Invisible moving


「……違うようだぞ」

 猫は窓枠に音もなく飛び上がったが、辺りをきょろきょろと見回すと、部屋の中へ降りてきたのだ。そしてまた、レオナルドを見つめてじっと動かない。
 てっきり家に閉じ込められていたので外に出たかったのかと思ったが、どうやら的は外れたようだ。

「窓は開けたけど違うとなると、後はなんだろう」

 言葉の通じない猫の訴えは、これ以上は分からないわけで。
 ではどうすればいいのか、念のためにスティーブンへ視線を向けるのだが、いくら狼になっても猫の言いたいことは分からないと、彼は首を横に振った。
 困惑して再び猫を見るのだけれど、猫はこちらが自分の意を理解していないと分かったのか、すくっと立ち上がるとそのまま部屋の外へと歩いていってしまった。
 尻尾が左右に大きくせわしなく揺れているのを見る限り、機嫌を損ねてしまったらしい。

「スティーブンさん、狼なんだから猫となんとか会話してくださいよ」
「中身は人間なんだから無理を言うんじゃない。とにかく、猫がいるっていうことは分かったんだから、今日はここまでにしよう」
「夜明けまで、まだ時間がありますけど?」
「これ以上ここにいても収穫がなさそうだし、睡眠時間を無駄にしたくない」

 大きく口を開けて欠伸をしたスティーブンの言うとおり、これ以上ここにいてもあの猫の機嫌を損ね続けるだけだろう。そうなったら今後同居することになった時に困るのはこちらだ。

「そうっすね。でもマジでここに決めるんですか?」

 部屋からキッチン、そして1階へと移動しがてら尋ねると、少し間をおいた後に「そうだね」と後ろからどこか素っ気ない答えが返ってくる。
 階段を下りる時に見える尻を見られたくないから上りはともかく、下りでは絶対に前を歩かないスティーブンは、レオナルドが先に1階に下り立って玄関のドアを開いた瞬間にわずかな隙間をすり抜けていく。
 野生の狼というよりとても可愛がられている犬のように上等な毛布を思わせる毛皮の感触を足に感じながら、レオナルドも外に出た。
 深夜の街を見た瞬間、ずっと屋内にいたからか緊張が緩み肺から長く息を吐く。吸い込んだ空気は冷たいけれど、不思議とその冷たさが心地よかった。
 踵を返し、猫が出てこないことを確認してからドアを閉めて鍵をかける。
 預かっている大切な鍵をズボンのポケットに入れると、早く寝たいのかすでに歩き出しているスティーブンの後を追いかけた。


 一晩の宿として借りた小さな部屋で眠りにつく前、レオナルドは店の借主になるのだからとクラウスに物件のことを報告した。
 出来れば内見の前に報告するのが筋だったのだろうけれど、クラウスの親友であり右腕であるスティーブンが一言も彼のことを口に出さずに話を進めてしまうものだから、タイミングを逃してしまっていたのだ。
 秘密結社のリーダーと副官の間柄はこんなものなのだろうかと思って、狼のくせにベッドにもぐりこんでいるスティーブンに念のためにそのことを聞いたら、終わったら報告すると話してあったと。
 翌朝にするつもりだったらしいが、レオナルドは明日こそは店を開けたい。となるとクラウスに花を仕入れてきてもらわなくてはならないので、結局レオナルドから事の顛末をメールで送ったのだ。
 速やかに戻ってきた返事は物件のことは明日にスティーブンと話すこと、契約する際はクラウスが赴いて行うが、レオナルドからも話を聞きたいので店は午後から開けてもらえれば構わないということが書かれていた。
 クラウスなら安心して任せられるので、承諾した旨を返信してこの日は眠りについた。
 翌朝には人に戻ったスティーブンと近くのスーパーで簡単な朝食を買ってふたりで食べて。
 再び向かったK・Kの不動産屋では、すでにクラウスが執事のギルベルトと共にふたりを待っていた。

「おはよう、スティーブン、レオナルド君。話はK・Kから聞いた。君たちさえ良ければ契約をしても構わないと思うのだが、どうだろう」

 早朝に花市場へ向かって花を仕入れてきたとは思えないほど、よく通る声の穏やかな口調は聞いている方の背筋を伸ばす。
 けれどそれはレオナルドだけのようで、背中を丸めたスティーブンはいつもと変わらない様子でカウンターのスツールに腰を下ろした。

「立地は悪くないし、広さも申し分ない。僕はあの家でいいと思うよ」
「私も間取り図を拝見し、改装工事の条件を確認したのだが、問題はない」

 クラウスはレオナルドから話を聞きたいと言っていたのに、まるですでに打ち合わせは終わっていたかのような会話のやりとりにぽかんとしてしまう。
 しかし肝心な部分が抜けていることに気づき、慌てて契約書の準備を進めているらしいK・Kを引き留めた。

「あの、幽霊の猫のことなんですけど、何か知りませんか?」
「これまで住んだ人が猫を飼っていたという話は、聞いたことがないのよね。ユキトシ、ある?」
「ないかなぁ。でも歴史のある家だから、どこかで飼われていたのかもしれないね」

 おっとりとした口調で店の奥から出てきたユキトシは、あの家が昔はミューズハウス――つまり居住可能な馬小屋だったと教えてくれた。
 貴族やお金持ちが主に暮らしていたテラスハウスの裏側に造られていたそうだ。元々は2階建てが多く、1階に馬が飼われ、2階が使用人の部屋となっていたのを、後の世に改築して3階建てにしている。
 ちなみに都心部では、この馬小屋が高級物件になっているらしい。

「ネズミ退治に飼われていた可能性もあるってことか」

 しかしそれは車が普及する100年以上も前の話。
 はたしてそれだけの長い時間をあそこであの猫はい続けることが出来たのだろうか。
 腑に落ちないな、と腕を組んで考えていると、早速契約に向けて話をし始めた大人たちから離れたギルベルトがレオナルドに近づいてきた。

「レオナルドさん、よろしければ私がご自宅までお送りいたしましょうか」

 グリニッジから家のあるケンサルライズまでは、電車で1時間はかかってしまう。それを車で送ってもらえるのならば、これは渡りに船に違いない。
 しかし主であるクラウスを置いていってしまっていいのか。
 素直に申し出を受け入れられずに困っていると、それまで背中を向けていたクラウスが振り返った。

「私のことは構わない。ギルベルト、レオナルド君を頼む」
「かしこまりました。さあ、参りましょう」

 にこやかに微笑む好々爺に促されたことと雇い主のクラウスが承諾したことで、レオナルドは肩から力を抜いて安堵する。
 しかしクラウスたちに挨拶をして外に出た時、明確な答えの出ない違和感が胸にまとわりついた気がした。
 それがなんなのか。
 振り返った時に見えた窓ガラス越しの大人たちの横顔は、自分に向けられるものと変わりないはずなのに。
 すっきりしない気持ちを抱えつつ、ギルベルトに促されて後部座席に乗り込む。
 高級車の特徴なのか音は少なく滑らかに動き出した車は、レオナルドを大人たちから引き離していく。
 今はそれがレオナルドとスティーブンたちとの距離なのだろう。
 仕方がないが、少し歯痒くて納得できないのは、まだ自分が子供だからだと気づいても、気づかないふりをしていたかった。
 ギルベルトはレオナルドのことに気づいているのか、何も話さずに運転をしてくれている。今はそれがありがたい。
 店まで送ってもらった後は、家で留守番をしていたソニックが呑気にバナナを食べた後に散歩へ出るのを見送り、急いで開店準備をした。
 今日の花はマリーゴールドとコスモスが中心。ブーケにはワックスフラワーという小さくて可愛らしい白い花が合わせられている。
 秋らしい花はバケツの中で揺れ、乱雑に扱うと花弁が散りそうなので慎重に表に運ぶ。
 すぐに通りかかった人たちが吸い込まれるようにレオナルドに近づき、声をかけてくる。まだ準備中だと告げて謝ると、また来ると約束してくれて。
 いい人ばかり、とは言わないけれど、ここへ足を運んでくれるお客はいい人たちだった。
 もう会えなくなるのはやはり寂しいと、水と花が入った重いバケツを店先に置いた時に実感する。
 それでも全てのバケツを置いて、値札を整えて。最後に看板代わりのブラックボードを置けば、開店だ。
 ただ、ブラックボードに小さく書かれていた『見えない花あります』という文字は消してある。依頼を受けた後、閉店までに解決出来なかったら困るのはレオナルドだからだ。

「新しい店でもやっていいのかなぁ」

 幽霊のことで困っている人がグリニッジにいるかどうかは分からないけれど、レオナルドが求める情報を集めるためにも幽霊との交渉業は続けていきたい。
 今度の花屋の規模がどれくらいになるか分からないし、レオナルドの仕事の量も増えるのか減るのかさえ分からない。
 スティーブンは一緒に住むなら、ライブラの仕事も手伝ってもらうことになるかもしれないと言っていた。
 元々秘密結社ライブラに所属してはいるが、レオナルドがクラウスから与えられた仕事は、花屋で働きながら周囲に異変がないか常に目を光らせていること。万が一それらしいことがあった時には、逐一報告すること。それだけだ。
 目がいい以外に取り柄がないから当然危険なことはさせてもらえないが、ライブラではレオナルドと同じように活動している構成員が多くいる。
 だから自分の立場に納得していたのに、ここへ来てスティーブンのお陰でどう転ぶか分からなくなってきた。

「どんな仕事をしてるんだろ」

 昼下がりで人通りはまばらなので、くぁ、と欠伸をひとつしてから店の奥に置いてあった木製のスツールを持ち出した。
 バケツの隣に置いてそこに座ると、最初の頃は自分まで商品になったような気持ちになったのを思いだす。

「あの頃は緊張してたっけ」

 生まれて初めて店を任されて、緊張に緊張を重ねて懸命に仕事をした。
 落ち込むことも少なくなかったけれど、やりがいはとてもあった。
 今更ながら、ここを離れるのがとても惜しい。

「あの猫も、離れられない何かがあるのか?」

 だから窓を開いても、猫は外を見るだけで出ようとしなかった。
 いや、外に何かがあるのを確認していたようにも見えた。
 おそらくレオナルドは何かを見落としているのだ。
 あの家にはまだ何かがあり、それが猫をあの家に束縛している。
 人と同じように考えていいのかは分からないが、ジェイの家にいた犬は今もあの家を守り続けているだろう。それなら、猫にだって可能性はある。

「つまり、調べ足りなかったってわけだ」

 こちらに向かってくる女性の姿が目に留まり、迎えるべくスツールを降りながらそう呟く。
 切り替えの早さはレオナルドとの長所。
 明るい笑顔で「いらっしゃいませ!」と声をかけて、お好みの花を聞く。
 夜が早いと部屋が暗くなるのも早いからと、鮮やかなマリーゴールドの束を買ってくれた彼女を見送る。
 すると入れ違うように夜を薄めたような雰囲気を纏って、スティーブンが歩いてきた。
 黒とまでは言えないけれど、近いほど濃いグレーのスーツに着替えてきたところを見ると、家に寄ってきたのだろう。手に紙袋を持って歩く彼は、やはり倫敦の片隅よりもシティみたいな近代的な街が良く似合いそうだ。つまり、のどかな雰囲気のグリニッジも似合わなさそうで。

「もう契約は済んだんですか?」
「基本的なことはね。後はクラウスに任せてきたよ」

 ほら、と持っていた紙袋を差し出され両手で受け取れば、それには見覚えのあるサンドイッチ店のロゴが入っていた。
 これは? と顔を上げて目で問うと、スティーブンは「昼飯」と。

「昼から店を開けるって言ってただろ? 君のことだから、昼飯を買う時間がない場合、作るくらいなら食わずに店を開けると思ってね」

 そうだろう? と言わんばかりにニヤリと笑う彼に、レオナルドは言葉を返せない。
 まったくそのとおりだ。
 頃合いを見てパンのひとつかふたつでも2階の部屋から持ってきて食べれればいい方だろうと思っていた自分の胃袋が、紙袋からほのかに香るパンに食欲が刺激される。
 グゥ、と腹の虫が盛大に鳴いて恥ずかしいが、紙袋を両手で持っているので押さえることも出来ない。
 そして案の定、スティーブンがそれ見たことかと言わんばかりのニヤついた笑みで見下ろしてきた。

「……その顔はムカつきますけど、飯はありがとうございます!」
「一言多いぞ」

 曲がりなりにも上司なのだけれど、これまでの経緯からレオナルドはスティーブンに対して割と物おじしない話し方をする。
 それを分かっているのか、スティーブンは一応の文句は言ってくるが、怒ることもなくレオナルドがさっきまで座っていたスツールに腰を下ろした。

「そこに座られたら食べにくいんですけど?」
「客を立たせて自分は飯にする気か?」
「客なら先に花を買ってください」

 どうやら今日は花を買う気はないらしく、スティーブンは素直にスツールを降りる。
 予想外に素直なのは拍子抜けだが、立ったまま食べると落ち着かないので、ここは素直に座ることにした。
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