブンはいつもこうなので気にしない。
レオナルドは相変わらず秘密結社ライブラでの仕事にさして関わっていないが、裏社会での出来事をスティーブンが口にすることもあまりない。
彼は上司なのだから言いたくないのなら首を突っ込む必要はない。そう考えているので、この日もなぜかばつが悪そうに頭を掻きながら家に入っていくスティーブンに小首を傾げるしかなかった。
「あったかいものでも用意しておけば良かったかなぁ」
これからスティーブンは日が完全に沈めば狼に変化してしまうので、キッチンなど人の姿であれば簡単に使えるものさえ使えなくなってしまう。
一緒に暮らすようになって、その大変さはレオナルドも目の当たりにしていた。
けれどスティーブンはレオナルドに負担をかけたくないのか、それとも面倒をかけることを良しとしないからなのか、必要なことは人の姿の間に済ませてその時を待っている。
とはいえ、これがまたレオナルドにとってはあまりいいものではなかった。
元々世話好きな気質ゆえ、何かにつけてスティーブンの困りごとを手伝おうとなにかと声をかけてしまうのだが、大抵は素っ気なく「大丈夫だ」の一言で片づけられてしまうのだ。
レオナルドの前の家に転がり込んできた時や外であった時は、もっと自分を振り回す大人だと思っていた。
なのに一緒に暮らしてしばらく経つと、その考えは変わっていって。
「距離がある感じ? いや、違うな。近づくと遠慮しがちになるような……や、これってなんて言うんだろ。あ、いらっしゃいませー!」
モヤモヤした気持ちは声をかけてきた客のためにどこかへ放り出し、いつもと変わらない笑みを浮かべて出迎える。
切り替えが早いのはレオナルドの長所だ。
だからこの時のモヤモヤは、もう戻ることはなかった。
こうしてこの日も夏ならばまだ夕方と言える時間帯には、とっぷりと日が暮れて。
寒さが増した夜の空を見上げたレオナルドは、まもなく閉店時間になることを確認して後片付けに入り始めた。
花を仕入れてくるオーナーのクラウスの見事な判断というべきか、売れ残った花はとても少ない。今までだってまったく売れなかった日はないし、残ってもほんのわずかでだいたいは翌日に売れてしまう。
見事なものだと経営に関して詳しくないレオナルドも舌を巻くほどだが、このことをスティーブンに話すと、「商売っ気はないんだよな」と少し複雑そうな顔をして返されたものだ。
バケツを持ち上げて店内に入れ、残った花はワックスペーパーを解いて水が入っている別のバケツに移す。窮屈だった場所から少しは解放されてホッとしてるような水仙に、売れ残ってしまったけれどつい表情がほころんでしまう。
移し終えた花は店の奥に設置されたフラワーキーパーに入れて、また店の外へ戻って。そうやって何度も往復して片づけをしていると、レジに置き去りになっていた仕事用のスマホが鳴っていることに気づいた。
プライベートとは分けて使う用に、クラウスに託されたものだ。
「はい、フラワーショップレオーネです」
『失礼、この番号はグリニッジに新しく出来た花屋のものでよろしいでしょうか』
スマホの向こうから聞こえてきたのは、若い男の声。
遠くでガヤガヤと賑わっている声が聞こえてくるから、どこかの店の中からかけているのだろうか。
「ええ、そうです」
滅多にない電話だ、もしかしたらクレームかもしれない。
レジの下にある引き出しからメモ帳とペンを取り出し、身構える。
万が一の場合はオーナーであるクラウスに報告し、指示を仰がなくてはならないだろう。
『近くにあるパブなんですが、配達は可能で? 実はお得意さんの誕生日で、なんでもそちらの花が大変気に入られているようなんです。とはいえ店を空けるわけにはいかないので、持ってきてもらいたいんですが』
これにはすぐに答えられなかった。
なにせレオーネはレオナルドひとりで営んでいるので、配達は行っていない。しかしながら開店して間もないこの店の花を気に入ってくれているという客の誕生日を祝いたいと言われては、すげなく断るのは抵抗がある。
だが、待たせるわけにはいかない。
店主としてクラウスに託された権限を思い出し、考え、小さく頷く。
「当店は配達を行っておりません。ですが今回に限り、お客様のお祝いのためにお持ちいたします」
支払いは現金のみ、すでに出来ている花束しか持っていけないことなどを了承してもらい、住所と配達する時間を聞いて通話を終えた。
スマホを持った手がだらりと力なく下がり、肺に残っていた空気を一気に床へと吐き出す。
足が少し震えている気がするのは、初めてのことで緊張したせいだろう。
「あー、びっくりしたぁ」
まだまだ知名度が低い店なのに、まさか配達を頼まれるなんて思わなかった。
けれどこの店をすでに気に入ってくれている人がいるという事実は素直に嬉しい。自然と顔の筋肉が緩み、ふにゃりと笑ってしまう。
しかし表情を緩めても、気を緩めている暇はない。
配達予定の時間まではまだ時間があるが、急いで店の片づけをする。売上の精算に関しては配達が終わってからにしたいので、一瞬迷ったがレジはそのままにしておくことにした。
全てのバケツを運び入れ、最後にブラックボードを中に入れたらシャッターを閉める。
しっかりと内側から鍵をかけたら、2階の自宅へと駆け上がっていった。
「スティーブンさーん!」
「騒々しいな。ネズミでも出たのか?」
言っておくが、僕は捕らないぞ。とありもしないことを想像しては不機嫌そうな顔をする狼が、キッチンからひょっこりと顔を出してそう言った。
狼姿なのにキッチンで何をしていたのかはさておき、これから特別に配達に行ってくることを伝えると、勝手に不機嫌になっていた狼の顔がさらに不機嫌になる。
犬の表情なんてさっぱり分からないはずなのに、どうにもこの狼の表情は分かりやすいから面白い。
しかしながらなぜ不機嫌になるのかが分からなくて、スティーブンの後に続いて出てきたソニックについ意見を求めるように目を向けてしまった。
「まったく君は……そんな不審な電話でのこのこと出ていって、何があるか分からんぞ」
「不審って。普通のパブっすよ?」
「だからなんだ。いいか、姿が見えない電話で見知らぬ相手のことを安易に信じるというのは、それだけで自ら危険に飛び込むことに近いんだぞ。大体君は人が良すぎ……おい、聞いてるのか!?」
面倒くさくなってきたので着替えるべく脇をすり抜けて自室へ行こうとしたら、気づかれた。
仕方なく立ち止まって、ソニックを頭に載せた狼を振り返る。
「聞いてますよ。あのですね、スティーブンさん。これは僕が受けた仕事です。だから最後まで責任を持ってやりたいんですよ」
「気持ちは分かる。だが……分かった、僕もついていこう」
狼が町中を歩いていいと思っているのか? と困惑の表情を浮かべて見せるが、スティーブンはソニックを載せたまま、踵を返して階段を上がっていく。
はたして何をどうする気なのかは分からないが、レオナルドはジャンパーを脱いでエプロンを外すと、再びジャンパーを着てエプロンは畳んだ。
たったそれだけの動作の間にスティーブンは上の階から戻ってきたわけだが、その口にはどういうわけか見慣れない黒い革の首輪が咥えられている。
しっかりと幅のある大型犬用の首輪だとは思うのだが、意味が分からず小首を傾げていると足元に置かれた。
「犬はマイクロチップを埋め込むことが義務化されているのは、君も知ってるよな?」
「はぁ、まぁ。だからスティーブンさんは犬と間違われた時に面倒なことにならないよう、狼の時はあんまり外に出ないんですよね?」
「説明どうも。この首輪には僕の情報が登録したマイクロチップが仕込んであるというわけさ。もちろん偽の情報だけどね」
「まさか夜間に堂々と外へ出るために作ったんすか?」
「狼にだって出歩く権利は欲しいよ。ほら、僕に着けてくれよ」
顔を上げて喉をさらしたスティーブンに、そこまでしなくてもと思いつつ首輪を拾い上げる。
まだ硬い革の首輪は確実にレオナルドが持っているどのベルトよりも高価だと確信出来る滑らかさと厚み。いったいいくらかけて自分の首輪を用意したのか知らないが、外に出るたびに付けるのは自分なのだろうと思うと複雑な気持ちだ。
それでも傍に屈んで狼の自分より大きな顔を横に見つつ、そっと首輪を巻きつける。触れた毛は相変わらず艶があって少し硬いのは、スティーブンの髪質が由来してるらしい。
「あのー、じっと見ないで欲しいんですけど」
「視野が広いし、こんなに間近でレオの顔を見ることはないなぁ、って思ってな」
「僕だって、しゃべる狼の首に首輪を着ける日が来るなんて思いませんでしたよ」
間近で聞こえる狼の笑い声を無視して装着した首輪は、黒い毛皮に隠れてしまったのは少し残念な気がした。
しかしこれが人の姿のスティーブンだったらと考えると――いや、考えるのをやめてレオナルドは立ち上がる。
「……似合います?」
「どうして疑問形なんだよ。言っておくが、犬種はウルフドッグ、飼い主は君で登録してあるからよろしく」
「僕がスティーブンさんの飼い主!?」
「一緒に住んでいるんだから、便宜上仕方がないだろ。ほら、さっさと行くぞ」
内心は良く思っていないのかもしれないが、確かに一緒に住んでいるのに飼い主は違うとややこしいかもしれない。
そう納得して珍しく先に降りていったスティーブンの後を追おうとして、ふとレオナルドは立ち止まった。
「クラウスさんから預かってるとかでもよくね?」
やはりスティーブンは何を考えているのか、いまいち分からない。
とはいえ今は花束を配達するのが先だと思い直したレオナルドは、家の鍵など必要なものをポケットに突っ込んで再び店へと下りていった。