Invisible moving
翌朝――。
トーストとスクランブルエッグという簡単なのに絶品な朝食を人に戻ったスティーブンから提供された後、レオナルドはスティーブンに連れられてグリニッジにある1軒の店の前に立った。
「……あれ、ここって」
「なんだ、やっぱり来たことがあるのか」
外から見えるショーウィンドウに飾られているのは、パワーストーンやタロットなどの一般人でも良く知る占いグッズ。他にも乾燥させたハーブや何が入っているのか分からないカラフルな液体が満たされた瓶などがある。
そしてガラスに書かれている店名は――『魔女の店』。
いったいどこでどう得ているのかは知らないが、魔女が店を出すことを正式に許可されていないと下げることが出来ないという魔女を抽象化したプレートが、軒下に下げれている。
他の国では分からないが、魔女がこうして店を出していることは英国では珍しくない。そう、ここは正真正銘、本物の魔女が営む店なのだ。
「クラウスさんに連れてきてもらって。グリニッジだったのか……というか、スティーブンさんもご存知で?」
「まぁね。君がクラウスの知り合いである魔女から色々教わったと聞いていたから、そうじゃないかと思ったんだよ。彼女はライブラと協力関係なんだ」
中に入ると外の冷えた空気が一変し、乾いた暖気に混ざって様々なハーブの香りが鼻腔を刺激する。
くしゃみが出そうになるのを押さえていると、たまらないと思ったのかソニックが閉まりかけたドアの隙間から外へと逃げていった。
棚に並べられている胡散臭いオカルト本に、名前はファンタジーだが実際にはごく普通にありふれた商品の数々。カモフラージュされてはいるが、売れ残って埃が被っていそうなものほど実はおかしな力を秘めていたりすることを、レオナルドの眼は見抜いていた。
特に目立つのは、店の隅に飾られたトルソーが着せられている魔女の衣装だろう。
「いらっしゃい。なかなか珍しい組み合わせね」
店の奥からそう言って姿を見せたのは、肩でそろえた栗色の猫毛を揺らす女性。
年齢はK・Kと同じくらいだと聞いているが、大きな青い瞳と艶のある肌で明るく微笑まれると、正直にいって年齢がよく分からない。
Tシャツの上に臙脂色のロングカーディガンを羽織った彼女がレジが置いてあるカウンターに肘をつけば、スタイルの良さも相まってまるでモデルのように思えた。
彼女こそ、レオナルドがハーブの使い方などを教わった正真正銘の魔女、シャーロット・エスメ・スターリングその人だ。
「ご無沙汰してます、シャーロットさん」
「久しぶりね。どう? ライブラで頑張れてる?」
「お陰様で。えと、こっちに引っ越してきまして」
「僕とレオはこちらで一緒に暮らしてるんだよ」
シャーロットの顔から笑みが消えた。
K・Kの時とよく似た反応だな、と呑気に見ていると、カウンターから肘を上げたシャーロットがスティーブンに詰め寄っていく。
「どういうことなの!? あなたが誰かと一緒に住むって、何を考えてるの! まさかグリニッジを巻き込む作戦を考えているんじゃないでしょうね!? 言っておくけれど、グリニッジの魔女として絶対に反対させてもらうわ!」
「お、落ち着いてくれないかな。そういった意図はない。訳あってレオと同じ家に住むことになっただけなんだよ」
両手を胸の高さまで挙げて降参するスティーブンを、シャーロットは訝しそうに見ている。
女性にモテそうなのにどうしてこう行く先々で知り合いに警戒されているのか。いや、ジェイは完璧にスティーブンを子ども扱いをしているようだったけれど。
「狼になるなんて面倒くさくて厄介な呪いをかけられるような男を信じろっていうことが無理なのよ」
「あー、シャーロットさんもご存じでしたか」
「ライブラから呪いを見てほしいって依頼があったのよ。とても難しい呪いだから、私には無理だったわ」
「えと、僕がスティーブンさんと一緒に住むのはその呪いが発端でして」
ここまでの詳しいいきさつをレオナルドが話すと、シャーロットはすんなりと理解してくれた。
「はー、どうして人に戻っているのかと思ったけれど、なるほどね。とはいえ、中途半端に解けるなんておかしいのだけれど」
「そうなんです?」
「ええ。呪いというのはとても精密で複雑なのよ。些細なミスは術者自身の命を危うくするもの。中途半端というけれど、それすら最初から仕込まれていると考えるべきね。本当に何をやらかしたらこうなるのかしら」
シャーロットの棘のある物言いに、スティーブンは曖昧に笑うだけで何も言わない。
隠し事があると匂わせているのに、聞こうとすれば隠してしまう。その態度が不信感を抱かせているのだろう。ただ、K・Kやシャーロットのあからさまに刺々しい感じは、どうもそれだけではないような気がする。
そういうことも、一緒に住んでいれば理由が分かるのだろうか。
「それで、今回はどうしろと?」
呪いの話はもういいと、シャーロットが本題に切り込む。
喰えない笑みを浮かべたスティーブンは、口を開いてこう言った。
「サムハイン祭の衣装をお願いしたいんだよ」
サムハイン祭――いわゆるハロウィンのことだが、英国、特に倫敦のそれは世界中で知られているそれとは意味が異なる。
10月の終わり、日が暮れると同時にあの世に行った亡者たちがこの世に戻り、11月2日の夜明けと共に帰っていく特別な3日間なのだ。
幽霊たちは夜になると実際に姿を現し、時には生きている者たちをあの世に連れ去ろうとしてしまう。
だから一般人の夜間の外出は、この時だけ禁止される。
外に出ることが出来るのは、魔女や魔法使いたちが幽霊に連れ去られないようにまじないをかけた衣服を身に着けているものだちだけ。
そう、こんなふうに。
「まさか屋上に出るためだけに仮装するとは思いませんでした」
「奇遇だな、僕もだ」
「スティーブンさんのそれ、仮装に入ります?」
「黙れ」
容赦なくぴしゃりと言い放ったスティーブンに、レオナルドは苦笑する。
なにせ狼になった彼にもまじないの衣装は必要ということで、シャーロットが作ったのは黒いマント。動く時に邪魔にならないように丈は短くしてあるのだが、胸元にはマントを固定するための真っ赤な可愛いリボンを着いているのだ。
出来た衣装を見たスティーブンは困惑していたし、家に持ち帰ってからはこれを身に着けることを最後まで渋った。
狼になったらいつも全裸なのだから、衣装にこだわる意味はないと思うのだけれど、それを言うと明日のレオナルドの朝食がパンの耳だけになりかねないのでやめておく。
すっかりキッチンの主となったスティーブンに胃袋を掴まれている身として、つまらない諍いは極力避けたい。
ちなみにレオナルドの衣装はというと、黒くつばの大きな三角帽子に黒いローブ、羽織った黒いマントにはスティーブンとお揃いの赤いリボンがついている。
仮装のコンセプトは魔女。そしてスティーブンは魔女の使い魔というわけだ。
短期の納品だったので凝ったものは作れなかったとシャーロットは残念がっていたが、はたして凝っていたらどんなものが出てきたのか。
それはまた機会があればということにして、ふたりは仮装をしたまま屋上へと階段を上がっていく。
結局今日まで、深夜になると猫はレオナルドたちを起こしにきた。けれどその時間さえ分かってしまえば、生活のリズムを合わせることが出来たし、屋上で誰かを待つ猫に嫌な気持ちを持つことはない。
なんとなく愛着が湧きつつある猫は今のところ姿を現さないが、レオナルドたちが屋上に出れば一緒についてくるに違いない。
そう思うのは今日は外の雰囲気が違うせいか、はたまたサムハイン祭という死者たちの世界が訪れたからなのか、猫の気配をそこかしこで感じるからだ。
「でも、屋上に来るんすかね、その人」
「調査から割り出した結果だ。家に愛着は持っていたようだし、可能性は屋上か店の前、どちらかしかない」
「せっかく帰ってきても、家に入れないってなんだかなぁ」
倫敦の家は、サムハイン祭の時に幽霊が入り込まないようにまじないをかけることが義務付けられている。
ゆえに故人が戻ってきても家族とは原則会うことが出来ないのだ。せっかく帰ってきたのだから、という声も根強くあるが、その結果として自分の魂をあの世に持ち帰られてはたまったものではないので仕方がない。
ただ、サムハイン祭以外は幽霊が魂をあの世に持ち帰ることが出来ないので、彼らの人権を守るためにまじないは効果を発揮しない。そのために幽霊たちが元々いる家はそのままなのだ。
「借りた家に他人が帰ってきたら嫌だろう? しかも殺されたら笑えない」
「それはそうっすけどね」
屋上に出ると、冷たい夜風が吹き抜ける。
空を飛んでいる幽霊がいないのは、生前に飛べなかった名残なのだろうか。
幽霊になったら空が飛べるのかと思っていたので少し残念に思いつつ、レオナルドは辺りを見渡した。
普段よりはっきりと見える猫が、屋上を歩いている。
半透明の時はぼんやりとしていて色と模様がはっきりしなかったが、白く黄色い瞳が奇麗な猫だった。
「急に亡くなったご主人様を探して、か……」
スティーブンは知っていたのだ。
猫が探していた人物が、すでに亡くなっていることを。
突然サムハイン祭の仮装を用意すると言ったスティーブンは、その時になって初めてレオナルドに教えてくれた。
家を借りる際、ライブラとしてこれまでに借りた人物から建物をリフォーム、建築した人物まで遡って調べたという。
もちろんそれはライブラ副官が住み、リーダーがオーナーとなる店なので、今後のために念には念を入れたまでのこと。猫の存在は気にしていなかったという。
だからレオナルドが猫を視なければ、情報を繋ぎ合わせることは出来なかった。
「1階でカフェを営んでいたんですっけ」
「そう。ずいぶん高齢になってからだそうだが、半ば趣味で始めたらしい。猫は自宅で飼われていたから、1階に降りることはなかった」
「だから店で倒れてそのまま亡くなったご主人様のことを、猫は知らずに待ってるんだ……なんか切ないっすね」
「猫は離れて暮らしていた家族が引き取ったものの、いなくなってしまったらしい。おそらくここに戻ってこようとしたんだろうな」
大切な人がもうこの世にいないことに気付かないまま、ずっと探し続けていたなんて。
早く戻ってきてほしいと願いながら、腰を下ろした猫を見つめる。
「帰ってくるといいなぁ」
衣装が汚れそうなので座るのを諦めてしゃがみこむと、スティーブンが寄り添ってきてくれて。
温かい狼の毛皮に今はマント越しでしか触れることは出来ないが、傍にいてくれることが嬉しかった。
それからどれだけ待っただろう。
夜の闇が一層濃くなってくる頃になると、自然と幽霊の数は増えていくらしい。屋上にいるレオナルドの目には空を飛ぶ鳥や、煙突掃除をするために屋根に上がった職人たちの姿が見えだした。
一斉に帰ってきて賑わうのかと思ったが、帰ってくるペースは幽霊によって違うようだ。
これでは持久戦も覚悟しないといけないだろう。暖かい生地で作られているといっても、徐々に奪われていく体温に身震いしないわけではない。特に底冷えによる下からの冷気はどうしたって防ぎようがないのだ。
部屋から毛布を持ってくるべきか。限界に達するギリギリのところでスティーブンに提案しようと決めたレオナルドは、異変に気づいて無意識に立ち上がっていた。
「スティーブンさん、あれ」
「あぁ、見えてる」
猫の傍に白い靄が集まっている。
立ち上がった猫がその靄に顔をすり寄せると、靄は次第に形を作っていった――が、人ではない。
「犬?」
予想に反してその靄は犬の形になったのだ。
大型犬だ。全身を白と灰色の長毛に包まれ、目がどこにあるのか分からないぬいぐるみのようなその犬は、猫と鼻先をくっつけてあるかどうか分からないほど小さな尻尾を振っている。
「あれはオールド・イングリッシュ・シープドッグだな」
「すっげー可愛いっすけど……犬?」
犬が飼われていたことは聞いていないと、同じように立ち上がった使い魔に問いかける。
すると尻尾が下がった狼は、再びその場に座り込んだ。
「……確か、店には看板犬がいたな……。別々に引き取られたはず……だ」
どこか歯切れの悪いスティーブンは、顔を逸らす。
きっとそれだけ、主人が来ると確信していたのだろう。
なのに実際に来たのは一緒に飼われていた仲良しの犬の方で。
自信をもってレオナルドに話していたのが恥ずかしくなったのかもしれないが、それはなんだか可愛いな、とレオナルドはくすりと笑った。
いつも余裕をもって振る舞うスティーブンのささやかな失敗に、少しだけ距離が縮まった気がする。
とはいえ本当に猫が待っていたのが犬だったかどうかは、成り行きを見守るしかない。
猫と犬は再会を喜び合うかのようにじゃれあって遊んでいる。きっと主人がいた頃は、今と同じように屋上で遊んでいたのだろう。
店にはいけない猫は、夜になると帰ってくる主人と犬を心待ちにし、休みの日はガーデニングをする主人の傍ら、屋上で犬と遊んで。そうした幸せな時間を死してなお忘れられず、帰りを待っていたのだ。
穏やかで優しい光景は、とても切ない。
目尻に浮かんだ涙を袖で拭う。
やがて2匹の姿はじゃれあいながらぼんやりと薄くなって、消えていった。
きっと主人の元へ、2匹揃って行ったのだろう。
これで今年の魔法使いの出番はおしまいだ。
「なんかあっけなかったですね」
「物事の幕引きなんて、そんなもんだよ」
無事に終わったことで気を取り直したのか、立ち上がったスティーブンが踵を返す。
使い魔姿がもうおしまいないのは残念だ。
「そっすね。さて、身体が冷えちゃいましたし、寝る前にホットミルクを作りましょうか」
「頼むよ。僕のはブランデーを入れてくれ」
「狼にブランデーはダメでーす」
階段を下りる時に、背後から人を狼扱いするなと文句が聞こえたが、聞こえなかったふりをした。
明日の夜からは、深夜に半透明な猫に起こさせれることはなくなるだろう。
ようやくここから、ふたりの生活は本格的に始まるのだ――。