Invisible Flowers
霧の都、倫敦。
産業革命時に町中が大気汚染によって烟った世界有数の都を、そのようにたとえたのはある意味皮肉だろう。
しかし幻想的な光景の裏に隠された公害は、すでに歴史の向こう側に消え去った。
今では青空が美しく、車の騒音や排ガスも科学の進歩によってほんの少しづつだがなくなろうとしてる。
化学は便利な世の中を作り、人々の暮らしに根付いた。そして人が作り出した害もまた、人が消そうと努力しているのだ。
だがその裏で、闇で、見えないところで、人が文明を得るよりも前から変わらないものもあることを知る者は多いようで少ない。
知識としてはあっても、それらが本当に存在するのかどうかを確かめる術がないからだ。
この物語はそんな見えざる者たちと人の橋渡しをし、世界の均衡を守るために日夜戦う者たちの日常の記録である――。
『――なんていうが、実際のところ、変化はあると思うんだよね』
草木も眠る丑三つ時、コンクリートで固めた平たい屋根の上を走る黒い大型犬は、隣で同じように走っている少年にそうぼやいた。
とはいえ四本足と二本足、さらに言えば体力の違いもある。夜間にもかかわらずゴーグルを装着している少年はぜえぜえと乾いた息を漏らしながら「そうですか?」と苦しいだろうに律儀に返事を返した。
上ってくるものがいないのだろうささやかな塀を踏み台にして飛び、隣の建物へ。
『人に限らず生きているものは進化し、変化する。なのに存在が分からない連中がそうではないと言いきれんだろう?』
「それはそうっすけど、今、それが関係あります!?」
『ないけど、なんとなく話したくなってね。ほら、少年。見えてきたぜ』
まだ少し先だが、給水塔の影にチラチラと黄色く光る球体が見えた。ふわふわと浮いているそれは明らかに無視や鳥の類ではないが、だからと言って正体は分からない。
もっと近づかなくては。
しかし光がいるのはこの同じような建物が続く通りの端。もし逃げられてしまったらすぐに追いつくことは出来ないだろう。
『僕は一度下に降り、回り込む。少年はこのまま突っ込め。いけるな?』
「ちょ、スティーブンさん!?」
スティーブンと呼ばれた黒い犬は身を翻して建物から飛び降りる。
いくら人より柔軟に動くことのできる犬とはいえ、下はコンクリートで覆われた地面では足を痛めかねないし、なにより階段などの障害物に当たらないとも限らない。
そんな心配をよそに音一つ立てなかったことを考えると、無事に降りたのだろう。
ならばと少年も負けじと、夜の闇の中を駆け抜けた。
舞台は異界と現世が交わる街、英国は倫敦。
物語は、彼らの出会いから始まる。
穏やかな朝は眠気を誘う。
くぁ、と大きく口を開いてあくびをしたレオナルドも見事に誘惑されたひとりだ。
量と質のせいであちこちにはねた寝ぐせのような髪、童顔と低い背丈でどうしたって年相応には見えない糸目の彼は、朝のラッシュアワーが終わった通りを背の高いスツールに腰掛けてのんびりと眺めていた。
ここは英国は倫敦の北西にある町、ケンサルライズ。
中央へのアクセスが良く、下町情緒の残るこの場所は治安の良さも相まって年々人気の高まっているエリアだ。
その一角、駅から少し離れた通りにある小さな花屋がここだ。
普段着であるぶかぶかのプルオーバーにズボン、その上に紺色のエプロンを身に着けたレオナルドはむせかえるような花の香りにむずがる鼻をなだめようと、スツールを降りて外へ向かう。
窓も壁もない開放的な店舗は面積が狭く、奥行きは2mほど、横幅は約3m、つまりほぼ5㎡。この小さなスペースに置かれているのはレオナルドが座っていたスツールと小さな机にレジ、そしてたくさんのバケツに入った色とりどりの花やブーケ。
そう、ここは花屋であり、レオナルドは店主なのだ。
小さな店に入りきらないバケツが歩道に大きくはみ出しているのを見栄え良く直し、片隅に置いた黒板を立てかけたイーゼルも位置を改める。
書かれているのは美しい字で書かれた『ライブラ』という店の名と、可愛らしい花。
「おんなじチョークなのにどうしてこうも違うんだか」
書いたのはレオナルドではなく、レオナルドを店主として雇ったオーナー。そして彼が怪訝なまなざしを向けるのは、店名の下に書いた自分のぎこちない文字を見たからだ。
『見えない花、あります』
小さな小さな、チョークの花に埋もれてしまいそうなその一言を目に留める者はほとんどいない。
大々的に出すわけにはいかないのでそれでいいのだが、奇麗な店名と比べると汚いというより無惨という言葉の方がふさわしいくらいひどく思える。
何度見ても気持ちは変わらないと諦めて黒板から目をそらし、溜息の代わりにもう一度あくびをした。
「レオちゃん、こんにちは」
「いらっしゃいませ!」
背後からかけられたおっとりとした声に振り返りながら条件反射で声をかける。
この店がオープンして3ヶ月。すっかり常連となってくれたレオナルドと同じくらいの身長でふっくらとした可愛らしい老婦人は、アヒルを思わせるよちよちした歩き方で近づいてきた。
年上の女性に対して失礼だが、あまりに可愛く癒されるその姿に、レオナルドはふにゃりとした笑顔を向ける。
「今日も奇麗な花が入ってますよ」
「少しは名前を覚えたかしら?」
「んー、ぼちぼちっすね」
これまで花と縁のなかったため、雇われ店主となってから店で扱っている花について覚えるようにしているのだが、素直に答えたとおりまだまだ勉強中。
オープン時から来ている彼女はレオナルドが花のことを聞かれて何度も四苦八苦していることを知っており、時折こうして抜き打ちテストのように聞いてくるのだ。
油断していたな、と思いつつ、今日のおすすめを彼女に告げる。
「いいガーベラが入ってるんですよ。柔らかいピンクで奇麗でしょう?」
花束は家族や恋人へのプレゼントとして買ってもらうことが多いが、ひとり暮らしの彼女は自分の家に飾ることが多いという。
部屋の中が明るくなるからピンクが好きだと聞いていたのを思い出し、一番前に置いた小さな花束たちではなく5本で1セットのガーベラを提案することにした。
「素敵ね。カスミソウもいただける?」
「ありがとうございます!」
こちらも5本セット。倫敦では屋台の花屋で良く売られるタイプの売り方で、レオナルド自身は花束を作ったりしない。
2つの束を重ねて折らないように気を付けながら、店の中から持ってきた新聞紙で軽く下の方だけをまとめて花束のようにする。それを手渡して代金を受け取ると、老婦人は少女のように朗らかな笑顔を浮かべてレオナルドに礼を言った。
「ありがとう、レオちゃん。ここのお花は安いのに奇麗で長持ちするから助かるのよ」
「仕入れはオーナーです。毎朝運んでくれるんですよ」
「それじゃあ、オーナーさんにもお礼を言ってね」
紳士で優しいが、長身で強面なために店に立たないオーナーの顔を思い出しつつ、レオナルドは満面の笑みで頷く。
「はい! 絶対に喜ぶと思います!」
それも辺りに花を飛ばしてしまうくらいに。
去っていく老婦人の背中を見守りつつ、明日の朝に会ったら伝えようと考える。
やがてその背中が角を曲がって見えなくなったところで振り返ると、新たなお客が来ていた。
「お、また来たのか」
下を見れば、声を発することなくレオナルドを見つめる大きな犬が1匹。
立ち上がればレオナルドと大して変わらないのではないかと思うほど大きく艶のある美しい黒い毛はふかふかしていて、すらっとした鼻筋やピンと立った三角の耳はとても凛々しい。長い尻尾に太い脚、そして燃え盛る炎を凝縮して固めたかのような美しい紅の瞳は、レオナルドの知るどの犬種とも違って見える。
この不思議な犬は1週間ほど前に姿を現したのが最初だった。
首輪がなく野良犬なのだろうと思ったが、毛並みの美しさと落ち着き払った態度がどうもそうは見えず、レオナルドと目が合うと去ってしまって。
その後は姿を見かけずどうしているのかと心配していたので、思いがけない来訪にレオナルドは表情を綻ばせた。
今回は逃げないらしい犬の前に屈んで、そっと鼻先に軽く握った手を寄せる。
挨拶として匂いを嗅いでもらおうとしたのだが、なぜかそっぽを向かれて。
犬好きには少し寂しい反応だが、無理に触れたりするのはよくない。
「ここ、日当たりがいいからゆっくりしてけよ」
レオナルドが立ち上がると、逆に犬はイーゼルの傍に座り込んだ。
話が通じたというわけではないだろうけれど、腹ばいになって寝そべったのを見るとどうやらこの場所が気に入ってくれたらしい。
触れることはできないが、いてくれたら嬉しい。そう思ってレオナルドはこれ以上干渉するのはやめて仕事に戻った。
時折花を見に来る人がいて、冷やかしが半分、購入が半分。
今日の売り上げは悪くなさそうだとスツールに腰掛けて安堵していると、高校生くらいの少女がこちらを恐る恐る覗き込んでいることに気づいた。
癖のある赤毛に少しつり目の勝気そうな少女は、今どきの子らしくしっかり化粧もしていて。しかし不慣れなのが分かるビビットな色合いはどうにも顔から浮いてしまっていた。
そもそもまだ学校の時間ではないだろうかと思ったが、お客様の事情を詮索するのは良くない。
とりあえずこの店に用があるのは確かなようなので、「いらっしゃいませ」と声をかけた。
「花をお探しですか?」
スツールから降りて近づくと、なぜか少女はレオナルドから目をそらした。花を見ているのか。
小首を傾げつつ店の外に出ると、彼女はずっとジーンズのポケットに手を突っ込んでいたことに気づく。
狭いポケットの中に入れた手は何かを掴んでいるらしく、歪に動いては出ようとしてまた引っ込んで。
「……ここの店、見えない花を扱っているって聞いたんだけど。本当?」
躊躇いがちな声。
しかしその理由に、レオナルドはこれまでの態度が腑に落ちた。
密かに気を引き締め、背筋を伸ばす。
「はい。送り先は?」
レオナルドに応えるようにポケットから出た手に握られていたのは、1枚の手のひらに収まる折りたたまれたメモ用紙。
握りしめたせいでところどころしわになっているのは、彼女の不信感の表れだろう。
「連絡先と時間を書いてあるから。私は頼まれて来ただけだし、詳しいことはこの時間に聞いて」
「分かりました。承ります」
メモを受け取ると、緊張していたのか肩から力を抜くように溜息を吐いた少女が小さな声で「お願いします」と呟いて足早に去っていく。
少し擦れた感じはあったが、良い子に違いない。だからこそレオナルドのことを信じられるのかずっと考えていたのだろう。
期待に応えられたらいいのだけれど。
離れた場所で暮らす妹のことを思い出しながら渡されたメモを眺めていると、こちらをじっと見つめる視線に気づいた。
視線を目で追うまでもなく、見ているのはあの黒い犬。
「なんだよ、可愛い子だからって鼻の下を伸ばしたりなんかしてないぞ。こいつは仕事なんだからな」
犬に言っても仕方がないのに、赤い目でじっと見つめられているとどうにも落ち着かなくなってくる。
だが犬は興味がないと言わんばかりに立ち上がると、ひなたぼっこに飽きたのか踵を返して歩いていってしまった。
ひとり残されたレオナルドは不意に胸に吹く寂しさを振り払うように犬に背を向け、店の中へ戻っていく。
心の中で「また来いよ」、と呟きながら。
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