Invisible moving
いったいどんなクッションをもらったのか知らないが、クラウスから渡された時にしただろうスティーブンの顔を見たかった。
きっと今のように双眸を半ばまで伏せて、無理に笑おうと唇をひくつかせていたことだろう。
「笑うなよ。クラウスの奴、クソ真面目な顔で『君もこれで安眠が出来るだろう』ときたもんだぜ? 僕はベッドで寝るっていうのに、まったく……」
「そりゃあ、クラウスさんは狼のスティーブンさんが人のベッドを占拠して寝てるところを見たことねぇからじゃないです?」
渋い顔をしながら、ふたつに割ったスコーンのひとつにたっぷりとクロテッドクリームとジャムを乗せたスティーブンは、大きく口を開いてスコーンにかぶりつく。
存外大きな口を開いて食べた後、思ったより甘かったのかブラックコーヒーを流し込む。
外食をする時はもっと上品なのに、ふたりで食べる時は意外と豪快で。このギャップは悪くないな、と思いつつ、レオナルドもたっぷりとクロテッドクリームとジャムを乗せたスコーンを頬張った。
「ところで、ここにいる猫のことなんですけど」
「あれ以来見てないなぁ。とはいえ、僕も実際に住むのは今日からなんだけどね」
家具の搬入や自身の荷物を整理した時は昼間だけだろうから、その時間帯に猫を目撃していないことになる。
「じゃあ、やっぱり夜だけっすか」
何かを探しているのだろう猫の気配は今も感じない。もしも深夜に出てくるとしたら、今日は睡眠不足を覚悟しないといけないだろう。
引っ越しの荷物を片づけなくてはいけないので、なるべくなら仮眠はとりたくないのだが、そうもいかない。
そのことをスティーブンに話すと、それが最善だろうと了承してくれた。
「ところで、キッチンの奥の部屋は何になったんです?」
猫と同様に気になっていたのが、猫が窓を開けてほしいとせがんだキッチンの奥にある部屋だ。
3階の2部屋はスティーブンが寝室と書斎に使うし、2階はレオナルドの部屋。残るこの部屋の使い道を聞いていなかったので尋ねると、スティーブンはスコーンを食べる手を止めた。
「実は決まっていないんだ。僕らの部屋は確保されているし、他に必要なものは揃っている。ゲストルームにするには場所がいまいちだ。クロークルームにするのは日当たりが良すぎる。さて、どうしたもんかね」
「こっちが僕の部屋でも良かったのに」
「狭いよ。ん? どうした?」
大きな瞳をキラキラと輝かせて見つめるソニックに気づいて顔を向けたスティーブンは、彼の意図を汲んで、どうする? とレオナルドへ視線を投げかけてきた。
「ソニックの部屋にするには広すぎっすね」
そんなことはないと言わんばかりにソニックがスコーンを持ち上げて訴えてくるが、小さなソニックではあきらかに広すぎるのは明白で。ガラクタを収集してくる癖がある彼は、いい場所だったのにと言わんばかりにスコーンを持つ手をおろした。
ではどうするか、それはおいおい決めることにした。
「よし、話がまとまったところで、後はこれからの細々としたことを決めていこう。必要な経費と家事の役割分担、ライブラでの君の仕事のことも話さなくてはならないからな」
つまり、荷物を整理して落ち着くことが出来るのはまだ先ということで。
どうやら今日は確実に仮眠をとることは出来ないと思いながら、レオナルドは残っているスコーンへと手を伸ばした。
結局同居のための相談やライブラでの仕事の説明は夕方までかかり、この日の夕食は近くにあるスーパーのデリで済ませた。
明日からは自分が作るとスティーブンは言っていたけれど、秋はまだしも冬の倫敦は日が暮れるのがとても早い。はたして彼にそんな時間があるのか分からないので、こちらも役割分担はしっかりとしておかなくてはならないだろう。
大雑把な料理しか出来ない自分に、セレブな狼の腹を満たすことの出来るものが作れるのかは分からないが。
不安を他所に仮眠のつもりで早めに入ったベッドはとてつもないくらい寝心地が良く、ついその声が聞こえるまで熟睡してしまった。
そして、予想どおりそれはやってきた。
「ん……やっぱり深夜かぁ」
大きく欠伸をして起き上がったレオナルドは、眠い目を擦りながらベッドの脇を見る。
小さな半透明の猫が可愛らしく「にゃーん」と鳴くので、機嫌は悪くなさそうだ。
眠気にぼんやりと揺れる身体をベッドからおろして立ち上がり、側に置いてある靴を履く。パジャマ姿だが屋内なのでいいだろうと部屋のドアを開けると、音で目が覚めたのかこちらもぼんやりとしているソニックが肩の上に乗ってきた。
「今日はどこに行くんだ?」
もう一度欠伸をして、歩いていく猫の後を追いかける。しかし猫も困っているのか、ウロウロとするだけで目的があるように見えなかった。
「目的がないのに起こされるってのもなぁ」
これから毎日こんなことが続いたら、さすがにレオナルドとて寝不足で疲れてしまうだろう。
さてどうしたものかと悩んでいると、猫は姿を消した。
これで休める。そう思って部屋に戻ろうとしたら、また鳴き声が聞こえて。
仕方なく、暗い廊下に戻れば猫は3階へ向かう階段の途中にいた。
「3階なら、スティーブンさんを起こせよぉ」
リビングは共用だけれど、スティーブンの部屋があるのだし。
そう思って欠伸と共にぼやいたのを理解したのか、猫が姿を消す。
なかなかに物分かりがいいのはありがたいが、次にレオナルドの脳裏に浮かんだのは、猫にたたき起こされるだろうスティーブンが、わざわざ自分を起こしにやってくるのではないかという予感。
「……あの人ならやりかねない」
結局は行くしかないのだ。
眠気と共に零れる溜め息をその場に置いて階段を上がれば、扉が開く音が聞こえた。
扉といっても人のようにドアノブを使って開くタイプではない。狼の姿でも出入りが出来るようにと作り変えられたペットもとい狼用の、頭で押せば上に上がって開くタイプの扉が人用のドアの下に付いたのだ。
そこから不機嫌極まりない重い足取りで出てきた狼はなんともシュールな感じだが、これはレオナルドが狼の正体を知っているからに他ならない。
もしも知らない人がこの場に居合わせたとしたら、暗闇から突如現れた狼に悲鳴を上げていたことだろう。
「起こされちゃいましたか?」
「あぁ、今しがたな。安眠妨害しやがって。ここを出ていったやつらの気持ちがよく分かったよ」
「まだ1日目なのに」
猫の1匹くらいなんとでもすると、ある意味楽観的に見ていた感じのあるスティーブンも、実際に体験してみてよく分かったのだろう。
廊下に立った狼に苦笑したいところだが、レオナルドはその前にと猫の気配を探す。
だが、気配はない。
「スティーブンさんが怒るから、また逃げちゃったんじゃないんです?」
「人の眠りを妨げて、怒られない方がおかしいだろ。だが毎晩こんな感じじゃたまったもんじゃない。レオ、今夜中に何とかするぞ」
「なんとかって言われましても」
肝心の猫がいないのだし、探りようがない。
困ってスティーブンの前にしゃがめば、狼はこちらがパジャマ姿なのを気遣ってか、温かい毛皮をレオナルドに寄せてきた。
「ヒントが乏しいのは分かっている。猫は深夜に何かを訴えてくる。だが、敵意はないが、それが何を示しているのかは分からない」
「窓を開けてほしいってせがまれたのに、外に出ない。何かを探しているような感じでしたよね」
「この家で飼われていたのは間違いなかろう。家から一歩も出なかったんじゃないか?」
「あー、だから窓から出なかったとか? それじゃあ、帰ってこないご主人様を探しているとか」
「大方そんな感じかもしれんが、面倒だなぁ」
K・Kの話では、これまでに猫を飼った住人の記録はない。もちろんこっそり飼っていた場合など色々なケースがあるだろうから鵜呑みには出来ないが、どこにいるのか皆目見当がつかない状態でたったひとりの人物を探すなんて、干し草の中から針を探すより難しいに決まっている。
その時ふと、まだ何も見ていない場所があることを思い出した。
「屋上って、まだ見てませんでしたよね?」
「あぁ、ルーフガーデンになっているそうだから、今度クラウスに見せようと思っていたんだ」
ルーフガーデン、つまり屋上庭園のことだ。3階建てに改装された時に造られたそうだが、これまでの住人は短期間しかいなかったこともあってほとんど手入れがなされていないらしい。
園芸が趣味のクラウスが話を聞いた途端に喰いついてきたのはもちろんのこと。ならば彼に一度見てもらってから今後を決めようと考え、レオナルドもスティーブンも上がることすらしなかった。
「……見てみます?」
猫は窓を開けた時に、上を見上げていた。
だとしたら、屋上に何かあると考えることも出来るのではないだろうか。
「そうだな、こうなったら徹底的に調べて納得した方がいい。寒いから何か着ておいで」
毛皮に覆われた狼は寒くないだろうが、確かにパジャマだけでは外に出た時にかなり寒いだろう。
素直に応じて一度2階に戻ると、レオナルドはマウンテンパーカーを着込んで戻ってきた。
「そろそろ冬用の防寒具を揃えろよ」
「ま、前向きに考えます」
懐が寂しいのでギリギリまで頑張るつもりではいるが、今後はスティーブンの目が厳しくなりそうだ。
古着屋を回ってなるべく安いものを探そうかと考えつつ、3階から屋上へと上がっていく。
上がってすぐの場所は小さな部屋になっていて、屋上側の一面が窓になっている。きっとここを造った住人は、この部屋で屋上を眺めながらお茶を楽しんだりしていたのだろう。
階段と反対の位置にあるガラスのドアを開いて外に出る。吹き抜ける風の冷たさに身体を震わせると、やはり早めに防寒具を買おうという気になった。
「手入れがされてないと、やっぱり寂しいっすね」
花壇の枯れた草木にむき出しの土。白かっただろう石が敷き詰められた床もどこからか飛んできたゴミなどで酷いありさまだ。
クラウスに見せるまではと呑気に構えていたのだけれど、掃除くらいは自分たちでやるべきだろう。
明日から忙しくなるな、と増えた作業を頭の中にメモをしつつ、スティーブンが出てくるのでドアを開いたままにしておく。
すると、スティーブンの脇をすり抜けてあの猫が出てきた。
「なんだ、屋上に来たかったのか?」
狼の姿になった今なら猫の姿が見えるスティーブンが、半ば呆れながらそう言いつつ出てくる。
ドアを閉めてふたり揃って猫の様子を眺めるが、やはり猫はきょろきょろと辺りを見回していた。
「探しているな」
「ですねぇ」
花壇の周りを歩いたり、時には中に入ったり。その様子をじっくりと観察していると、スティーブンが口を開いた。
「あれは人を探しているんだな」
「分かるんです!?」
何を探しているかなんてさっきまでまったく見当がつかなかったのに、『人』とスティーブンは断言した。
素直に驚いたレオナルドを見上げたスティーブンは、あれを見ろと言わんばかりに猫に向かって軽く顔を上げて見せた。
「匂いを嗅いでは上を見上げているだろう? 視線は猫としてはかなり高い位置を見ている。そこから考えると、相応に高さがあるものと考えるのが無難だ」
「塀の上にいる猫とか鳥とかは?」
「何かが登れるほど高いものがあればね」
確かにそれらしいものは見当たらない。
なるほど、と納得しつつ猫を見ると、探していたものはみつからなかったのか、座り込んで項垂れてしまっていた。
「なかったみたいですね」
「屋上にまで幽霊がいたらたまらんから、よかったよ」
息を吐いたスティーブンには悪いが、だとすると明日以降も猫はレオナルドたちを起こしに来る可能性が高いわけで。
立ち上がった猫がこちらに歩いてくる途中、消えた。おそらく家の中に戻っていったのだろう。
「今夜はこれで諦めてくれるといいんですけど」
「そうだな。さて、僕らも寝なおそう。解決は出来なかったが、情報が少しは集まったんだ。今日はここまででよしとしよう」
大きなあくびをしたスティーブンが先に家の中へと戻っていくが、階段はレオナルドが下りるまで動かない。
まだ屋上は気になるのだけれど、確かに明るくなってから探すのが賢明だろう。
屋上へ出るドアは内側から鍵をかけ、スティーブンより先に3階へ下りる。
「おやすみ」と声をかけて狼は専用の扉から部屋の中へと戻っていき、レオナルドも自室へと戻っていった。
ずっと付き合ってくれたソニックが自分のベッドへ戻り、レオナルドも人生史上最も快適なベッドへもぐりこむ。
目を閉じても、もう猫の鳴き声は聞こえない。
けれどあの寂しそうな背中は、瞼に焼きついて離れなかった。
きっと今のように双眸を半ばまで伏せて、無理に笑おうと唇をひくつかせていたことだろう。
「笑うなよ。クラウスの奴、クソ真面目な顔で『君もこれで安眠が出来るだろう』ときたもんだぜ? 僕はベッドで寝るっていうのに、まったく……」
「そりゃあ、クラウスさんは狼のスティーブンさんが人のベッドを占拠して寝てるところを見たことねぇからじゃないです?」
渋い顔をしながら、ふたつに割ったスコーンのひとつにたっぷりとクロテッドクリームとジャムを乗せたスティーブンは、大きく口を開いてスコーンにかぶりつく。
存外大きな口を開いて食べた後、思ったより甘かったのかブラックコーヒーを流し込む。
外食をする時はもっと上品なのに、ふたりで食べる時は意外と豪快で。このギャップは悪くないな、と思いつつ、レオナルドもたっぷりとクロテッドクリームとジャムを乗せたスコーンを頬張った。
「ところで、ここにいる猫のことなんですけど」
「あれ以来見てないなぁ。とはいえ、僕も実際に住むのは今日からなんだけどね」
家具の搬入や自身の荷物を整理した時は昼間だけだろうから、その時間帯に猫を目撃していないことになる。
「じゃあ、やっぱり夜だけっすか」
何かを探しているのだろう猫の気配は今も感じない。もしも深夜に出てくるとしたら、今日は睡眠不足を覚悟しないといけないだろう。
引っ越しの荷物を片づけなくてはいけないので、なるべくなら仮眠はとりたくないのだが、そうもいかない。
そのことをスティーブンに話すと、それが最善だろうと了承してくれた。
「ところで、キッチンの奥の部屋は何になったんです?」
猫と同様に気になっていたのが、猫が窓を開けてほしいとせがんだキッチンの奥にある部屋だ。
3階の2部屋はスティーブンが寝室と書斎に使うし、2階はレオナルドの部屋。残るこの部屋の使い道を聞いていなかったので尋ねると、スティーブンはスコーンを食べる手を止めた。
「実は決まっていないんだ。僕らの部屋は確保されているし、他に必要なものは揃っている。ゲストルームにするには場所がいまいちだ。クロークルームにするのは日当たりが良すぎる。さて、どうしたもんかね」
「こっちが僕の部屋でも良かったのに」
「狭いよ。ん? どうした?」
大きな瞳をキラキラと輝かせて見つめるソニックに気づいて顔を向けたスティーブンは、彼の意図を汲んで、どうする? とレオナルドへ視線を投げかけてきた。
「ソニックの部屋にするには広すぎっすね」
そんなことはないと言わんばかりにソニックがスコーンを持ち上げて訴えてくるが、小さなソニックではあきらかに広すぎるのは明白で。ガラクタを収集してくる癖がある彼は、いい場所だったのにと言わんばかりにスコーンを持つ手をおろした。
ではどうするか、それはおいおい決めることにした。
「よし、話がまとまったところで、後はこれからの細々としたことを決めていこう。必要な経費と家事の役割分担、ライブラでの君の仕事のことも話さなくてはならないからな」
つまり、荷物を整理して落ち着くことが出来るのはまだ先ということで。
どうやら今日は確実に仮眠をとることは出来ないと思いながら、レオナルドは残っているスコーンへと手を伸ばした。
結局同居のための相談やライブラでの仕事の説明は夕方までかかり、この日の夕食は近くにあるスーパーのデリで済ませた。
明日からは自分が作るとスティーブンは言っていたけれど、秋はまだしも冬の倫敦は日が暮れるのがとても早い。はたして彼にそんな時間があるのか分からないので、こちらも役割分担はしっかりとしておかなくてはならないだろう。
大雑把な料理しか出来ない自分に、セレブな狼の腹を満たすことの出来るものが作れるのかは分からないが。
不安を他所に仮眠のつもりで早めに入ったベッドはとてつもないくらい寝心地が良く、ついその声が聞こえるまで熟睡してしまった。
そして、予想どおりそれはやってきた。
「ん……やっぱり深夜かぁ」
大きく欠伸をして起き上がったレオナルドは、眠い目を擦りながらベッドの脇を見る。
小さな半透明の猫が可愛らしく「にゃーん」と鳴くので、機嫌は悪くなさそうだ。
眠気にぼんやりと揺れる身体をベッドからおろして立ち上がり、側に置いてある靴を履く。パジャマ姿だが屋内なのでいいだろうと部屋のドアを開けると、音で目が覚めたのかこちらもぼんやりとしているソニックが肩の上に乗ってきた。
「今日はどこに行くんだ?」
もう一度欠伸をして、歩いていく猫の後を追いかける。しかし猫も困っているのか、ウロウロとするだけで目的があるように見えなかった。
「目的がないのに起こされるってのもなぁ」
これから毎日こんなことが続いたら、さすがにレオナルドとて寝不足で疲れてしまうだろう。
さてどうしたものかと悩んでいると、猫は姿を消した。
これで休める。そう思って部屋に戻ろうとしたら、また鳴き声が聞こえて。
仕方なく、暗い廊下に戻れば猫は3階へ向かう階段の途中にいた。
「3階なら、スティーブンさんを起こせよぉ」
リビングは共用だけれど、スティーブンの部屋があるのだし。
そう思って欠伸と共にぼやいたのを理解したのか、猫が姿を消す。
なかなかに物分かりがいいのはありがたいが、次にレオナルドの脳裏に浮かんだのは、猫にたたき起こされるだろうスティーブンが、わざわざ自分を起こしにやってくるのではないかという予感。
「……あの人ならやりかねない」
結局は行くしかないのだ。
眠気と共に零れる溜め息をその場に置いて階段を上がれば、扉が開く音が聞こえた。
扉といっても人のようにドアノブを使って開くタイプではない。狼の姿でも出入りが出来るようにと作り変えられたペットもとい狼用の、頭で押せば上に上がって開くタイプの扉が人用のドアの下に付いたのだ。
そこから不機嫌極まりない重い足取りで出てきた狼はなんともシュールな感じだが、これはレオナルドが狼の正体を知っているからに他ならない。
もしも知らない人がこの場に居合わせたとしたら、暗闇から突如現れた狼に悲鳴を上げていたことだろう。
「起こされちゃいましたか?」
「あぁ、今しがたな。安眠妨害しやがって。ここを出ていったやつらの気持ちがよく分かったよ」
「まだ1日目なのに」
猫の1匹くらいなんとでもすると、ある意味楽観的に見ていた感じのあるスティーブンも、実際に体験してみてよく分かったのだろう。
廊下に立った狼に苦笑したいところだが、レオナルドはその前にと猫の気配を探す。
だが、気配はない。
「スティーブンさんが怒るから、また逃げちゃったんじゃないんです?」
「人の眠りを妨げて、怒られない方がおかしいだろ。だが毎晩こんな感じじゃたまったもんじゃない。レオ、今夜中に何とかするぞ」
「なんとかって言われましても」
肝心の猫がいないのだし、探りようがない。
困ってスティーブンの前にしゃがめば、狼はこちらがパジャマ姿なのを気遣ってか、温かい毛皮をレオナルドに寄せてきた。
「ヒントが乏しいのは分かっている。猫は深夜に何かを訴えてくる。だが、敵意はないが、それが何を示しているのかは分からない」
「窓を開けてほしいってせがまれたのに、外に出ない。何かを探しているような感じでしたよね」
「この家で飼われていたのは間違いなかろう。家から一歩も出なかったんじゃないか?」
「あー、だから窓から出なかったとか? それじゃあ、帰ってこないご主人様を探しているとか」
「大方そんな感じかもしれんが、面倒だなぁ」
K・Kの話では、これまでに猫を飼った住人の記録はない。もちろんこっそり飼っていた場合など色々なケースがあるだろうから鵜呑みには出来ないが、どこにいるのか皆目見当がつかない状態でたったひとりの人物を探すなんて、干し草の中から針を探すより難しいに決まっている。
その時ふと、まだ何も見ていない場所があることを思い出した。
「屋上って、まだ見てませんでしたよね?」
「あぁ、ルーフガーデンになっているそうだから、今度クラウスに見せようと思っていたんだ」
ルーフガーデン、つまり屋上庭園のことだ。3階建てに改装された時に造られたそうだが、これまでの住人は短期間しかいなかったこともあってほとんど手入れがなされていないらしい。
園芸が趣味のクラウスが話を聞いた途端に喰いついてきたのはもちろんのこと。ならば彼に一度見てもらってから今後を決めようと考え、レオナルドもスティーブンも上がることすらしなかった。
「……見てみます?」
猫は窓を開けた時に、上を見上げていた。
だとしたら、屋上に何かあると考えることも出来るのではないだろうか。
「そうだな、こうなったら徹底的に調べて納得した方がいい。寒いから何か着ておいで」
毛皮に覆われた狼は寒くないだろうが、確かにパジャマだけでは外に出た時にかなり寒いだろう。
素直に応じて一度2階に戻ると、レオナルドはマウンテンパーカーを着込んで戻ってきた。
「そろそろ冬用の防寒具を揃えろよ」
「ま、前向きに考えます」
懐が寂しいのでギリギリまで頑張るつもりではいるが、今後はスティーブンの目が厳しくなりそうだ。
古着屋を回ってなるべく安いものを探そうかと考えつつ、3階から屋上へと上がっていく。
上がってすぐの場所は小さな部屋になっていて、屋上側の一面が窓になっている。きっとここを造った住人は、この部屋で屋上を眺めながらお茶を楽しんだりしていたのだろう。
階段と反対の位置にあるガラスのドアを開いて外に出る。吹き抜ける風の冷たさに身体を震わせると、やはり早めに防寒具を買おうという気になった。
「手入れがされてないと、やっぱり寂しいっすね」
花壇の枯れた草木にむき出しの土。白かっただろう石が敷き詰められた床もどこからか飛んできたゴミなどで酷いありさまだ。
クラウスに見せるまではと呑気に構えていたのだけれど、掃除くらいは自分たちでやるべきだろう。
明日から忙しくなるな、と増えた作業を頭の中にメモをしつつ、スティーブンが出てくるのでドアを開いたままにしておく。
すると、スティーブンの脇をすり抜けてあの猫が出てきた。
「なんだ、屋上に来たかったのか?」
狼の姿になった今なら猫の姿が見えるスティーブンが、半ば呆れながらそう言いつつ出てくる。
ドアを閉めてふたり揃って猫の様子を眺めるが、やはり猫はきょろきょろと辺りを見回していた。
「探しているな」
「ですねぇ」
花壇の周りを歩いたり、時には中に入ったり。その様子をじっくりと観察していると、スティーブンが口を開いた。
「あれは人を探しているんだな」
「分かるんです!?」
何を探しているかなんてさっきまでまったく見当がつかなかったのに、『人』とスティーブンは断言した。
素直に驚いたレオナルドを見上げたスティーブンは、あれを見ろと言わんばかりに猫に向かって軽く顔を上げて見せた。
「匂いを嗅いでは上を見上げているだろう? 視線は猫としてはかなり高い位置を見ている。そこから考えると、相応に高さがあるものと考えるのが無難だ」
「塀の上にいる猫とか鳥とかは?」
「何かが登れるほど高いものがあればね」
確かにそれらしいものは見当たらない。
なるほど、と納得しつつ猫を見ると、探していたものはみつからなかったのか、座り込んで項垂れてしまっていた。
「なかったみたいですね」
「屋上にまで幽霊がいたらたまらんから、よかったよ」
息を吐いたスティーブンには悪いが、だとすると明日以降も猫はレオナルドたちを起こしに来る可能性が高いわけで。
立ち上がった猫がこちらに歩いてくる途中、消えた。おそらく家の中に戻っていったのだろう。
「今夜はこれで諦めてくれるといいんですけど」
「そうだな。さて、僕らも寝なおそう。解決は出来なかったが、情報が少しは集まったんだ。今日はここまででよしとしよう」
大きなあくびをしたスティーブンが先に家の中へと戻っていくが、階段はレオナルドが下りるまで動かない。
まだ屋上は気になるのだけれど、確かに明るくなってから探すのが賢明だろう。
屋上へ出るドアは内側から鍵をかけ、スティーブンより先に3階へ下りる。
「おやすみ」と声をかけて狼は専用の扉から部屋の中へと戻っていき、レオナルドも自室へと戻っていった。
ずっと付き合ってくれたソニックが自分のベッドへ戻り、レオナルドも人生史上最も快適なベッドへもぐりこむ。
目を閉じても、もう猫の鳴き声は聞こえない。
けれどあの寂しそうな背中は、瞼に焼きついて離れなかった。