Invisible moving
紙袋の中から取り出したサンドイッチはローストビーフと野菜がぎっしりと詰め込まれていて、スティーブンの好みなのが分かる。一緒にコーヒーのカップが入っているが、まだ温かいのが嬉しかった。
「それで、契約はどうなったんです?」
「建物自体の契約は、クラウスが。店と従業員が住み込む家として借りるってわけだな。僕はクラウスから間借りして住むということになった」
「……ちょっと待ってください? それって僕が家賃を払わなくていいことになりません?」
「そう言うだろうと思ったから、いくらか給料から引いておけよ、ってクラウスに言っておいた。これまでも支払っていたんだろう? 同額程度か安くなるかもしれんが、必要な金が増える分、そこで妥協しておいてくれ」
「まぁ、それなら……」
これまでも格安ながら家賃は払っていたし、今後は水道光熱費の支払いもある。
またクラウスに甘えてしまう形になってしまうが、その分はしっかりと働いて返そうとローストビーフサンドを口いっぱいに頬張りながらレオナルドは決意した。
「契約はしてもすぐに店を始められるわけじゃない。そういえば、この店の時はどうしたんだ?」
「借りた時は今とほとんど変わらなかったんで、フラワーキーパーを入れたりしたくらいって聞いてます。上もベッドを入れてもらったくらいっすかね。あー、家具も買わなくちゃだ」
何もなかった家の中を思い出して溜息が出る。
自分の荷物は少ないから、いざとなれば自分で段ボール箱を抱えていけばなんとかなるが、寝床がないのは非常に困った。
家を探すことに頭がいっぱいで考えがいたらなかった問題がいくつも顔を出してきて、美味しいはずのサンドイッチの味がしなくなってくる。
「安い寝袋を買うかなぁ」
「倫敦の冬に寝袋かよ」
独り言への笑いが頭上から聞こえるが、セレブの嫌味にしか思えない。
だから黙って聞き流すべく残ったサンドイッチを無理やり口の中に放り込んでしゃべれないふりをすれば、隣で屈んだ男はいかにも女性が弱そうな寂しさを含む困った顔をしてレオナルドを覗き込んできた。
「ごめんごめん。お詫びというわけではないんだが、家具は僕に揃えさせてくれないか?」
そしてまたおかしなことを言う。
口の中のサンドイッチをひたすら咀嚼して飲み込み、残りはコーヒーで流し込む。
納得がいかないとアピールすべく眉間に皺を寄せて睨みつければ、スティーブンはレオナルドの意識が自分に向いたことに満足したのかまた立ち上がって。
「そこまでしてもらうわけにはいかないですよ」
「なに、共用部分の家具は僕に揃えさせてほしいと思ってたし、レオの分を上乗せしたとしても些細なものさ。どうしても納得がいかないのなら、出世払いで返してくれればいい」
「それ返さなくていいって言ってるようなもんじゃねぇです?」
「好きなように受け取ってくれて構わんよ。君が家を出るまでには引っ越しが出来るよう整えておく。準備が出来るまで忙しくなるからここには通えなくなりそうだが、すぐに知らせるから」
それじゃあ、と言って、スティーブンはレオナルドの返事を聞くことなく、元来た道を歩き出す。
いつものことだけれど、勝手に来て勝手に帰っていく人だ。
「出世出来る気がしねぇ……」
どんな家具を揃える気か知らないが、はたしてどれだけ働けば返せるものなのか。考えただけで溜め息が出る。
猫のことも話し損ねたが、こちらは住まないうちは問題はないだろうと決めつけておくことにして。
とにかく次に住む場所が決まったことだけはよしとし、今は無事にこの店を終わらせることに専念しようと決める。現実逃避といわれるかもしれないが、これもまたレオナルドにとって立派な現実なのだから。
そう自分に言い聞かせて冷めてきたコーヒーを一口飲んだ時、客が近づいてきた。
食べ終わったサンドイッチの紙袋を丸めてエプロンのポケットに突っ込み、コーヒーのカップは降りたスツールの上に置く。
気持ちを切り替えたら、満面の笑みでこう声をかけた。
「いらっしゃいませ! どんな花をお探しですか?」
スティーブンから連絡が入ったのは、3週間後のこと――。
店は2日前に閉店してしまい、借りる前の状態に戻すべく工事が始まっていた。
ゆえに工事の音や人の話し声が階下から聞こえても雇われ店主には何もすることがなく、2階の部屋でおとなしくしているしかない状態。
その間に少ない荷物をまとめていつスティーブンから連絡が来てもいいようにしていたのだが、退去を目前に控えていた身としては、正直にいってずっと落ち着かなかった。
何度もこちらから連絡するべきかと考えたし、いざという時のために安価なホテルだって検索していた。
しかしようやく入った連絡に、それらが取り越し苦労だと分かった瞬間はどれだけ安堵したことか。
家具の搬入が終わり、ようやく人が住めるようになった。荷物を搬送する手配をするから都合のいい日を教えてほしいと言われたのだが、それは丁重に断って。
なぜならレオナルドの引っ越しの荷物など、両手で持てる段ボール箱とバッグパック、そしてソニックと自分だけなのだから。
ここがほとんどクラウスから借りているもので出来ていたということもあるが、馴染んだというには過ごした月日が浅く、自分のものを買いそろえる余裕がなかったというのが大きい。
だからこその少ない荷物。新しい家でどうなるかなんて想像出来ないが、整理し終えた時の荷物の少なさに少しだけ虚しい感じがしたのは、ここで過ごしたことの思い出になるものがないことに気づいたからか。
頭の上に乗ってきたソニックに、お前がいたな、と笑って、バッグパックを背負って段ボール箱を持ち上げた。
家具など借りていたものはギルベルトが手配したという業者が片づけをしてくれるらしいからそのままにして、がらんとした部屋を振り返る。
「今日までありがとな」
空っぽのベッドに、ふととびきりの思い出があったことを思い出す。
世界広しといえども、しゃべる狼と同じベッドで寝た人間は、自分くらいなものだろう。
これからその狼と共に暮らす。ここでの思い出と一緒に。
だから寂しいと思うことは、もう必要ない。
もう一度ありがとうと伝えると、レオナルドはソニックと荷物と共に階段を下りていった――が、すぐに色々な意味で後悔した。
「なんなんすかこれぇぇぇぇ!?」
赤いシャッターと赤い扉はそのままに、ブルーシートで覆われた工事中の店舗を見ることなく新居へと足を踏み入れたレオナルド。好奇心の赴くまま、新居の中を歩き回った後に出迎えてくれたスティーブンへ発した第一声がこれだった。
なにせ3週間前は何もなかったはずの家の中は、今や全てが整っている。
塵ひとつなく完璧に掃除がなされているし、キッチンには新品の家電が揃い、冷蔵庫は大型。よく入れたものだと感心するが、逆にテーブルはシンプルな木製で2人だとちょうどいい大きさだ。
食器がすでにしまわれている食器棚はテーブル同じ色目で角に彫られている蔦のような飾りが椅子のものと同じなので、おそらく全て同じブランドで揃えたのだろう。
てっきり現代的でスタイリッシュなものにするのかと思ったが、後から聞いた話では家に合う家具にしたらこうなったらしい。
いや、驚いたのはここだけではない。
荷物を置こうと自室に指定された二階のバスルームの向かいにある部屋。扉を開けた瞬間、これまで寝ていたパイプベッドとは比べ物にならないくらい立派な――主に掛け布団の厚さが――ベッドに慄いて段ボール箱を足の上に落した。
痛さに耐えながらこれ以上は一番最後にしようと段ボール箱を部屋に入れてドアを閉め、次は3階のリビングへ。
何十インチか分からない大型のテレビに布張りの2人掛けと1人掛けのソファがそれぞれひとつずつ。ソファと丸いローテーブルが置かれた床にはカーペットが敷かれているが、なぜか全てが高級に見えて仕方がないのは、モデルルームのように整いすぎているせだろうか。
目眩がした。
「インテリアは気に入った?」
そして背後から何も言わずについてきたスティーブンが、ようやく発した一言に対する返事が、あれだ。
「おいおい、いくら一軒家とはいえ、あまりデカい声を出すのは感心せんな」
「そういう呑気な問題じゃねぇでしょうが! ていうか3週間で揃えすぎじゃねぇです!?」
「必要最低限のものを揃えただけなんだけど」
当然のことをしただけなのに叱られているのが不思議だと言わんばかりに、小首を傾げるスティーブン。
始めてみる部屋着はオーバーサイズのシャツにスラックス。革靴は相変わらずだが、力を抜いているのが分かるのは、この家の雰囲気にいち早く馴染んでいるからかもしれない。
「必要最低限って……」
レオナルドの考える必要最低限は、あの花屋の2階。そしてこのモデルルームさながらの状態が、スティーブンの必要最低限。
たった今、ふたりの間に埋めることの出来ない溝を見た気がした。
「まぁ、住めば慣れるさ。荷物を運んで疲れただろ、お茶にしよう」
バッグパックを部屋に置いたらキッチンにおいでと言って、スティーブンは先に2階へ下りていく。
心なしか楽しそうなスティーブンに、はたしてこれからの同居生活を上手くやっていけるのかと心配になる。
とはいえ呆然としている時間が惜しいので、まだ新しい場所を警戒して頭から離れないソニックを連れてレオナルドも下りていった。
「……やっぱり必要最低限じゃねぇ」
2階の自室。
ベッド本体はまだいい。シンプルな木製のフレームに適度な高さのマットレスのシングルベッドは、レオナルドひとりなら最適だろう。ただ、掛け布団の厚さはレオナルドがこれまで使っていたものの3倍はあるのにとても軽い。
絶対に高いと断言できる高級な布団から目を逸らせば、ベッドと同じブランドか、チェストと机に椅子、背の低いブックシェルフもあって。他に何かいるかと聞かれたら、首を全力で横に振るしかないくらい整っている部屋だ。
それに、ソニック用だろう小さなベッドまで置かれている。
「どこまで出世したら返せるんだろうな」
布団と枕もついている初めての自分のベッドにはしゃぐソニックとは逆に、レオナルドは頭を抱えるしかない。
はたしてこんなホテルの一室みたいな部屋に自分が馴染むことが出来るのだろうか。
困惑しながらベッドの寝心地を確かめるソニックをおいてキッチンへ向かうと、エプロンを身に着けて鼻歌を歌いながらティータイムのセッティングをしているスティーブンに遭遇した。
紺色と黄色、色違いだが形は同じお揃いのマグカップ、白磁の皿にはスコーンが盛られ、テーブルの中央へ。
クロテッドクリームとジャムはたっぷりと用意されているあたりに好感が持てるが、これをスティーブンが用意して待っていたのかと思うと少し戸惑う。
「なんだ、上着は脱いでこなかったのか」
「へ、あ、いやぁ、部屋に圧倒されちゃいまして」
ずっとマウンテンパーカーを着ていたことを振り返ったスティーブンに指摘されて気づき、慌てて脱ぐ。
黄色と紺色、どちらのマグカップがスティーブンのものか分からなくて、とりあえず近い椅子にかけて腰掛ける。マグカップの色は黄色だ。
「そんなに凄くはないだろ?」
「凄いですよ! 家具もビックリでしたけど、布団が滅茶苦茶軽いのに分厚いんですよ!?」
「あぁ、クラウスからの引っ越し祝いか」
しれっと新しい情報が飛び出した。
マグカップに黒い液体が注がれ、溢れ出る香りからコーヒーだと気づく。陶器のミルクピッチャーと砂糖入れがさりげなく側に置かれ、本当にこの家はすでに何でも揃っているのではないかと勘ぐってしまう。いや、きっと揃っているに違いない。
「引っ越し祝いって……僕は雇われの身ですよね?」
「そういうな。あいつは純粋に、君が新居に来たことを祝いたいだけなんだよ」
紺色のマグカップにもコーヒーを注ぎ、エプロンを外したスティーブンが向かいの席に腰掛けた。
スコーンの匂いに誘われたのかソニックもテーブルの上にやってきて、ようやくこの家の住人が揃う。
「家具や食器などは僕が揃えたんでな、あいつに祝いの品は何がいいと聞かれた時に寝具がまだだったことを思い出して、咄嗟に答えちまったんだ」
「スティーブンさんの仕込みじゃん!」
「ソニックのベッドもな。僕は狼さえもダメにするらしい、やたらとデカいクッションをもらった」
スコーンのほぼ真ん中あたりにある少し割れた場所、通称狼の口に手をかけてふたつに割った瞬間に聞こえた言葉に、レオナルドは思わず噴き出す。
「それで、契約はどうなったんです?」
「建物自体の契約は、クラウスが。店と従業員が住み込む家として借りるってわけだな。僕はクラウスから間借りして住むということになった」
「……ちょっと待ってください? それって僕が家賃を払わなくていいことになりません?」
「そう言うだろうと思ったから、いくらか給料から引いておけよ、ってクラウスに言っておいた。これまでも支払っていたんだろう? 同額程度か安くなるかもしれんが、必要な金が増える分、そこで妥協しておいてくれ」
「まぁ、それなら……」
これまでも格安ながら家賃は払っていたし、今後は水道光熱費の支払いもある。
またクラウスに甘えてしまう形になってしまうが、その分はしっかりと働いて返そうとローストビーフサンドを口いっぱいに頬張りながらレオナルドは決意した。
「契約はしてもすぐに店を始められるわけじゃない。そういえば、この店の時はどうしたんだ?」
「借りた時は今とほとんど変わらなかったんで、フラワーキーパーを入れたりしたくらいって聞いてます。上もベッドを入れてもらったくらいっすかね。あー、家具も買わなくちゃだ」
何もなかった家の中を思い出して溜息が出る。
自分の荷物は少ないから、いざとなれば自分で段ボール箱を抱えていけばなんとかなるが、寝床がないのは非常に困った。
家を探すことに頭がいっぱいで考えがいたらなかった問題がいくつも顔を出してきて、美味しいはずのサンドイッチの味がしなくなってくる。
「安い寝袋を買うかなぁ」
「倫敦の冬に寝袋かよ」
独り言への笑いが頭上から聞こえるが、セレブの嫌味にしか思えない。
だから黙って聞き流すべく残ったサンドイッチを無理やり口の中に放り込んでしゃべれないふりをすれば、隣で屈んだ男はいかにも女性が弱そうな寂しさを含む困った顔をしてレオナルドを覗き込んできた。
「ごめんごめん。お詫びというわけではないんだが、家具は僕に揃えさせてくれないか?」
そしてまたおかしなことを言う。
口の中のサンドイッチをひたすら咀嚼して飲み込み、残りはコーヒーで流し込む。
納得がいかないとアピールすべく眉間に皺を寄せて睨みつければ、スティーブンはレオナルドの意識が自分に向いたことに満足したのかまた立ち上がって。
「そこまでしてもらうわけにはいかないですよ」
「なに、共用部分の家具は僕に揃えさせてほしいと思ってたし、レオの分を上乗せしたとしても些細なものさ。どうしても納得がいかないのなら、出世払いで返してくれればいい」
「それ返さなくていいって言ってるようなもんじゃねぇです?」
「好きなように受け取ってくれて構わんよ。君が家を出るまでには引っ越しが出来るよう整えておく。準備が出来るまで忙しくなるからここには通えなくなりそうだが、すぐに知らせるから」
それじゃあ、と言って、スティーブンはレオナルドの返事を聞くことなく、元来た道を歩き出す。
いつものことだけれど、勝手に来て勝手に帰っていく人だ。
「出世出来る気がしねぇ……」
どんな家具を揃える気か知らないが、はたしてどれだけ働けば返せるものなのか。考えただけで溜め息が出る。
猫のことも話し損ねたが、こちらは住まないうちは問題はないだろうと決めつけておくことにして。
とにかく次に住む場所が決まったことだけはよしとし、今は無事にこの店を終わらせることに専念しようと決める。現実逃避といわれるかもしれないが、これもまたレオナルドにとって立派な現実なのだから。
そう自分に言い聞かせて冷めてきたコーヒーを一口飲んだ時、客が近づいてきた。
食べ終わったサンドイッチの紙袋を丸めてエプロンのポケットに突っ込み、コーヒーのカップは降りたスツールの上に置く。
気持ちを切り替えたら、満面の笑みでこう声をかけた。
「いらっしゃいませ! どんな花をお探しですか?」
スティーブンから連絡が入ったのは、3週間後のこと――。
店は2日前に閉店してしまい、借りる前の状態に戻すべく工事が始まっていた。
ゆえに工事の音や人の話し声が階下から聞こえても雇われ店主には何もすることがなく、2階の部屋でおとなしくしているしかない状態。
その間に少ない荷物をまとめていつスティーブンから連絡が来てもいいようにしていたのだが、退去を目前に控えていた身としては、正直にいってずっと落ち着かなかった。
何度もこちらから連絡するべきかと考えたし、いざという時のために安価なホテルだって検索していた。
しかしようやく入った連絡に、それらが取り越し苦労だと分かった瞬間はどれだけ安堵したことか。
家具の搬入が終わり、ようやく人が住めるようになった。荷物を搬送する手配をするから都合のいい日を教えてほしいと言われたのだが、それは丁重に断って。
なぜならレオナルドの引っ越しの荷物など、両手で持てる段ボール箱とバッグパック、そしてソニックと自分だけなのだから。
ここがほとんどクラウスから借りているもので出来ていたということもあるが、馴染んだというには過ごした月日が浅く、自分のものを買いそろえる余裕がなかったというのが大きい。
だからこその少ない荷物。新しい家でどうなるかなんて想像出来ないが、整理し終えた時の荷物の少なさに少しだけ虚しい感じがしたのは、ここで過ごしたことの思い出になるものがないことに気づいたからか。
頭の上に乗ってきたソニックに、お前がいたな、と笑って、バッグパックを背負って段ボール箱を持ち上げた。
家具など借りていたものはギルベルトが手配したという業者が片づけをしてくれるらしいからそのままにして、がらんとした部屋を振り返る。
「今日までありがとな」
空っぽのベッドに、ふととびきりの思い出があったことを思い出す。
世界広しといえども、しゃべる狼と同じベッドで寝た人間は、自分くらいなものだろう。
これからその狼と共に暮らす。ここでの思い出と一緒に。
だから寂しいと思うことは、もう必要ない。
もう一度ありがとうと伝えると、レオナルドはソニックと荷物と共に階段を下りていった――が、すぐに色々な意味で後悔した。
「なんなんすかこれぇぇぇぇ!?」
赤いシャッターと赤い扉はそのままに、ブルーシートで覆われた工事中の店舗を見ることなく新居へと足を踏み入れたレオナルド。好奇心の赴くまま、新居の中を歩き回った後に出迎えてくれたスティーブンへ発した第一声がこれだった。
なにせ3週間前は何もなかったはずの家の中は、今や全てが整っている。
塵ひとつなく完璧に掃除がなされているし、キッチンには新品の家電が揃い、冷蔵庫は大型。よく入れたものだと感心するが、逆にテーブルはシンプルな木製で2人だとちょうどいい大きさだ。
食器がすでにしまわれている食器棚はテーブル同じ色目で角に彫られている蔦のような飾りが椅子のものと同じなので、おそらく全て同じブランドで揃えたのだろう。
てっきり現代的でスタイリッシュなものにするのかと思ったが、後から聞いた話では家に合う家具にしたらこうなったらしい。
いや、驚いたのはここだけではない。
荷物を置こうと自室に指定された二階のバスルームの向かいにある部屋。扉を開けた瞬間、これまで寝ていたパイプベッドとは比べ物にならないくらい立派な――主に掛け布団の厚さが――ベッドに慄いて段ボール箱を足の上に落した。
痛さに耐えながらこれ以上は一番最後にしようと段ボール箱を部屋に入れてドアを閉め、次は3階のリビングへ。
何十インチか分からない大型のテレビに布張りの2人掛けと1人掛けのソファがそれぞれひとつずつ。ソファと丸いローテーブルが置かれた床にはカーペットが敷かれているが、なぜか全てが高級に見えて仕方がないのは、モデルルームのように整いすぎているせだろうか。
目眩がした。
「インテリアは気に入った?」
そして背後から何も言わずについてきたスティーブンが、ようやく発した一言に対する返事が、あれだ。
「おいおい、いくら一軒家とはいえ、あまりデカい声を出すのは感心せんな」
「そういう呑気な問題じゃねぇでしょうが! ていうか3週間で揃えすぎじゃねぇです!?」
「必要最低限のものを揃えただけなんだけど」
当然のことをしただけなのに叱られているのが不思議だと言わんばかりに、小首を傾げるスティーブン。
始めてみる部屋着はオーバーサイズのシャツにスラックス。革靴は相変わらずだが、力を抜いているのが分かるのは、この家の雰囲気にいち早く馴染んでいるからかもしれない。
「必要最低限って……」
レオナルドの考える必要最低限は、あの花屋の2階。そしてこのモデルルームさながらの状態が、スティーブンの必要最低限。
たった今、ふたりの間に埋めることの出来ない溝を見た気がした。
「まぁ、住めば慣れるさ。荷物を運んで疲れただろ、お茶にしよう」
バッグパックを部屋に置いたらキッチンにおいでと言って、スティーブンは先に2階へ下りていく。
心なしか楽しそうなスティーブンに、はたしてこれからの同居生活を上手くやっていけるのかと心配になる。
とはいえ呆然としている時間が惜しいので、まだ新しい場所を警戒して頭から離れないソニックを連れてレオナルドも下りていった。
「……やっぱり必要最低限じゃねぇ」
2階の自室。
ベッド本体はまだいい。シンプルな木製のフレームに適度な高さのマットレスのシングルベッドは、レオナルドひとりなら最適だろう。ただ、掛け布団の厚さはレオナルドがこれまで使っていたものの3倍はあるのにとても軽い。
絶対に高いと断言できる高級な布団から目を逸らせば、ベッドと同じブランドか、チェストと机に椅子、背の低いブックシェルフもあって。他に何かいるかと聞かれたら、首を全力で横に振るしかないくらい整っている部屋だ。
それに、ソニック用だろう小さなベッドまで置かれている。
「どこまで出世したら返せるんだろうな」
布団と枕もついている初めての自分のベッドにはしゃぐソニックとは逆に、レオナルドは頭を抱えるしかない。
はたしてこんなホテルの一室みたいな部屋に自分が馴染むことが出来るのだろうか。
困惑しながらベッドの寝心地を確かめるソニックをおいてキッチンへ向かうと、エプロンを身に着けて鼻歌を歌いながらティータイムのセッティングをしているスティーブンに遭遇した。
紺色と黄色、色違いだが形は同じお揃いのマグカップ、白磁の皿にはスコーンが盛られ、テーブルの中央へ。
クロテッドクリームとジャムはたっぷりと用意されているあたりに好感が持てるが、これをスティーブンが用意して待っていたのかと思うと少し戸惑う。
「なんだ、上着は脱いでこなかったのか」
「へ、あ、いやぁ、部屋に圧倒されちゃいまして」
ずっとマウンテンパーカーを着ていたことを振り返ったスティーブンに指摘されて気づき、慌てて脱ぐ。
黄色と紺色、どちらのマグカップがスティーブンのものか分からなくて、とりあえず近い椅子にかけて腰掛ける。マグカップの色は黄色だ。
「そんなに凄くはないだろ?」
「凄いですよ! 家具もビックリでしたけど、布団が滅茶苦茶軽いのに分厚いんですよ!?」
「あぁ、クラウスからの引っ越し祝いか」
しれっと新しい情報が飛び出した。
マグカップに黒い液体が注がれ、溢れ出る香りからコーヒーだと気づく。陶器のミルクピッチャーと砂糖入れがさりげなく側に置かれ、本当にこの家はすでに何でも揃っているのではないかと勘ぐってしまう。いや、きっと揃っているに違いない。
「引っ越し祝いって……僕は雇われの身ですよね?」
「そういうな。あいつは純粋に、君が新居に来たことを祝いたいだけなんだよ」
紺色のマグカップにもコーヒーを注ぎ、エプロンを外したスティーブンが向かいの席に腰掛けた。
スコーンの匂いに誘われたのかソニックもテーブルの上にやってきて、ようやくこの家の住人が揃う。
「家具や食器などは僕が揃えたんでな、あいつに祝いの品は何がいいと聞かれた時に寝具がまだだったことを思い出して、咄嗟に答えちまったんだ」
「スティーブンさんの仕込みじゃん!」
「ソニックのベッドもな。僕は狼さえもダメにするらしい、やたらとデカいクッションをもらった」
スコーンのほぼ真ん中あたりにある少し割れた場所、通称狼の口に手をかけてふたつに割った瞬間に聞こえた言葉に、レオナルドは思わず噴き出す。