Invisible moving
昼間の内見は、問題なかった。
リフォームをした後に入居者が短期でしか住まなかったこともあり、家の中はとても奇麗で、新築かと思うくらいだ。
1階は最後はカフェだったらしく、木目調の壁や床が温かみがあっていい。こちらはクラウスと話をしなくてはいけないのでと、軽く見ただけだ。
2階はキッチンと部屋がふたつ、それにバスルームとトイレ。色の薄いフローリングが、窓から入る光を優しく受け止めて室内を明るくしてくれている。
キッチンはコンロが3口あるし、オーブンや洗濯機は備え付け。これはいいな、とスティーブンが絶賛していた。
絶賛していたと言えば、バスルームもだ。広さはそこそこだが、バスタブがあるというだけで歓喜していた。
彼曰く、湯船に浸かるというのはとても幸せなことらしい。
そして3階はリビングと2部屋。暖炉があって広々としたリビングは、大きめの窓から光が降り注いで居心地がよさそうだ。
どこを見ても非の打ち所がない、素晴らしい物件と言えるだろう。
「普通だったら、即決なんすけどねぇ」
鍵を借りて夜間に入った家の中は、シン、と静まり返っている。
狼姿のスティーブンが続いて中に入ったところで、レオナルドは玄関ドアの鍵をかけた。
「普通だったら、あの値段では貸し出さんよ」
日が暮れるまで時間があったので、家の周辺を散策した。
穏やかな街は散歩をするにはとても都合がいいほどだし、窓辺や玄関先を飾る花々から住人たちが植物を愛しているのもうかがえる。その分だけ新たに花屋を始めるのは敷居が高いかもしれないが、クラウスの目利きは確かだし、やりがいはあるように感じられた。
さらに部屋も広く1軒丸々貸してもらえるのは、レオナルドとスティーブンにとって都合がいい。
だからこそ、なんとかこの物件の怪異を確かめて住めるようにしたい。
そう思いながら、レオナルドはスティーブンと共に慎重に階段を上がっていく。家にはプライベートな玄関から上がる階段を使わなくてはいけないが、店内の扉が繋がっており、2階へ上がることが出来た。
明かりをつけていない廊下を数歩歩いた右側に、キッチンが見えた。月明かりが差し込むそこに異変はない。
ただ、生活感を全く感じない静まり返ったキッチンに奇妙な寒さを感じた。
「何かあるか?」
「いえ、それらしいものは。もっと夜遅くないと出てこないんですかねぇ」
神々の義眼を通しても、他者の気配は感じない。
ジェイリーン・ブロムフィールドの家で出会った犬のように敵意など感情をむき出しにしてもらえれば分かりやすいのだが、本来彼らは身を潜めるのがとても上手い。
こうなったら家の隅々まで調べるか、出てくるまで待つかの二択だ。
「とりあえず、一通り見てみようか。君の眼で分からなければ、一晩過ごすしかないかもね」
「やっぱそうなっちゃいますよね。明日は店を開けれられるのかなぁ」
「僕も服を置いてきちまったからなぁ、出来れば夜明け前に帰れることを願うよ」
急遽K・Kに頼んで一晩だけ空き部屋を借り、そこでスティーブは狼に変化した。その時に部屋に服を一式置いてきたわけで、万が一にでもここで夜明けを迎えたらスティーブンはレオナルドが服を持って戻るまで全裸でいなくてはならない。
確かにそれだけは避けたいだろう。想像してくすりと笑ったレオナルドは、次にバスルームと隣にある部屋を覗いた。
「ん? スティーブンさん?」
部屋の扉を開けて中を覗いた時だった。
足に何か柔らかいものが触れた気がして下を向いたが、スティーブンの姿はない。振り返ると、彼は3階へ上がる階段を見つめていた。
辺りを見回すが、他にそれらしいものは何も見えない。けれどあの感触には覚えがあった。
やはりここには、何かがいる。
「スティーブンさん、どうかしました?」
感触のことは触れずに上を見るスティーブンへそう尋ねると、こちらへと気怠そうな重い足取りで歩いてくる。
すでにやる気がなくしているようだが、どうしたのかと小首を傾げた。
「なんだろうなぁ、理由は分からんが、ここにいると気が散るんだよ。昼間はそんなことはなかったんだが、どうにも集中出来ん」
「狼になったから、人の時とは違う何かに気づいたとかですか?」
「さぁな。視界に入るものがあるわけではないが……何と言ったらいいのかな、とにかくこう、落ち着かないんだ」
「……ノミでも拾いました?」
可能性を口にしたら、思い切り牙をむき出しにして威嚇をされたので速やかに発言を取り下げる。
出会った頃は犬扱いされるのを嫌がっていたのに、慣れてきたのか狼らしい仕草が板についてきた気がする。なんて言ったら今度は噛みつかれても文句は言えないので、レオナルドは黙っておくことにした。
それにしても、ノミ以外で他に思考を邪魔するようなものとすれば、やはりこの家にいる何かだろうか。
「次は上に行きましょうか」
「ノミはいないからな」
根に持ってしまったらしいスティーブンのぶっきらぼうな一言は無視して、レオナルドは3階へと続く階段へ足を踏み出した。
外観は古くとも中は新しいはずなのに、暗いというだけで階段の向こうを不気味に感じてしまう。
人は古来より暗闇を恐れるというが、それは闇が異界――すなわちあの世に通じる特別な場所という認識を無意識に持っているからだという説もある。
どこかで聞いたそんな話を思い出し、レオナルドはコクリとつばを飲み込んだ。
神々の義眼があるから暗闇は気にならないはずなのに、暗闇の奥を見ることを怖がる自分がいる。
階段を上る足の動きが鈍っていく自分にしびれを切らしたのか、スティーブンがレオナルドの足をかすめて先に上がっていく。その時の足に触れた感触はやはり先程自分の足に触れたものとは違った。
「この家、悪い感じはしないんですよね」
3階に到達したところで零した声が、静まり返ったリビングに響く。
暖炉に火がないだけで寒々しく、カーテンのかかっていない窓の外に見える知らない家の明かりがとても遠く思えた。
「悪い感じはしなくとも、人に迷惑をかけているやつ、か。ガキの悪戯みたいだな」
隣に立って吐き捨てるように言うスティーブンは、その気はなくても自分を怖がらせた少女のことを思い出しているのだろうか。
薄々感じていたが、裏社会を歩く三十路の男は色々と根に持つ性格なのかもしれない。
一緒に生活するうえでそれは少し面倒だな、と思いつつ、レオナルドはリビングにも異変がないことを確認した。
「ここもなんにもない。やっぱり徹夜かなぁ」
「そいつは遠慮し……っ!?」
途中で言葉を止めたスティーブンが、跳ねるようにして勢いよく身体ごと振り返る。
前身の毛が逆立って膨張した狼は頭を低くして唸るが、その視線の先にあるものをレオナルドは捉えることは出来なかった。
「どうかしたんですか?」
「何かが僕の腹に触れた。一瞬のことだったが、大きくはないように思う」
とは言われても、レオナルドには何も見えない。
しかし4本足のスティーブンの腹に触ることが出来るということは、レオナルドの足に触れた何かと同じものだと考えれば大きさ的に筋が通る。
やはりここには何かがいるのだ。
ただ、気配が希薄でさしたる力はないように思う。
これらのことから想像するとすれば、人ではなく小動物か。
「猫とか?」
口に出して、しっくりする気がした。
柔らかく滑らかな触れ心地に、軽やかな身のこなし。もしかしたら昔この家で飼われていた猫ではないのだろうか。
「猫も幽霊になるんだ」
「魂を持つものは、なんでも可能性があるらしいです。ていうか、犬の幽霊を見たじゃねぇですか」
「9つも命を持ってるんだから、未練を残さないかと思った」
「それは猫次第じゃねぇんですか? ……いませんねぇ」
「威嚇されて逃げたか?」
仮に触れてきたのが猫として、じゃれついたところを狼に威嚇されたとしたら確かに驚くだろう。
しかし本当に隠れるのが上手いのか、レオナルドの目でも相変わらず姿をとらえることは出来ない。もしくは、別の場所へ逃げたか。
ひとまず残りの部屋も調べてみたが、やはりそれらしいものはいない。
残りは屋上へと続く階段だけれど、出るのは家の中だけという話なのでこちらに上がるのはやめておいた。
「うーん、なんていうか、そんなに困るような奴とは思えないんですけど」
ただこの家に住みついて、時々悪戯をする。
その程度ならよく聞く話だと思うのだけれど、住んでいた人たちが逃げ出すほどの何かは本当に小動物だったのか。
異界の住人ならば幽霊より厄介なのだが、それらしいものも未だに見えない。
首を傾げるレオナルドに、スティーブンが呆れを含んだ声でこう言った。
「毎晩のように安眠を妨害されてみろ、とんでもないことだ」
最後の吐き捨てるような感じに深く追求してはいけないような気がして、「そうですね」とだけ返しておく。
もう一度暗い室内を見渡し、やはり何もいないことを確認する。
それから足元の狼を見下ろした。
「すっきりしませんけど、どうします?」
「そうだな……威嚇されて逃げたというんなら、今日は出てこない可能性がある。だったらこれ以上ここにいても仕方がないだろう」
「ですねぇ。出来れば今日中に何とかしたかったなぁ」
「ま、住みながら考えればいいよ」
階下へ行こうと踵を返したスティーブンの残した言葉に、レオナルドはぽかんと口を開けてしまう。
まだ短い付き合いだが、こんなに簡単に物事を決める人だとは思わなかった。いや、思い返してみれば、慎重そうに見えて結構わがままで大胆だ。
何を気に入ったかは知らないが、彼はこの家に住むとすでに決めている。おそらく、昼間の内見の時にはすでに。
「マジですか、スティーブンさん。前みたいなことになるかもしれないんですよ?」
階段を下りるスティーブンを追いかけて声を掛ければ、スティーブンは尻尾を左右に揺らしながら2階へと下り立つ。
そして立ち止まると、こう言った。
「もう時間はないんだ。背に腹は代えられんし、いざとなれば僕が知る最高の専門家でもなんでも使って邪魔者は排除するだけさ」
「考え方が黒すぎる!」
なんとでもいえ、と言わんばかりに鼻を鳴らした狼の隣に立つ。
どうやら本気でこの家に住むことになりそうなので、なんとなくスティーブンが気に入っているキッチンを覗き込んだその時だった。
可愛らしい猫の鳴き声が聞こえた。
「ん? 少年、ここで猫の鳴き声を真似てどうするんだ?」
「ボケないでください。やっぱりここにいるのは猫なんっすよ」
「分かってるよ。どうやら奥の部屋の方だな」
こんなところで冗談を言わなくていいのに、スティーブンはするりとレオナルドの脇を抜けてキッチンへと入っていく。
奥にはもう1室小さな部屋があるのだ。
おそらく昔は夫人の作業部屋などに使われていたのだろう日当たりのいい部屋は、くつろぐにはちょうどいい。
そこに、1匹の半透明になってしまった猫が行儀よく腰を下ろしていた。
短毛種で尻尾は長く小さな猫は、まだ成猫になりきっていないようにみえる。もしくはこういう種類なのかもしれない。
なんにせよ、生前の色ははっきり分からないが愛らしい猫だ。
「こいつが犯人か?」
やはり狼で過ごしているのが板についてきたのか、無意識に頭を下げてスンスン、と匂いを嗅ぐスティーブン。
その姿を見て見ぬふりをして、レオナルドは猫の側に屈みこんだ。
「君はここに住んでる子?」
驚かせないように優しく声をかけると、人が言っていることが分かるのか猫は「にゃあ」と鳴いて立ち上がる。そして窓辺へと歩いて行って、また「にゃあ」と鳴いた。
「もしかして、窓を開けてほしいのかな?」
可愛い大きな瞳でじっとこちらを見つめる猫に、なんとなく正解なんだと察する。
立ち上がって窓を開けると、冷たい秋の夜風がレオナルドの頬を撫でた。
だが、しかし。