Invisible moving


 行程の半分ほどを沈黙で過ごした後、スティーブンの車は高速道路から人通りの多い街へと入っていった。
 とはいえ中心部に比べればうんと人は少なく、どこかのんびりとした雰囲気のある街だ。
 道が広く建物が低いので、車のフロントガラス越しでも空の広さがよく分かる。
 ここが目的地なのだろうかとスティーブンの横顔を見れば、車は静かに路肩に寄せられて止まった。

「グリニッジへようこそ」
「グリニッジ!? また遠くまできましたね」

 素っ頓狂な声をあげてしまったレオナルドだが、スティーブンはさして気にする様子もなく先に車を降りていった。
 困惑しながらレオナルドも車を降りると、ずっと暖かい車の中にいたからか、冷たい風に身体が震える。

「ケンサルライズからグリニッジって、滅茶苦茶離れてるじゃないですか」

 テムズ川を挟んでケンサルライズとはほぼ真逆の位置にあるグリニッジ。
 大倫敦の南東部に位置し、河港都市グリニッジとして世界遺産に登録されている。有名なのは世界標準時の基準となる場所、経度0度の子午線のある旧王立天文台だろう。
 ただしレオナルドたちがいるのはその辺りよりも離れた、観光客より一般市民の多い場所だ。

「君の希望を叶えてくれそうな不動産屋がここにあるんだから仕方ないだろ。まぁ、ケンサルライズ周辺は駄目だったんだ、それならもういっそのこと新しい場所に腰を据えるのもいいじゃない」

 スティーブンの言うとおり、ケンサルライズやその周辺に、レオナルドたちが探すような物件はなかった。とはいえ知り合いが滅多に来られないような知らない土地で一からやり直すというのは、覚悟を決めていても怖気づいてしまいそうになる。

「ま、ここに物件があればの話だよ」

 車を止めた場所にあるのは、黒い枠で縁どられた不動産屋。窓ガラスにはいくつかの住宅に関する情報が貼られているけれど、きちんと並んだ紙になんとなく丁寧さが感じられた。
 ここがスティーブンが何かをやらかしたらしい不動産屋のようだが、規模はさほど大きくなく、こぢんまりしているという印象が強い。
 どう見ても街の小さな不動産屋で、はたして高級住宅街を容赦なく選択する男は何をやらかしたのか。
 不意に、脳裏で好奇心は猫を殺すということわざが浮かぶ。9つの命があるといわれる猫でさえ、過ぎたる好奇心は身を滅ぼすという警告じみた英国のことわざだ。
 つまり裏社会を歩く男の過去に好奇心で首を突っ込んだところで、レオナルドにいいことはない。
 そう気持ちを切り替え、鈍い金色の文字で『K&K不動産』と書かれた看板の店へスティーブンと共に入っていった――のだが。

「やぁ、K・K」
「なんであなたがいるの!? 私はレオっちが家を探すっていうから待ってたのよ!?」

 どうやら好奇心で首を突っ込んでも、レオナルドは大丈夫らしい。
 喰えない、もとい腹黒そうなへらりとした笑みを浮かべるスティーブンに対し、色々準備をしてくれていたのだろう眼帯にスーツ姿のK・Kは、露骨に嫌そうな顔をしてそう怒鳴った。
 ――K・K。レオナルドとスティーブンと同じく、秘密結社ライブラの仲間だ。
 世界最強の主婦にして狙撃手。そしてスレンダーな美女。
 あまりライブラの仕事をしないレオナルドは、ザップたちと比べれば面識はないのだが、2児の母であるK・Kは花屋の近くに来ると頻繁に寄ってくれた。
 困ったことがあればいつでも言ってほしいと、朗らかに笑う彼女は母親のように優しく頼もしい存在なのだが、はたしてスティーブンは何をしてこんなに嫌悪感をむき出しにされるのか。

「それは間違ってないよ。あぁ、言い忘れたが、僕も一緒に住むことになってね。だからふたりで住める住居兼彼の店を探しているんだ」
「なんでレオっちと一緒に住むのよ!? レオっち、こんなのと一緒に住んだってろくなことがないわよ!」

 容赦ないK・Kに、はたしてどう答えたらいいのか。
 答えが出ないレオナルドは困惑を滲ませた愛想笑いを浮かべつつ、出入り口から一歩も動けず進展しない状況を打開する方法はないか、ちらりと店内に目を向けた。
 奇麗に磨かれた木の床に、明るい木目のカウンター。少し背の高い白い革張りの椅子と、明るい照明。おしゃれなカフェをイメージさせる店内だが、カウンターの後ろにある棚にはびっしりとファイルが詰め込まれている。
 そして、店内の奥へ続いているのだろう壁の向こうから、背の高い糸目の男性が心配そうにこちらを見ていた。
 つい目が合って軽く会釈をすると、K・Kたちを指す。
 助けに出た方がいいか聞かれている気がしたので頷くと、人懐こい笑みを浮かべた男性は小さく頷いてふらりと店の方へ出てきた。

「その辺りでやめておこう。お客さんが困ってしまうよ」

 声が聞こえてピタリとスティーブンに怒鳴るのをやめたK・Kに、レオナルドは密かに安堵する。
 そしてスティーブンを見上げると、彼もまたこちらを見て軽く肩をすくめた。

「聞いてよ、ユキトシ。この腹黒男がレオっちと一緒に住むっていうのよ?」
「君がいつも気にかけている子だよね。はじめまして、僕はユキトシ・キリタニ。この不動産屋のオーナーです」
「そして、私の旦那様よ」
「はじめまして、レオナルド・ウォッチです。K・Kさんにはとってもお世話になってます」

 細身でスティーブンより背が高いからか、ひょろりとした印象を受けるユキトシだが、かわした握手の手はとても大きく、しっかりとしていた。
 故郷の父の手を最後に握ったのはいつだったか。もう遠い昔のことのようで思い出せない。

「まもなく住まいを退去しなくてはいけないんだよね?」
「そうなんですよ。探したんですけど、全然いいところがみつからなくて……」

 みつからない理由は濁して苦笑したが、ユキトシは気にすることなくカウンターの内側へ回る。
 おそらくだが、彼がこの店の主導権を握っているのだろう。K・Kはスティーブンを威嚇していることには変わりないが、ユキトシが出てきたことでその態度は軟化したように思う。
 ユキトシに促され、スティーブンと並んでカウンターの椅子に腰掛ける。すると彼はすかさず脇に置いてあったタブレットを手にして話をしだした。

「どんな物件がお望みですか?」

 まずはこちらの希望を全て伝える。といってもレオナルドは家賃が安くて治安がいいことくらいしか希望はなく、細かなところはスティーブンがほとんど伝えた。その中にはキッチンやバスルーム、冷暖房などの設備やリフォーム状況など、本当に細かくて、隣で聞いていたレオナルドは呆気に取られてしまうほどだ。
 一人暮らしをしていた時に、住めば都、屋根とベッドがあれば文句はないと思っていた自分では到底思いつけない注意点に、ユキトシは驚くことなくタブレットで検索をかけていく。

「うーん、家だけならいくつか候補はあるけれど、店舗を兼ねるとなかなかに難しいですね」
「そうなんですよ。家賃をもう少し上げるのならば、これまでも可能性はあったのですが」

 そう言いながらさりげなくこちらを見たスティーブンに、レオナルドは勢いよく顔を逸らした。
 確かに今までもレオナルドが希望する家賃を高くすれば、希望が叶う物件がなかったわけではない。しかしスティーブンとの約束は、家賃や光熱水費の折半。それが出来ないところで首を縦に振って甘えるわけにはいかないのだ。

「ふむ……さてどうしましょうか」
「ユキトシ、あそこはどう?」

 トレーに載せた3人分のコーヒーカップをレオナルドたちの前に置きながら、夫婦間でしか分からないことをK・Kは伝える。
 この時、スティーブンの傍に置く時だけテーブルとソーサーが鳴らした音が大きかった気がしたが、レオナルドは気づかないふりをした。

「でもあそこは……」
「レオっちはそういう仕事もしてるし、きっと大丈夫よ。ねっ」

 名指しでそういう仕事、と言われてだいたいの察しはついたが、ユキトシの少し困った顔を見ると、一筋縄ではいかない物件なのだろう。
 どうする、とスティーブンに視線を投げかけると、彼は「聞くだけ聞いてみよう」と答えた。

「……これまでも何度か貸し出した物件なんですが、皆さん数か月ほどで退去したいと訴えられたんです」

 ここです、とユキトシが見せてくれたタブレットに映し出されているのは、赤いシャッターと扉が並んでいる白い石造りの一軒家。3階建てで1階は店舗。
 共に書かれている住所はグリニッジで、K・K曰く人通りがそれなりにあって治安もいいそうだ。

「ここに何が?」
「それがさっぱり分からないのよ。姿は見えないけれど、何かがいる。夜はずっと物音が聞こえるし、じっと見られている気がしてまったく眠れないんですって。だから仕方なく賃貸料を下げたのだけれど、さっぱり」

 英国ならびに倫敦では、幽霊や異界の住人が住んでいる物件には歴史的な価値が付随するとして、その値段が跳ね上がることはよくある。
 しかしながら住人に危害を加えるとなると、話は別だ。
 専門家を呼んで対処するか、後から入ったものが出ていくか、どちらかが多い。これまでの住人たちが後者を選んだというのなら、なかなか手強いのかもしれない。

「試しに専門家に任せてみたこともあるのだけれど、成果は出なかったのよ」

 専門家が対処できなかったものを、見て会話をすることしか出来ないレオナルドがどうにか出来るわけがない。
 諦めるのも手だが、書かれている賃貸料は格安。店舗はクラウスが払う約束で、残りをスティーブンと折半してもレオナルドが支払えるギリギリの値段なのだ。
 つまり、手放すのは惜しい。

「へぇ、いいじゃない。内見は可能?」
「ええ、出来るわよ。出てくるのは夜中だけらしいけど、昼間も行く?」
「普通にどんな家なのか見ておきたいからね」

 ひとり苦悩している間に、スティーブンとK・Kは隣でどんどん話を進めていく。
 確かにこれだけの物件を手放すのはもったいないが、はたしてレオナルドの手に負えると思っているのか。
 どうにもスティーブンの中では、自宅についてきた少女を何とかした時からレオナルドの株が上がっているような気がする。それはそれで悪い気はしないが、だからといって過信されてしまっても困るのだ。
 なにせこちらは眼がいいだけの、幽霊と会話をするしか能がない一般人でしかない。

「クラウスにも資料を送りたいな」
「なら、私から送っておくわ。ユキトシ、いいかしら」
「構わないよ。内見の案内もお願いしていい?」
「任せてちょうだい」

 突然降りかかった不安に頭は痛いけれど、ユキトシには花のようにほころんだ笑顔を見せるK・Kに、夫婦とはいいものだな、と自然に思えた。
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